Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

民主主義の基本、幸福の基本

2007年07月30日 | Weblog
みんなで話し合う。議論することで、何がより正しいかを考える。
 それが法の世界の基本であり、民主主義の基本です。


伊藤真 法学舘館長、伊藤塾塾長。著書、「憲法の力」より。

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わたしは司法試験を受験する人のための学校「伊藤塾」を主宰し、自ら教壇に立ち、またさまざまな人たちを相手に日々「法」について指導しています。塾だけでなく、大学へ行って講義をすることもありますし、中学校や高校に呼ばれて話をすることもあります。

子どもたちや若い学生たちに接して感じるのは、あるテーマについてみんなで話しをする、議論することに慣れていないなあ、ということです。私は中学時代をドイツで過ごし、外国人の友人も多くいるのですが、彼らと比べると、多くの日本人は自分の考えを否定されることをとても怖れているようです。

「自分の意見が人と違っていたらどうしよう」
「こんなことを言って、“空気の読めないヤツだ”と思われたらどうしよう」と、
まわりに同調しなければ、という強迫観念に駆られている気がします。

言い換えると、「今、この場でどういう意見を述べるのが、『正解』なのだろうか」ということを気にするあまり、自分の意見が自由に言えなくなっている、自分の意見を持てなくなっているようにも思えます。その結果、何も考えずにすましてしまっているのです。

みんなで話し合う。議論することで、何がより正しいかを考える。それが法の世界の基本であり、民主主義の基本です。

もし「正しい答え」が最初から決まっているのだとしたら、それを見つければいいだけで、話し合いは必要なくなります。驚いたことに、司法試験をめざそうとしている学生でさえも、そういった民主主義の基本を理解していない人が少なくないのです。「自分の意見は控える」「大勢に従う」といった態度が、「大人だ」とか「日本人らしさ」だと誤解しているのではないか、と危惧してしまうほどです。

ですから、伊藤塾の最初の講義では「各人がそれぞれの意見や考えを持ち、それを話し合うことで深め、何が正解なのかをみんなで見つけだしていくことが民主主義である。異なった意見を述べることは、議論を深める上で価値がある。人と違っていようがどんどん自分の意見を言うべきである」という、基本中の基本から教えなければなりません。

「まわりを気にするあまり、異なった意見が述べられない」、それはなにも若い人や学生、子どもだけの話ではないようです。最近は大人の世界でも感じます。

北朝鮮の拉致問題やテポドン発射についての言説、ライブドア前社長の堀江貴文さんが逮捕された前と後でのメディアの反応など、マスコミや大人たちの行動を見ていると、「これが正しいんだ」といった一つの意見が、わっと日本全体を覆ってしまい、反対意見や異論が述べられなくなってしまう傾向があると思います。それは健全な社会の姿とは言えず、民主主義でもありません。

民主主義とは、選挙で政治家を選ぶとか、多数決で何かを決めるということだけをいうのではありません。何が正しいか、何が正解かわからないから、みんなで多様な意見を出し合って、議論をして、より正しい答えを導き出してゆく、というものです。だから議論の過程がとても重要であり、自分とは異なる意見を尊重することがとても重要なのです。


(「憲法の力」/ 伊藤真・著)

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「空気を読む」ことが大切と、近ごろはよく言われます。でもわたしはそれには危険な側面があるように感じられます。相手の感情に配慮を払う、という意味ならそれはとても良いことだと思うのですが、誰かの体面を気にしなければならないとか、誰かの言い分を否定してはならない、何かの教理を疑ってはならないということならば、それはファシズムに通じる考え方であると思うのです。

人それぞれの感じ方や意見を暗に抑えこむ目的で「空気を読め」と言うのは、結局エホバの証人思考を立派に継承していることになります。エホバの証人は、組織の偉い人たちの体面を最重要視して、また組織の作成した教理への批判を抑えこむ目的で「謙遜さ」とか「円熟」とかいう用語が用いられ、信者は思考をコントロールされます。「自分の意見を控え、無条件に大勢に従う」ことが「円熟」であり、そのように順化された人が、「特権」を割り当てられるにふさわしい「霊的大人」とみなされます。これはマインド・コントロールなのです。少数の人間が多数の人々を従えるための教化なのです。このような「順化」から脱出して、自分の主張をどんどんするようになって初めて、人はエホバの証人のマインド・コントロールから解脱できたといえるのだと、わたしはそう信じています。

自分を高めるために、あるいは自分に従わせるために、「空気を読め」と暗黙のうちに命じたり、村八分という精神的虐待によって、自分を主張する態度を摘み取ってしまうのは人間への甚だしい冒涜です。エホバの証人や旧共産党などのカルト的組織からほうほうのていで逃れてきた人は、自分を主張するということができず、結局、エホバの証人に代わって、「方向を定めてくれる」人や宗教を探し求めるようになります。それではエホバの証人によってつけられた傷から永久に逃れられないのです。

人間を幸福にするのは、自分という、他の誰とも異なったユニークな存在を認められるとき、また自分とは異なるユニークな存在としての相手をそのままで受容するとき、得ることができるものです。ですから近代民主主義が必要なのです。近代民主主義は個々の尊厳を、そのままで尊重しようというところから始まり、またそこで終わるものだからです。

自分の意見を言う、というのは相手を否定することではありません。ここを誤解している人も多いようです。相手を否定するということは、相手を自分に従わせる、さもなければ自分たちから排除する、ということです。ですからそれはエホバの証人思考であり、ファシズムの発想でもあるのです。違いを尊重しながら共存する、それを達成するためには、支配欲を放棄しなければなりません。相手を支配していないと心の平静を保てないのは、実は愛情に飢えているのです。自分が愛されているという経験を実際にしていないか、愛され受け入れられているという実感を持てないでいるかのどちらかです。そういう欠落は自分をも不幸にするし、相手をも不幸にします。力で人を抑えこむことは、人格改造であり、相手の人間性の完全な否定だからです。

ですから、自分の見解を主張すること、支配者の意向を気にかけなければならないという「空気」を読んで順じてしまわないこと、それが自分を成長させ、自分の人生に充足を与えることなのです。古代ローマの皇帝マルクス・アウレリウスはこのように薦めています。

「意見をつくる能力を畏敬せよ。自分の自然なありようを否定し、自分の個性を否定して、他者の奴隷になろうとするような考えが自分の心の中に生じないようにすることは、ひとえにこの能力にかかっている。またこの能力こそ、われわれが軽率になるのを防ぎ、人間に対する親しみと神々に対する敬意をつくるのである」(「自省録」/マルクス・アウレリウス)。

「裁いてはなりません」…ということについて(^^)

2007年07月19日 | Weblog
その物に付きて、その物を費やし損なふもの、数を知らずあり。
身に虱あり、家に鼠あり、国に賊あり、小人に宝あり、
君子に仁義あり、僧に法あり。


吉田兼好 「徒然草」/ 角川書店編、ビギナーズ・クラシックス・シリーズより。

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(大意)
ある物に付いて、それを消耗させ損なってしまうもの、というのは多くある。
身体にわく虱、家に住み着くねずみ、
また、国家の利権にたかる匪賊、未熟な人間に財産があること。

だが君子が仁義にこだわること、僧侶が仏法にこだわることも、実は同類である。

(角川書店訳)




正確な文学的解釈はできませんが、上記のような訳なら、エホバの証人時代の経験からなんとなく分かりますよね。「義に過ぎるな」ということでしょう、大雑把に言えば。

どんなことを信じるにしても、自分に関してだけ信じていれば、そのイデオロギーなり、宗教信条なりを、自分自身をのみ律していれば、それは立派なことになるのでしょう。

ところが、他人にも自分の信念、信条、イデオロギーを押しつけるようになるのは、結局自分自身を追い詰めて、場合によっては辱められてしまいかねない、ということでしょう。



他人を裁くときの自分の思考、つまり自分の信じ、また自分の人生を通じて守り通してきた信条、信念を基準にして、「こうでなければならない」「ああでなければならない」、「常識どおりじゃないから、あなたはダメだ」「お行儀良くないからあなたは非難されるべきだ」というような、「~なければならない」思考は、実は不安ないしは恐怖が起こさせるものなのだそうです。

そういう人たちは、自分のコントロールの及ばない事態が進展していくのが怖いのです。新しく、未知の状況が生じるのが怖いのです。「怖い」という言い方がピンと来なければ、「戸惑う」とでもしましょうか。

わたしが子どものころは、外国人というのはめずらしく、道で外国人に何か訪ねられたりしたら、逃げ出したりしていました。これがここでいう「戸惑い」「恐怖」なのです。(もっとも今ではこういう人はいませんけれどもね、二、三十年前の日本人はみなこんな感じでした)



ジェンダーフリーをバッシングするオッサンたち、また同様の女性たちもそうです。自分が受けてきた教育の枠を広げることができないのです。頭では分かったつもりでも、言葉ではうまく言い表せない苛立ちが起きてくるのです、養護学校での性教育や夫婦別姓制と聞くと。それはきっと、自分たちがよって立ってきた文化、つまり自分を否定し、集団に同化するのが秩序と平和、安寧をつくるんだという全体主義的思考を反映した「道徳」が失われるように思えるからではないでしょうか。

「道徳」というのは文化・宗教の土壌の上に出来上がるものです。それは絶対無二の「真理」ではありません。地域、民族、宗教、文化が異なれば「道徳」も異なってくるのです。「道徳」を荘厳な口調で説く人は、見かけは立派に見えますが、「道徳」を他人に押しつけて、他人の個人的権利を阻害したり、他者の人格を否定したりするのは、虱やねずみや賊、未熟な大人と同程度のことなのです。

今、わたしは、「君子」や「僧」について、もっと身近な人々を想像しています。保守的な言論人・文化人・教育評論家、反動的な言論人、政治家、官僚たち。そしてもちろん、聖書の字義的解釈の信奉者、「模範的な」エホバの証人たち。こういう人たちは、人間が自由闊達に行動し、考えるから「秩序の混乱が生じる」と考えているのです。点線をなぞって字を書けば美しくなるように、人が決められたとおりに動き、決められたダイヤにしたがってレールを走っていれば、大きな事故や衝突はないとする考え方です。

ここには、「大きな事故や衝突」は恥だとする価値観があるのに違いありません。人生における蹉跌から変化が生じ、進歩や改善というものはその「変化」から生じるのです、自然の摂理によると。進化はそのような変異から生じてきたのですから。象徴的な「事故や衝突」、つまり失敗や対立を怖がる風潮は、権威主義、特に十分実力を身につけないで権威の座に座った人たちが自分の体面を守ろうとして生じたものでしょう。

おそらく自然権的な自由というものはこのことが失わせたに違いありません。だとしたら、たしかにそれは矮小な思考ではないでしょうか、「義に過ぎる」ということは。そしてそれはそのまま「仁義」「法」に執着し、他人にまで自分の基準を押し付ける「君子」や「僧」たちも「矮小」な人となりだということにならないでしょうか。



みなさんは、こういう考え方で自分を振り返ったことはあるでしょうか。

ある人はズケズケモノを言うから非難されるべきだ、ある人は常識とされていたマナーに合わないから非難されるべきだ、ヘア・スタイルが「この世」的だ、タイト・スカートが「ふしだら」だ、言葉遣いが「タメ口」で好かない…。

わたしは最近思うのですが、一見「斜に構えた」人というのは、なにかその「斜の構え」に、はっきり言葉では言いにくいメッセージを示しているのではないでしょうか。

ある場合は単に照れているだけかもしれませんし、実は繊細な人であるため、傷つくことを必要以上に怖れているのかもしれません。あるいはやはり、はっきり言葉では言いにくい批判、抗議のメッセージを内に秘めているのかもしれません。エホバの証人の会衆ではとくに、すねたような態度を取る人、とげとげしく反応する人は、たとえば誰とは明言しないまでも、明らかにあの人のことだとわかるような講演、講話をする長老に強い不満と抗議を表明しているのかもしれないじゃないですか…。

そういうメッセージを考慮することなく、ただ力で抑えつけて、あるいは村八分の圧力、そして体罰と言う暴力で無理やり態度を変えさせようとするなら、よけい斜めの度合いが高くなると思いますし、実際そうではないでしょうか。

ですから、外見や自分たちの常識で他人を裁く言動は克服していきたいな、と真剣に思います。それは自分自身も、相手の人をも「費やし損なふもの」でしかないのです、決して大人の態度でもないし、「人格者」のしるしでもないのです。

むしろ大人なら、相手が本当に言いたいことを汲みだし、相手の感じ方を知ってそれを尊重しようとするでしょうし、自分の基準を押しつけることもしないでしょう。他人は自分のギャラリーでは決してないからです。他人は他人の基準があり、その人は、その人自身にとっての人生の主人公なのですから。

人生はつくりあげてゆくものだ

2007年07月08日 | Weblog

 人生はつくるものだ。
  必然の姿などというものはない。

 
 ワーズワース(英国の詩人)

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理想の自分でなければがまんできない。そんなことは無理だから、自分に嫌悪する。自分に嫌悪すると他人の良い面が見えなくなる。なにかにつけ人のアラ探しをする、ひとのいうことやることにいちいち否定的に言う。

自分の理想どおりにものごとが進まないから、世の中に不安を覚える。人に警戒心を持つようになる。「神がいないなら人生には目的がないことになる」と考えて、神を騙るカルトにハマり、家族も子どももカルト統制に巻き込む。

しかし、カルトにハマっていると、うまくいかないことや人を傷つけてしまうこと、子どもを精神的・肉体的に虐待してしまうことなどから責任逃れができる。「自分は不完全だし、子どももエホバに頼っているならなんとかなる」…。



いいえ、なんともなりません。人生は自分でクリエイトしてゆくもの。人生の目的も自分で見つけ出してゆくもの。できないことを夢見るのではなく、自分がしたいと思ったことにチャレンジしてみる、そこには自分の責任で決定するという段階がある。責任の持てないことには手を出さない、でもやるときめたら全身全霊をこめてことにあたる。

生きるってこういうことなんだとわたしは思います。

幸福はものごとの味にある

2007年07月05日 | Weblog
幸福はものごとの味にあって、ものごとそのものにあるのではない。

 幸福になるのは、自分の好きなものを持っているからであり、
  他人がよいと思うものを持っているからではない。


(「箴言集」/ ラ・ロシュフコー・著)

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エホバの証人が「特権」をとらえようと一生懸命になるのは、
「他人がよいと思うもの」を得ようと自分をこき使っていることだとわたしは思う。これは想像ではなく、エホバの証人の中で20年弱過ごしたなかでの観察にもとづいている。

でもエホバの証人などに欺かれなかった一般の人たちは決してエホバの証人を笑えない。とくに日本人とアメリカ人はエホバの証人と同じような生きかたをしているからだ。他人からの賞賛を得ようとして、他人の望むもの、他人がよいと思っているものに上達しようとしているから。

たとえ百億の長者になろうと、一千一万の家来を従える名声と影響力を持つようになっても、他人の土俵で踊っているのなら、その人は単なる操り人形でしかない。老衰して目が衰えてようやく、自分の頭の中にたくさんのピアノ線があったのを知るようになるのだ。そしてその人は憤ったまま死んでゆく。

トロフィーも勲章も名声も地位も、それ自体が人生を充足させるのではない、断じて。自分の興味を追求している間にそれが他の人からも評価され、感謝されたとき、ふつう以上の喜びと光栄を覚えることになる。

ただ単にメダルが欲しいだけなら、人は薬物を投与したり、審査員を買収したり、人々に迎合したりすることを臆面もなくやってのける。だがそれは自分の内にある「実力」にとってはだぶだぶの服、自分の「身の丈」に合わない服のようなもので、人々は表面的には喝采を送るが、内心では滑稽さに嘲笑するようになるのだ。

「これもまた空しい」(伝道の書のあちこち)。

生きることは創造すること

2007年07月04日 | Weblog
大切なのは倒れないことじゃない、
必ず起き上がることだ。

斎藤茂太

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母の人生には苦難が多かった。
主なものを上げても、生家の病院が二度も焼け落ちている。
だが、全てを失うようなそんな体験をしても、
運命を呪う言葉を私は聞いた事がない。

母は気に病んでも仕方の無い事は一切気にする事が無かった。
何かが起こるとすぐに今を生きていくための行動を起こした
母は徹底した現実主義者だった。

母は裕福な家に生まれたが、
裕福さに寄生して生きてはいなかった。
富裕な生まれという恵まれた条件を道具にして
自分の人生をクリエイトしていったのだ。

何かを創っていこうとすると
必ず失敗や挫折を経験することを、
母は知っていた。
そして、失敗や挫折によって人は知恵を身につけることも…!

倒れたり、つまづくことを恥ずかしがる必要はない。
そこから何も学ばないことこそ恥ずかしい。
なぜならそれは愚かであることの表れだから。


 (「続・いい言葉はいい人生をつくる」/斎藤茂太・著)

「親愛」の育てかた

2007年07月02日 | Weblog
人間関係の形成は、ときに苦しい闘いである。関わりを持つことが極端にむずかしい場合もある。何の共通点もない人々と、どうしたらつながりを持てるだろうか。

関わりを持つことがむずかしい人々の場合には、まず、双方が同意できることを1パーセントでいいから見つける。これはほとんどの人に対して可能である。

だが困ったことに、たいていの人は無意識のうちに逆の関わり方、つまり違いを見つけることで(相手の人に)近づこうとする。

なぜか。

生来の競争意識もあるだろう。だれしも優位に立ちたいものだ。あるいは目立ちたいという意識もあるだろう。また相手に脅威を感じたために、違いを強調することもあるだろう。

しかし、人と関わるためには、そうしないで、共通の土台を見つけることが大切である。

見つけようと思えば、誰もがたくさんの共通点を持っている。どれほど風変わりな相手でも、何か同意できることを見つけられるはずだ。

そういう共通点を見つけたら、そのことに対して100パーセントの力を注ぐ。

違いが大きければ大きいほど、同意した1パーセントに集中することがますます大切になってくるし、よりたくさんの努力が必要だ。

常に簡単にいくというわけではないが、明らかに努力する価値はある。




(「その他大勢を味方につける25の方法」/ ジョン・C・マクスウェル・著)

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「困ったことに、たいていの人は無意識のうちに逆の関わり方、つまり違いを見つけることで(相手の人に)近づこうとする」。

これは人間関係への鋭い観察ですよね。

これから書くことは、すでにあるていどの共通点を見いだせた人間関係についてですが、

人に話しかけたり、意見を言うに際しても、とにかく相手を否定することから、あるいは相手を訂正しようとすることから始められることがとても多いようにわたしは感じています。

人が、自分の意見、日ごろ内心で思っていることを人前で話すのは、その人に対して心をよりいっそう広く開いたことを表しています。心理学でいうところの「自己開示」です。

関心を持った人に自己開示するのは、当の相手の人なら自分の意見に共感ないしは承認を与えてくれるだろう、という期待を持っているからです。

ところが、それを真っ向から否定する言動や、訂正させようとする言動に出くわすとなると、話したほうはむっとせざるを得ません。人間関係を深めたいというつもりで自分の内面のちょっと深いところまで相手にさらけ出したのに、相手の人はあたかも討論や議論を開始するかのように反応するのですから。

人間関係は、学術上の討論ではないし、政策や企画を議論することでもありません。自分を受け入れてもらい、相手をも受け入れる、そうして内面を近づけあい、可能なところまでよりそい合うこと、それがプライベートな人間関係なのです。

それが理解できていない人が、近ごろとくに多くなっているように思います。

面識の薄い人に近づいていく際に、共通点を見いだそうとすると、相手の人を受け入れたいという意思を表明したことになります。また相手の人の言うことや反応にまずうなずくのも同じです。共通点を見いだそうとする努力、とにかくまず相手を肯定する=受け入れる努力を見せるのは、「あなたと打ち解けたいと思っています」というメッセージです。いわばキャッチボールにおいて、最初に、ストライクゾーンの真ん中にスローボールを投げること、です。相手が受け取りやすいアクションを起こすわけです。

ところが上記引用文の中では、違いを明らかにすることでアプローチをかける人が多い、と述べられています。それは相手と対立し、対峙し、あるいは排除しようとするメッセージを持つアクションなのです。当人は相手の人を従わせようと思っていなくてもそういうアプローチを習慣的に取るならば、それは間違ったアクションである、と著者は言っておられるのです。相手の人と近づきになるには、相手との違いを前面に出すのではなく、共通点を探しあうように努めること、これが「近づきになりたい」というメッセージの示し方である、ということです。



でも、あえて初対面の人に、暗黙のうちに拒絶のメッセージを出すこともよく行われます。

わたしがエホバの証人だったころ、よその会衆から兄弟が移って来られたんです。わたしのいた群れだったので、集会が終わったあと、軽食で歓迎会を開いたんですね。

司会者の奥さまである姉妹はちょうどそのころ、脳梗塞で入院されていました。引っ越してこられた兄弟は司会者である書記の長老兄弟に、「姉妹は入院されているそうですね。どこか悪いんでしょうか」と、会話を始めようとするボールをまず投げたんです。自分のほうから司会者に近づいていこうとされたわけです。そこで司会者から返ってきた返事が、「どこか悪いから入院してるんですよ」という、突き放すものでした。

なぜこの司会者はこんな反応をするのでしょうか。こんな反応を受けたら誰でも、「意地の悪い人だな」と感じるのです。なぜこのような反応をするのか、引用文の著者はこう推測しています。

「生来の競争意識もあるだろう。だれしも優位に立ちたいものだ。あるいは目立ちたいという意識もあるだろう。また相手に脅威を感じたために、違いを強調することもあるだろう」。

その司会者の、突き放したような反応は、つまりは「自分はあなたと打ち解ける意図は今のところはない。なれなれしくされたくない」という暗黙のメッセージをことばに出さないで、しかし露骨に表明するものでした。その背後にある考えはなんでしょう。エホバの証人用語を使えば、司会者のそのときの「霊」はどんなものだったのでしょう。

司会者の人間性を、その越されてきた兄弟よりはよく知るわたしは、こう判断します。

①生来の競争意識から、優位に立とうとした。
②また相手に脅威を感じたために、違いを強調した。

越されてきた兄弟はかなり有能であるという評判だったのです。引越ししてきた兄弟姉妹には以前いた会衆の長老団から申し送りが来ます。それにもとづいて、長老姉妹経由でその評判がすでに噂されていたのです。それに対して、ウチの群れの司会者は、それを脅威に感じ、自分たちの優位性を保守しようとした、というわけです。

どうです、しんどい人間関係じゃありませんか、この司会者をめぐる人間関係というのは…。これがエホバの証人の誇る「霊的パラダイス」の実情なのです。ウチの会衆は主宰監督が一種の偶像だったので、書記の兄弟は「取り巻き根性」で主宰監督の顔を守ろうとしたのでしょう。

エホバの証人が、野外で宣伝するように、「愛の組織」をほんとうに築きたいのなら、こういう反応をする人は「長老職」からどんどん外してゆかなければならないでしょう。



エホバの証人の組織にいた時間が長ければ長いほど、人間関係には守らなければならない「縦の序列」があるという精神が染みついています。しかし、豊かな人間関係、癒される人間関係、それゆえに長く続く人間関係というのは「横並び」の関係、対等の関係、つまりは民主主義的なつながりなのです。これはわたしは「断言」します。交流分析ではこれは「win-win」の関係と名づけられています。双方がともに立てられ、双方がともに尊厳を高められる関係です。

一方、縦の序列にこだわる関係は、経済学でいうところのトレードオフのような関係です。人間関係には必ず立てられる者と従えられる者がいなければならない、という意識が鉄則のように基礎に横たわっているのです。トレードオフとは、誰かが儲ければかならず誰かが損をしている、という法則です。

こういう人間関係が、とくに従わせられる側の人間に不満を募らせ、しかしその不満を表現すれば孤立させられるという「処罰」を受けるから、黙って従い続ける、それが重いストレスとなってうつ病を引き起こしたり、あるいはより弱い立場の人々に陰湿な「いじめ」を行うようななったり、というようないびつな人間関係をつくってしまうのです。また「立てられる」側の人も、自分の影を薄くする人が現れると、それらの人に対して密かに失脚の機会をうかがい、自分への求心力が弱まるのではないかという怖れを抱きます。これも重いストレスなのです。そういうストレスから「力」で人々を従わせる「恐怖支配」が行われるようになります。


(※)エホバの証人の恐怖体制も、このようにして作り出されたものです。なぜって、人々が離れてゆく理由が多いですから。教理のいい加減さや、輸血拒否や学校のカリキュラムへの根拠のはっきりしない聖書解釈にもとづく拒否、果ては文化・文明への否定的態度etc...。


エホバの証人の人間関係っていびつだったでしょう? それは長老や巡回監督、支部の「偉い人たち」をヨイショしなければならないために、成員個人個人の個性や素質が押しつぶされていたからです。人間の幸せは、豊かで温かく、互いに包みあうような人間関係にこそあります。それがあればほかのどんな「重荷」も乗り越えてゆけるのです。現代日本人の悲劇というのは、あまりにも「競争で勝つこと」を叩き込まれてきたために、親友を持てないということにあると思います。とくに男性は、ね。

みなさん、人生は一度かぎりです。幸せに生きたいじゃありませんか。ではどうすればいいか。友だちを作りましょう。真の友を。そのために、相手を従えようとするのではなく、また相手を打ち負かそうとするのでもなく、とにかく相手の人を認めてあげましょう。多くの場合、あなたが下に出るので、人はつけあがるでしょう。あなたを下に置こうとするかもしれません。そういう人はどんどん切り捨ててゆきましょう。そうやって下手な鉄砲式に当たってゆけばかならず、あなたを認めようとする人が現れます。その人こそ親友になるにふさわしい人なのです。

これは方法や理論は違っても、あらゆる心理カウンセラーや民主的な精神科医が述べるところの「共通点」です。


 



 教会 :牧師が神を崇め、女たちが牧師を崇める場所。
          (「悪魔の辞典」/ アンブローズ・ビアース・著)

あるがままに…

2007年07月01日 | Weblog


ものごとをあるがままの姿で受け入れよ。
起こったことを受け入れることが、
不幸な結果を克服する第一歩である。


 ウィリアム・ジェームズ(心理学者・哲学者)

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暗闇に入る前には、それを外から眺めていて恐怖を想像し、
想像された恐怖はとめどなく増幅されていく。

でも、いよいよ闇に呑み込まれてしまうと、
何とか這い出ようとして、よく眼をこらして、状況を把握するようになります。

案ずるより産むが安し、というのはほんとうですよね。
中に入ってしまうと、以前想像していたほど
状況は救いがたいものではないんですよね。

問題は、ものごとをおおげさに悪く考える想像力にある。
問題は、ものごとをおおげさに悪く想像する解釈にある。

自分に起こったことは、その通りに受け止めよう。
必ず逃れ道は見えてくる、そこから出たいと本気で望むなら。