ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】取材学 探求の技法

2007年03月22日 22時19分30秒 | 読書記録2007
取材学 探求の技法, 加藤秀俊, 中公新書 410, 1975年
・取材≒情報の扱い方について。広義の"取材"がテーマ。良書。
・以前読んだ立花隆の本(書名失念)とかなり内容が被る。
・「じぶんが知りたいと思っていることは、どこかにかならずある。しかし、そのどこかが正確にわからない。だから、われわれは、このおどろくべき情報時代のまっただなかでタメ息をつき、絶望的になってしまう。  この本は、そのどこかがどこであるのかを知るにはどうしたらよいのか、をかんがえるための本である。あるいは、情報ジャングルのなかで効率よく道を発見し、歩いてゆくための一種の技術書である。」p.i
・「みずからすすんで独自の知的好奇心のおもむくままに、なにかを知ろうとする姿勢――それを若い世代の人びとに期待したい、という気持からわたしはこの本を書いてみたのである。」p.ii
・「しかし、その職業のいかんを問わず、経験の深い職人さんとの会話のなかで、かならず出てくる共通したひとつの重要な話題があることに気がついた。それは、材料が悪かったら、どうにもならない、という話である。」p.3
・「取材という行為もまた、いかにしてよい材料を手にいれるか、がキメ手なのである。」p.8
・「いや、学問というものは、そもそも取材からはじまるのである。」p.14
・「こんにちのいわゆる情報化社会では、すべての人間が取材者なのである。いや、すべての人間が取材者であるような社会が情報化社会というものなのであろう。」p.17
・「わたしが、この本で取材と名づけるのは、情報を使うことである。取材の立場とは、積極的、主体的に情報を使う立場のことである。」p.21
・「だいたい、情報というものは洋の東西を問わず、ごく一部のエリートがひそかに独占していたものなのである。だから、情報を使うどころか、あつめることさえむずかしかった。だいたい、ふつうの人間が情報をあつめる、などというのはありえない話であった。」p.22
・「こんにちの教育は情報化時代のなかで主体的に生きるための知恵をいっこうに教えてくれていないのだ。」p.23
・「しかしわたしのかんがえでは、情報を使う立場をきずいてゆくための唯一の手がかりは問題を発見することなのである。」p.24
・「わたしは、この問題だけはなんべんでもくりかえし強調したい。とにかく日本の教育、とりわけ学校教育はそれぞれの個人がもっているすばらしい問題発見能力をおしつぶすことのみに専念しているのである。  その原因は、陳腐なようだが、現行の入試制度にある。」p.27
・「問題さえっはっきりしていれば、それにこたえる情報というのは、あたかも磁石に鉄粉が吸いよせられるように、しぜんにあつまってくるものなのだ。」p.30
・「どうやら、取材というのは、それぞれの個人の問題発見にもとづき、その問題解決のために必要な情報をえらび出すこと、といったふうに定義できるかもしれない。」p.30
・「だいたい、われわれは、識字率の高い日本という国に生れあわせたおかげで、文字というものを軽く扱う習慣がついてしまっているようだ。」p.43
・「くどいようだが、現代社会ではたいていのことは文字や数字になってきちんと整理されているのである。(中略)よき取材者は、リファレンス・ブックスのよき利用者ということと同義なのだ。」p.45
・「大きな全集だの著作集だのにとって、索引というのは絶対に必要だ。索引なしで全何十巻、という本をならべてみても、ほんとうにどこからどう手をつけてよいかわからない。(中略)しかし、日本の出版界では、本に索引をつけることをあまりしていない。」p.53
・「情報の処理はコンピューターにまかせたらよいが、情報をあつめ、分類し、評価するのは人間のしごとだ。」p.78
・「1975年版の『出版年鑑』によれば、その前年度一年間の日本の書籍の出版点数は合計20940点、つまり、一日あたり、およそ57冊の新刊書が出版されている勘定になる。」p.79
・「さいきんの若ものたち、とりわけ学生たちがめったに古本屋に足をはこばないことがわたしには気になる。学生たちの多くにとって、どうやら書物というのは流行歌なみの存在で、古本というのは、なんとなく時代おくれの骨董品、といったような意味しかもっていないようなのだ。(中略)古本屋を歩く、ということは情報の鑑定眼をやしなうためにもたいへんに有効な方法である。」p.82
・「新刊書というのはあたらしいことが書いてあるようで、じつのところ、それほどあたらしいとはかぎらないのである。わたしじしんも、ひとりの著者としてこれまで何冊かの書物を書いてきたのだが、古本屋だの図書館だのでむかしの本に出会い、その著者がわたしの書いたのとおなじことを、わたしよりもはるかにくわしく、じょうずに書いてあるのを発見し、たいへんに恥かしい思いをすることがよくある。」p.84
・「どっちみち、人間のすることというのは、時代がかわり、社会がかわってもたいしてちがったものではありえない。おなじようなことを人間はくりかえしてきているのである。」p.85
・「やや乱暴な言い方かもしれぬが、学者とジャーナリストのちがいは、前者が主として活字を情報源とし、後者がひとの話をおもな情報源としている、という点にあるといってもよいだろう。」p.96
・「つまり、話をきくということは問うということなのである。(中略)ひとをたずねて取材する能力は、べつなことばでいえば問う能力ということにほかならない。」p.101
・「いまの日本人、とりわけ若い学生たちに欠落している能力は、問う能力だ、とわたしは思う。」p.102
・「わたしはこれまでの体験のなかで、大記者、名記者といわれる人たちにたくさん会ったが、そういう人はひとりの例外もなく、柔和で、謙虚な人びとであった。」p.114
・「日本人は会話がへただ、とよくいわれる。たしかに、これだけ同質の単一民族が小さな島国にながいあいだ住みつづけてきていることも手つだって、われわれはあまりしゃべらないし、全般的に話すことがじょうずでない。」p.115
・「山や川は、けっしてことばによって語りかけてはくれない。だが、この、ものいわぬ風景そのものもまたわれわれの感覚器官になにごとかを訴える「情報」であることにかわりはない。」p.125
・「おなじ富士山でも、こうもかわった姿をみせるものか――わたしはこの連作版画をながめるたびに感動する。そして同時に、現地に行き、取材するということもまた、この「富嶽三十六景」に似たところがあるのではないか、と思う。」p.145
・「数あるニュースのなかには誤報もある。何万冊もの書物のすべてが全面的に信用できる、という保証もない。とすると、取材する人間にとってもっとも必要なのは、どの情報が正しいか、という「情報の鑑定学」であろう。」p.156
・「要するに、ぼう大な量の書物をひやかしてみるのである。教科書だの古典だの、きまりきった本にしかなじみのない学生などは、とりわけこうした知的散歩によって、古今東西の人間の知恵のゆれ幅の大きさを知るべきであろう。」p.161
・「わたしが名づける知的散歩というのはそういう無目的な情報行動のことであり、もしもわたしにいわせていただくなら、こうした知的散歩こそ、じつは人生における最大の快楽なのだ。」p.162
・「学芸は長く、人生は短し、という格言は正しいのである。われわれは、未完成品をたくさんのこしながら死んでゆくものなのだ。」p.172
・「まず、われわれとしては、そうした情報あつめを可能にしてくれた情報源、つまり、先人の業績だの、黙々とカタログや索引をつくってくれている人びとだの、あるいは談話取材に応じてくれた人びとだの、そうしたすべての人びとに感謝しなければならないだろう。」p.175
・「取材者の警戒すべき悪徳は独善と尊大である。目標とすべきは、人間的愛情と謙虚さである。そして、ここに使った「取材」ということばは、この書物の文脈からいえば、それを「学習」ということばで置きかえていただいても結構だ。われわれの一生は取材の連続であり、学習の連続なのである。」p.181
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