ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷

2007年03月10日 22時44分00秒 | 読書記録2007
ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷(上)(下), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-56・57(6910・6911), 2002年
・ローマ人の物語、第3部。強国カルタゴを倒し平和が訪れるかと思いきや、今度は内輪もめの時代に。紀元前133年から紀元前63年までを三章に分けて記述。
 第一章 グラックス兄弟の時代(紀元前133年~前120年)
 第二章 マリウスとスッラの時代(紀元前120年~前78年)
 第三章 ポンペイウスの時代(紀元前78年~前63年)
・長年にわたってローマに対してしつこくちょっかいを出してくる、ポントス王ミトリダテス(こんな題のオペラがあったような)。なんだか憎めない、いいキャラしてます。
・次の主役はいよいよユリウス・カエサル。ここまでは全て序章にすぎない!?
・「「子は、母の胎内で育つだけでなく、母親のとりしきる食卓の会話でも育つ」と言った女だ。このコルネリア(グラックス兄弟の母)は、ユリウス・カエサルの母アウレリアと並んで、ローマ人の間では長く、ローマの女の鑑、と讃えられることになる。」上巻p.29
・「ローマは、紀元前509年に共和政の国家を選択して以後の難問であった貴族・平民間の抗争を、前367年のリキニウス法によってすべての公職を平民に開放し、前287年のホルテンシウス法により、平民集会での可決事項はそのまま国の法になると決めたことで、解消に成功していた。」上巻p.33
・「人は、必要に迫られなければ、本質的な問題も忘れがちなものである。ローマにもどった平和が、ローマのかかえる本質的な問題の解決を先送りすることになった。」上巻p.72
・「人類史上はじめて法治国家の理念を打ち立てたローマ人は、法というものは永劫不変なものではなく、不都合になれば変えるべきものであると考えていた。(中略)そこでローマ人は、従来ある法の改正ではなく、現状に適合した新しい法を成立させ、旧法の中でどれにふれる部分は自然解消する、というやり方をとっていた。おかげで、全部集めれば六法全書の山ができるほど多くの法をもつ、非成文法国家ができてしまったのである。」上巻p.96
・「ティベリウスとガイウスのグラックス兄弟は、兄が七ヶ月、弟は二年の実働期間しかもてなかったにしても、そしてその間に実行された改革のほぼすべてが無に帰してしまったにしても、成長一路であった時代を終って新時代に入ったローマにとって、最初の道標、つまり一里塚を打ち立てたのである。」上巻p.110
・「自由市民であるローマの男は、通常は三つの名をもっていた。  個人名(プレノーメン)、家門名(ノーメン)、家族名(コニヨーメン)、の三つである。  ティベリウスは個人名で、センプローニウスは家門名、グラックスは家族名、つまり姓となる。」上巻p.118
・「長年の「同盟者(ソーチ)」から縁切り状をたたきつけられることではじめて成立を見た「ユリウス市民権法」だが、「同盟者戦役」を終らせる役を果たしただけではなかった。この法は、貴族・平民間に公職への機会の均等を実現することで、この二階級間の長年の抗争を終焉させた紀元前367年成立の「リキニウス法」にも匹敵する、画期的な法の成立、つまりローマ国家の方向転回、であったと私は思う。」上巻p.191
・「ポントス王ミトリダテスとローマ軍(スッラ)の間に展開された最初の本格的な戦闘の結果は、ポントス側の戦死者と捕虜は十万以上、逃げおおせた者一万足らずに対し、ローマ側の戦死者わずかに十二名。(中略)アレクサンダー大王やハンニバルの戦果をも越える新記録であった。」下巻p.32
・「ちなみに、後世の人々が「大王」と意訳した語の源は、ラテン語の「マーニュス」である。」下巻p.87
・「ちなみに、古代のローマ人による奴隷の定義は、自分で自分の運命を決めることが許されない人、であった。」下巻p.110
・「「十分の一刑」の名で知られる、ローマ軍の最厳罰を命じたのだ。六百人の中隊の中から抽選で六十人が選ばれ、運よく凶をひかなかった五百四十人の仲間が棒を振るって殺す残酷な刑罰で、ローマ軍団では、総司令官に反旗をひるがえした場合にのみ科される厳罰である。」下巻p.118
・「民主政だけが、絶対善ではない。民主政もまた他の政体同様、プラス面とマイナス面の両面をもつ、運用次第では常に危険な政体なのである。」下巻p.137
・「このように紀元前70年は、「スッラ体制」の幕が閉じられる年になった。スッラの死後わずか8年で、彼が築きあげたシステムはことごとく崩壊したのである。」下巻p.140
・「地中海では、海は人間の通行を阻止するものではなく、通行を容易にするものであった。」下巻p.155
・「ポンペイウスによる海賊一層作戦は、後世の軍略家たちが一致して賞賛するのを待つまでもない、戦略の見本ともいうべき傑作になった。(中略)ポンペイウスは、全地中海に「パクス・ロマーナ」を確立するのに、89日間しか要しなかったことになる。」下巻p.161
・「ルクルスの実践した美食は、昨今のグルメなどは足許にも及ばぬ徹底ぶりであったのだから。(中略)「アポロの部屋」での食事は、一回の会食に要する費用が五万ドラクマであったという。庶民の年収が、五千ドラクマ前後という時代であった。  ポンペイウスとキケロの二人が、その夜じゅう眼を丸くしたままであったことは想像にかたくない。」下巻p.170
・「紀元前一世紀の「ザ・グレート」は、地中海の波が洗う地方すべてを、ローマの属州か同盟国かで埋めることを成しとげたのだ。この時期にいたって、実質的にも地中海は、ローマの「内海(マーレ・インテルヌム)」に変ったのである。」下巻p.195
・「現代のローマでタクシーの運転手に、「フォールム・ロマーヌムに行ってください」と告げても、ラテン語を知っているほど教養の高い運転手にでも出会わないかぎり、ETを見るような眼つきで見られるがオチだろう。ここはやはりイタリア語になおして、「フォロ・ロマーノに行ってください」と言うしかないのである。」下巻p.i
・「当時は生れてもいなかったイタリア語やフランス語やスペイン語で地名を記したのは、学術論文を書いているわけではない私にとっては、なるべく多くの日本人にわかってもらいたいと願ったからである。」下巻p.iv
・「学者ではない私にとっての最重要課題は、異なる文明圏に生れた日本人に、西欧文明の一大要素であるローマ文明を、わかり、感じてもらうことにつきる。」下巻p.iv

?エピキュリアン(英epicurean) 官能的、刹那的な快楽を追い求める人。快楽主義者。享楽主義者。

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