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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】2008年 読書記録 まとめ

2009年01月07日 08時00分02秒 | 読書記録2008
 2008年読書記録のまとめ。2008年に読破したのは計75タイトル。一昨年100、昨年89に続き、また減ってしまいました。80以上は読みたかったところですが、研究関連の仕事に足を引っぱられた格好です。
 
【2008年の一冊】
 2008年に読んだ本のタイトルを見返すと、突出して衝撃を受けるような本はありませんでした。なんとな~く、じんわりと印象に残っているのが以下の本です。

椿姫, デュマ・フィス (訳)新庄嘉章, 新潮文庫

恋愛モノの古典です。娼婦のマルグリットとアルマンとの悲恋。同名のオペラの原作となった小説。オペラの曲を弾いたり、オペラのビデオを見たりしたことが、他の作品よりも強く印象に残った原因かもしれません。オペラでのヴィオレッタの最後のセリフ、「うれしい!」は衝撃的に響く。


【印象に残った小説】
 2008年は小説が粒ぞろいでした。印象に残った主なものを以下に。気づけば "お気に入り作家" ばかりですが、ここに取り上げない小説の中にも面白い作品が多かったです。取捨選択の線引きが難しいところ。こうして並べてみると、新潮文庫強し。これに対して新書は不作でした。

愛の渇き, 三島由紀夫, 新潮文庫
 "女" は恐ろしい。

人間そっくり, 安部公房, 新潮文庫
 息をもつかせぬ心理戦。

門, 夏目漱石, 新潮文庫
 一見平凡に見える枯れた生活を続ける夫婦の持つ秘密とは。

人生の親戚, 大江健三郎, 新潮文庫
 激烈な人生をおくったある女性の生涯。

百鬼園随筆, 内田百, 新潮文庫
 内田百とのファースト・コンタクト。小説ではありませんが、百鬼園先生が抜群に面白いキャラクター。

カオスの紡ぐ夢の中で, 金子邦彦, 小学館文庫
 カオス研究者が書いたエッセイや短編小説を集めたもの。『小説 進物史観』が個人的にはツボ。現在絶版。


【書き抜き多かったで賞】
 番外として、内容以外の点で印象に残った本。

神との対話 2 宇宙を生きる 自分を生きる, ニール・ドナルド・ウォルシュ (訳)吉田利子, サンマーク文庫


 ここ数年、文庫と新書に本が大きく偏っている状態が続いています。2009年は博士号取得(うまくいけば)に伴い生活に変化が生じそうなので、そろそろ読書の傾向の変わり目が来るかもしれません。次なる読書スタイルを模索するところに来ていそうな気がします。
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【本】愛の渇き

2009年01月04日 08時00分13秒 | 読書記録2008
愛の渇き, 三島由紀夫, 新潮文庫 み-3-3(335), 1952年
・三島由紀夫の作品を読むたびに、いつも何かしら驚かされるものですが、当作においてその衝撃度合はここまで読んだ中でNo.1だと思います。「20代にしてこんな作品が書けるものなのか」 一般的には『○○賞』受賞作がその代表作として紹介されることが多いですが、ここまで同著者の著作を十冊ほどしか読んでいないところで、「この小説が代表作でいいんじゃないの」と思わせる作品です。「こんなペースで書いて最後までもつわけがない」という文章の密度の濃さが、結局最後まで持続してしまうところが一番の衝撃。書き出しから最後の句まで切れ目の無い "一本の文章" を連想させます。解説の「最も纏った」はこれを指しての言葉なのでしょうか。
・「雨が霽(は)れた。悦子は首をめぐらして、雲間から放たれる数条の光りをじっと見戌(みまも)った。光は大阪郊外の住宅街の群落の上に、さしのべられた白い無力な手のように落ちていた。」p.9
・「素足で歩いては足が傷ついてしまう。歩くためには靴が要るように、生きてゆくためには何か出来合いの「思い込み」が要った。」p.21
・「彼女は二本のかよわい縄、紺と茶いろのかよわい縄にすがって、何か不可解な、でぶでぶした、真暗な、暗澹たる軽気球のような「明日」にぶらさがって、何処へ行こうとするのか考えない。考えないことが悦子の幸福の根拠であり、生存の理由であった。」p.30
・「しかも彼女が希ったのは、並一様の死ではなくて、もっとも時間のかかる、もっとも緩慢な死であった。」p.36
・「悦子はあのときこう考えたようにおぼえている。  『私は良人を焼きにゆくのではない。私の嫉妬を焼きにゆくのだ』  ……しかし、良人の屍を焼いたからとて、彼女の嫉妬を焼いたことになろうか。嫉妬はむしろ良人からうつされた病毒のようなものだ。それは肉を犯し、神経を犯し、骨を犯した。嫉妬を焼こうとすれば、彼女自らも、あの溶鉱炉のような建物の奥深く棺について歩いてゆくほかはない。」p.38
・「見栄坊の良輔はなお同僚のあいだに凡庸な幸福を装った。悦子は待つ。待ちつづける。彼はかえらない。彼がかえって家でめずらしくすごす夜、悦子は一度でも彼を詰り彼を責めたことがあったろうか。彼女は悲しげな目で良人を見上げるだけだ。この牝犬のような目、無言の悲しげなこの目が、良輔を怒らせた。妻のもっているもの、彼女の手が乞食の物乞う手に似、その目が乞食の目に似て来たほど妻の待っているもの、……それが良輔に、生活のあらゆる細部(デテイル)を剥ぎとられて醜い骨格だけになった夫婦関係の索漠と恐怖とを嗅ぎとらせた。」p.40
・「……高熱にうなされて、胸もあらわに横たわった良人は、死の巧者な技巧にあやなされ、花嫁のように呻いた。脳を犯された最後の数日には、突然上半身を体操のように起して、乾き切った舌をのぞかせて、歯齦からにじみ出る血でよごれた赭土(あかつち)いろの前歯をむきだしにして、大声で笑った。」p.42
・「病気とは、そもそも生の昂進ではないのか。」p.48
・「……もし理性さえ失くせるものなら、私はこう叫んだかもしれはしない。  「はやく死んでしまえ! はやく死んでしまえ!」」p.61
・「人生が生きるに値いしないと考えことは容易いが、それだけにまた、生きるに値いしないということを考えないでいることは、多少とも鋭敏な感受性をもった人には困難であり、他ならぬこの困難が悦子の幸福の根拠であったが、彼女にとっては世間で「生甲斐」と呼ばれるようなもの、――つまり、われわれは生きる意味を模索し、なおそれを索(もと)め得ないでいるあいだも、とにかく生きているのであり、この生の二重性を、求め得られた生の意味の遡及によって、統一しようとする欲望がわれわれの生の本体だとすると、生甲斐とはたえず現前するこの統一の幻覚にほかならないのであるが――、そういう意味の「生甲斐」と呼ばれるようなものは、悦子には縁もゆかりもない代物だった。」p.108
・「「癖になった流産みたいに、癖になった失恋というものがあるもんだよ。神経組織か何かの一部に癖がついちまって、恋愛するたびにきまって失恋する破目になるんだよ」」p.138
・「『電話。あんなものを見るのもずいぶん久しぶりのような心地がする。人間の感情がたえずその中を交錯するのに、それ自身はただ単調なベルの音を立てる事しかできない奇妙な機械。あれは自分の内部を、あれほどさまざまな憎悪や愛や欲望が』とおりすぎることで、すこしも痛みを感じることがないのかしら。』」p.202
・「誰もあたくしを苦しめてはいけませんの。誰もあたくしを苦しめることなぞできませんの」  「できないと誰が決められる」  「私が決めます。私は一旦決めたことを、決して枉(ま)げはいたしません」」p.228
●以下、解説(吉田健一)より。
・「これは三島由紀夫氏の作品の中でも、最も纏ったものの一つである。」p.232
・「前に余裕という言葉を使ったが、余裕ということの反対が何であるかをここで考えてみることは無駄ではない。生きているのがせいぜいであれば、人間は生きていることについて考える余裕はない。したがって、人間が生きものであるということに興味を持つこともなければ、ましてそれを言葉で描写しようという気も起さない。小説は、それを書くことも読むことも含めて、すべて文化の名に値するものと同様に、余裕の産物なのである。三島氏はその小説の世界に、まずこの余裕を設定している。」p.233
・「何かの抵抗がなければ芸術作品は生れないと言ったのはヴァレリーであるが、抵抗がなければ、人間は自分が生きているという実感を持つこともできないのである。それは生きるということそれ自体が、絶えず何かの抵抗を求めることであることも意味している。」p.236

?いんしん【殷賑】 活気があってにぎやかなこと。また、そのさま。繁華。
?ならずもの【破落戸】品行の悪い者。また、定職がなく、悪事をして歩きまわる者。無頼漢。ごろつき。  2 生計が思うようにならない者。
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【本】豊かさの精神病理

2008年12月30日 08時09分15秒 | 読書記録2008
豊かさの精神病理, 大平健, 岩波新書(新赤版)125, 1990年
・精神科医による、現代日本に特有な、モノが豊かな国であるがゆえに発生しだした "症例" の紹介。姉妹書として『やさしさの精神病理』も有り。
・患者との会話や回復過程があまりにスムーズに話が進み、「話が出来すぎている」ように感じられますが、限られた紙面で話をまとめなければならない事情から、これは仕方がないかもしれません。
・個々の症例は興味深いのですが、そのような人が身の回りにいるかというと、どうも思い当たりません。表向き見えていないということか、それとも今とは異なるバブル期辺りの時世の反映なのか。発症率などのデータが気になるところです。
・「最近、病気でもない人が、日常生活あるいは人生上の悩みで手軽で精神科を受診することが多くなりました。」p.2
・「精神科医は、患者の話を聞く前から、顔つきや身形、態度を見て、病気のあらましの見当をつけるものですが、<よろず相談の患者>は、どこをどう見ても、病気らしいところがないのが特徴なのです。」p.4
・「何が困ると言って、本物の患者でない人の相談にのることくらい精神科医が困ることはありません。」p.4
・「本書は、精神科にとって新しい<よろず相談>の患者の中の<モノ語り>型の人びとについての報告書です。僕は精神科医の新しい領域を展望するつもりで本書を書きました。」p.10
・「しかし、なぜ彼女は五万、十万とするような高価なバッグを次々と買ってまで、"自信" を手に入れなくてはならなかったのでしょうか。意地の悪い見方をすれば、彼女はもともと"自信" のない人だったのかも知れません。 」p.20
・「<患者>は、自分の抱えている問題が何なのか自分でもわからないから、解決の仕様がないわけです。問題が何かを見つければ、それは自力で答えを見出せるようなものかも知れません。」p.26
・「この "個性" という言葉は<モノ語り>の人が好んで使う言葉のひとつです。」p.30
・「一六歳の女子高生は、登校途上、ふと「自分の将来が全部見えちゃった気になって」「こんな年で少しおかしいんじゃないか」と思って受信しました。」p.34
・「三つの症例で認められるように<モノ語り>の患者の抱える葛藤は深刻なものではありません。いくらでも深刻なものに成りうる葛藤ですが、根の浅い所にとどまっています。それはどうしてでしょうか。」p.46
・「「着る物も当然凝ります。ニューヨーカーが主ですね。トラッドです。靴はリーガルのイースト・コースト。三足持っていて毎日履き換えています。傘はフォックス。時計はセイコーのオート・ジェネレーティング。ゴールドは避けるポリシーですから敢えて六万のステンレス・ケースのやつを買いました。」」p.48
・「料理するために包丁を使うのではなく、包丁を使うために料理する。こういう論理の転倒は<モノ語り>の人によく認められる特徴のひとつです。」p.60
・「精神科を訪れるのに敷居が低くなているのは事実ですが、それにしても暇つぶしに来る人はまだいません。」p.73
・「どんな料理にも似合う男の子に出会ったら、私の方から、ボーイ・フレンドになって下さいって頼むと思うけどォ、今は男の子もアラカルトが一番って思うの。」p.89
・「私の自慢は、今までの友達が全部175センチ以上だってことです。ルックスも揃っています。全部並べたら、きっと紳士服売り場のマネキンみたいになるんじゃないかしら。私、若い頃からそういう好みでしたけど、お洒落な男の人と結婚しようとは一度も思わなかった。マネキンとじゃ生活成り立ちませんからね。お洒落と生活は使い分けが大切なんですよね。」p.98
・「しかし、考えてみると「いい女をモノにする」とか「モノにした」といったことは、長い間多くの男たちが言ってきたことでした。女を用途別に家庭用に分類もしてきました。今、女たちも同じように考えはじめた、というだけのことなのでしょう。」p.99
・「ペットは両義的な存在です。「家族の一員」ともなれば「動くぬいぐるみ」ともなります。深い友情の対象ともなれば売買の対象ともなります。ヒトのようであって(生き)モノであり(生き)モノであってヒトのようなのです。  ペットはこのように、飼い主にとってヒトとモノの両方の意味を持つため、つまり両義的な性質を持つために、飼い主のヒトやモノに対する態度を映し出す鏡となります。それ故に、ペットの話題は精神科医にとっては重要な話題となります。」p.157
・「筋ケシ」p.163 それは『キンケシ』じゃないの? と思わずツッコミ。
・「一般に<モノ語り>のヒトは葛藤を嫌います。可能な限り葛藤を避けようとするのです。」p.174
・「二つしかない選択肢のどちらを選んでも当人にとって望ましくない、というのが<ディレンマの構造>です。これに陥ると普通、人は不安にさいなまれます。」p.189
・「<モノ語り>の人びとには、人づき合いをモノ化しようとする傾向がありますが、そればかりではありません。自分自身をもモノ化する傾向があります。」p.214
・「「頭の中のカタログ」こそが<モノ語り>の人びとの最大の特徴なのです。」p.223
・「今の日本では、安物のプレゼントは、"義理"、高価なプレゼントは "誠意" "愛情" そのもののようです。「親しき仲にこそ高価なプレゼント」なのです。」p.236
・「そのおかげで、人びとは情緒を失いましたが、惑わされることもなくなりました。人びとは、プレゼントによって、ある意味ドライで、ある意味で淡々とした人づき合いをするようになりました。」p.236
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【本】二重らせんの私 ―生命科学者の生まれるまで―

2008年12月18日 22時01分34秒 | 読書記録2008
二重らせんの私 ―生命科学者の生まれるまで―, 柳澤桂子, ハヤカワ文庫 NF223(4224), 1998年
・ある女性生命科学者の半生記。子供の頃の生き物に対する思い出からはじまり、当時としては珍しい日本人女性としてのコロンビア大学への留学、そこで研究に明け暮れる日々やPh.Dを取るまでの様子などが生き生きと描かれています。しかし、順調に思えた研究生活も病気のために断念せざるを得なくなってしまったそうで、本書では詳しく書かれていませんが、原因不明の難病でかなり長い間苦しまれたようです。
・写真は40年以上も前のもの。そんなに昔には全然見えませんが。
・自分の研究生活と引き比べてしまうと、やはり桁違い。好奇心の旺盛さからしてまず違う。
・「私は、植物が悲しんでいる証拠をみつけたいと思って、野原や川原を歩きまわった。踏みにじられた草にそっと耳をつけてみた。折れた葦のそばに何時間もしゃがんみ込んで何か苦しみの音を立てるのではないかと見つめつづけた。」p.17
・「私は、生物のもつもう一つの側面を見たような気がした。生物というものは、可能なことはなんでもするものだという強い印象をもった。そして、実験結果を解釈していくときに求められる思考の柔軟性の重要さを学んだ。」p.63
・「DNAについての研究が進むにつれて、生物がおたがいにDNAを混ぜ合わせるということが、生物の進化にとってたいへん重要なのではないかと考えられるようになってきた。(中略)しかし、雌雄がなくてもDNAを混合することは可能である。なぜ卵と精子が存在するのかは依然としてよくわからない。」p.86
・「しかし、アメリカでは事情はまったくちがっていた。学生が理解できないのは、教える側に能力がないからであるという視点があった。そのために、教科書や実習ガイドをいかにわかりやすく書くかという工夫が真剣になされていた。」p.115
・「ニーレンバーグは、私の右側の少し前の席におり、オチョアが私の左手後ろに座っていた。この二人の間で激しい議論が起こると、私はちょうどまん中にはさまれて、その激しさに身を縮める羽目になった。」p.142 両者ともノーベル賞受賞者。
・「これらの展示品を見ると、実際に自分の目で見るということがいかにたいせつであるかということがわかる。いくら教科書で習っても百科事典で調べても得られないものをこの博物館は惜しみなく発散していた。」p.158
・「演奏者も一、二階の聴衆よりも天井桟敷の人々の反応に注意を払う。演奏は舞台から一方的に発信されるものではなく、聴衆の反応との相互作用で一つの表現が作りあげられていく。すばらしい演奏に聴衆が熱狂すれば、演奏者はそのエネルギーを吸いあげて、さらにすばらしい演奏をすることになる。そのエネルギーの集中しているところが天井桟敷である。  私はほとんど毎週のようにカーネギー・ホールに通った。」p.160
・「Ph.Dは、ドクター・オブ・フィロソフィーの略号で、日本語に訳せば、哲学博士となる。「哲学」は、狭義の哲学という意味ではなく、語源通りの「知を愛する」という意味である。私はこの言葉が好きで、一つの学問分野に関しての深い知識をもつにとどまらず、広く「知を愛する人」になりたいと、いつも願っている。」p.162
・「少し勉強してみると、この大学院のカリキュラムすべてが、先人たちの思考のあとをたどることに向けて組まれていることに気づいた。過去をよく知ることによってはじめて未来が見えてくることもわかった。」p.163
・「センセイは文章の書き方においても素晴らしい教師であった。まず、論理の構築をしっかりすること。次に適切な言葉を入念に選んで文章を書いていく。できあがったものは声に出して読んでみて、文章のリズム、音感、言葉の重複、単語の重みのバランスを配慮して磨きあげる。  これは日本語の文章にもそのままあてはまる。日本語ではこれにさらに視覚イメージがよいかどうかも考えに入れなければならない。」p.180
・「日本人は自国の言葉を覚えるのにかなりの労力と時間を費やす。そうやって覚えた言葉は他の国々の言葉とはあまりにもかけ離れているために、外国語はまったくはじめから学びなおさなければならない。しかし、私は外国語を学べば学ぶほど、日本語が美しく思われ、日本語の美しさにのめりこんでいった。語感、調べ、リズム。そして、その奥に潜む歴史までもがいとおしいものに思われてきた。」p.188
・「いのちとは何であろうか。「生物という構造の上に生じる現象」であると私は思う。からだのどこを切っても "いのち" という物質は見つからないであろう。それでも、いのちはからだの隅々にまで満ちているように感じられる。」p.198
・「発生学の実験が軌道に乗って、順調に成果があがってきたところで、思いもよらないことがおこった。病気である。私は原因もわからないまま、入退院をくりかえした。」p.201
・「人間は欲を捨てることはできるが、自己意識までは捨てることができない。ここに人間の限界がある。すべての人間が自己意識をもつということは、おそらくDNAの中に自己意識の神経回路をつくる遺伝情報が記されているのであろう。  哲学の中にも生命科学の知識を取り入れる必要があるのではなかろうか。しかし、生命科学によって人間の存在すべてが説明されつくすということはないであろう。宇宙や他の生物との関連における人間の存在の検討という大きな哲学が要求されているように思われた。」p.207
・「お金がからんできたために、生命科学の様相は一変してしまった。(中略)知の女神、アルマ・マターの足元にひれ伏して、自然の驚異の一端について教えを乞うという姿勢は失われた。人間は自然を自分のしもべとしてかしずかせ、それをお金儲けに利用しようとしているのである。知を一つの文化として、芸術として、人間の精神世界の営みを守っていこうという姿勢をたもつことは困難になってきた。」p.213
・「DNAは地球上に生命が誕生して以来書き継がれている、地球上最古にして最新の古文書である。そこには、「われわれはどこからきたのか」「われわれは何か」ということが書かれている。そのような文章を人間が地球上ではじめて読み解くということは、たいへんうれしいことである。芸術的価値の非常に高い仕事であると思う。しかも、実用面でも役にたつ。  しかし、その文章には、「われわれはどこへいくのか」ということは書かれていない。」p.215
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【本】百鬼園随筆

2008年12月11日 08時00分04秒 | 読書記録2008
百鬼園随筆, 内田百, 新潮文庫 う-12-1(6837), 2002年
・"百" → "ひゃっけん" と読みます。え? 常識?? 私は読めませんでした。その内田百による随筆集。三十編強収録。初出は1933年。著者が自らをなぞらえた "百鬼園先生" の日常や空想など独自の世界が繰りひろげられる。
・「漱石の弟子」と、その名をちょくちょく目にし、気になる作家ではありましたが今回が初読。日本の作家にまだこんな天才がいたことを知り、驚くやら嬉しいやら。そして自らの読書の幅の狭さを痛感しました。「お気に入り作家リスト」に追加!
・表紙の落書き(?)は芥川龍之介の手による "百先生図"。
・「今晩の主人は、盲人の宮城道雄氏なのである。宮城さんは高名な音楽家だから、足音のタクトによって、近づいて来る相手を鑑別するくらいは、何でもないかも知れない。」p.24
・「本を読むのが段段面倒くさくなったから、なるべく読まないようにする。読書と云う事を、大変立派な事のように考えていたけれど、一字ずつ字を拾って、行を追って、頁をめくって行くのは、他人のおしゃべりを、自分の目で聞いている様なもので、うるさい。目はそんなものを見るための物ではなさそうな気がする。」p.51
・「飛行機がいくら危険でも、布団の上で人が死ぬのに比べれば、遥かに安全である。」p.82
・「寧ろ、飛行機に乗って安全なる事を求めるよりは、之を自殺の具に供する方が趣がある。海のように広広とした飛行場の芝生の上に伸び伸びと寝転んでいる。一人でなくても二三人の道連れがあっても差支えない。頚には、ゆるく綱を巻き、その綱を長く長く延ばして、向うの方に着陸している飛行機に結びつけて置く。その内に飛行機が爆音を轟かし、滑走を始めて、間もなく離陸すると、自然に綱が張って、芝生に寝ている二三人の厭世家を空中に吊るし上げ、ぶらりぶらりと東京の上を飛んで海に出たら、適当な所で綱を切り、垂下物を海に捨てて帰る事にすれば何の面倒もない。」p.83
・「越天楽変奏曲の作曲者宮城道雄氏は、盲人である。彼は点字の楽譜を指尖で読んで、バハの序楽を自作の八十絃の筝で弾じた。(中略)寝床に這入ってから本を読む際は、特に目明きの人は始末がわるい様ですね。私などは目で読むのでないから、第一電気をともして置く必要もなく、従って寝る前に消すと云う面倒もありません。(中略)仰向けに寝て、点字の紙を布団の中に入れ、おなかの上あたりにのっけて置いて、ぬくぬくと温まった手で、その上を撫でて行けばそれで解るのです。」p.85
・「堅いこつこつした箱の中から、いきなり人間の声がわめき出す蓄音機でさえ少少不気味で、あまりいい気持のしない私は、九官鳥などと云う化物は大きらいです。」p.106
・「小生の収入は、月給と借金とによりて成立する。二者の内、月給は上述のごとく小生を苦しめ、借金は月給のために苦しめられている小生を救ってくれるのである。  学校が月給と云うものを出さなかったら、どんなに愉快に知英のことに従事することが出来るだろう。そうして、お金のいる時は、一切これを借金によって弁ずるとしたら、こんな愉快な生活はないのである。」p.142
・「汗水たらして儲けたお金と云うのも、ただそれだけでは、お金は粗(あら)である。自分が汗水たらして、儲からず、乃ち他人の汗水たらして儲けた金を借金する。その時、始めてお金の有難味に味到する。だから願わくは、同じ借金するにしても、お金持ちからでなく、仲間の貧乏人から拝借したいものである。なお慾を申せば、その貧乏仲間から借りてきた仲間から、更にその中を貸して貰うと云う所に即ち借金の極致は存するのである。」p.146
・「生きているのは退儀である。しかし死ぬのは少少怖い。死んだ後の事はかまわないけれど、死ぬ時の様子が、どうも面白くない。妙な顔をしたり、変な声を出したりするのは感心しない。ただ、そこの所だけ通り越してしまえば、その後は、矢っ張り死んだ方がとくだと思う。とに角、小生はもういやになったのである。」p.157
・「百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相(すがた)に過ぎない。或は、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。」p.170
・「私と云うのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。」p.242 なんという書き出し。衝撃的。
・「「何、見なくったって美人かどうかは、解りますよ」(中略)この、盲人の世界と云うものは、また特別ですよ。どう説明していいか、あなた方には解らないかも知れないが、目がないから見えないと。それは確かですが、しかし、あなた方が見える目をふさいだ場合とは違いますよ。我我には視野はないと。そうです、我我は視野を欠くとは雖もそこにはまた、何と云いますか、要するに、説明の出来ないある感覚が、美人を認識するのです」p.293
・「百鬼園氏は「ぐふん」と一つ陰鬱な咳き払いをした。そうしていきなり大きな声で始めた。  「ルスン、セレベス、パプア島。西に偏してボルネオ、スマトラ、ジャワ島等の島島。星の如くに打ち列び、何れも、椰子、砂糖、煙草、珈琲などを産す」  それだけ、一息に朗読調で云ってしまうと、百鬼園氏は、ひょっこりとお辞儀をして、坐った。」p.310
・「「覚えたことは忘れまいとする下司張った根性がいけないのだ。ただ覚えさえすればいい。忘れる方は努力しなくても、自然に忘れる。忘れる事を恐れたら、何も覚えられやしない、第一、我我がもし忘れる事をしなくても、生まれてからの事をみんな覚えていたら、とっくの昔に気違いになってしまってる」」p.327
・「「参考書には色色あるさ。今までにも、もう幾度か話したことだけれど、要するに参考書などに頼る必要はない。又読んでも役に立たない。語学の初歩は強迫に限る。強迫する役目は僕が引き受けている。相手は君等だ。参考書は脅かさないから、駄目だ」」p.327
●解説(川上弘美)より
・「内田百に、「イヤダカラ、イヤダ」という名文句がることはご存知の方も多いだろう。芸術院会員に推薦された時の、これは百が口にした辞退の理由の言葉とされている。」p.354
・「常識的な世界からのごく自然な逸脱。現実から遠く離れてはいないのだが、必ず背後に漂っている幻想性。直截な表現。」p.354
・「自分で規則を作る。それには必ず従わねばならない。ただし規則は必ずしも世間の常識とは一致しなくともよい。整合性もなくてよい。いったん決めたものは、守る。百の文章が、非現実的でありながら決して不協和音を聞くような不愉快さをもたらさないのは、おそらく百世界の規則が、その世界では正しく守られているからではないかと、つねづね私は思っている。」p.356
・「「イヤダカラ、イヤダ」の単純な面白さに比べて、このメモの、ねじれて皮肉な味さえ湛えた面白さは、どうだろう。  やはりこれこそが百である。誰も追随できない。頑固、という簡単なものでもないのだ。筋は通っている。けれどその筋はたとえば幼児のものである。たとえば娑婆っ気のまるでなくなった老人のものである。それでいて、どこか意地悪なところもある。油じみた意地悪ではなく、乾燥してふっと吹けばどこかへ適当に飛んでいってしまいそうな、無目的なあかるい意地悪である。」p.360

?かいちょく【戒飭】 人に注意を与え慎ませること。また、自ら気をつけて慎むこと。
?そうこう【倉皇・蒼惶】 あわただしいさま。いそぐさま。
?かさん【加餐】(食を加えるの意)よく食事して養生すること。身体を大切にすること。相手の健康を願う時などに用いる。
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【本】カルメン

2008年12月07日 08時08分22秒 | 読書記録2008
カルメン, メリメ (訳)杉捷夫, 岩波文庫 赤534-3, 1929年
・「カルメン」と言えばオペラやその曲が有名ですが、その影に隠れた原作の小説です。オペラ版とは多少話が異なり、ある考古学者が自ら見聞したことを語る形で物語は進み、闘牛士ルーカス(オペラでのエスカミーリョ)の扱いは小さかったり、ホセの許婚は出てこなかったりです。
・先入観無く異国の物語の一つとして読んだとしても、面白く読める作品だと思います。約100ページと長さも手頃。
・「カルメン」の曲の演奏が続くので、参考のために読んでみた。
・「竜騎兵」→「鉄砲を装備した騎兵」という意味だと今更知った。
・「私のボヘミヤ女はしかし、これほどの完成された美を誇るわけには行かなかった。はだは、もっとも、完全に滑らかではあったが、銅色にきわめて近かった。目は斜視だが、切れが長く、パッチリしたいい目である。くちびるは少々厚いが、形は端正で、皮をむいたハタンキョウの実よりも白い歯並をときどきチラリと見せていた。髪の毛は、おそらく少々ふとすぎたであろうが、漆黒で、からすの羽のように青光のする光沢を放って、丈長につやつやと光っている。余り長たらしい描写を以て諸君を疲れさすことは遠慮して、ひっくるめて次のことを申し上げておこう。欠点が一つあるごとに、彼女は必ず一つの美点をあわせており、結局その美点は、対照によってかえって美しさを発揮しているのである。ふしぎな野性的な美しさであり、一目見たものをまず驚かすが、以後決して忘れることのできない顔立ちである。とりわけ、彼女の目は情欲的であり、同時に兇暴な表情をそなえており、以後私は人間の目つきにこういう表情をみいだしたことはない。」p.29
・「バスタンの谷間のエリソンド、これが私の生まれ故郷でございます。名前はドン・リサラベングヮと申します。」p.38 『ホセ』の本名。
・「女は赤い下裳(ジュポン)をつけておりましたが、短いので、白い絹のくつ下がむき出しに見えます。くつ下には穴がいくつもあいていました。赤いモロッコ皮のかわいらしいくつは燃えるような濃い赤のリボンで結んであります。わざとショールをひろげて、肩を見せ、はだぎの外にはみでているアカシヤの大きな花束を見せびらかしていました。口の端にもアカシヤの花を一輪くわえていましたが、コルドヴァの牧場の若い雌馬のように、腰を振りながら歩いて来るのです。私の故郷なら、こんな風体の女を見れば、みんなきもをつぶして十字を切るところです。が、セヴィーリャの町では、どいつもこいつもこの女の様子に何かげびたお世辞を浴びせています。女はひとりひとりに流し目を送りながら、それに答えております。握りこぶしを腰に当てて、まったくボヘミヤの名に恥じぬ図々しさです。一目見ていやな女だと思いました。」p.40
・「――女と猫は人が呼ぶときに来ないで、呼ばない時にくるものですが、」p.40
・「ボヘミヤ人にとっては自由がすべてです。ろう獄生活を一日まぬかれるためには、町一つを焼き払うこともしかねない人種です。」p.49
・「この日からのことです。私があの女をしんけんに思い始めたのは。いきなり中庭へとびこんで、あの女に向かって甘いことをべちゃついている青二才どものどてっ腹に、片っぱしから自分の剣を突き刺してくれようか、こういう考えが、三、四へんも私の頭にひらめいたのです。」p.51
・「しかし、ここで、彼女は、ふとした拍子にもらす、あの悪魔的な微笑をうかべながら、つけ加えました。あの微笑こそ、だれもあれをまねしようという気にはなれないしろものです。」p.75
・「――結構でござんすよだ。私ゃ何べんもコーヒーの煮がらで占っているんだ。私たちは一緒に命をおとす定めなんだよ。ふん! それがどうなるものかね! 彼女はこう言いました。それから、カスタニェットを鳴らしました。これは、何かいやな考えを払いのけようとする時、いつもこの女のするしぐさです。」p.78
・「――気をつけたほうがいいよ。私に向かって何かしちゃならんなどと口をきくと、いつの間にか何かがちゃんとでき上がっているからね。」p.82
・「カルメン! おれのカルメン! おれにお前を救わせてくれ、お前と一緒におれを救わせてくれ。」p.88
・「犬も歩けば、骨にあたる。――ボヘミヤ人のことわざ。」p.91 『棒にあたる』の語源?
・「ボヘミヤ人の性質の注目すべき特徴は、宗教に対する無関心であると言えよう。さりとて彼らが無信仰主義者とか懐疑主義者であるというわけではない。決して彼らは無神論に帰服しているのではない。それどころか、彼らの今住んでいる国の宗教がすなわち彼らの宗教である。国をかえるたびに、宗教をかえるのである。」p.98
・「ボヘミヤ人の歴史は、今日なお一個の問題である。彼らの最初の集団の幾組かが、人数は極めて少なかったが、16世紀の初頭、ヨーロッパの東部にあらわれたことだけは、たしかにわかっているが、どこから来たか、また、なぜヨーロッパへやって来たかは説明できない。のみならず、これはさらにいっそう奇異なことであるが、いかにして彼らが、わずかの間に、あのような驚くべき規模で、相互に非常にへだたっている多数の地方に増殖したかは知られていない。」p.100
●訳者あとがきより
・「『カルメン』はメリメ(1803-70)の43歳の時の作で、1845年10月1日号の『両世界評論』に発表された。」p.107
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【本】読書を楽しもう

2008年12月03日 08時01分42秒 | 読書記録2008
読書を楽しもう, 岩波書店編集部 編, 岩波ジュニア新書 364, 2001年
・若者へ向けて各界の識者が宛てた読書体験録。13編収録。若者向けということもあり読書礼賛の内容が続くと思いきや、「読みたくないなら無理して読まなくてもいい。読みたい人だけ読めばいい」というどっちつかずの主張も見られます。編集者の当初の目論見とは少々違った内容になってしまったのではないでしょうか。読む方としてはそれはそれで面白いのですが、面白い本・役立つ本などのブックガイドのつもりで読んでしまうと当てが外れてしまうでしょう。
・自分がこのテーマについて文章を書くとすると何を書くか思い浮べてみると、普段から読書について強く意識している「人間が一生に読む本の量は有限である」ということでしょうか。何気なく手に取ったその一冊を読むことで、花の花弁を一枚ずつちぎっていくように一つの可能性が失われていきます。若いうちは全く意識しませんでしたが、年を重ねるごとに「どの本を読むか」は切実な問題になってきます。
●1 『困った注文』村上陽一郎(大学教授、科学史・科学哲学専攻)
・「一般の書物に関しては、私は永年自分で読みたいと思う、あるいは思ったものだけを読んできました。(中略)私はベストセラーと呼ばれるものは決して買いませんし、読みもしません。」p.3
・「例えば、司馬遼太郎の作品を私は一つしか読んでいません。それも途中で投げ出しています。なぜ、今彼が神様扱いされて、誰もが読んだと言い、読むべきだと言うのか、私にはよく判りません。私は、司馬作品を読むくらいなら、断然藤沢周平や池波正太郎の方が読む価値があると思うのですが、それも『鬼平』などは一冊読めば充分でしょう。  筆が走りすぎました。要するに私は、読書というものは、極めて個人的なもの、個人の好みで行うべきもので、他人がとやかく言うものでも、言えるものでもないと堅く信じているのです。」p.4
・「私は本を読むという行為の本質は、孤独のなかにあると考えています。」p.7
・「勝手なことを書き並べました。きっと何の参考にもならなかったでしょう。こうした企画は、それでよいのだと思います。ただ、このような読書体験を持った人間がいたのだ、ということさえ伝われば、それ以上は期待しないでよいと私も思っています。」p.13
●2 『楽しみの年輪』北村薫(作家)
・「書くことばかりを《創作》だと考えてはいけません。本は書かれて、半分でき上がる。残りの半分は、あなたが読むことによって完成するのです。ページをめくるときのあなたは、創作者なのです。」p.17
・「これだけ人件費のかかることを、たった一人で自由にできるのです。読書というのは、実に贅沢な行為だと思いませんか。」p.18
●3 『ふつうの人が遭遇してしまった不運について』姫野カオルコ(作家)
・「読書する人というのは、理由あってしているのである。読まずにはいられない理由があるのである。  不幸だからだ。  幸福な人は読書などしない。する必要がない。」p.33
・「読書をしたからといって、不幸は抹消されない。だから私は読書をすすめない。そもそも読書する者は、すすめられずとも読書をし、読書しない者は、書を読まないわけであるから、すすめた本書も読まないではないか。徒労だ。」p.36
・「刺激を求めて読書にいたったのである。感想文を書くためではなく、段落分けするためでも感じの書き取りができるようになるためでもなく、楽しみのために本を開いた。  果たせるかな、脳の力は偉大であった。想像は、最高のSFXだ。それこそ痺れるような刺激を与えてくれる。」p.43
●4 『ストーリーとしてのヒストリー ―世界史のすすめ―』山内昌之(大学教授、歴史学専攻)
・「もともと、歴史を意味する「ヒストリー」(history)とは、物語を指す「ストーリー」(story)にほかなりませんでした。」p.50
・「ここで敢えて言いたいのは、<科学性>と<物語性>を結びつけた世界史を決して否定すべきではない、ということです。」p.54
●5 『若い諸君の "特権" としての読書』奥平康弘(憲法学者)
・「というわけでぼくの場合、読書が好きであり、かつこの趣味にこだわったがために、いまの職業へと流れていった、と言えるように思います(今は、いってみれば職業として読書していますが、だからといってそのことにより趣味としての読書を充足させているかというと、かならずしもそうでないのが悩みの種です)。」p.65
・「ぼくの提案で肝心なのは、長篇物ということです。一冊単位にまとまっているといった比較的に短い作品は、それが気になっているものであれば、存外、生涯のどこかで読む時間が配分されるものなのです。これに反し、三、四冊を超えて長いものということになると、大人について回る世のしがらみに取りつかれる度合いが強まるにつれ、期せずしてだんだん余裕を失いがちとなり、これに挑戦するのがむずかしくなります。」p.69
●6 『社会を見る目』奥村宏(経済評論家)
●7 『あなたの好きな歴史上の人物は誰ですか?』田中秀征(元衆議院議員、大学教授)
・「「政治家は何よりもまず歴史を知らねばならない」というチャーチルの言葉は衝撃的でした。  過去を知れば知るほど未来がよく見えるようになる。  その通りだと思います。」p.97
・「高校時代の国語の先生に、「人生と格闘していない人には小説が書けないし、本当の読書もできない」と言われたことがあります。(中略)結局、挫折や失敗を繰り返すたびに、人は "自分の眼" を鍛えられるのだと思います。」p.107
●8 『耐えて、耐えぬいて、歓び満つる日を…… ―ベートーヴェンと沖縄―』外間守善(大学教授)
・「生きるということのさまざまな苦悩に耐えて、耐えぬいて、歓び満つる歓喜の日を願望し続けた楽聖ベートーヴェンの生きざまは、歴史の熱風にさらされながら、撓(しな)って、和(なご)やけて、世を平和に凪(とど)やけようとし続けてきた沖縄の人々の生きざまに、あまりにも似ているように思われてならない。」p.111
・「沖縄は、「沖縄」といったり「琉球」と呼ばれたりしてきたために、どちらが古いか、正しいか、といわれがちであるが、古くは「おきなは」であった。15世紀に「琉球王国」という小国家を成立させて450年間、自立的に栄えていたために「琉球」という呼び方が広まったものである。」p.117
●9 『読書は世界をひろげる』長谷川博(大学教授)
●10 『一人で対する未知の世界』長谷川眞理子(大学教授、行動生態学)
・「ときどき、何もかも放り出して読書に没頭する時間がなければ、私は生きていけないでしょう。」p.146
・「しかし、ここで一つ注意しておきましょう。読書をするには、ただ受け身であってはいけないということです。本を読むことは、自分が一人で本の世界と向き合うことです。」p.155
●11 『私の読書体験』田中貴子(大学助教授、日本中世文学)
・「私の第一のお気に入りは、学習院中等部に在籍する平岡公威くんの美少年ぶりです。彼が「三島由紀夫」となってからの写真は、なんだか間延びした顔で興味を惹きませんでしたが、平岡くんはあくまで優しくりりしい少年でした。」p.159
●12 『「美意識」という課題のために』安野光雅(洋画家、絵本作家、エッセイスト)
・「わたしたちは、「もっといい絵が描けるようになるにはどうすればいいだろうか」といつも思っています。そして絵を学ぶ人からもよく、そういう質問をされます。  わたしは、そんなとき、本を読むことが一番いい、しかもそれしか考えられないな、と思うのです。」p.173
・「絵は、一見技術のようでも、技術ではありません。だから自分で「心」の中、つまり、美しいものに感動する心を育てることからはじめなければならないのです。  手短に言うほかありませんが、いわゆる自分の「美意識」をたしかなものに育てることです。」p.174
・「そもそも学問の成果はこのように、誰にもわかる文学として、いいかえれば心に響くように提示してもらいたい。どんな思想も先見も、優れた文章にならないと、無いのも同じだと思います(これは不遜な言い方ですが理想としては当たっていると思います)。その点で、寅彦の文章は科学的思索を文学の形で残したものだと言えます。」p.179
●13 『本からはみ出す本』山田太一(脚本家、作家)
・「なんにしても映画監督は、天候から人間、猫にいたる他者他者他者の中にいます。その中で作家としての自分を維持するのは簡単ではありません。多くは調停者になったり技術者になったり商売人になったりしてきりぬけて行くのです。初期にすばらしい作品をつくった人も、他者の容赦の無い賞賛の中で急速に退廃します。」p.191
・「そんな中で、人生には本を必要としない人もいるのだ、ということを教えられた思いがあります。本など読んでいなくてもすばらしい人はいくらでもいる、と。(中略)で、是非ともみなさん本を読みなさい、といいにくいところがあります。本には読めば読むほど鈍感になって行くところがあるように思います。一口にいえば言語化できないものについての感覚が鈍くなって行く。」p.195

《チェック本》
三島由紀夫『愛の渇き』新潮文庫
橋本治『ナインティーズ』河出文庫
斎藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』文春文庫
大江健三郎『宙返り』講談社文庫
本多勝一『カナダ・エスキモー』『ニューギニア高地人』『アラビア遊牧民』朝日文庫
A.L. サッチャー『燃え続けた20世紀 殺戮の世界史』祥伝社黄金文庫
岡義武『近代日本の政治家』岩波現代文庫
アイリック・ニュート『世界のたね―真理を追いもとめる科学の物語』日本放送出版協会
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【本】現象学

2008年11月26日 08時00分22秒 | 読書記録2008
現象学, 木田元, 岩波新書(青版)763(C11), 1970年
・そっけない題名に心惹かれてつい手にとってしまった一冊。どうやら哲学の入門書らしいけど "新書" だから分かりやすく書かれているだろう、などと舐めてかかったところ、手も足も出ませんでした。大学で哲学を専攻しているぐらいでなくては読みこなせないレベルだと思います。
・本の感想を哲学風に述べれば、「現象学は私にはさっぱり分からないことが分かった」といったところ。
・「あらゆる哲学の抽象性に絶望しながらも、現実のなかで分裂する自分たちの思考を整然と組織してくれる救援を求めていたかれらは、カクテルをみたしたコップといったきわめて身近な現実について語ることを許してくれる哲学としての現象学にそれを見出したのである。」p.1
・「「アロンは、現象学こそサルトルが始終考えている問題に正確に答えるものだといってサルトルを説き伏せた。つまりそれは、かれの観念論(イデアリスム)と実在論(レアリスム)との対立を超越すること、それから、意識の絶対性とわれわれに示されるがままの世界の現存とを両方同時に肯定しようというかれの関心をみたしてくれるのだと説得したのである。」」p.3
・「『知覚の現象学』の冒頭で、メルロ=ポンティが同じ意味のことをもっと巧みにこう言ってくれている。  「現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこんな問いを発せねばならぬとは、いかにも奇妙に思えるかもしれない。だが、やはりこの問いはいっこうに解決されてはいないのだ。現象学とは本質(エサンス)の研究であり、いっさいの問題は、現象学によれば、結局は本質を定義することに帰着する。(中略)だが現象学は同時にまた、本質を存在(エグジスタンス)のうちに据えつけなおす哲学でもあり、人間と世界とはその<事実性>から出発する意外には了解のしようのないものだ、と考える哲学でもあるのだ。」p.4
・「現象学に心惹かれ多少なりともそれに近づこうと試みた読者たちも、メルロ=ポンティがここで要約してくれているのと同じようないぶかしさを感じているのではないであろうか。  そこで、われわれの関心を強く惹きながらもどことなく為体(えたい)の知れないこの現象学の素性を少しでも洗ってみようというのが、本書のさしあたっての意図である。」p.6
・「たいていならば、一度確固たる立場を確立すれば、あとはそれを敷衍したり補完したりすることに終わりそうなものであるが、フッサールのばあいは終生、一度完成したかにみえる自分の思想を掘り下げ掘りかえし、止まるところがなかった。」p.16
・「フッサールの哲学が一般にわれわれ日本人にとって馴染みにくい一つの要因は、かれの哲学の核心にひそむこうした学Wissenschaftの理念にあるのではないだろうか。言葉の根源的な意味で自然主義的といってよい生活感情をもつわれわれにとっては、学問的認識といっても、それは精密度なり有効性なりの比較的高い知識といった程度のものであろう。ところが近代ヨーロッパの哲学学者たちにとっては、「学」とは神のロゴスないしその顕現ともいうべき世界の理性的秩序の相関者なのであって、究極的な根拠をもつ知識の体系である。」p.38
・「哲学の理念の思いきった変更、つまり、フッサールにあってさえある絶対的な主観の業とされてきた哲学的反省を徹頭徹尾自己の実存を生きる人間存在のうちに根づかせようとしたハイデガーの決意が、現象学にまったく新しい展開を約束したことはたしかである。」p.98
・「現象学はフランスの思想的風土に移植されることによって、ドイツにあったときとはまるで違った色合いを帯び、本来の――と思うのだが――軽快さと開放性を恢復することになる。」p.101
・「メルロ=ポンティは、1956年に『著名な哲学者たち』というある書店から出された選集のための序文を書いているが、かれはそれにパスカルの言葉をもじって「どこにもありどこにもない」という標題を付けた。かれにとって哲学とは、いたるところにその中心があり、それを囲む円周はどこにもないようなものだったのである。実際、われわれがかれから何よりも学ぶべきものがあるとすれば、それはかれのこの哲学する態度であろう。これほど、あらゆる哲学、あらゆる科学、あらゆる文化の諸領域と積極的な対話を試みた哲学者は、かつていたためしがない。」p.124
・「われわれの身体は世界において、ちょうど生物体における心のような位置を占めている。わたしの身体が世界に生命を与え、それを内的に養い、それを一個の有機的な組織たらしめているのである。その意味では、わたしの身体は世界についての潜在的な知だ、と言ってもよいであろう。」p.152
・「現象学とは、世界のなか、歴史のなかでのわれわれの経験に問いかけ、その意味を解読しようとする果てしない努力である。言いかえれば、われわれは、さまざまな経験がわれわれのもとで接合するのをたえず目撃しているわけであるが、その全体的景観の文脈のなかで個々の経験が何を言おうとしているのか、何を意味しようとしているのかを、不断に問いつづけようということである。」p.200
・「哲学するということは、メルロ=ポンティも言うように「あらかじめすでにあたえられている合理性と合一する」ことではなく、「みずからイニシアティヴをとって<自己を確立し>、また合理性を確立することである」が、そのイニシアティヴそのものも、「あらかじめ存在のなかに何らかの保証をもつといったものではなく、むしろ、そのイニシアティヴそのものが、みずからの歴史を引き受けるべくわれわれにあたえた実際的能力の上に、その権利を全面的に依存させている」のである。みずからの経験や知識に対する責任を免れようとして作り出された「客観的心理」の幻想を振り捨てた哲学は、こうして、「あらかじめ存在しているはずのある心理の反映ではなく、芸術とおなじくある真理の実現」ということになるであろう。」p.201

?けいしょう【軽捷】 身軽ですばやいこと。軽快で敏捷なこと。また、そのさま。
?はんどく【繙読】 書物をひもといて読むこと。
?かいめい【晦冥】 光明がとだえて、くらがりとなること。くらがり。くらやみ。「天気晦冥す」
?せんめい【闡明】 今まで明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。「方針を闡明する」
?へんぱ【偏頗】 かたよって不公平なこと。かたておち。えこひいき。
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【本】ファッションの技法

2008年11月20日 08時03分24秒 | 読書記録2008
ファッションの技法, 山田登世子, 講談社現代新書JUNESSE 1374, 1997年
・ファッションに興味があるかと聞かれると、自分の好みの物を身につけているという意味で最低限の興味はありますが、高価なブランド物を身につけるほどの積極的な興味も無く、とりあえずユニクロとポスフールがあれば生きていける身です。そんなファッション音痴には全く無縁の内容かと思いきや、ファッションを通して見た文化論といった内容で、「なるほど」と思わせられる個所が随所にあり、十分興味深く通読できました。
・「従来のアカデミズムではけっしてありえない、おおげさに言えば日本初の学際的な「誘惑論」を大学の講義でやりたい――そんなわたしの熱さと学生たちのレスポンスがひとつになって生まれた、新しいファッション論が本書である。」p.5
・「わたしたち女は、よくおしゃれをする。(中略)そして、こんなふうに「鏡の中の私」に関心が深いぶん、「鏡の中の他人」にも関心が深い。」p.13
・「ところで、わたしたちは、いったい何の目的でこんなふうにおしゃれをするのだろう?(中略)ファッションについて、根源的なところからこうたずねてみたら、答えるのはそれほどやさしくない。答えが単純ではないからである。」p.13
・「人はなぜおしゃれをするのか?  ――異性を誘惑するために。  とりあえず、こう答えてみよう。」p.15
・「そろそろ、ここで誘惑とは何かを定義すべきだろう。わたしがここでいう誘惑、それはまさに三島由紀夫が描いているような女の態度である。すなわち、自分の性的魅力をひきたたせるために自分を美しく飾ること。そして、その装飾によって、異性の目をひきつけること。」p.18
・「男に自分をさしだすのは女である。そして、女がそうするのは、男の欲望が先行しているからだ。「君が欲しい」――男たちが、暗黙のうちにそう言っているからこそ、女はそれにこたえようとする。「ええ、いいわ」と。」p.22
・「ジンメルは、簡潔に、こう語っている。  男性にたいする女性の関係は、承諾と拒絶につきる。」p.23
・「要するに女は、男性の求愛に二つの顔でこたえるのだ。見せたとたん、その反対に変わってしまうダブルの顔で。(中略)女のレスポンスは、「承諾のまわり道かもしれない拒絶」と「取り消しの可能性のある承諾」に満ちている。」p.32
・「コケットリーとは「決断をひきのばす技法」であり、時をかせぐ技法である。それは、《あれかこれか》をはぐらかして、《あれもこれも》にしようとする。」p.39
・「ジンメルはこう言っている。「社交性が社会性の遊戯形式であるように」「コケットリーは愛の遊戯形式である」。」p.46
・「そう、ファッションは《ぜいたく》から生まれるのである。まさに、コケットリーのように。」p.51
・「ファッションとは、着衣によって自分を隠しつつ、隠すことによって自分を見せる技法なのである。(中略)そう、ファッションは、コケットリーのように《あいだをゆれる》のだ。」p.54
・「ココ・シャネルは20世紀のスタイルの完成者である。シャネルは、19世紀の女性ファッションをラディカルに覆して、新しいモードをつくりだした。  ところが現在、シャネルというと、とうていそんなイメージではない。」p.69
・「ところが、女性モードにポケットをとりいれたのはシャネルが初めてだと知って愕然とした。ポケットだけでなく、ショルダー・バッグというのもシャネルが初めて、なのである。」p.72
・「喪服以外に女が黒を着るなんて、シャネル以前のファッション・シーンでは考えられなかったことだからだ。  そう、シャネル以前、19世紀の女たちが着ていたドレスは、みな「きれいな」色でできていた。」p.83
・「「モードは芸術ではない。それは技術だ」――シャネルはくりかえしそう語っている。」p.86
・「そう、シャネルとは性の境界線の越境者である。色といいかたちといい、「男のように」装うこと。シャネルがつくりだしたモードは、極論すればそういうことだ。」p.89
・「そう、シャネルはやはり「皆殺しの天使」と呼ばれるにもっともふさわしい女なのだ。男に依存し、男のまなざしの愛玩物となって「家」のなかに秘めおかれた19世紀の女性像を、シャネルほど大胆に、小気味よく覆した女はいない。シャネルのモードは《女》のイメージを一新したのである。」p.91
・「(ココ・シャネルの言葉)女は、愛される以外に幸福ではありえないわ。愛されるということ、必要なのはそれだけ。愛されない女は無にひとしい。女は愛されるためにだけ生きているのだもの。年齢は関係ない。(中略)愛されない女は一切駄目ね。」p.93
・「そう、コムデギャルソンにとって、「つくること」は「くずすこと」にひとしいのである。  それはいったい何をくずすのか? ――西欧で考えられてきた「服」というコンセプトそのものを。」p.95
・「西欧の衣服の技法が身体にフィットすることをめざす「造形性」にあるとすれば、着物は逆にかぎりなく一枚の布にちかい。二次元なのである。着物では、布を人体がまとって、はじめて《かたち》をつくりだす。(中略)つまり、着物という衣服はあくまで《ボディと布の協調》なのである。」p.97
・「そう、女はいまや望めば、《モードの外》に出る自由さえ手にいれている。  ところが、不思議なことに、誰もモードの外に出ようとはしないのである。誰ひとり強制されているわけではないのに――。いったいなぜだろう? ひとはなぜ流行の中にとらわれるのか?  何を着ようと自由なのに?」p.112
・「いったい、ひとはなぜおしゃれをするのだろうか?  実を言えば、この問いに「異性を誘惑するため」と答えると、決まって学生の反論にであっていたのである。「それだけじゃない、ちがう、ちがう」と。」p.116
・「わたしたちは服装をとおして「自分を社会に位置づけたい」のである。あるいは、逆に言うなら、わたしたちは、他人をその外見によって判断し、位置づけているのだ。」p.117
・「わたしたちは、論理的にはまったく矛盾するこの二つの欲望をもちながら生きたいのだ。「同じ」であるとともに、「ちがって」いたいのである。」p.121
・「嫌味な言い方になってしまうが、「教養がじゃまをして」気楽にブランドをもつ気になれないのだ。」p.133
・「ねえ、みなさん、ルイ・ヴィトンって、それもってバスや地下鉄に乗ったりするようなバッグじゃないの! というより、そもそも自分でもつようなバッグじゃないんです。そうなの、ルイ・ヴィトンって、召し使いにもたせるバッグなんですよ!  この日、たまたま教室にルイ・ヴィトンをもって来た学生はフクザツな顔をしてわたしをにらんでいる。わたしは、しらっとした顔で、講義を続ける。」p.133
・「よく言われるように、「モードはめぐる」のである。モードの新しさはたんなる新奇性であって、絶対的な新しさではないからだ。バルトはこのことを見事に語っている。  ――モードは進歩しない。ただ変化するだけだ。」p.146
・「そう、ファッションには理由がない。だからファッションは軽薄でしかありえないのである。」p.153
・「厳密な統計をとったわけではないが、「あなたはなぜおしゃれをするのですか」という問いに、「楽しいから」と答えたのは全員が女子学生だ。」p.155
・「衣服を脱いでも、現れてくるのは身体というもう一枚の衣類である――衣服は身体を覆い隠す仮面ではなく、その仮面を脱いだとしても、もうひとつの仮面が現れるだけなのだ。身体こそ「ファッションの技法」の発揮される対象なのである。」p.169
・「バルトはこう語っている。幾重にも折りたたまれて、紐やリボンで飾られた包みは、どんなに取るに足らない品物であっても、「宝石の場合と同じような豪奢な包装のされかたをしている」。」p.190
・「いずれにしても、ファッションは日ごとの小さな《狂気》。人間がけっして捨てることのできないぜいたく。そう、恋のように……。」p.197
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【本】神との対話 2

2008年11月15日 08時10分01秒 | 読書記録2008
神との対話 2 宇宙を生きる 自分を生きる, ニール・ドナルド・ウォルシュ (訳)吉田利子, サンマーク文庫 E-34, 2002年
(Conversations with God book2 by Neale Donald Walsch 1997)

・「うさんくさい」とは思いつつも気になり、つい手にとってしまう『神との対話』。三部作のうちの第二部です。今回も "神様" は実に雄弁。
・書き抜きが多くブログの字数制限にひっかかるので、通常なら文字を青にするところをタグを省略してそのままの黒字にしました。はじめての事態。

・「あなたは、この本の内容がほんとうに神の言葉だとは信じないかもしれない。それでもかまわない。大切なのは、この本の内容に価値があるか、洞察力を与えてくれるか、目覚めのきっかけとなり、新しい欲求に火をつけ、地球上の毎日の暮らしに実りある変化をもたらすか、それだけだ。何かが変らなければならない。それを神を知っている。いまのままではいけない。」p.12
・「来てくれてありがとう。ここに来てくれて、ほんとうにありがとう。(中略)まず、あなたとこの本はいま、完璧な出会いをしたのだと気づいてほしい。」p.24
・「<マスター>の秘密はそこにある。つねに同じことを選択しつづける、それが秘密だよ。」p.40
・「あなたが何か「決意」すると、宇宙に動きが生じる。」p.41
・「いいかね。真の讃美とは非理性的なものだよ。」p.48
・「ひととして挑戦すべき最大の課題は、「いまここで、あるがままに」ということだ。ものごとをでっちあげないこと!」p.52
・「反応(reactive)と、創造(creative)、この二つの言葉をくらべてごらん。二つが同じ言葉であることがわかるだろう。c が移動しているだけだ! c が正しい場所にあるtき、あなたは反応するのではなくて、創造する。
 なるほど、うまいことをおっしゃる。
 なにしろ神だからね。」p.53
・「ふつうかもしれないが、自然ではないな。「ふつう」というのは、通常はそうだということだろう。「自然」というのは、「ふつう」であろうとするのをやめたときの状態だよ。自然とふつうは、ちがう。」p.54
・「この世に、この時間に、あなたは自分を知るためにこうありたいと思う自分を創造するためにいる。それが人生の目的だ。人生はいつまでも続く再創造(re-creation)のプロセスだ。」p.54
・「あなたがたはみんな、自分に価値がないと思っている。だから、イエスの名において願う。あるいは、聖母マリアの名において。「守護聖人」の名において、あるいは、神の子の名において。あるいは東洋の精霊の名において。誰かれかまわず、いろいろな名を使うけれど、自分の名だけは使わない! だが、いいかね。願えば与えられるだろう。求めれば、見つかるだろう。叩けば、開かれるのだよ。」p.58
・「わたしは、毎日、毎分、指針を与えている。どちらへ曲がればいいか、どの道をとればいいか、どんな答えをすればいいか、どう行動すればいいか、何を言えばいいか、それを知っている細い静かな声、それがわたしだ。(中略)わたしの声に耳をすましなさい。」p.63
・「イエスをふくめ、すべての<マスター>がそう言ってきたではないか。それが、教えの中心だよ。究極の真実だよ。  わたしは時の終わりまで、つねにあなたとともにいる――それを信じるかな?」p.65
・「「時」は継続でない。垂直ではなく、水平な相対性の要素だ。ただし、「左から右へ」というふうに考えないこと。ひとりの人間の誕生から死まで、線を描くように時が存在しているとか、時とは、宇宙のある時点から別の時点までの線だとは考えないこと。「時」は「上がったり、下がったり」するものだよ! いまという永遠の瞬間を表す、はかりのようなものと考えればいいかな。」p.71
・「神にとって「不可能」なことが、ただひとつある。それは、神でなくなることだ。(中略)わたしがどこにもいない(nowhere)としたら、わたしはどこにいるか? いまここに(now here)いる。
 うまい!」p.79
・「「腐ったリンゴ」などというものはない、ということだよ。あるのは、あなたの考え方とはちがう考え方をするひと、ちがう世界のモデルをつくりあげているひとだけだ。いいかね、どんな者でも、自分なりの世界モデルにてらせば、何も間違ったことはしていない。」p.81
・「この本の目的、三部作のすべての目的は、新しいパラダイム、新しい理解、大きな視野、偉大な考え方を受け入れる準備を整えることなのだ。」p.83
・「「死」というものはない。生命は永遠に続く。生命はある。ただ、かたちを変えるだけだ。」p.91
・「人生の目的は神を喜ばせることではない。人生の目的とは、自分とは何者であるかを知ること、自分を再創造することなのだよ。」p.93
・「ヒトラーは天国へ行った。地獄というものはないから、ほかに行くところがないのだ。(中略)ヒトラーが犯した過ちは、彼が死にいたらしめた人びとをなんら害することも、侵すこともなかった。あの人びとの魂は、地上の束縛から解放された。さなぎから蝶が解放されるようにね。  残された人びとが彼らの死を悼むのは、彼らの魂がどんな喜びへと分け入ったかを知らないからだ。死を経験したら誰も死を悼んだりはしないよ。」p.94
・「やれやれ、いつも不安におののきながら生きているようだな。
 でも、それが宗教の目的でしょう。宗教は、神へのおそれを植えこむんです。そうすれば、誘惑に勝って、正しい行いをしますから。」p.104
・「あなたがたの星で起こる出来事は――もう三千年も続いてきたわけだが――さきほども言ったように、「あなたがたのグループ」、つまり地球という星のすべてのグループの集合意識の反映だ。この意識のレベルは、どんなにひいき目に見ても、原始的と言うほかない。」p.113
・「ヒトラー経験の恐ろしさは、彼が人類に対して罪を犯したということではなく、人類が彼に罪を犯させたということだ。驚ろかなければならないのは、ヒトラーが登場したことではなく、あれほど多数の者が彼と行動をともにしたことだよ。恥ずべきは、ヒトラーが何百万人ものユダヤ人を殺したことだけでなく、何百万人ものユダヤ人が殺されるまで、誰もヒトラーを止めなかったことだ。」p.114
・「世界が変わってほしいと思うか? では、あなた自身の世界を変えなさい。」p.115
・「――一体である、ただひとつのわたしたち――在るのはそれだけだ。」p.137
・「場は……表示された時間だ。  じつは、なかに何も存在しない場、純粋な「空(くう)」の場というものはない。すべては何ものかである。」p.138
・「その「時」より前に、何もない「時」があった。あるのは、最も純粋なかたちの最高の振動エネルギーだけだ。それを、あなたがたは反物質と呼ぶ。」p.139
・「すると、宇宙は収縮するんですか?
 そのとおり。すべてが「もとへ戻る」わけだ!(中略)言い換えれば――「わたし」だ! 終末には、すべてがわたしに戻ってくる。「そこへ落ちつく」のだよ。」p.140
・「宇宙は膨張し、収縮する。それから、また同じことがくり返される。何度も、何度も、永遠にくり返される。世界には終わりはない。それが、神の呼吸だ。」p.141
・「生命のリズムをいちばんよく知っているのは女性だ。女性はリズムに従って生きている。女性のリズムは生命のリズムそのものだ。女性は男性より「流れにのる」のが上手だ。男性は押したり、引いたり、抵抗したり、流れの方向を変えたりしようとする。女性は流れを感じとり、流れにあわせてかたちづくる。」p.142
・「不思議だとは思わないかね? 生まれてからずっと、「自分がいちばん望んでいること」に罪悪感を感じさせられてきたんだよ。だが、わたしは言う。望むものをいくらでも愛しなさい、好きになりなさい。何かを愛すれば、自分に引き寄せられるのだから。  そういうものはみな、生命の糧だ。それを愛するということは、人生を愛することだ。」p.149
・「あなたはいままで、受けることよりも与えるほうが大切だ、と教えられてきた。だが、自分が持っていないものを、与えることができるだろうか。だからこそ、「自分の喜び」が大切なのだ。」p.150
・「自分にありあまる喜びを与えなさい。そうすれば、ひとにもありあまる喜びを与えられるだろう。」p.152
・「「あるべき」という言葉がいけないのは、誰かが基準を設定する点だ。そうすると、あなたがたの行動は自動的に、何を歓びとすべきかという他人の考えに制約され、方向づけられ、指示される。」p.176
・「何を決意するにしても、いちばん大きな問題は、「愛していれば、どうするだろう?」と自問することだ。自分自身を愛しなさい、それから関係する全員を愛しなさい。愛しあっていれば、相手を傷つけるようなことは決してしないだろう。」p.178
・「何をするにしろ、ものを考えない。まったく、考えない! たいていのひとは肉体のレベルで人生を送る。肉体を養い、衣服を着せ、「糧」<を与える。たいていは何年も立派な本を読まずに暮らしている。立派な本とは何かを学べる本だ。だが、テレビ番組なら一週間分暗記している。考えてみれば、たまらなく悲しいことではないか。たいていのひとは何も考えたくないのだ。自分で考えなくてもいいように、指導者を選び、政府を支持し、宗教を採用する。「気楽にさせてくれ。どうしたらいいか、教えてくれ。」たいていのひとは、それを望んでいる。」p.182
・「あなたがたの一部は――少数だが――肉体と精神の両方があることを理解している。(中略)肉体と精神のバランスをとっている者が少数だとしたら、肉体と精神と魂という三つの部分を生きている者はさらに少ない。だが、あなたがたは三つの部分からなっている。」p.183
・「他者を傷つけることになるなら、どんな行動も成長を早めることにはならない。第二のガイドラインは、他者と関係するどんな行動も、他者の合意と許可なしにはしないこと。」p.187
・「人間もふくめて、とくに人間について、相手の何かを必要とするとたちまち関係は破壊される。
 でも、誰でも必要とされたがっています。
 それでは、必要とされたがるのをやめなさい。それよりも、必要とされていないと感じたがるようにしなさい。誰かに与える最大のプレゼントは、あなたを必要としないだけの力と強さで、どんな理由にしろ、相手があなたを必要としなくなることなのだから。」p.194
・「アメリカでは、日本の二つの都市に原爆を落とし、おびただしい人間を殺傷する結果となった決断について、子供たちにすべてを教えてはいない。あなたがたから見た事実、あなたがたが見たがっている事実を教えている。」p.203
・「最後に、ものではなくつぎの三つの基本概念を中心にした、新しいカリキュラムを考えなさい。  ――認識――誠実――責任  子供たちに幼いころから、この概念を教えなさい。」p.216
・「何度も言うが、最近、世の中を眺めてみたことがあるかね?(中略)いいかね。あなたがたがすべてに責任を負うまでは、何も変えられないのだよ。(中略)何千年もだよ。同じ過ちを何千年もくり返してきた。人類はいちばん基本的なところで、原始時代からあまり進歩していないね。」p.220
・「子供たちにはできるだけコアとなる概念を理解させなさい。日付や事実や統計数学を中心にするのではなくて、価値観を中心にした理論的構造を創りあげることに関心を向けさせなさい。」p.225
・「おっしゃるような学校があればいいと思います――ほんとうに、あればいいなと思いますよ!
 そう努力している学校はあるよ
 ありますか?
 あるとも、ルドルフ・シュタイナーというひとが書いたものを読んでごらん。彼が創設したウォルドルフ・スクールという方式を勉強してごらん。
 ああ、もちろん、その学校のことはしってます。これ、コマーシャルですか? 
 いや、観察だ。」p.227
・「政治とはつまり、権力者が自分の利益は国民の利益だと納得させようとする方法だ。  政府は利己心を理解している。だから、国民にものを与える施策を立案するのがうまい。」p.234
・「大麻が禁止され、タバコが許されているほんとうの理由は、健康とは関係ない。問題は経済だ。つまり、権力だよ。」p.239
・「どうすれば、地球の人間は世界観を変えられますか?
 それは、どう変えたいかによるね。
 どうすれば、苦しみや悲惨な事態をなくせますか?
 分裂をなくせばいい。新しい世界像をつくればいい。新しい枠組みで考えればいい。
 と言いますと?
 現在の世界観とは、まったくちがったものをもつことだ。」p.244
・「最終的には、すべての地政学的な問題は、個人の問題と同様に、霊的な問題に行き着く。生命のすべては霊的であり、人生の問題の基礎はすべて霊的なところにある――霊的に解決される。」p.261
・「他のすべてのひとや場所、ものごととの神聖な関係の目的は、相手が何を望むか、何を必要とするかではなくて、あなたが成長し、ほんとうの自分になるためには、何を必要とし、何を望むのかを知ることだ。」p.272
・「同情心に限度はないし、愛に終わりはなく、神の世界の忍耐は決してつきない。人間の世界でだけ、善に限りがあるのだ。わたしの世界では、善は限りがない。」p.292
・「すでにこの本のなかで、問題のより高い解決策を説明した。何も欲しがるな。好みで選ぶのはいいが、必要としてはいけない。  だが、それはとても高度な状態だがね。それは、<マスター>の位置だ。」p.294
・「あなたがたは、神を自分たちとはべつの存在と見ることをやめなくてはいけない。それに、お互いどうしがばらばらの存在だと考えることもやめなくてはいけない。  唯一の解決策は、究極の真実だ。」p.296
・「あなたは、インスピレーションのもとになることができる。そうしなくてはいけないのだ。
 わたしが、ですか?
 ほかに誰かいるのかね?」p.297
・「(あなたはつねに贈り物になれる。なぜなら、あなたは贈り物なのだから――だが、あなた自身にそれがわからないこともある)。  誰かが思いがけなくあなたの人生にかかわってきたら、そのひとはどんな贈り物を受け取りにやってきたのだろうと考えなさい。」p.302
・「この単純な真実がわかれば、すべてのなかで最も偉大な真実が見えてくる。  わたしがあなたのもとへ送るのは天使だけ、それ以外はない。」p.303
・「相手が欲しがっている助けを与えなさい。言葉で、あるいは行動で、放っておいてほしいと言っていることだって多い。そういうときは、あなたが何かを与えたいと思っても、放っておくことが最高の贈り物になる。」p.304
・「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う――わたしのきょうだいのなかの、最も小さい者のひとりにあなたがたがしたことは、わたしにしたことなのである。  これが、わたしの真実であり、それは永遠に変わらない。」p.306
・「金銭の動きをオープンにするだけで、もっとたくさんのことが職場からも、世界からも消えるだろう。」p.317
・「言い換えれば、ほんとうの自分自身を知るには、何がほんとうの自分ではないかを知るほかない。」p.335
・「平等というのは、機会の平等であって、事実上の平等ではないことをわすれないように。事実上の「平等」は決して達成されないだろうし、それでいいのだよ。」p.346
・「原始的な社会のいちばんの特徴は、自分たちが進歩していると思っていることだよ。原始的な意識のいちばんの特徴は、当人は悟っているつもりでいるということだ。」p.347
・「無条件に与えること(無条件に愛すること)を学んだとき、無条件に受けとることもできるだろう。人生は、それを経験するために創られた乗り物なのだよ。」p.350
・「あなたがたにこういう人生がいいだの、ああいう人生がいいだのとは、わたしは言わない。わたしの唯一の欲求は、あなたがたが充分に創造的な存在としての経験をすること、それによってほんとうの自分を知ることだ。」p.359
・「いいかな。すべてが始まったときから、世界はずっとわたしに反対してきた。世界の誕生以来、わたしの言うとおりに従った者はほとんどいないよ。」p.362
・「おいおい、ちょっと待ちなさい。どうも、肝心なことがわかっていないようだ。一から出なおそうか。この本は、あなた自身がつくりあげているんだよ。」p.363
・「この本では、あなたがたの世界の経済的、政治的、社会的、宗教的なシステムが原始的だと言うつもりだ。わたしの観察するところ、あなたがたは自分たちのシステムがベストだと考えるという集団的な傲慢におちいっている。」p.375
・「真実と神は同じ場所で、沈黙のなかで見いだされる。あなたが神を発見したら、そして真実を発見したら、語る必要はない。自明だから。  神について饒舌に語るのは、まだ求めている最中だからだろうね。それでもいいのだ。」p.386
・「たとえ神でも未来を予言できるだろうか? いいかね。あなたがたの未来は創りあげていくものだ。思いのままに創りあげなさい。」p.391
・「宇宙に知的生物がいるのか、知りたいのかね? もちろん、いるよ。」p.394
・「世界の問題や紛争の、全部とは言わないまでも、大半は、あなたがたが社会全体として、つぎの二つを実行すれば解決する。  ①ばらばらだという概念を捨てること。  ②「見える」という性質、つまり、はっきりと見せるという概念を採用すること。」p.403
・「あなたは、「絶対的な強者は絶対に何ものも求めない」とおっしゃった。それが神の本性ですか?
 わかってきたようだね。」p.416
・「限界にこそ、新しいチャンスがある。限界から、新しい創造が始まる。」p.430
●以下、訳者あとがきより
・「一冊目の、『神との対話』でも、くり返し言われたことですが、「神」は、あなた自身で考え、選択することが大事なのだよ、と教えています。」p.433
・「また、これも一冊目の『神との対話』と共通することですが、自分を第一に考えていいのだよ、と「神」は言います。」p.433
・「しかし、ありのままの自分をすなおに見つめ、認めてやること。そして、その自分をいおおしいと思い、満たされたい、幸せになりたいと願うこと。たぶん、そこから、充実した人生は始まるのでしょう。」p.434
●以下、解説(阿木燿子)より
・「週に一回、聖書の時間というのがあったが、宣教師が神について、いろいろ話してくれた。しかし、今考えてみると、あのとき聞いた神様は、この本とはずいぶん違う。父なる神と言いながら、私たちが何か悪いことをすると、罰を与える神であり、愛を唱えながら、唯一絶対なる神のみを信じよ、と強要していた気がする。」p.438

《関連リンク》
2006.12.17 【本】神との対話
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