不況で心にも冷たい風
久しぶりに北海道の実家に帰省したら、テレビのニュースが明治5年から続く大手百貨店が民事再生法の適用を申請した、と繰り返し報じていた。消費低迷による業績悪化を受け、負債総額は約470億円だそうだ。
当面、店舗の営業は継続しながら再建の道を探ると発表されたが、経済にはうとい実家の家族も、「クレジット機能つきカードが使えないらしい」「予約していた商品はどうなるんだろう」と動揺しているようだった。「店はそこだけじゃないんだから」と言っても、なかなか聞き入れない。北海道のシンボル的な存在のデパートだっただけに、そこに住む人たちは実際の不便以上の心理的ダメージを感じているのだろう。
北海道は、平成9年にもやはり銀行のシンボルであった北海道拓殖銀行の破綻(はたん)を経験している。まさかあの銀行が、まさかあのデパートが、と言っていられない、という現実を北海道民はまた突きつけられることになったわけだ。
もしかすると、これからは日本全体にも同じことが起きるかもしれない。まさかあの会社が、まさかあの放送局や大学が、と誰もが知るブランド企業や学校が経営危機に陥り、中には消滅するところも出てくる。そのときには、いくら「かわりがあるから」と言われても、私たちは心の支柱のひとつを失ったような気になるかもしれない。
この「現実以上の心理的ダメージ」が、経済危機の社会においてはもっとも恐ろしいことのひとつだ。冷静に考えれば自分の生活には直接、関係なくても、「あんなになじみのある会社まで倒産してしまうのか」とショックを受け、落ち込む。この心理が、個人のストレスを増大させ、経済の動きをさらに冷え込ませてしまうのだ。
子供のころからよく知っている銀行、デパート、企業が姿を消すのは、寂しいことであるのは間違いない。とはいえ、あまりに感傷的になりすぎると、今度は自分の心が危機に陥り、社会の動きを停滞させる。
「まあ、また再建の道が見つかるかもしれないし。それに日々の買い物が直接、そんなに不便になるわけじゃないでしょう?」。あのデパートがなくなってしまうかも、と心細そうな顔つきの母親に、そう言葉をかけてみた。しかし、そう言いながら、私の頭にも幼いころ、両親や弟とデパートの食堂で食事をしたときの思い出がよぎり、悲しい気持ちになってしまう。
不況は人々の心にも冷たい風を吹きつけるようだが、負けないようにしなくては。
毎日新聞 2009年2月17日 地方版
人間って最高
「人間って最高、どんどん人間が好きになっていくんや!」
こんな言葉を学生たちから聞いて、ドキッとした。ゼミを担当している関西の大学での話。
彼女たちは「フリーハグ」といわれる活動を実践して、そこでの体験から得たことを中心に卒業論文を仕上げた。フリーハグは、路上などに立って通りかかった人たちと文字通り“ハグ(抱擁)する”こと。何十人、何百人という人たちと握手するかのように抱き合い、名前をサインしてもらう、というこの行為は、数年前から大阪の若者を中心に広まりつつあるのだという。
「目的は何なの?」と学生たちにきくと、「愛とか平和とか……うーん、わからん!」ということだったが、とにかく老若男女、国籍などにいっさい関係なく、近づいてきた相手とハグし合う。記録したビデオも見せてもらったが、ハグの日本語である「抱擁」がイメージさせる湿った感じはまったくなく、とにかく明るく楽しそう。相手が異性でもおかしな目的で抱きついてくる人は、まったくいないのです、と彼女たちは胸を張った。
そして、一瞬のぬくもり、かわし合う笑顔、サイン帳の書き込みがどんどん増えるうちに、冒頭に記したように「人間もどんどん好きになる」のだそうだ。ビデオをいっしょに見たほかの学生たちも、「マジ、分かるわあ」「オレもやってみようかな」などと興奮気味。「危ないんじゃないの」「見知らぬ人と抱き合うだなんて」と否定的なことを言う学生は、ひとりもいなかった。卒論を終えても、彼女たちはフリーハグの活動を当分、続けていくそうだ。
しかし、ハグしているときはハッピーでも、学生たちには何の悩みもない、というわけではない。就職のこと、恋愛のこと、家族の問題。卒業後の進路が決まらないうちに卒業を迎えそうな人もいる。ハグしてサインしてくれた人とのかかわりも刹那(せつな)的で、そこから人間関係がどんどん広がる可能性は少なそうだ。
それでも「人が好き」という感覚は、この学生たちの未来を明るく照らしてくれそうな気はする。政治不信、官僚不信、企業も近所の人も信用できない。新聞を開けば、犯罪に解雇、環境破壊などの記事があふれ、私たちは知らないうちにどんどん人間を嫌いになっているのかもしれない。
まさか診察室でフリーハグ、というわけにもいかないが、患者さんたちにももう一度、この感覚を取り戻してもらいたい。
ねえ、人間って最高でしょう?
毎日新聞 2009年2月3日 地方版
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます