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こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

否定しない接し方

2009年01月25日 | Weblog
人間は正しいことを行うことで親しみを培うのではありません。親しさ、信頼というものは愛することでしか醸成されないのです。愛するというのはつまり、相手をそのままで受け容れるということです。個人的な好みや個人的な正義によって人を振り分けようとするのは人への愛ではないのです。それは自分への愛であり、自分を愛するよう人びとに強要すること、つまり独裁支配に通ずる精神態度です。

そのような支配では親しみよりは、堅苦しさ、息苦しさ、遠慮しなければならない雰囲気などのために、人材を萎縮させ、能力を伸ばせないようになるのです。そんな実例を、今回は紹介します。会社で部下をお持ちの方、子どもさんをどう育てていいかわからない人、傷ついた人の癒しになりたい人に、今回のエントリーを問いたいです。


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わたしの会社でも、仕事の上で、結果的にウソの説明をしたスタッフがいたんです。でも、それは絶対にバレてしまう内容でした。だから、どういう気持ちでウソをついたのか聞いたら、「今までに上司に常に怒られ続けてきて、怒られることが怖いから、とっさに違うことを言ってしまう」と(そのスタッフは)答えたんです。

条件反射みたいなもの。計画したウソではなく、とっさに身をかわそうとするウソ。子どもがつくウソに多いケースです。

子どもに対してもそうだけれど、厳しく怒り続けると、ポジティブな行為が出てこなくなってしまうものなんです。(逆に)「これを話しても相手は受けとめてくれる」と思えば(正直に or 本音を)話す(ようになる)。でも、「話せばもっと厳しい目に遭う」と思えば話さなくなるのもわからなくはありません。

だから(親、上司、教師、リーダーetc... は)「相手にウソをつかせてしまう自分」というものも省みたほうがいいと私は思います。もっと広い気持ちで相手に接していれば、その人は自分に対してウソをつく必要はないはずだと思いませんか。

何を話しても自分を受けとめてくれると思えれば、人は本当のことを言うのではないでしょうか。でも、(本当のことを言うと)相手が去ってしまうかもしれない、嫌われるかもしれない、二度と相手にしてもらえないかもしれない、などと不安に思うことが、すべてウソをつかせることにつながってゆく。ということは、その人に対する自分の態度にも問題があるからウソが生まれるのだと思うんです。

たとえば、部下が自分にウソをついたとしたら、部下を責める前に、自分に対して部下が正直になれない人間関係を築いてきた責任があると私は思います。自分のほうが上司という強い立場にいるわけですから、自分から歩み寄る気持ちのゆとりを持って接するようにしようと私は思いました。自分を追い込む必要はありません。その部下への対処の仕方を変えてみようとポジティブに考えれば気持ちは楽になると思います。



もう一つ、こんなこともありました。スタッフがミスをして、そのことがわかったときに彼女は、「すみません、私が確認しないでミスをしました」とすぐに言ったのです。「この人はとてものびのび育ったんだな」と私は思いました。そして、まず自分の非を素直に認められるこういう性格は、今後仕事で伸びるタイプだろうとも感じたのです。

これは、育ってきた環境や親の教育が実はとても大きいのだと思います。育ってきた家庭のなかで、何があっても親はわかってくれて、認めてくれて、「今後は気をつけなさいね」と言ってくれた親だったんでしょうね。

だって、人間は完全ではないから、何回もミスをするし、何回も過ちを犯してしまうでしょう。根底に流れている愛情は、相手が正しいからとか、自分にとって利益があるからといって生まれるものではないと私は思います。親子の愛も夫婦の愛も、友人関係も車内の上下関係も、基本に信頼がある。それは裏切ったとか裏切らないとかの次元ではなく、その人の存在自体を認めているということだと思います。

なぜ、その人がウソを言わなければならない方向へいってしまったかということを考えてみると、自分を知るひとつの答えが出るような気がします。



(「前田義子の強運に生きるワザ」/ 前田義子・語り 恩田裕子・文)

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人間は間違いを犯すもの、失敗をするもの。失敗をしない人はなにひとつ物事を成し遂げられない。だから、失敗すること、間違うことを責め立てて、その人を辱める、というのは教育でも指導でもない。ただ単に、上司・親という権威をふるうことを楽しんでいるだけ。世間体とか、自分のメンツとかを守ろうとしているだけでしかないのです。事実、間違いや失敗を責め立てている時の上司や親そのほかの人たちは感情的にいきり立っています。これは攻撃的な反応です。攻撃的な反応は自分を防衛するために生じる反応か、競争相手を倒すために生じる反応です。

たとえば、子どもや生徒が失敗をしたり、間違いを犯したりしたときに、それを怒りをあらわにして責め立てて、子どもや生徒を辱めようとするのはどうしてか、それは自分の言ったこと、自分が教え込まれてきたことを子どもや生徒が尊重せず、従わないことに怒りを感じるからではありませんか。つまり、自分のアイデンティティへの攻撃だと、その上司や親は解釈するのです。「常識」や「良識」は絶対的な価値基準だとその親自身が、幼いころから怒りと辱めという鞭でたたきこまれて来たのでしょう。


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では、世の中の常識っていったいなんでしょうか。常識は絶対的なものではありません。日本の常識が世界の非常識になりうるように、戦前と戦後では180度常識が変化したように、時代背景と状況に応じて変わっていくものが「常識」なんです。そんな不確かで、答えが一つではないものを基準に判断することは、賢明ではないと思いませんか。



(上掲書)

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「常識」というものは絶対的な価値基準であるどころか、人が人を支配するための誘導的な手法を有無を言わせずに受け入れさせるために、あるいは権威の気まぐれな支配権に疑問を感じさせないよう、思考停止に追い込むための方便である場合さえあるのです。以前、エホバの証人というカルト宗教の成員だったわたしは、そういうことを身をもって知っています。そんな不確実な「常識」をふりかざして、立場の弱い側を辱めることで何が成し遂げられるのでしょうか。せいぜい権威を振るう人への服従を刷り込む目的ぐらいでしょう。そうすることによって権威者は自分が相手より優越していることを自己確認できるのです。でもこれはきわめて自己中心的なふるまいです。辱められることによって人は決して成長しないからです。むしろ、自分からポジティブにチャレンジする能力を萎縮させるでしょう。

その結果、人に怒られないようにするために行動するようになり、また失敗を恐れるようになります。ところがわたしたちは失敗から学んでいって、それで何事かを成し遂げるようになるのです。失敗を怖れる人は、その人生において何事も成し遂げえず、自分で人生を切り拓いて行くことを避けるようになります。むしろそんなことよりも、あらかじめ引いてあるレールの上を行くことを望むようになります。そういうことを望む人のうち、とくに自信に欠ける人たちは、カルト宗教のような厳格な上下関係の社会に居場所を見いだそうとするのです。あるいは昨今勢力を伸ばすネトウヨ的な価値基準に染まるようになります。人はどうあるべし、というような一方的に押さえ込むような社会の枠組みに自らをつなぎとめ、自分の才能を自由に発揮するよりは、するべきこと、生きる目標などを他人に決めてもらいたいと願うようになるのです。エーリッヒ・フロムが論じたところの「自由からの逃走」を求めるのです。

自分は全体主義やカルトから自由になったとか、カルトから逃れようとする人の助けになりたいといいながら、人たるものああすべし、こうすべし、さもなければその人間の価値を認めないという意味のメッセージを辱めによって与えようとする人は明らかに自分の言うことと実際の行いとが矛盾しているのです。意図してそうしているのなら汚くて醜い人たちだと思いますし、われ知らずそうしているのなら、人に偉そうに説教するほどに成熟していないのです。そんな未熟な人が何を偉そうに大声で怒鳴り散らすんでしょう。笑止千万です。



子どもたちのなかにはわざと親に叱られるようなふるまいをする子がいます。そんな方法でしか、人は自分にかまってくれないと思い込まされてきたのでしょうか。そうだとすればその親が行ってきたしつけというのは実はただの虐待だったのです。あるいはインターネットの書き込みなどで脅しつけるような書き込みをする人がいたとします。その人は本当に犯罪を犯すつもりなのでしょうか。朝青龍を殺す、という書き込みをする人は確かにアブナイかもしれません。朝青龍はそのロケーションをつかむことができるからです。でも無名の一般人の掲示板などであるなら、その管理者のロケーションなどわかるはずがありません。その管理者がどんな人かということさえわからないのです。だとすれば、その人には別に訴えたい感情なメッセージがあって、そのなにか鬱屈した表現でしかない、と考えるのが当然なのです。

これはお子さんをお持ちの方には特に重要なことです。お子さんがなかなかいうことを聞かないとか、親の癇に障ることばかりするとかいう場合などはなおのこと、何か強い不満をストレスとして抱えていて、それを表現している、ということだからです。そんな子どもに対して、いうことを聞かない子は悪い子だ、親をなめてるのかっと、怒りをあらわにし、体罰によって痛めつけたり、人前で辱めたりと言った方法で接してそれで「矯正」されうるのでしょうか。反対でしょう。余計かたくなになって、心を閉ざし、怒りや欲求不満を親以外の人にさえ向けるようになるでしょう。やがてそれがエスカレートして本当に犯罪を犯すようになるかもしれないのです。


前田さんは、部下が自分に対してウソをついてしまうとしたら、上司である自分の職場運営の仕方に抑圧的なものがあるからだと自分を反省されました。人の上にたつ器とはこういう資質を持つのです。これが本当の意味での謙虚さ、謙遜さです。部下が失敗を怖れ、つまりミスをして怒鳴り散らされ、辱められることを怖れて窮々とするようになるなら、明らかにクリエイティブな仕事は萎えてしまうでしょう。そうなるとファッション・クリエイティヴな仕事をする前田さんの会社は何も生み出せないようになるでしょう。部下が自由に考え、自由に表現できるようになるためには、上司にはばかることなく考え、失敗を怖れずチャレンジする雰囲気、精神的土壌が必要なのです。だから前田さんは、部下たちが自分に対してウソを言わせてしまう雰囲気を是が非とも改革しなければならないと主張しておられるのです。

後の例で、ある女子社員が自分のミスを素直に報告したのは、失敗を辱めず、失敗によって人格そのものを否定されない環境があったからだと、前田さんは言っておられます。そうでしょう。彼女の親は、彼女が失敗しようと、間違いを犯そうと、それで責め立てたりせず、彼女そのものの存在、尊厳はしっかりと受け止めて来られたから、失敗を報告することを怖れなかったのです。

こういう話を、わたしはたくさん読みたいと思うのです。わたしはカルトを経験していますし、カルトに頼るようなイカレた親元に生まれてしまいましたので、彼らと同じにはなりたくないからです。人間を、親、上司、権威者の好む枠型にはめ込もうとすることは、その子ども、生徒、部下の、人間としての唯一のユニークな存在であることを真っ向から否定することなのです。未熟な親や上司、権威者は、人のミスや短所を公に晒し、人前で辱めることで、自分をひけらかかすのです。自分のほうが優れていることをそういう仕方で自分と自分の周囲の人びとに顕示するのです。ですから、未熟な親は、子どもに、部屋が散らかっている、ハンカチを持参しない、箸の持ち方がなっていない、礼儀ができていないなどなど言い立てたがります。またそういいたて続けられるよう、子どもの自発性を暗に摘み取っていくのです。子どもが何か遊んでいるのを、つまらないことはやめなさい、と叱りつけたり、だれだれちゃんはもっと上手ですよ、と比較して辱めたりして、子どもを萎縮させるのです。こんな指摘があります。



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昔から今に至るまで、「失礼のないように」「恥ずかしい思いをしないように」とのモットーで子育てをする親はたくさんいます。似ているものとして、「人に迷惑をかけないように」「後ろ指をさされないように」などがあります。きちんとした性格の、誠実でまじめな親御さんほどこの傾向が強いようです。自分自身の生活や仕事においてもよく責任を果たし、自己を律する人です。

ただ、私は、これがあまり行き過ぎにならないように気をつけたほうがいいと思います。行き過ぎ=過干渉です。上記のようなモットーで子育てをすると、ついつい「マイナス思考の子育て」になってしまいがち。そして、マイナス思考の子育てをする人は、どうしても行き過ぎてしまうことが多いのです。

その結果、「箸は正しく持たなければならない」
「姿勢を良くしなければならない」
「行儀良くしなければならない」
「静かにしていなければならない」
…などと、「~してはいけない」「~しなければいけない」ということばが多くなってしまうのです。

そもそも、
「失礼がない」
「恥ずかしい思いをしない」
「人に迷惑をかけない」
「人に後ろ指をさされない」
…などというモットーからしても、「~ない」という否定語がついています。

子どもをきちんとさせようとすると、接するときにどうしてもこのようなことばが多くなります。言うまでもなく子どもは、そうそう「きちんと」などできないものです。もちろん、なかにはできる子もいますが、できないこの方が圧倒的に多いのです。

そして、きちんとできない子をできるようにさせるのは並大抵のことではありません。

できない子をできるようにさせようとすると、どうしても叱ることが多くなります。叱られることが多くなると、子どもは自分に対してよいイメージを持つことができなくなります。さらに、だんだんと親の愛情に対する疑いの気持ちが芽生えてきてしまいます。

「自分はダメな子だ」
「何度言われてもできない、だらしのない子だ」
「お母さんは、もしかしたらぼくのことがあまり好きではないのかもしれない」
「よい子でないぼくは、嫌われているかもしれない」
…などと感じるようになるのです。

叱られることが多くなると、どうしてもこうなってしまいます。いくら親が口で、「あなたのことを思ってやっているのよ」と言い聞かせたところで、感情の働きはどうしようもありません。

しかし、小さい子どものうちから何でもきちんとできるということが、ほんとうにそれほど大切なことなのでしょうか。子どものころにそういうことができなかった子が、大人になって大成することだって実際多いでしょう。逆に、子どものころにきちんとしていた子が、大人になってもきちんとしているとは限りません。私たち大人は、そうじゃない例もたくさんあることを知っているはずです。

およそどんな世界でも、長じて「才能豊かな人」とか「天才」といわれる人は、意外と子どものころはきちんとしていないものです。それどころか、大人になってからもきちんとしていない人だって多いのです。



私は、子育てでは「二つのこと」が大切だと思っています。

ひとつ目は、子どもが「親に愛されている」「受け容れられている」と実感できるようにしてやること。これが最優先だと思います。子どもの気持ちが満たされてさえいれば、体外のことは大丈夫です。

そのうえで、「いい親子関係」をつくっていくことです。叱りすぎていると、いい親子関係を保てなくなります。いい親子関係ができていないと、思春期以前なら親のいうことに窮々と従っていても、思春期以降は親が何を言っても聞く耳を持たなくなります。それどころか、親が言うのとはまったく反対のことをわざとするようになるのです。そうなってしまえば、いくら小さいうちに茶碗や箸の持ち方、姿勢やことば遣いをしつけたとしても何の意味もありません。

いい親子関係ができていれば、たとえ小さいときに茶碗や箸の持ち方、姿勢やことば遣いが多少いい加減だったとしても、大したことはありません。大人になってほんとうに必要だと感じたときに、親が「気をつけなよ」とそっと言ってやれば、それでがらっと変わってしまいます。いい親子関係なら、子どもは素直に聞いてくれます。そして、大人になってその気になれば、たいていのことはすぐにできてしまうはずです。




もうひとつは、子どもの「いいところ」をほめて伸ばしてやることです。

なかなかきちんとできない子でも、ブロックあそびが大好きかもしれません。でしたら、それを大いにほめて、ほめてほめてほめまくって伸ばしてやってください。

そして、こう言って下さい。「あなたには、いいところがいっぱいあるよ。~と~と~と…」「あなたのいいところ、自分の好きなことをどんどん伸ばしてゆくといいよ」「そうすれば自信を持って楽しく生きてゆけるよ」「あなたが自分のいいところを伸ばしてゆくと、いつか周りの人の役にも立てるようになるんだよ」。

このような「プラス思考」の姿勢で育ててゆくと、子どもは明るい気持ちでのびのびと生きていくことができます。そして、その能力を十分に発揮できるようになるのです。プラス思考で育てられた子は、親の愛情をたっぷり感じているので、自分の気持ちが満たされています。ですから、人に対しても優しくなれるのです。

そういう子は、周囲の人に対しても失礼なこともしませんし、人に迷惑をかけることもありません。そもそも「失礼なことをしないように」「恥ずかしい思いをしないように」「人に迷惑をかけないように」などと言うまでもなく、自然にそうなるのです。




(「『否定しない』子育て」/ 親野智可等・おやのちから[ペンネーム] ・著)

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上辺のことを「きちんと」整えようとするよりも、その子の存在そのものを受け容れ、その子の存在そのものを喜び、それをことばで表現して伝える、そうすることによって子どもの気持ちを満たしてあげる、そうすれば人を愛することを会得するようになり、人を愛することを会得した子は自然と「きちんとした」大人になる、というこの指摘、前田さんの職場運営や従業員管理に通じるものがあるではありませんか。共通点は「上から目線」ではなく、「横から目線」であることです。道徳や常識を上から強制的に押しつけようとし、従わない人は辱めて排除するというようなやり方を取らないのです。

この、親野智可等さんは、本名を杉山桂一という小学校の先生だった方です。この先生がご自分の教師経験から、「親力で決まる子どもの将来」というメールマガジンを発行したところ、大きな話題になって、そのメルマガからいくらかを抜粋して書籍にしたのが上掲書です。幼いお子さんをお持ちの方、新婚の方などにはぜひとも読んでいただきたい本です。



匿名になると攻撃的なコミュニケーションをとる人というのは、カルト宗教の極端な「否定する子育て」にさらされ続けてきたため、自分に価値を持てず、愛する方法もわからず、自分の気持ちをことばでどう表現していいのかさえわからないのでしょう。少なくともエホバの証人というカルト宗教を経験し、それを批判するというのであれば、そういうことに理解しようとなぜできないのでしょうか。わたしには、道徳やら常識やら良識などというものを上から振りかざし、そんな人間によって便宜的に信じられている一過性の基準で、心の傷ついた人を改めてたたきのめす人が、エホバの証人の官僚的な長老たち、べテラーたちに見事に重なって映ります。ひじょうに嫌悪を覚えるのです。そういう人に限って、ふだんは立派な内容の書き込みをしていて、常連たちから賛辞を受けているのです。エホバの証人のやっていることといったいどうちがうのでしょうか。どの舌でエホバの証人を批判できるんでしょうか。そういう人たちの動機にわたしは深刻な疑惑を覚えます。わたしはそういう宗教的偽善者とはこれからも徹底的に対決して行くのです。

カッコよくなくていい、でもみっともない人間にはなりたくない!

2009年01月18日 | Weblog


 肝心なのは自分が間違えているかもしれないと疑う心を自信と同じくらい大事にし続けること。

 福本容子 (毎日新聞経済部記者)

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意見を書く。何のためだろう。

わたしは、自分の頭のなかでうまくことばにできない考えを、とにかくことばで表現できるようにしたいからだった。自分の心のありようも把握したかった。でも教養が低いので、ことばそのものを学ばなければならなかった。だから、わたしのブログはスクラップ方式だから。わたしの眼目は、ライブで、人と対面したときに自分のことばで意見をいうことだ。頭には、エホバの証人や同様の人びとの大きな声に従わせられたくない、ということがある。それは単なる願望ではなく、意志だ。

今、ふりかえって、エホバの証人系のホームページやブログを少し覗いてみるに、たしかに自分は成長してきたことが、うぬぼれではなく、はっきりと見て取れる。そう言い得る特徴は、書かれた意見なり、考えが、「自己」から分離されていることだ。自分のアイデンティティから切り離されていることだ。

掲示板時代には、民主的討論はできなかった。自分の意見と相手の意見を出し合って、新たな見解をつくりだすということができなかった。掲示板で繰り広げられていたのは自我と自我のバトルであり、自分のアイデンティティが生き残れるかどうかの闘いだった。論題はさまざまでも、そこで主張されていたのは、決して個々の論題ではなく、相手よりも自分のほうが「正しい」あるいは「強い」こと、もっと極端にいえば、相手よりも自分のほうが「価値が優れている」ということだった。

掲示板では排他的になる傾向が強い。主だった人が「裸の王様」になってしまって、その、一種の「権力」にあやかって自己を拡大させようという人々が集まってくる。いわば取り巻きという人々が、掲示板に入り込んでくる人を選別しはじめる。裸の王様のカラーにとってそぐわない人は容赦なくバッシングされ、排除される。追従(ついしょう)する人には大げさな賞賛が与えられる。…そう、まさにエホバの証人時代とまったく同じ人間関係が現れるようになる。


このアイロニックが示すのは、そういうふるまいが、自分を見失っている人の「症状」であり、カルトに自らかかわってゆく人は、「自分」を見いだし、それを強化しようとする、そんな動機がうかがえるということではないだろうか。また、周囲とうまく折り合えず、つまり民主的な相互的な意見調整、自分を譲歩させることのできないひとが、それでも居場所を与えてくれる社会を求め、自らカルトに入ってゆくのではないだろうか。

カルトでは厳格な家父長制が敷かれ、個々人を尊重するという民主主義ではなく、伝統的な「身分」あるいは「権威」が尊重されなければならない。だが、「自分」という明確な自意識が求められた「個人」を持たないでは成立しえない民主主義と違って、家父長制のような権威主義ではむしろ、権威者に逆らい、そのメンツを潰しかねない民主的自我を主張するものは排除されるのだ。そこでは成員にはっきりしたアイデンティティがないほうが好まれる。権威主義だからだ。権威を立て、権威に追従する場合に限り、賞賛と身分が与えられ、そうやって「自分」とそして「居場所」が確立される。わたしが観察できた範囲内では、わたしの親、周囲の信者たち、掲示板に集まる人々を範囲としていうと、カルトに飛び込んでゆく人びとはそういう人だったと思う。


権威主義では権威に追従しなければ「自己」という存在そのものが脅かされる。だから自分の感受性、自分の意見、自分の希望、願望がもし権威者に気に入られなければ、それらはボツにしなければならない。それがカルトにおける「息苦しさ」の主な正体だった。そこで、「権威者の意見や感受性は批判されることなく持ち上げられるのに、どうして自分の感受性や意見はいちいち辛辣に批判され、取り下げられるのだろう。こういうのに強い不満を感じる」、こう思うようになったら、内面の人間性が成長をはじめたのだ。そういう考えがでてくると、「よく考えてみれば、権威者たちの言うことには矛盾や独善的な点が見える」と、批判するようになる。茹でた魚のような、白く濁った状態から、黒く澄んだ状態に眼が回復したのだ。そしてついに、頼もしい自信と思えた権威者の特徴は、ただの独善であると気づくようになる。

権威者たちはなぜああも独善的なのか。それは取り巻きに、イエスマンしかいないことが挙げられる。権威者みずからそういうブレーンを集めたのかもしれないし、取り巻きたちが権威にあやかろうとしたため、権威者を過剰に持ち上げたのかもしれない。もしそうなのであれば、この取り巻きという連中ほど卑怯な者はいない。なぜなら、みずから権威者になるのではなく、あくまで権威にあやかるものでいようとするからだ。それは「自分たちは責任は取りたくない」からだ。この点で取り巻きたちは「官僚」の性質を帯びている。そうだとすると、彼らに自分の人生をまったく委ねておくのは危険きわまりない、ということに気づく。

「官僚の性質を帯びている」と書いたのは、そういうことは何もカルト宗教や、掲示板だけに限られるのではない、現実社会の統率者である政府にもふつうに見られる事態だということを言おうとしている。会社で部下を持つ身になると、自分もそういう独善的な裸の王様になってしまうかもしれない。人から賞賛され、もてはやされるのはたしかにうれしい経験ではある。でもそこで、賞賛のことばを批判する眼を失いたくない。

この賞賛のことばは、実質をどれほど有しているか、つまり自分が挙げた成果に、たしかに見合ったものか、それとも漠然とした人物賞賛でしかないか。もし後者ならば、その賞賛者はわたしに取り入ろうとしているか、わたしを追い落とそうとしている。しかし前者であれば、つまり自分への賞賛が自分の行ったことに限られたものであれば、それは正当に評価していい、自分の自信をさらに強めてくれる経験をしたのだ。さらに強化された自信を持って、明日からまた新しいステージへ上がってゆこう。こうして人生を多くのチャレンジで満たすのだ。そしてその自信が「自分」というものを形成するのだ。そうなれば、もはや二度と、「自分」の価値を他人に尋ねるためカルトに飛び込もうとはしないだろう。

目は黒く回復したが、いまだカルト宗教にいたとき、権威者たちはみっともなく見えた。ひどくこっけいに見えた。しょせん裸の王様だった。取り巻きの誰かに運が回ってきて、彼が権威を多く集め、やがて以前の権威者が追い落とされたとき、その裸の王様は、もはや王様とはみなされず、裸の人間とみなされて、放り出される。彼への評価はしょせんバブル経済と同じだ。実質に見合った評価ではなかったのだ。自分の自信を持つのはいい、だが裸の王様になってしまわないためにはどうすればいいか。それが上記の福本記者のことばだ。このことばは毎日新聞の「発信箱」というコラムに書かれたものだ。この記事の最後にコラムの全文を転載しておきます。

エホバの証人を出て、新たに人生を歩んでいこうと決意された方々に、またあるていど、新しい人生になじんだ人にも、この言葉を贈る。なぜならわたしたちはかつてカルトにいたのであり、自分の価値を他人の評価で測ってしまう教育を受けてきたからだ。わかりやすく言えば、ほめられれば必要以上にのぼせ上がってしまうよう教育されてきたから。自分に権威が与えられ、部下をさえ持つようになったとき、わたしはこのことばを胸に刻む。独善的権威者になって他人の人格を否定したりして悲しませたくないから、というのはもちろん「よそ行き」の理由だ。そういう気持ちももちろんあるけれど。ほんとうの気持ちは、「みっともない人間として人生を送りたくない」という多少のナルシスティックなものだ。でも、それでもいいじゃない。さんざんそういう人を見てきたし、バカにしか思えなかった彼らに十分利用され続けて悔しい思いもしてきた、あんなみっともない人間にはなりたくない、そう思うのも、勉強の成果ってものだと思う、ネ。




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ブラックベリー=福本容子


 もうすぐ大統領、のオバマさんは、どうやら強力な味方と、しばらくお別れみたいだ。

 その名はブラックベリー。カナダのRIM社が開発した電子メールやインターネットが便利な携帯電話である。次期大統領は中毒と呼ばれるほどの愛用者で、侍の刀のようにいつもベルトの腰に着け、選挙戦中も親指で小さなキーボードに文字を打ち込む姿がキャッチされた。

 懸命の訴えもかなわなかったか。利用不可の理由は主に二つだ。まず暗号化されたメールが何者かに解読される情報漏れの恐れ。そして情報公開法によりメールの開示を求められ、思わぬ面倒に巻き込まれる心配で、側近や弁護士が譲らなかった。

 なぜおもちゃのような小さな機械にそれほど執着する? 先週、米CNBCテレビで本人が話していた。


「ホワイトハウスの外とのコミュニケーションを保ちたいのです。(側近が)用意する管理された情報とか、いつもいい話しかしない人、私が部屋に入るとき起立して迎える人からの情報ではだめだから」。

外界から遮断され、守られたカプセルの中に住みたくない、との抵抗である。



 人気の高い権力者の周囲にはイエスマンが集まる。企業の世界もそう。斬新さが魅力だったトップも成功するにつれ、批判が耳に届かなくなり、判断を誤ってしまうことは珍しくない。

 肝心なのは自分が間違えているかもしれないと疑う心を自信と同じくらい大事にし続けることなのでは。新大統領はブラックベリーを使えなくなっても、目立つ所に置いておけばいい。画面の文字の奥にある批判の声さえ必死に分かろうとしていた自分を忘れなければ大丈夫。(経済部)

 

 

毎日新聞 2009年1月16日 東京朝刊