Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

人との違いを受け入れられるようになること

2009年12月06日 | Weblog

 

 

人間は、人間として共通性を多く持っているが、同時に誰一人として同じ人はいない。しかし、一般に、人は他者との共通点を探したがり、違いを嫌う傾向がある。

人は、交流の中で相手が自分とは違うことを知ったとき、およそ二通りの反応をする。

 


ひとつは、違いを「脅威」として受けとめて排除し、雑音として無視することである。「違っていること」は、自分か相手のどちらかが「間違っていること」と受け取り、その結果、相手を避け、排除したくなる。いじめの構造はここにあるかもしれない。また、違っているものはわかりにくいものでもあるので、「雑音」と同様、うるさいもの、取るに足りないもの、と解釈されることもある。

いずれにしても、違いが「脅威」や「雑音」になったとき、それは理解されず、排除されやすくなる。

 


「違い」に対するもうひとつの反応は、自分と異なったもの、自分にないもの、経験したことがないことを知りたい、と思うことである。

「違い」を新鮮さ、珍しさとしてとらえ、未知のものに対する好奇心、探究心を持つことができれば、それを理解しようとして近づく。その結果、その人にとっての世界は広がり、人とつきあうことが楽しみになる。

「違い」は、自分と他者を受容するということの、真の出発点である。

 


(「カウンセリングの話」/ 平木典子・著)


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「違い」をどう受けとめるか、上記引用文のどちらの解釈で受け入れるか、自分が、あるいはほかの誰かがそれを決定づけさせるのは、いったいなんなのだろう。

多分、人格の成熟性、つまり自分という存在についてどれだけ確信または自信を育めているかということじゃないかと思う。

「違い」を「脅威」と解釈するのは、おそらく自分と自分が生きてきた考えかた、習慣が侵食されるのではないかという恐怖だろう。自分という存在が、「自分」に根ざしたものにではなく、他者からの評価、社会的な立場の優位さとか、経済力の優位さ、などに依存したものであるとき、そういう価値観が変わるということは自分の存在が脅かされるということになるのは容易に理解できる。

でも現代社会では、自分という存在に意味を与えるものはまさに他者への影響力がどれほどか、ということや、潤沢な経済力のゆえに生涯食べるに困らないこと=自己保存が保障されていること、自分が大勢の人びとに知られている(名声をはくすることに成功した)ということ=自分が他人に承認されているということにあるというのが、常識となっている。そしてそういう価値観は、競争によって他者を追い落とすことを意味する。このことが現代人を孤独にし、孤独は獏とした、そう、「不安」を醸成するのだ。人はこの不安から逃れようとして権威主義、他者からの絶対的な支配への服従へ「逃避」しようとするのだとエーリッヒ・フロムはその著書、「自由からの逃走」のなかで言う。カルト宗教はおおむね、絶対主義的な支配によって特徴づけられる。カルト宗教が現代社会にあって依然と人々をひきつけるのも、このフロムの主張が説明するだろう。

とすると、現代社会のその常識、その価値観はもとから、違いを排除する性質を有してきたものなのだ。こんな現代社会はなぜ成立しえたのだろうか。E.フロムの「自由からの逃走」によれば、それは中世社会が崩壊して、資本主義が根ざしたことに起因するということだ。中世社会には「個人」という概念がなかったが、商業の発達に伴い、キリスト教という宗教の性質と、もうひとつ、財産の私的所有権が確立する過程で「個人」という自己認識が生まれ、そういう個人を尊重しようとする立場が「個人主義」となった、と大ざっぱにいえばそういうことが述べられている。

だが、わたしが「個人の尊重」、「個人主義」というとき、それは家父長制度が女性や若年者を抑圧することへの抗議としていうのであって、新自由主義がいうような極端な個人主義を支持しようとするのではない。しかし、個人の尊重、個人主義というものがもともとは資本主義によって、中世社会の制度的な束縛が打破されることで成立したものだということが歴史の真実なのだった。

では「自由」は人間にとって本来的には害悪なのだろうか。家父長制度や中世の身分制社会は人間に社会への帰属感を与え、それゆえ心理的な安定感をもたらしてきた事実に照らし合わせてみて、自由はないほうが人間にとってはよいことだったのだろうか。

断じて違う、とわたしは主張する。

そして、「断じて違う」と主張する根拠をきちんと説明できるようになるまでは、わたしはブログを書き続けるだろう。「断じて違う」というわたしの主張は、いまはまだエホバの証人という宗教団体での個人的体験にもとづく主観的な「感じ」でしかない。でもこの「主観的な感じ」は正しいと、わたしの肌が、わたしの心の傷が叫ぶのである。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ルナさんへ (東西南北)
2009-12-10 00:50:24
 どうもご無沙汰しておりました。TBサンキューです。

 
 TBが入らないようですのでコメントにて。

 資本主義とは何か?個人主義=人間の自由と民主主義を徹底する運動と団結との関係ですね。

 では。
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東西さんへ (ルナ)
2009-12-20 01:06:08
こんばんは、東西さん。ご無沙汰しております。

> 資本主義とは何か?個人主義=人間の自由と民主主義を徹底する運動と団結との関係ですね。

ビシッとキメましたね。ありがとうございます。
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