裁判革命:市民、法廷へ/1 裁判員制度、あすスタート
■候補者によぎる不安
裁判員制度が21日、スタートする。今年の裁判員候補者は29万5027人。人を裁く不安や仕事や生活への影響。悩みや葛藤(かっとう)を抱える一方で、新たな権利への期待感もうかがえる。制度を目前にした全国の候補者たちに会った。
今年の元日。雪が舞う北陸の静かな街をパトカーや救急車の赤色灯が行き交った。
女性会社員(37)=福井県在住=が家に帰ると、同じ町内の80歳の男性が、事件で重体だと両親から知らされた。殺人未遂容疑で逮捕された男(27)は、同居の孫だった。顔にビニール袋をかぶせ、座布団を押し付けたという。1週間後、男性は亡くなる。
その1カ月前、女性会社員に裁判員候補者の通知が届いていた。田舎は地域社会のつながりが強い。法廷で向き合う事件の当事者が自分のことを知っているのではないか。判決次第で、被告側、あるいは被害者側から、逆恨みされることもあり得るのでは。いろんな想像が頭をよぎったという。「絶対安全という保証はないですよね。誰が守ってくれるんやという話です」。最高裁が08年に実施した意識調査では、裁判員として参加する不安で「身の安全」を挙げた人が55%に上る。
裁判員法は、裁判期間中の裁判員への接触を禁じ、事件について裁判員に働き掛けたり脅した場合は罰則を定める。
この事件で孫は精神鑑定を受け、殺意の有無も焦点になった。難しい判断を裁判員も迫られる。「どうやって判断するの」と、女性会社員は戸惑う。
ただ、20代の時留学した米国での体験を思い出す。男性教師が陪審員に選ばれ、出勤しなくなったのに、皆が当然のように受け止めていたのだ。裁判が市民に身近だと実感した。「日本でも、制度が定着すれば安心感があるかも」と話す。
■DV相談、生かし意見
近畿地方の、ある自治体が設置する男女共同参画センターは、DV(配偶者などへの暴力)被害者の相談を受け付けている。昨年4月末、職員の朝のミーティングは、直前にあった裁判の話題で持ちきりだった。
東京都渋谷区のマンションで夫を殺害したとして、殺人罪などに問われた三橋歌織被告(34)の判決。東京地裁は懲役15年を言い渡した。「DVに詳しい人が、判決にかかわっていたのかしら」
センターで働く女性職員(42)=大阪府在住=は、裁判員候補者として余計に判決が気になる。「彼女が、これほど重い罪を背負う必要があるのか」
DV被害者が暴力のサイクルから抜け出せず、自尊感情も失い、ボロボロの精神状態に陥ってしまう現実を、目の当たりにしている。
三橋被告が人をあやめたことは、許されない。ただ、夫から日常的に激しい暴行を受けPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症していたと判決が認定したことや、心神喪失状態との2人の精神科医の鑑定結果が法廷に出されたことは、もっと量刑に考慮されるべきではなかったかと思う。
裁判員が量刑を考える参考にするため、最高裁は量刑検索システムを開発した。全国で出された判決をデータベース化し、同種事件の量刑分布をグラフで示す。情状を考えるうえでDVなどの事情も把握できる。
女性職員は、裁判員制度導入に賛成できないという。女性差別や子どもの虐待に日常的に接し「人権意識が国民的に育っていない」と思うからだ。
ただ、DV被害者が、加害者として罪に問われる裁判には参加してみたい。「自分の意見を言える場を作れるのは、よいことかな」。センターで同僚と交わした言葉を、評議で伝えたいと思っている。
◇ ◇
「法律の世界も、これまで閉鎖された世界だったと思う。素人が入ることによって、プロにもよい刺激になるのではないか」。候補者である小学校校長(56)=愛知県在住=も、裁判員制度の導入を前向きにとらえている。各地の学校では、民間出身者が校長などのポストに就くようになってきた。
30年余り教育現場を見てきて、子どもや保護者の規範意識が低くなっていると実感する。「市民の側も、法律に関心を持つようになるんじゃないか」と期待している。
毎日新聞 2009年5月20日 東京朝刊
市民、法廷へ/2 仕事、病気 悩む候補者
「裁判員になることがむずかしい事情」の項目に目を通し、「介護等」の欄にマークを付けた。昨年11月末に最高裁から届いた裁判員候補者通知。アルバイト男性(43)=京都府在住=は、同封された「調査票」に回答して、返送した。
70歳代の両親と3人暮らし。親は介護まで必要ではないが、洗濯物を運んだり、力のいる仕事は自分の役目だ。家計を支えるのは、アルバイト収入と両親の年金。日が昇らないうちに家を出て、30分近く自転車をこぎ、会社に向かう。
非正規雇用の立場。自分の代わりは、いくらでもいるのかもしれない。裁判員になって仕事を休めば、理由をつけて辞めさせられないだろうか。「不安です」と漏らした。
<裁判員法は、労働者が裁判員や候補者になって休暇を取ったことを理由に、解雇や不利益な扱いをしてはならないと規定。各地裁は、有給休暇制度の導入など環境整備を経営者に要請するが、中小企業には不安感も根強い。>
アルバイト男性は、刑事裁判に関心がある。約10年前に友人が詐欺罪に問われ、傍聴に行ったのがきっかけだった。友人の公判の直前の別の事件で、被告の母親が法廷で涙する姿を目にした。「子どもの時は、良い子だったのに」。社会の一面を見た気がした。それ以来、時間があれば、裁判所に足を運ぶ。
有罪率が99%を超える日本の刑事司法。被告が否認する裁判で、検察側のストーリー通りに判決が出て、違和感を覚えたケースも何件かあった。「市民の目」が入ることで、何かが変わりそうな気もする。「勝手な話ですが、制度には賛成です」
◇ ◇
「仮に仕事が忙しい時期でも、職場を3日間空けられないことは、ないですね」。大手メーカーに勤務する男性会社員(29)=兵庫県在住=は、一安心した。候補者通知の封筒の中に、制度のQ&Aを載せたイラスト入り小冊子が入っていた。目を通すと、太字で「多くの裁判は3日以内」とあった。
<審理の迅速化を図るため、裁判官、検察官、弁護人が争点を整理する公判前整理手続きが行われる。最高裁は、裁判員裁判の約7割が3日以内、約9割が5日以内に終了すると見込む。>
不況の中、職場は「早く家に帰れ」というムードだ。裁判員として呼び出しを受けた場合の休暇の規定など、詳しいことは聞いていないが、大手企業としての体面もあるだろう。「その辺は、まじめにやる会社だと思いますんで」と笑った。
◇ ◇
「できれば参加してみたい」。候補者となったNPO法人の女性スタッフ(46)=福岡県在住=は、腎臓病の治療のため夜に週3回、1回5時間の人工透析を近所の病院で受ける。制度の対象は、殺人罪など重大事件。「命の大切さは、健康な人よりも分かるかな」。そんな思いもある。
地元の裁判所に問い合わせると、午後5時ごろに裁判は終わるというから、問題はなさそうだ。ただ、夜間透析を実施している病院が近くにない地方で暮らす人だと、参加は難しいかもしれない。
さまざまな環境の中、裁判員候補者たちは参加と不参加の間を迷い、悩んでいる。=つづく
毎日新聞 2009年5月21日 東京朝刊
市民、法廷へ/3 「秘密」の線引き、どこに
「裁判員裁判で自分の意見にこだわる人のせいで評議が長引いた場合、名前を出さなければインタビューでそのことを言っていいの?」「死刑判決を出したが、正しかったのか悩み、精神科医に話を聞いてもらうのは大丈夫?」
名古屋市で9日、市民団体「市民の裁判員制度めざす会」の会合が開かれた。テーマは「裁判員の守秘義務」。出席した裁判員候補者の男性会社経営者(62)=愛知県在住=は、守秘義務について疑問を感じ続けてきた。「評議の印象や雰囲気は話して良いというが、どこまでが印象で、どこからが秘密なのか分からない」
裁判員は、有罪・無罪や量刑を議論する「評議」で、どんな意見が出たか、多数決の数、結論に至る経緯などを生涯、外部に話せない。自分が述べた意見も明かせない。違反すれば、6月以下の懲役か50万円以下の罰金の規定がある。
評議の内容が明らかになると、批判や報復を恐れて裁判員が率直な意見を言えなくなると懸念されるためだ。しかし、男性会社経営者は「経験者が語らないと制度は普及しない。評議がブラックボックスになると進め方の是非について検証もできない」と批判する。
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男性会社役員(45)=佐賀県在住=は昨年11月末、候補者通知が届いたことを名前を出さずに開設している自分のブログに書き込んだ。調査票など関係書類をデジタルカメラで撮り、住所・氏名の部分は消して掲載した。匿名なので法律上は問題ないが、違反が気になって1週間後に削除した。「誰にどこまでを言って良いのか、よく分からない」
裁判員法は、任務終了まで裁判員や候補者であることを公にしてはいけないと定める。罰則はない。「公にする」とは、集会やネットなどで不特定多数に知らせることとされ、家族や上司に伝えることは構わない。
候補者に選ばれた自治体幹部職員(57)=東京都在住=も、答弁を求められる議会開会中に欠席して裁判に参加する場合、議会側にどこまで伝えるべきか戸惑っている。議事録に残る公式の場で欠席理由を説明すれば、「公」にしてしまうことになりそうだ。「非公式の場で、各会派に伝えておけば良いのだろうか」
こうしたケースについて最高裁は「公式の場で説明すれば、公にすることに当たる可能性が高い。公的な別の用務があると言ってもらうしかない」との見解だ。ただ、議会の出席、答弁は重要な用務で、辞退が認められる可能性はあるという。
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「めざす会」は昨年10月、バリアフリーが進んでいるか検証するため、車椅子の女性と一緒に名古屋地裁を訪れた。車椅子用の昇降機はあったが、インターホンがなかった。庁舎内の写真を撮りたかったが、職員に断られた。「写真を撮って、ここを見直してほしいと、広く伝えることがなぜ駄目なのか」。候補者の男性会社経営者は、不思議でならない。
ただ、多くの市民が裁判所に行くようになれば、今まで当然だったことが当然でなくなり、裁判所は変わると思う。裁判員制度が、「閉じた世界」をこじ開けると期待している。=つづく
毎日新聞 2009年5月22日 東京朝刊
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