9月中旬に訪問した福岡県太宰府市の、大宰府址に建っていた碑です。広大な大宰府跡地の中心部に碑が3基建っています。
このうちの1基は、明治13年に建てられた「大宰府址碑」で、日下部鳴鶴が揮毫した有名な碑で、陽守敬から学ぶ前の穏やかな筆法がわかります。3基のうちの左端がそうです。これは、以前に「墨」の雑誌などでも取り上げられていますので、かつて福岡に住んでいたころにも見た覚えがありますが、今回は今まであまり気にも留めなかった右端の石碑をじっくり見てみました。
こちらは「大宰府碑」というもので、寛政元年(1789)に、亀井南冥によって書かれたものでした。驚きました。
亀井南冥 (1743-1814) 72歳
筑前姪浜の人。名は魯、字は道載。福岡藩医聴因の子。父の影響を受けて徂徠学(古文辞学)を修め、14歳で僧大潮に詩を学んだ。のち京都に出て吉益東洞に医を学んだが辞して大阪に行き、永富独嘯庵に、さらに長州で山県周南に学んだ。福岡藩に仕え、藩学の基礎を築き、西国で衰退期だった徂徠学に光彩を放った。性は豪放で経世の志があり、直言してはばからなかったので、憎まれ、讒言された。寛政異学の禁の余波で、朱子学派と軋轢を生じ、寛政4年(1792)排斥された。門下に広瀬淡窓らがいる。
このところ江戸時代後期のことに興味が出て、讃岐出身の後藤芝山や柴野栗山のことをよく調べています。寛政異学の禁・・・寛政2年(1790)で、朱子学が再び幕府の中心学問に据えられることで、日本の政治の流れが変わり、明治維新に突き進んでいきます。
しかしその陰で、優秀な古文辞学や折衷学の学者たちが、大きな苦しみを味わうことになります。
亀井南冥もその優秀な学者の一人ですが、の碑は、異学の禁の前年に建てられたもので、まだ彼の栄光の時代のものでした。(※後日の調査で、この石碑は大正時代に建てられたことがわかりました。この碑文原稿は確かにこの年に書かれましたが、建立の前に異学の禁が発布されて、建てられずにいたようです。)
彼の子の昭陽や、門下の広瀬淡窓、さらに淡窓の弟の旭荘らがその学問を引き継ぎ、さらに発展させて活躍します。北部九州にとっての南冥の存在は実は極めて大きかったのです。
かつて、日本の西の玄関口で、大陸の使者などを迎え、当時としては、最も最先端の建物が建ち、人であふれかえっていただろう大宰府は、今は広大な野原で、そこに、学問の志を輝かせながら、夢破れていった南冥がなんとなく重なって見え、その碑がとても愛おしく感じました。
でも、いまや博多に行けば、その発展は目をみはるばかりで、アジアへの玄関口としての役割は、しっかりと引き継いでいます。場所も人も常に動き、移り変わっていくだけのことなのだろうと思います。
この日も本当に暑い日でした。じりじりと焼けるような日差しの下で、汗が一すじ流れました。そっと碑面に触れてみました。
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