Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

人生の喜びは…

2005年11月21日 | Weblog
人生の喜びは、自分の目的・目標・実績などを「関数のグラフ」にたとえれば、
その関数のグラフの大きさによるのではなく、
その微分係数、つまり瞬間、瞬間の達成率にかかっている、と言える。

 大村平/ 工学博士・社団法人日本航空宇宙工業会顧問

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な、なんじゃ、これは?
「関数」?
「微分係数」?
あ、もうダメ…、熱が出てきた…、寝る!

えへへ、びっくりされたでしょう? もちろん、数学の話などという野暮なことは致しません。これは、人生を充実させるのは実績を高く積み上げることじゃなく、どれだけ自分の好きなことを楽しめたか、ということを言おうとしています。素人向けに書かれた微積の解説書に掲載されていた文章です。この書の中で、著者ははじめに太閤さんの辞世の句を紹介されています。

つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ
(露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢)

これに続いて著者はこのように、軽妙に筆を進めておられます。

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戦国時代に足軽の子として生まれながら、異才と努力によって這い上がり、乱世を戦い抜いて、ついには全国統一の大業を成就したほどの人物であっても、死を目の前にすると、すべての業績が「ゆめのまたゆめ」になってしまうものでしょうか。

墨俣(すのまた)の築城に並外れた才能を発揮したり、明智光秀を討って主君信長の仇を取るとともに、信長の後継者としての足場を固めたり、ついに全国を統一し、大坂(なにわ)に城を築いて天皇を招き、その前で諸大名に忠誠と服従を誓わせたり…。

秀吉にしても、そうしたすばらしい業績を上げていた昇り調子のころには、天にも昇るほどの歓喜を噛みしめていたに違いありません。それにもかかわらず、終わってみれば、何の感動も抱くことなく「ゆめのまたゆめ」ときたのです。

こうしてみると、人生の喜びは、どれほどの大業を達成したかではなく、その大業に一歩一歩近づいてゆく過程によるように思われてなりません。言葉を変えていうと、「人生の喜びは、目的関数の大きさによるのではなく、その微分係数、つまり瞬間、瞬間の達成率にかかっている」のではないかと思うのです。

(「微分・積分のはなし」/ 大村平・著)
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数学用語よりも、太閤さんの辞世の句のほうがずっと胸に迫りますよね。覇権を追い求めることは、勝っているあいだは達成感があるでしょう。しかし終わってみれば、上記の辞世の句ていどの感慨しか残らないのです。なにも「覇権」などという大それたことだけではありません。誰かに負けないために生きること全部に言えることです。なぜなら、人間というものは自分の望むことを追い求めていることが楽しい生きものだからです。

人間を出し抜く喜びというのはしょせん、泡のようなものです。誰かと勝つか負けるか、だけを目的にした競争をするということは、他人の基準で自分を測りだすことなのです。他人がみな競争相手でしかないのなら、友情は生じ得ないのです。人間はたがいに結びつき、絆を深めることによってこそ、生きた甲斐のある人生になるのだと、いま現在わたしは弱冠40代で確信しています。

エホバの証人の男性が「奉仕のしもべ」や「長老」に任命してもらうために、仕事をやめ、好きなことも断ち、ひたすら長老や巡回監督の評価を得ようとする。そのようにして首尾よく任命を得たら、そのときはうれしいでしょう。でも、自分のほんとうにしたいこと、自分がほんとうに関心や興味を持っていたことはなおざりにされるのです。これは「偽り」です。

他人の関心事のために働いて生きていても、人生を自分なりに生きたとは思えないでしょう。自分の関心事をいくら抑え込んでも、いえ、抑え込めば抑え込むほど、無意識にいらだちは内積してゆくのです。いままで「いい子」だったローティーンの子があるときからキレてしまう、というのは、抑え込まれてきたものがとうとう一気に噴き出してしまったのです。

今を楽しむ、というのは自分の関心事であるからこそ楽しめるのです。他人の関心事のためなら、その人にとっての「今における人生」というのは苦行でしかありません。「人生とは我慢だ」とか「人生ってあきらめることよね」、「人生とは苦しみに耐えることだ」などという信念を口にする人は、たいていこのようにして生きてきたのです。そういう人が死ぬときには、どんな名誉も業績も「ゆめのまたゆめ」だと思い知るでしょう。

「満ち足りたしあわせは好みの中に存在するのであって、事物の中にあるのではない。だから人は自分の好きなものを得ることによって幸福になるのであって、他人が好ましく思うものを得るからではないのだ(ラ・ロシュフコー)」。