Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

人を愛することとは、認め、尊重すること

2006年07月08日 | Weblog
語り合ってみて、理性も好意も感じられない人間が多いのは、
自分の言いたいことで頭がいっぱいで、
相手のことばに耳を貸さない連中が多いからだ。

(「箴言集」/ ラ・ロシュフコー・作)

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人間は、自分が認められることを必要としています。だからひとりじゃ生きていけない。

じゃ、認められるのはどうしたらいいんでしょう?

自分のほうが圧倒的に強いこと、圧倒的に富裕なこと、圧倒的に名声があること、圧倒的に自分が優秀なこと、こういうことを見せつけてやればいいのでしょうか。

いいえ、そういう人は、反感を買うだけで、むしろ認めてはもらえません。だって、自分のほうが劣っていると思い知らせる人を、わたしたちは尊敬するでしょうか。

生身の人とつき合うときには、むしろ「引いて」、相手に花道を譲ってみてはどうでしょう。人は、自分をいい気分にさせてくれる人に親しみを覚えます。なぜって、そういう人は、自分を認めてくれたわけですから。

まず、話を共感的に聞く、というのは、相手を認め、喜んでもらえるようにする最大のおもいやりです。このことを効果的に行うためには、自分の心の中に、偏狭な考え方があってはならないのです。組織批判は一切口に上らせてはならないと、頑迷固陋に信じる長老は、信者の本当の気持ちを尊重できないでしょうから。

人間関係って、対等でなきゃ、ね。相手の人は、自分を賛美するために生まれてきたわけじゃないんだから。


「でも、誰も殺さないで兄だけが死んだのだから、それでよかったと思います」

2006年07月02日 | Weblog
「兄は特攻隊員で、沖縄で突入して死んだのです」
「アメリカの軍艦に命中したのですか」
「いえ、海の中に落ちたそうです」
「それは残念でしたね」
「でも、誰も殺さないで、兄だけが死んだのだから、それでよかったと思います」

(「いま特攻隊の死を考える」/ 白井厚・編)

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1994年8月、慶應義塾大学の私(白井厚慶應義塾大学名誉教授)のゼミナールが、東京の有楽町の朝日新聞記念会館(マリオン)で、「特攻50年-戦時下の青春」という展示を4日間行いました。入場料は200円でしたが、3000人以上の人が集まって、特攻隊員の写真や遺書に涙する人、立ちどまって動かぬ老人、子どもに説明を繰り返す父親、戦時中の女子学生の姿に驚く若い女性、特攻隊員の童顔に衝撃を受ける学生、家族総出の遺族など、戦争の悲劇への思いが会場を満たしました。

私はその中で説明したり話を伺っていたりしたのですが、一人の女性との間にこんな会話を交わしました。
「兄は特攻隊員で、沖縄で突入して死んだのです」
「アメリカの軍艦に命中したのですか」
「いえ、海の中に落ちたそうです」
「それは残念でしたね」
「でも、誰も殺さないで、兄だけが死んだのだから、それでよかったと思います」

私は、頭をガンと撲られたような気がして恥ずかしくなりました。私の頭の隅には軍国少年の残りかすがあって(白井教授は1930年〈昭和5年〉生)、一機一艦を沈めることを成功だとふと思ってしまったのです。この女性とこの女性の兄さんの間にはどんな会話があったのかわかりませんが、特攻隊員だった兄は死の意味づけに苦しみ、兄の死を知った妹さんは半世紀の間、さぞ煩悶したことでしょう。それを経て、敵を殺さなかったことを良しとする境地に達するとは!

日々、戦争報道が続く世界は、軍事力が大きな意味を持ちます。しかし、戦後半世紀以上、幸いにも日本は一人の “敵兵” も殺さず、日本人の戦死もありません。日本は今後も “敵兵” を殺さない、ましてや特攻隊員を編成することもありえない、そんな決意と実績を残せば、そしてそれが徐々に世界に広がれば、6000人近い特攻戦死者の慰霊になるのではないでしょうか。二度とテロも戦争も起こらない社会に近づくことが、今、最も必要だと思います。(同上書より)



中国や韓国から日本バッシングが起こるたび侮辱に感じて、日本は弱腰だからもっと強くなれ、という意見が出ます。湾岸戦争で出兵できなくて欧米から非難されたときに、それを侮辱だと感じ、憲法9条を変えようという意見がわっと出ました。北朝鮮がミサイルを発射しようとしている、こういう情勢だから、日本も軍備を強化しなければならない、どうしてこのことがわからないのかといら立ちを表明する人もいます。

日本は国防軍を持たないから、北朝鮮が威嚇してくるのでしょうか。海外派兵できる軍隊があれば、中国や韓国は日本を非難することをやめるのでしょうか。正規軍隊を保有すれば中国や韓国はいっそう強硬な態度に出るでしょう。北朝鮮はなおさらです。にらみつけるのは、相手を侮辱しようとする意思表明です。侮辱を与えようとするのはつまりは「攻撃」です。自分の主張をそっくり一方的に相手に押しつけようとするのは横暴だと、日ごろは言うのではないでしょうか。エホバの証人の指導の何がいちばん癇に障るかといえば、上からの考え方、感じ方を一方的に押しつけられることではありませんか。

対話というのは、相手の主張と自分の主張とをすりあわせ、譲歩すべきは譲歩し、主張すべきは主張する、そのようにして互いに納得できる新しいラインをつくりだすことです。わたしのような、反エホバの証人の立場の人間が、エホバの証人に対して強硬な批判をすれば必ず、「前向きになれ」とか「恨みがましいことを言っても、何も前進しない」とかいう反応をする人は多いのです。ではどうしてその反応を、今の日本の指導者に向けないのでしょうか。そんなことでは、日ごろのうっ憤やものごとが自分の思うようにコントロールできない鬱積した不満を、誰か弱い立場の人々をへこますことで晴らそうとしているのではないかと、疑いたくなります。

小泉首相のアメリカ追従の態度を見るにつけ、彼の、ひいては今の日本の卑小さ矮小さをまざまざと思い知ります。アメリカこそ横暴のお手本です。相手の立場や文化をまるで尊重しようとしません。ただ単に企業活動の利便とアメリカの利益のみを基準にして世界中を従えようとするのです、圧倒的な軍事力を背景にして。「パトリオット・ゲーム」というハリソン・フォード主演の映画を観たことがあります。そこでは戦争の現場が、人工衛星を通してコンピューターゲームのようにスクリーンに映し出されます。人が撃たれて倒れても、流れる血は見えません。人が一人死ぬということがどういうことなのか、戦争を指示する人たちは理解していないし、理解しようとさえしないのです。

Luna's “A Life Is Beautiful” のほうで、「人間性回復のために」というシリーズで、歴史と経済を追っていっていますが、このシリーズは心理学的・精神医学的な観点をベースにおいています。加藤諦三さんの著書である「無名兵士の言葉」を通奏低音にして進めていますが、その著書の中で加藤先生は、自分という人間に自信を持てない人が、財力や名声を求めようとすると述べておられます。人から愛され、評価されるには自分を装飾しなければならない人たちだ、と。トラックや自家用車ををごてごて装飾したがる性向に通じるものです。一部の人たちは国家をもって自分の装飾としているのではないでしょうか。会社の利益を追求するために、軍事力をもって外国に市場を拓こうとするのも、結局は財力を大きくしようという動機なのです。そして、人間が自分という存在そのものに価値と自信を生みだすのは、親の愛しかたにかかっているのであり、決して国家・民族の優位性でもなく、ましてや会社の資本の大きさでもないのです。

はだかの自分がかけがえのない存在だと信じることができれば、自分と同じように他人もかけがえのない命だと思えるのです。冒頭に紹介した女性が、兄は戦死したが、敵艦の兵士を殺さなかったことは誇りに思う、と述べたことは、人間の真の強さ、美しさ、高貴さを表していると思うのです。