ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】2007年 読書記録 まとめ

2007年12月31日 17時00分11秒 | 読書記録2007
2007年 読書記録 まとめ
 今年読んだ本は計89タイトル。昨年の100タイトルよりちょっと減ってしまいました。明確に目標を立てるでもなく、なんとはなしに読んでいるとこんなものでしょうか。今年はあまり本を買わず、主に昨年大量に買った本を消化していました。
 昨年の『禁煙セラピー』のようなズバ抜けた本はありませんでしたが、今年読んだ本を見返してみると、2007年はベスト本はこの一冊になりそうです。
考える脳 考えるコンピューター, ジェフ・ホーキンス サンドラ・ブレイクスリー (訳)伊藤文英, ランダムハウス講談社, 2005年
近い将来に脳の仕組みを解明する! と豪語する著者による脳の仕組みについての仮説。多少専門的内容。

●この他、個人的趣味の範囲内で印象に残った本。
人間にとって科学とはなにか, 湯川秀樹 梅棹忠夫, 中公新書 132, 1967年
マンガは哲学する, 永井均, 講談社 SOPHIA BOOKS, 2000年
あいまい工学のすすめ 新しい発想からの工学, (監修)寺野寿郎, 講談社ブルーバックス B-486, 1981年

●一般向け音楽関連の内容で印象に残った本。
音樂の正体, 渡邊健一, ヤマハミュージックメディア, 1995年
オーケストラの職人たち, 岩城宏之, 文春文庫 い-7-5, 2005年

●一般向け小説で印象に残った本。
戦艦大和, 吉田満, 角川文庫 2529, 1968年
春の雪 豊饒の海(一), 三島由紀夫, 新潮文庫 み-3-21(2400), 1977年
笑う月, 安部公房, 新潮文庫 草121=18(3230), 1984年
すべてがFになる THE PERFECT INSIDER, 森博嗣, 講談社文庫 も-28-1, 1998年

 どうもブログの記事数をかせぐ事を意識して、薄めの本を選ぶ傾向があります。来年はもうちょっとマイペースで読めたら、と思います。
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【本】可愛い女・犬を連れた奥さん 他一遍

2007年12月29日 22時37分33秒 | 読書記録2007
可愛い女・犬を連れた奥さん 他一遍, チェーホフ (訳)神西清, 岩波文庫 赤622-3, 1940年
(Chekhov, DAMA S SOBACHKOI 1899, JONYCH 1898, DUSHECHKA 1899)

・チェーホフの短編集。『犬を連れた奥さん』、『ヨーヌイチ』、『可愛い女』の三編収録。
・犬を連れた奥さん:バカンス先での、女たらしの中年男(グーロフ)と "犬を連れた奥さん" との不倫の話。
・ヨーヌイチ:若さ溢れる令嬢に恋し、夢心地で言い寄るものの振られてしまう、医師のヨーヌイチ(スタールッツェフ)。数年後、立場が逆転するも、悲しいことに夢は覚めてしまった。
・可愛い女:尽くす相手の男がいることで、可愛くいられる女の話。しかし不幸にもその相手の男を喪い続ける。
・いずれも男女の間の機微がテーマの小説。サラッと読めるものの、いずれも人間の持つ恐ろしい真理が含まれている気がします。
・チェーホフがロシアの作家だとはじめて知りました。恥ずかしいことに。
●『犬を連れた奥さん』
・「さんざ苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女をなんと呼ぼうといっこう差しつかえない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。」p.8
・「『それにしても、あの女にはなにかこういじらしいところがあるわい』と彼はふと思って、そのまま眠りに落ちて行った。」p.12
・「グーロフは今またあらためて彼女を眺めながら、一生の間には実にさまざまな女に出会うものだ! と思うのだった。」p.14
・「わたしは良人をだましたのじゃなくって、この自分をだましたのです。」p.16
・「せいぜいひと月もすれば、アンナ・セルゲーヴナの面影は記憶の中で霧がかかって行って、今までの女たちと同様、いじらしい笑みを浮べて時たまの夢に現れるだけになってしまうだろう――そんなふうに彼は高を括っていた。」p.23
・「「わたしとても苦しんでいますの!」と彼女は、相手の言葉には耳をかさずにつづけた。「わたしはしょっちゅうあなたの事ばかり考えていたの、あなたのことを考えるだけで生きていたの。そして、忘れよう忘れようと思っていたのに、あなたはなんだって、なんだってまた出かけていらしったの?」」p.32
・「彼には生活が二つあった。一つは公然の、いやしくもそれを見たい知りたいと思う人には見せも知らせもしてある生活で、条件つきの真実と条件つきの虚偽でいっぱいな、つまり彼の知合いや友達の生活とまったく似たり寄ったりの代物だが、もう一つはすなわち内密に営まれる生活である。」p.34
・「どの女も実際の彼を愛してくれたのではなくて、自分たちが想像で作りあげた男、めいめいその生涯に熱烈に探し求めていた何か別の男を愛していたのだった。そして、やがて自分の思い違いに気づいてからも、やっぱり元通りに愛してくれた。そしてどの女にせよ、彼と結ばれて幸福だった女は一人もないのだった。時の流れるままに、彼は近づきになり、契りをむすび、さて別れただけの話で、恋をしたことはただの一度もなかった。ほかのものなら何から何までそろっていたけれど、ただ恋だけはなかった。  それがやっと今になって、頭が白くなりはじめた今になって彼は、ちゃんとした本当の恋をしたのである――生まれて初めての恋を。」p.37
・「それから二人は長いこと相談をしていた。どうしたらいったい、人目を忍んだり、人に嘘をついたり、別々の町に住んだり、久しく会わずにいなければならないような境涯から、抜け出すことができるだろうかということを語り合った。どうしたらこの耐えきれぬ枷からのがれることが出来るだろうか?」p.38
●『ヨーヌイチ』
・「一同が彼女をとり巻いて、おめでとうを言ったり、驚嘆してみせたり、あれほどの音楽は絶えて久しく耳にしたことがないと断言したりするのを、彼女は無言のまま微かな笑みを浮べて聴いていたが、その姿いっぱいに大きく『勝利』と書いてあった。」p.47
・「「いやはや、恋をしたことのない連中というものは、じつに物を知らんものですなあ! 僕は思うんですが、恋愛を忠実に描きえた人はいまだかつてないですし、またこの優にやさしい、喜ばしい、悩ましくも切ない感情を描き出すなんて、まずまず出来ない相談でしょうねえ。だから一度でもこの感情を味わった人なら、それを言葉でつたえようなんて大それた真似はしないはずですよ。序文だとか描写だとか、そんなものが何になります? 余計な美辞麗句が何になります? 僕の恋は計り知れないほどに深いんです。……お願いです、後生ですから」と、とうとうスタールツェフは切り出した、「僕の妻になってください!」」p.62
・「人間というものは、高尚な輝かしい目的に向って進んで行かなければならないのに、家庭生活はわたしを永久に縛りつけてしまうにきまってますわ。」p.63
・「『無能だというのは』と彼は考えるのだった、『小説の書けない人のことではない、書いてもそのことが隠せない人のことなのだ。』」p.69
・「『よかったなあ、この人をもわらないで』とスタールツェフは思った。」p.69
●『可愛い女』
・「が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の眼には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起こることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、なんの話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという恐ろしいことだろう!」p.97
●解説
・「それかあらぬかこの作品は、その手法の簡素さ、味わいの渋さ、ほとんど象徴的なまでの気分の深さ、更には暗鬱な地膚のうえに漂うそこはかとないほの明りなどによって、後期のチェーホフの芸術的特徴を遺憾なく発揮しており、彼の生涯を通じての一代表作たるを失わない出来ばえである。若きゴーリキイがこれを一読して、「リアリズムに最後のとどめをさすもの」と感嘆しているのもよく首肯できる事柄である。」p.111
・「「翻訳者は原作の裏切者である」――こんな言い古された言葉を神西清は『旧訳と新訳』の中で書きもし、また座談の折など口に出して語ってもいたが、自身「翻訳者は裏切者である」とは信じていなかった。」p.117
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【本】マンガは哲学する

2007年12月23日 21時18分29秒 | 読書記録2007
マンガは哲学する, 永井均, 講談社 SOPHIA BOOKS, 2000年
・「こんな本も出していたのか!?」 ブックオフで見つけ、気になる著者なので、105円でないのにもかかわらず、文庫本でないのにもかかわらず、即購入。久々に夢中になって本を読みました。
・古今のマンガを題材にし、哲学的解釈をくわえていく哲学入門書であるとともに、著者お気に入りのマンガを紹介する書。
・本を書くためにかなりの取材をしたのかもしれませんが、ずいぶんいろいろなマンガを知っているものだと感心しました。載っているのは知らないマンガばかり。私の場合はほとんど昔(約20年前)の『週刊少年ジャンプ』の範囲しかわかりません。
・このように哲学の視点から見てみると、マンガとは偉大なものだと改めて思いました。
・「私はまじめな話がきらいである。この世の規範や約束事をこえた、途方もないくらいまじめな話ならいい。少なくともニーチェのような水準のまじめさなら、まあゆるせる。中途半端にまじめな話はだめだ。ところが、世の中はそうした中途半端にまじめな話で満ちあふれている。(中略)そうしたすべてをぶち壊すような真実の声を聞きたい、そうでなければやり切れないではないか!  マンガに、ときにそれが聞き取れることを、私は以前から感じていた。(中略)二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。(中略)哲学という形で私が言いたかったこと、言いたいことの多くが、萌芽的な形態において、マンガ作品のうちに存在している。(中略)私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。」p.1
・「ともあれ、どうしても王様が裸に見えてしまうので「王様は裸だ!」と叫んでしまったあの子どもは、まわりの進歩的な大人たちにくらべて、あまりに保守的であっただけだ、という可能性があることは忘れてはならないだろう。」p.16
・「「言葉は通じるのに話は通じないという……これは奇妙な恐ろしさだった」。  このせりふは作者の哲学的知性の高さを示している。だか、ほんとうに「言葉は通じる」のであろうか。そもそも、言葉は通じるのに話は通じない状況と、言葉が通じない状況とは、どうちがうのか。」p.17
・「ところで、読者の皆さんは、このような作品を読み、さらに、こういう微妙な差異を発見することに、よろこびを見いだせるだろうか。そんなことはぜんぜんくだらないと思う人は、吉田戦車やウィトゲンシュタインを読むよろこび――とりわけ吉田戦車をウィトゲンシュタイン的に読むよろこび――とは無縁の人であろう。」p.28
・「つまり、絵はいわば神の視点から世界の客観的な事実を描き、文はその中の一人の人物の視点から内面的な真実を描き出すのである。  これはマンガという表現形式の一つの特徴であり、」p.46
・「「わたし」という語は、「これまでわたしがその性質を持っていることによって、わたしがわたしを他の人々から区別してきたその性質を、いま持っている人物」を指すことができる。」p.51
・「なぜ、そんなことができるのだろうか。なぜ、記憶を失い、自分の顔かたちさえ忘れてしまっているのに、どれが自分であるかはわからなくならないのだろうか。これが哲学的な問いである。」p.58
・「つまり、「全く同じ二人の人間がいる」とか「もうひとりの私がいる」といった同じ表現があてはまる状況にも、じつは二種類の異なる状況があるのだ。」p.71
・「さほどメジャーとはいえないが、私が個人的に最も愛するマンガ家といえば、なんといっても佐々木淳子――佐々木潤子でも佐々木倫子でもなく――である。とりわけ、表紙に「超幻想SF傑作集」と書かれた『Who!』は、まるでアイデアの宝庫のようで、すばらしい。」p.80
・「夢と現実の大きな違いは二つある。一つは、夢には現実のような一貫性、連続性がない、ということ。もう一つは、現実の側からは、夢に言及して、それについて(現実の中で)語ることができるが、夢の側からは、現実に言及して、それについて(夢の中で)語ることができない、という点である。」p.86
・「哲学とは、要するに、なぜだか最初から少し哲学的だった人が、本来のまともな人のいる場所へ――哲学をすることによって――帰ろうとする運動なのだが、小さな隔たりをうめようとするその運動こそが、おうおうにして深淵をつくりだしてしまうのである。」p.90
・「私には、宇宙のなかに地球という惑星があって人類の歴史があり日本という国があるといった「現実」のほうが、荒唐無稽なつくり話のような気がしてならないのだが……」p.96
・「だが、おそらく、狂った世界の中にただ一人狂わない者がいるなどということは、ありえないのである。「狂っている」という性質は、世界の中のある一人を除いて他の全員がそうであることができるような性質ではないのだ。」p.103
・「ドラえもんとは何か。それは、のび太の残した借金が多すぎて、百年たっても返しきれないセワシ君が、どじなのび太の運命を変えようとして、現代に送り込んだロボットである。」p.106
・「そう考えると、ドラえもんとはきわめて不思議な存在であることがわかる。彼は、いま自分がそこに存在している原因と、その存在理由そのものを、消し去るために存在しているのだから。自分の存在理由を消し去ることがその存在理由である存在!」p.106
・「善人であることは、ときに状況の意味をとらえそこなわせる。善人とは、道徳が何のために必要とされるのか(何を実現するための手段なのか)考えようとしない人だからである。」p.122
・「芸術の鑑賞とは、他者の狂気に触れる喜びなのではあるまいか。少なくとも、私の場合はそうだ。ずいぶんまえのことだが、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番を、グルダのCDで聞いていたとき、第一楽章の四分ちょっとのところで、全体の立派な構成と不釣合いな、異様に幼稚な、男の子の鳴き声が聞こえてきたことがある。聞き進むうち、その箇所からドクドクと血が流れ出しているのがありありとわかって恐ろしかった。そのときから、それまで美しいピンク色をしていると思っていたモーツァルトのすべての音が、じつはすべて血で染まったピンクだと知ったのである(「男の子の」という直感はその後聞いた多くのCDによって裏づけられた。すべての女性ピアニストがこの箇所の解釈を誤っているように聞こえたからである。ただし内田光子は、優しく包帯をまく看護婦さんのようにそこを弾いており、それはそれでとても美しい)。」p.143
・「死ぬということを、この世的な意味の次元に引き戻して考えるなら、だれかの夢の世界に入ることと考えるのがいちばん美しく、またいちばんふさわしい。  だが、ほんとうの死は、その夢からもなお排除されることなのである。」p.163
・「無を見てしまった者は、かつてない孤独を生きてゆかねばならない。業の糸を断ち切ってしまえば、自分を支えるものは何もない。生きる力の源泉そのものが涸れてしまうかもしれない。」p.179
・「禅はいろいろなものの捨て方を教えてくれるが、それは捨てるべきなにか巨大なものの処理に困っている人にしか役に立たないだろう。これは仏教そのものの本質かもしれない。」p.182
・「とりわけ、天才バカボンのママとはいったい何だろう? どうして平気な顔をしてこんなとんでもない男の妻でありつづけることができるのだろうか?  究極超人を超える超ー究極超人というべきか?」p.189
・「だが、つねに問いが答えを凌駕していることこそ、哲学的感度の存在の証なのである。」p.202
・「われわれが闘うべき悪魔などいないのだ。なぜなら、悪の象徴としての悪魔とは、われわれ人間のことだからだ。人間と悪魔のあざやかな逆転が描かれた名作である。(デビルマン)」p.208
・「田宮良子は言っている。「ハエは……教わりもしないのに飛び方を知っている。クモは教わりもしないのに巣のはり方を知っている。……なぜだ? わたしが思うに……ハエもクモもただ『命令』に従っているだけなのだ。地球上の生物はすべて何かしらの『命令』を受けているのだと思う……。人間には『命令』がきてないのか?」(寄生獣)」p.212
・「またこの本の読者は例外なく人類であろうが、われわれの存在の意味が人類であるということによって規定されているわけでもない。われわれ各人が人類の存続とその繁栄のために犠牲にならねばならない理由は何もない。またそこで通用している伝統や規範や約束事に信を置くべきいかなる理由も――最終的には――ない。」p.218
・「意図的に取り上げなかった作品のなかにも傑作は多い。たとえば諸星大二郎で私がほんとうに好きなのは『夢の木の下で』(マガジンハウス)なのだが、これを哲学的に解読し、本書のしかるべき場所に位置づける能力が、私にはなかった。(中略)またたとえば、小林よしのり『戦争論』のような作品も意図的に取り上げなかった。これは哲学的感度がないからである。世の中にすでに公認されている問題において一方の側に立ってしまいがちな人は、それがどのような問題で、どちらの側に立つのであれ、哲学をすることはまず不可能である。哲学は、他にだれもその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、だれも知らない対立の一方の側にひとりで立ってひとりで闘うことだからである(この戦いの過程や結果は世の中の多くの人々からは世の中ですでに存在している問題に対する答えの一種と誤解されてしまうのではあるが)。」p.220
・「なお、本書におけるマンガの引用は「報道、批評、研究その他の引用の目的上正統な範囲内で行われるもの」であるから、著者および出版社の許諾を得ていない。」p.221 ずいぶんマンガの引用(コピー)が多いので、一体どんな手続きを踏んだのかと不思議に思ったのですが、こんな抜け道があったとは。

《チェック本》
業田良家『自虐の詩』竹書房
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【本】クラシックCD名盤バトル

2007年12月20日 18時22分04秒 | 読書記録2007
クラシックCD名盤バトル, 許光俊 鈴木淳史, 洋泉社 新書y062, 2002年
・お題に挙がった曲について、二人の批評家がそれぞれ独自の視点からその曲について語り、お気に入りのCDを挙げる。掲載されているのは執筆者の好みが色濃く反映されていると思われる約80曲について。交響曲や組曲などのオケ曲中心で、オペラ・室内楽曲はあまり取り上げられていない。
・世の中にはいろんなCDがあるもんだなぁ~ と、まず驚き、そして、そのいろんなCDを把握し、なおかつこれだけ熱く語れることにまた驚きます。演奏するプロがいる一方で、演奏を『聴く』プロが存在するというのも不思議な感じ。
・一日につき、1~2曲づつちびちびと読み進み、読破。
・J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲の項の許氏の記事(p.27)が不可解。直前の鈴木氏の記事の劣化コピーのような文章。一体何があったのか?
・「永遠の名盤だの、不滅の名盤だの、名盤は時代を超えて生きると信じられているようだ。そんなこと、ありはしない。人間の考え方、感じ方、趣味はあれこれと移りゆくもの。それにつれて価値や評価が変わるのはあまりにも当然。」p.3
・「おそらく鈴木氏は、私がほとんど興味を持てない脱力系、無表情系の演奏家を次々に挙げて攻めてくるだろうと予想される。そんなものに負けてはいられない。こちらとしては、ローカル色濃厚地方料理、B級ほのぼのくつろぎ演奏、超有名演奏家の知られざる録音、正気のさたとは思えぬデフォルメ演奏などを目まぐるしく交代させて反撃するつもりだ。劣情の、違った、情熱の血をたぎらせた演奏を紹介できると思う。」p.4
・「こういうことを書くと、「要するに自分勝手に誉めたりけなしたりするだけじゃないか」と思う人もいるかもしれない。ズバリ、そのとおりだ。」p.5
・「近頃、チェリビダッケはすごいですねえ、と言う若い人々が増えてきた。私は一面では、嬉しくなくはないのだが、反面「CDなんかでわかるようなすごさじゃねえよ」と憤然ともするのだ。このふたりのすごさは、ヴァントのほうがややましとはいえ、とうてい録音などでわかってたまるものか。」p.7
・「要するに、ここに書いた文はすべて個人的経験の陳述に過ぎないと言ってもよい。最近、音楽や芸術を語ることとは自分の経験を語ることでしかないという思いをますます強く持っている。」p.8
・「とはいえ、名曲名盤をあつかった本というのは昔からたくさんあって、巷でその道の権威といわれている評論家サマが「わしはこれを薦める。されば君はこれを買え」と言っているようなもので、簡単に言えばかなりいかがわしいものだ。断るまでもなく、わたしはいかがわしいものがたいへん好きな性分なので、そういうものを喜んで読んでいたりしちゃっているし、「ねえ、あんたもいかがわしいことやってよ」と耳元で囁かれたりすると、「ハイ喜んで」と答えるだけの素直さも持ち合わせている。」p.9
・「「能面のように無表情な」という喩えをよく目にする。なるほど、能面そのものは確かに感情フラットの状態を保っているように見える。しかし、舞台上で役者の仕草やセリフなどの状況と組み合わされると、能面は刻々と表情を変えていくものなのだ。このとき、能面ほど表情豊かなものはないといっていい。そして、一切はあらゆる要素の組み合わせによっていかようにも変化する。だから無表情な素材こそが多くの表情を生みだす可能性があるとわたしは思っているし、そもそもチェリビダッケやヴァントも無表情を極めたゆえに、あれほどの表情を持った音楽になったのではないだろうか。」p.10
・「私は大学のとき、日本におけるバロック音楽研究の第一人者であった皆川達夫氏の授業に出ていた。皆川氏の語りは同じ内容を何度も繰り返しているせいか、完全に練り上げられており、様式化されていた。(中略)ヴィヴァルディには冷淡だった。「日本人は四季魔です!」というジョークがことのほかお気に召していた。」p.21
・「いかなる作戦も計算も天才が何気なく弾く一音には及ばないのが、芸術の残酷きわまりない真理なのだ。」p.23
・「すぐれた指揮者においては必ずや指揮が肉体表現になっている。」p.32
・「明るい雰囲気のなかに一瞬暗い影を落とす、これがモーツァルトの真価ではないのか。悲劇は悲しい身振りで表現されるよりも、明るい振る舞いのなかにあったほうが、それをリアルに感じとることができるのではないのか。」p.49
・「私としてはこの作品(モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番二短調 K.466)は、酒場での悲しい酔っぱらいであるとしても、無口でチビチビ杯を傾け、飲むほどに目が据わってくる、だが、その目の中には異常な激情が燃えさかっており、酒場の姉ちゃんが思わず「あの人、怖い!」と叫んでグラスを落としそうな音楽だと思う。」p.50
・「弦楽四重奏の響きは私には気持ち悪い。各奏者のヴィブラートのぶつかりあいがとても不愉快である。ハーモニーが濁る。」p.53
・「結局、第九はこのように作品のまっただ中を生きるようにして演奏するほかあるまい。理屈ではなく、信念の、信仰の作品なのである。」p.78
・「そうだ、アンセルメの演奏を聴いたとき、いささか呆気にとられたことがあった。この人、恐ろしいばかりにこの曲(第九)に何も思い入れがない! なんの先入観も共感もない。地球にやってきた宇宙人が、突然スコアを手渡されて、こんな作品よう知らんけど、とりあえずやってみました。どう? みたいな音楽になってるんだから。」p.79
・「苦労人が振ると、必ず病的になっちゃうのがメンデルスゾーン。演奏するだけでその人の育ちがわかってしまう、ちょっとコワイ音楽だ。」p.111
・「だから、演奏も基本的に遅い方がよい。遅いほうがあらゆる音の動きの妙なる美しさ、一音ごとに移り変わる色の変化、つまり作曲家の魔法や思考や、それが生み出す美しさが堪能できるからだ。そして、近頃思うのだが、遅いテンポが快適なのは、呼吸や脈拍といった体のリズムとも関係があるらしい。演奏とは、聴衆の呼吸をコントロールすることではないのかという仮説を考えている。もしそうだとしたら、演奏とはまさしく催眠術であろう。」p.138
・「本日のご教訓――「チェリビダッケの他にいい演奏がない作品、それを駄曲という」」p.142
・「このアダージョで終わる交響曲(ブルックナー9番)は、不完全ゆえにロマンティックに輝くのよ。夭折した子どもほど可愛いっていうじゃない。そもそも、第三楽章の最後、大規模なカタルシスのあとに救済のようなコーダが続くのよ。このあとに音楽が必要だとしたら……それは茶番でしかないわね。」p.145
・「ズバリ、交響曲第一番においてブラームスは伴宙太にも等しいダサさを発揮しているのだ。」p.151
・「そん中でも、この三番目の交響曲は、良くも悪くも、もっともブラームスらしいシンフォニーだ。第一番は力こぶが入りすぎていてカッコ悪いし、二番はしゃれているけどなにやらヨソ行きの雰囲気だし、四番の完成度はメチャ高いけど、すでに作曲者の体臭がなくて寂しくなるときがある。」p.155
・「ジョージ・セルはオーケストレーションの勉強をしたいならビゼーの楽譜を読めと言っていたらしいが、確かに《アルルの女》のスコアからは透明、明快でいて、喜怒哀楽や雰囲気のニュアンスに富んだ音が出てくる。」p.161
・「ケーゲルの「アルル」を聴いたら、他の演奏は必要じゃなくなる。もっとすごい演奏があるのではないか、探せば出てくるのではないか、という希望を最初の何秒かで打ち砕き、そんなことをしている暇があれば、もっとこの演奏を聴きたいと切に思うだろう。」p.163
・「私がこの曲の初演を頼まれたら(またも傲慢な仮定)やはり断るであろう。レオポルト・アウアー(初演を頼まれて断ったヴァイオリニスト)は正しかった。」p.178
・「グリーグには《交響的舞曲》や《ホルベルク組曲》などいい作品が少なからず残っているのに、この作品(ペール・ギュント)だけだ格別につまらないのはやはり音楽としては何かが足りないのだと。」p.183
・「ブラームスの交響曲第一番が伴宙太タイプだとしたら、このボロディンの第二番は左門豊作タイプの音楽である。はっきり言ってイモっぽい。しかし、そこに滋味があるのだ。けっして美人ではないが、いっしょにいて幸せなタイプな女性とでも言おうか。」p.197
・「また、オリジナル流行りの昨今にもかかわらず、なぜ「ピョートルとオオカミ」と呼ばないのか。ピーターは軽薄な感じがして勇ましい男の子としてはどうかと思う。また、オオカミは「狼」と漢字にすると、いかにもカタカナで書かれた人間の敵という印象になるので、私としてはあえて同じカタカナで記したい。」p.279
・「私がショスタコーヴィチの教師であったら(またまた傲慢な想像)、この不憫な弟子のために惜しみなく涙を流したであろう。」p.297
・「結果的には感情に訴えかける演奏をたくさん選ぶことになったのは、響きだけを問題とする演奏を録音で聴くのは忍びないからだ。感情型の演奏のほうが、録音だと楽しめると思う。」p.312

《チェックCD》
・ヘンデル:水上の音楽/ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団[DECCA](61年録音)
・シューベルト:交響曲第8(9)番ハ長調《ザ・グレイト》/ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・ドイツ交響楽団[SFB自主制作]
・ショパン:スケルツォ集/イーヴォ・ポゴレリチ(ピアノ)[DG](95年録音)
・フランク:交響曲二短調/セルジュ・チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送響[海賊版Artists]
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調/ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団[BMG](82年録音)、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団[RCA](51年録音)
・ビゼー:劇音楽《アルルの女》組曲/ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団[Berlin Classics]
・ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》/セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル[海賊版Artists](86年録音)
・チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調/ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団[SONY](59年録音)
・チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲二長調/ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)、ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団[DG](79年録音)
・リムスキー=コルサコフ:交響的組曲《シェエラザード》/セルジュ・チェリビダッケ指揮[海賊版METEOR]
・マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》:クラウス・テンシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団・合唱団[海賊版First Classic]
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【本】日蝕

2007年12月15日 19時50分15秒 | 読書記録2007
日蝕, 平野啓一郎, 新潮文庫 ひ-18-1(6807), 2002年
・1998年芥川賞受賞作。舞台は15世紀のフランス。魔女狩りが行われる時代に、僧侶ニコラが遭遇した不思議な体験についての記録。
・まずページを繰ってド肝を抜かれるのが、難しい漢字や熟語の多さです。明治から昭和初期に使われていたかのようなイメージですが、今の世でも振り仮名さえあれば読める、ホントにこんな文体が過去存在したんかいな!? という時代不詳の不思議な文体。率直に言って、読みづらいことこの上ない。50ページくらいまで読み進んだところでようやく慣れてきました。日本語の表現の豊かさを知るという意味では良いかもしれませんが、この文体で500ページを超える長編なんて書かれてしまうととても読む気にはなれません。この200ページがギリギリ。
・ストーリーについて前知識無く読み出し、はじめは遠藤周作のようなキリスト教をテーマにした時代物かと思ったのですが、途中から雲行きは怪しくなり、終にはSFと言ったらいいのか、ファンタジーと言ったらいいのか、そっちの方向へ。
・デビュー時には「三島由紀夫の再来」と評されたそうですが、一体どこをどう読んだらそう言えるのかイマイチわかりません。少なくとも『日本語の美しさ』という点では……ちょいと厳しい。
・写真は本文184、185ページ。物語のクライマックスを、驚愕の2ページ空白ブチ抜き。
・「何たる無邪気さ。何たる貧しさ。  人びとは、終に基督(キリスト)の意味を解さなかった。私が為に最も堪え難いことは、彼等が、神がこの地に下ったことの意味を、精々、生活規範の体現の為程にしか考え得なかったことである。彼等は人間基督を愛し、その生涯を愛した。そして基督に、卓越した人格者の姿をしか見なかったのである。」p.38
・「一体人は、目的と云うものに対して、平時より、此処に云うが如き焦燥を多少は有しているのであろう。」p.52
・「言葉と云うものが、本来理性の鞭杖に因って鍛えられた、筋肉の如くあるべきだとすれば、ジャックのそれは、感情に因って、その一部分のみに徒に脂肪の附いてしまったような、頗る均衡を欠いたものであった。」p.94
・「稍(やや)在って、私は強いて口を開いた。長過ぎる沈黙が、私の手を離れて勝手な意味を有することを嫌ったからである。」p.96
・「……舎へと戻りながら、私はふと、里昴(リヨン)で司教より借受け、旅立ち前に一読した『ヘルメス選集』の中の一説を思い出した。  「……そこで敢えて云おう、地上の人間は死すべき神であり、天界の神は、不死なる人間である、と。」」p.110
・「ピエェルは嘗て、錬金術は畢竟作業が総てであり、仮に万巻の書を読み尽くしたとしても、実際に物質に向かうことをせぬのであれば仍(なお)得る所は無であろう、と繰り返していた。これはピエェル自身の信条であり、又、私に対する忠告でもあった。この言の意味を私は漸く今頃になって理解するようになった。」p.200

?らくえき【絡繹・駱駅】 人馬や車の往来が絶え間なく続くさま。
?えいいき【塋域】 墓場。墓地。
?しゅうせん【鞦韆】 1 ぶらんこ。《季・春》  2 (―する)前後にふること。ゆすること。
?きゆ【覬覦】 身分不相応なことをうかがいねらうこと。非望を企てること。
?かんそう【盥嗽・盥漱】 手を洗い口をすすいで身を清めること。
?がいわん【駭惋】 おどろきなげく。おどろいて残念がる。
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【本】デジタル一眼レフ撮影ワザ マスターガイド

2007年12月11日 22時01分21秒 | 読書記録2007
デジタル一眼レフ撮影ワザ マスターガイド, (編)デジタルカメラマガジン, インプレスジャパン, 2007年
・デジタル一眼レフカメラの入門書。数ある入門書の中でこれがベストかどうかはよくわかりませんが、基本的なポイントはきちんとおさえてあると思います。素人の私でも理解可能なレベルでした。
・職場にてイベント時のカメラマンとしてすっかり定着してしまいました。カメラについての知識がほとんど無いので、レベルアップを計るために購入。新刊本を買うなんて久しぶり。
・普段私たちが目にする写真のほとんどが、プロの手によるうまく撮れた『作品』ばかりですが、その作品の裏にはこんなに様々な技術があるのですね~
・表紙の「写真とカメラの基本がマスターできます」の文字にハッとさせられました。考えてみると『写真』と『カメラ』は全く似て非なるものです。『カメラ』については知識と練習で扱いは上手になるでしょうが、『写真』となると、撮る人の物を見る目、いわゆるセンスが問題になり、本(文章)では修得不能で難しいところです。実際、このような入門書を手に取る人の心の中には、カメラの扱いに関する知識だけでなく、「人の心をひきつける写真の撮り方を…」なんて気持ちもいくらかあるでしょうが、そのような要求にきちんと応えられる本はなかなか無さそうです。例えるなら、読むだけで上手くなるバイオリン教則本でしょうか(あったらいいな)。あとは練習あるのみ!
・「スポーツの世界では、フィールドに立つ前に、かならず練習をするのが常識です。しかし、写真ではいきなり本番に向かってしまう。なぜ、いい写真が撮れないのかがわからないまま、写真に飽きてしまうこともあります。写真をスポーツとしてとらえ、練習が必要であるという点を、もっと広く伝えていきたいと考え、本書を作りました。」p.10
・「絞りとシャッター速度の関係は蛇口から流れる水にたとえるとわかりやすいです。蛇口から流れる水は光、蛇口の栓は絞り、どのくらいの時間水を流すかはシャッター速度、コップに貯まった水の量は画像の明るさに相当するというわけです。」p.28
・「前ページで説明したとおり、絞りシャッター速度の設定で露出=画面の明るさが決定します。」p.29
・「写真はすべて構図の決め方から始まるといってもいいでしょう。  横で撮るか縦で撮るかで表現が変わります」p.42
・「シャッターを切る前に、画面の四隅を見る習慣をつけましょう。」p.43
・「しかし、デジタルカメラの撮影では、それらフィルターの役割をカメラ側に内蔵しました。それがホワイトバランスという機能で、その場の光に合った色合いを再現できることが、デジタルカメラの最大の特徴のひとつです。」p.46
・「構図と配置にもちょっとしたコツがあります。ストレートにいうならば「すべてをフレームに入れない」ということです。皿やランチョンマットにもこだわったのだからと、ついつい全姿を撮ってしまいがち。しかし、料理写真では被写体である食べ物がメインであり、テーブルウェアは演出道具にすぎません。おいしそうな部分にピントを合わせて思い切りのいい構図で撮影しましょう。」p.71
・「まず、肉眼でどんなふうに切り取るかを考える、という習慣をつけましょう。」p.77
・「まず、肉眼でイメージを作り、それが何mmに相当するかを考える、というクセをつけましょう。」p.77
・「眼前に見えている景色から、どの部分をどう切り取るかを考え、要素をそぎ落としていって、まずは「シンプルな画面」を心がけましょう。」p.79
・「写真が発明されてから168年という長い歳月が経過しました。その間、いちばん撮られてきた被写体といえば、やはり人間といえるでしょう。」p.81
・「デジタル写真はフィルム代や現像代の心配がいらないので、目にとまったものは積極的に写真に収めるようにしましょう。撮影しておいて、後悔することはまずありません。撮影していなくて後悔することはたくさんあります。」p.82
・「ピント合せの基本は目です。目にしっかりとピントが合っている写真は、表情がいきいきとして、それだけで8割方は成功といえるほど重要なんです」p.90
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【本】異常の構造

2007年12月06日 22時03分24秒 | 読書記録2007
異常の構造, 木村敏, 講談社現代新書 331, 1973年
・「異常とはどういうことか?」 この問いに精神病理学の立場から迫る。
・いわゆる「正常者」にとっては、異常かどうかの判定は直感的に容易にできるが、いざそれを、どこがどう異常なのかを言葉で説明するのは難しい問題。
・骨太な内容。哲学的香りのする抽象的な議論がちょくちょく出てきて難しい部分もあり。
・精神分裂病(統合失調症)の原因について、筆者は環境説の立場のようですが、その記述にちょっとひっかかりを感じる。
・「満腹しきっているときには、私たちは食物に対してあまり関心を示さない。欲求は欠乏の函数である。現代の社会が異常な現象に対してこれほどまでに強い関心を示すということは、私たちがなんらかの意味で異常に飢えていることを意味しているのではなかろうか。(中略)逆に現代の社会は「正常すぎる」ために異常を求めているのかもしれないのである。」p.8
・「要するに、異常で例外的な事態が不安をひきおこすのは、安らかに正常性の地位に君臨しているはずの規則性と合理性とが、この例外的事態を十分に自己の支配下におさめえないような場合が生じたときである。つまりその例外が、合理性とは原理的に相容れない、合理化への道がアプリオリに閉ざされた非合理の姿で現れる場合である。」p.12
・「科学とは、私たち人間が自然を支配しようとする意志から生まれてきたものである。」p.13
・「さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人と他の人びととの間の関係の異常として現れてくる。」p.16
・「私たちは、いかなる形においてであるにせよ、事物のそれ自体において真である姿をゆがめ、これを隠蔽することなしには存続しえない定めを負うている。ここに人類の原罪がある。しかし、しょせん罪あるものならば、みずからの罪を冷徹に見透してみずからを断罪するほうがいさぎよいのではないか。虚構は、それがいかに避けられぬものであるとはいえ、虚構として曝露されなくてはならないのではないか。これが本書の意図である。」p.18
・「すなわち、患者はさしあたってまず苦痛から逃れることを希望する。しかし、医師の立場はここで必ずしも患者の立場と一致しない。医師は患者の苦痛そのものよりも、その基礎にあるにちがいない病変の発見により重点を置くからである。」p.23
・「つまりふつうならば常識の支配下にあるはずのことがらが、根底から非常識によって支配されてしまっているという形で出現してきた場合、私たちはこれを非常におかしなこととして、ふつうには起こりえない異常なこととして経験することになるだろう。」p.37
・「砂糖をなめたときに感じとったのと同じ感触が、ヴァイオリンの音色を聞いたときにも感じとられ、そこで私たちは私たちにとってより親しいほうの味覚的な表現を聴覚にも転用して、「甘い」音色ということをいうのだろう。」p.42
・「ことに特徴的なのは抽象的で難解ないいまわしが多用されることであって、ときにはふつうの国語にはないような新奇な単語が創作されたり、ある言葉が本来の意味とはまったく無関係な独創的な意味で用いられたりすることもある。」p.53
・「――周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。――なにもかも、すこし違っているみたいな感じ。なんだか、すべてがさかさまになっているみたいな気がする。」p.58
・「面接のたびに患者から再三再四もち出される「どうしたらいいでしょう」という質問は、私たちが通常ほとんど疑問にも思わず、意識することすらないような、日常生活の基本的ないとなみの全般にわたっていた。」p.59
・「なにかが抜けているんです。でも、それが何かということをいえないんです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか――」p.78
・「ちなみに、私の印象では子供を分裂病者に育て上げてしまう親のうち、小・中学校の教師、それも教頭とか校長とかいった高い地位にまで昇進するような、教師として有能視されている人の数がめだって多いようである。」p.102
・「実際、分裂病者の大半がこのような恋愛体験をきっかけとして決定的な異常をあらわしてくる、といっても過言ではない。恋愛において自分を相手のうちに見、相手を自分のうちに見るという自他の相互滲透の体験が、分裂病者のように十分に自己を確立していない人にとっていかに大きな危機を招きうるものであるかということが、この事実によく示されている。」p.103
・「常識的日常性の世界の一つの原理は、それぞれのものが一つしかないということ、すなわち個物の個別性である。」p.109
・「常識的日常性の世界を構成する第二の原理としては、個物の同一性ということをあげることができる。」p.111
・「常識的日常性の世界の第三の原理は、世界の単一性ということである。」p.115
・「以上において提出した常識的日常性の世界に関する三原理は、すでに見てきたように相互に深く入りくみあっている。そこでこれを一つにまとめて、単一の公式で表現するとどうなるか。(中略)この公式は形の上ではこの上なく単純なものである。
 1 = 1
 これが私たちの「世界公式」にほかならない。
」p.119
・「患者から見れば、私の質問こそ「非常識」と感じられたのではなかろうか。」p.140
・「患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言いあらわしているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない。」p.140
・「「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇形的頭脳の持主だとすらいえるかもしれない。」p.141
・「まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除するのであるか。次に、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、いかなる正当性によって非合理の「異常者」の存在をこばみうるのであるか。」p.145
・「「異常者」は、「正常者」によって構成されている合理的常識性の世界の存立を根本から危うくする非合理を具現しているという理由によってのみ、日常性の世界から排除されなくてはならないのである。そしてこの排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提している生への意志にほかならない。」p.157
・「分裂病者を育てるような家族のすべてに共通して認められる特徴は、私たちの社会生活や対人関係を円滑なものとしている相互信頼、相互理解の不可能ということだといえるだろう。」p.174
・「私は、ふつうにいわれている意味での「分裂病性の遺伝」や「分裂病性の素質」は信じたくない。そこにはつねに、なんらかのネガティヴな評価が、つまり「先天的劣等性」のような見方が含まれているからである。私はむしろ、分裂病者とはもともとひと一倍すぐれた共感能力の所有者であり、そのために知的で合理的な操作による偽自己の確立に失敗して分裂病におちいることになったのだと考えている。そのようなポジティヴな意味での「素質」ならば、十分に考えられることだろう。」p.176
・「アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障にたとえられるならば精神病は好ましからざるテレビ番組にたとえられ、ふつうの治療が受像機の修理に相当するとすれば精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている。」p.179
・「分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である。」p.180
・「分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。」p.182
~~~~~~~
・古本なものでページの合間にレシートがはさまっていました。写真では薄くて見づらいですが、「毎度有難うございます 室蘭工業大学 生活協同組合 73-10-26」の印字があります。その日付にビックリ。今から34年前、私が生まれた約2ヶ月後のレシートです。電話番号5桁だし。こんなに古いレシートって見た記憶がないなぁ。おそらく前所有者は工大周辺にその当時からずっと住んでいる方なんでしょうね。どんな人だかちょっと気になります。レシートは元のまま本にはさみ、再び眠りへ。次にまた発見される時は来るのでしょうか。
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【本】音樂の正体

2007年12月02日 22時05分51秒 | 読書記録2007
音樂の正体, 渡邊健一, ヤマハミュージックメディア, 1995年
・音楽の正体に、その「構造」から迫る、音楽理論の入門書。同名のテレビ番組の内容をまとめたものだそうですが私は未見です。『音楽の』と謳ってますが、実際の内容は『西洋音楽の』です。
・以前、楽典の教科書を買い、勉強しようとしてみましたが途中で挫折しました。あまりに無愛想というか、その『意味』がつかめないまま、ひたすら丸暗記するようなところに耐えられず。おかげで今でも、ほとんど楽典の知識の無いまま楽器を弾いています。「♯2つは何調?」と聞かれても、ナント、出てきません。そんな "音学" 音痴の私でも最後まで読み通せる内容です。卑近すぎるほど卑近な例えを豊富に使い、音楽理論を丁寧に解説しています。特に、例示の楽譜がハ調に統一してあると、曲間の比較が容易で曲の構造が非常に理解しやすいです。「こういう仕組みになっていたのか!」と膝を打つ個所多々有り。
・手元にピアノかキーボードを置いて、音を鳴らしながら読み進むと、よりよく理解できると思います。
・『やさしい!』とか『誰でもわかる!』などという言葉が売り文句の本の中にあって、成功している稀有な例だと思います。本格的な楽典への橋渡しとして、音楽理論をちょっとかじってみたい人や、過去、私のように楽典の勉強に挫折したことがある人にもオススメしたい一冊です。ただし現在絶版ですが。
・結局この本を読んでも、「♭3つは何調?」には答えられないのですが、かなり勉強になりました。是非続編を望む。
・「では一体その音楽の正体を知るにはどうしたらいいか? 「構造」を理解することが最も早道だろう。」p.4
・「どんなに難しいシンフォニーでも中学生に説明できないものはないと言っていい。音楽は今まで難しく語られすぎたのだ。」p.5
・「I度は、その調の中心になっている和音なので、いわばダンナ役。「トニック」とも呼ばれる。そのI度をガッチリと支える頼もしい女房役がV度。「支配する、権力のある」という意味の言葉である「ドミナント」という言い方で呼ばれるぐらいだから、やはり1つの調のなかでは山の神としてデンとかまえた存在なのだ。そのV度(妻)と似た働きをするけれども、V度よりはずっと安定感に欠ける存在なのがIV度。いわばI度の愛人役といったところだろう。「サブドミナント」と、やはり妻、ドミナントのサブ役の名で呼ばれる。」p.12
・「音楽という芸術が自由とはほど遠い存在であるがゆえに、逆に殻を破りたいという強烈な衝動が生まれ、その衝動が見事にエネルギーへと転化するからこそ、音楽は感動を生みだせるのである。それこそが音楽の正体なのだ。」p.21
・「行っていいコード、いけないコード 基本的和音進行
●Iは何にでも進める
●IIはVにしか進めない。
●IVはVI以外何でも進める。
●VはIとVIにしか進めない。
●VIはI以外何にでも進める。
」p.22
・「親友の親友、つまりドミナントのドミナントが曲中で突然鳴るわけである。ハ調で言うなら、ハ調にとってト調のドミナントは一切関係がない。それがイキナリ鳴る、というのは雑踏の中で急に親友の親友と知り合うかのような心地よいショックがあるのだ。」p.68
・「本来メロディーは、和音の中にある音を鳴らすのが原則なのだ。原則通りの曲は次の「キラキラ星」。」p.86
経過音のようにハザマにヒョイと現れるわけでなし、補助音のようにまとわりついている主体性のない音ではなし、掛留音のように前の小節から丁寧に予告されているというものでもない、イキナリ現れて、ガーンとかます、これが非和声音の女王、倚音の正体なのだ。」p.89
・「言ってみれば恋の上手な女のコたちが男をくどくときのテクニックに似ているのかもしれない。ふたりで部屋にいてだんだんムードが出てきた、よーしそろそろ行くぞという時になぜか「私帰る」とイキナリ言う。「そりゃないんじゃないの」と男がたじろぐと「私を好きじゃないならね」とくる、当然「好きダヨ、好きだヨ、好きに決まってるじゃん!」となる。甘いなァ、甘い……、なかなか遭遇することのない甘い瞬間である。  この、「私帰るゥ」とすねたように突然言うテクニック、これが正に「倚音」なのだ。」p.90
・「チョーキングのテクニックとは、とりも直さずアドリブで倚音を作るテクニックのことだったのだ。」p.97
・「リムスキー・コルサコフの名人芸によって本当にあの曲は信じられないぐらい写実的に熊ん蜂の飛ぶ様を描いてはいる。しかし、全くタイトルを知らされずにあの曲を聴いて、一体何人がちゃんと熊ん蜂だと答えられるだろうか……?(中略)タイトルは音楽の(へたをしたら)半分ぐらいの要素かもしれない。それほど重要な役割を担っているのである。」p.126
・「つまり音楽は、宗教や行事(社会生活)や文学等、音楽以外の何かといつも一緒くたにされて作品化される存在だったのである。  しかし18世紀末、ヨーロッパのど真ん中フランスで革命が起こった。教会と貴族と王がナントいっぺんに倒されてしまったのだ。」p.129
・「和音の中で大事なのは、和音の根っ子に当たる根音と、その上で幹となる第3音。この2つは省略したら木が倒れてしまうわけで、なかなか省略できない。できるとすれば枝葉末節というぐらいだから葉の部分に当たる第5音だ。」p.140
・「トニックという男性的な存在のかなめの音とドミナントという女性的な存在のかなめの音を両方持っていて去就がハッキリしない。両方の第3音をなぜか一人で持っているという両性具有の和音、それがIII度の和音の特徴だ。」p.141
・「音楽理論では、あたかも和音が転回しているようだというわけで、これを転回形と呼ぶ。一回ひっくりかえっているのが第1転回形、2回ひっくりかえっているのが第2転回形。ひっくりかえればひっくりかえるほど、安定性信頼性を失っていくという傾向がある。」p.152
・「だからどんなに複雑に作られている音楽でも、ほぼこの四声に還元できるといっていい。したがって、ソプラノ・アルト・テノール・バスという名称は何もオペラの時だけではない、音楽の声部の基本(つまり音域別の役割分担の基本)となっているのである。」p.163
・「つまりシャンソンの4分の3とは、4分の3と言いつつ、実は4分の12に似た複合拍子的なアクセントの構造を持っていたのである。」p.180
・「ソナタ形式とは要するに弁証法なのだ。『正―反―合』と構成原理は一致する。反定立との矛盾葛藤をのりこえて一段高次の『合』に達する喜び、人類にとって普遍のドラマなのであろう。」p.205
・「2回同じことをくりかえさない。これは音楽の鉄則と言ってもいい。」p.211
・「年末になるとふだんクラシックを聴かない人も大挙押しかける第九。いつもはクラシックにアレルギーがある人も、なぜ第九にだけは素直に感動できるのか?  それが最も原初的な音楽形式・変奏曲であるからだ。」p.216
・「音の高さを示すセントという単位で書いたのが上図。一見しておわかりのように、「レの♭」より「ドの♯」の方が高い音なのだ。この違いをバイオリンはちゃんと弾き分ける。逆に弾き分けられなければ、バイオリニストとは言えない。」p.218
・「人間は飽きやすい動物である、前と同じはイヤ、といつも工夫をしていたい動物である。前の人が1分間に3回転調したなら、自分は4回転調してやろう。4回転調していたなら、5回転調してやろう…。(中略)そして遂にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」になると、ほとんどいつも転調している、というとんでもない状態にまで立ち至ってしまった。」p.223
・「ひと行程終えるまで(バロック期から無調期まで)にクラシックは200年、ジャズは50年、ロックは20年。メディアの発達によるためだろうか。音楽はどんどん消費される速度を増しているようなのである。」p.224
・「「平均律」遺伝子が注入された時と同じように強力な新遺伝子がやはりまた必要な時代に来ているのだろうか? だとしたら、これから迎える21世紀、私達は大変幸せな時期に生きていることになる。音楽が再び新たに輝きはじめる正にその時に、同時代人として居合わせることになるからだ。」p.226

《チェック本》池辺晋一郎 『オーケストラの読みかた―スコア・リーディング入門』学研
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【本】スタンド・バイ・ミー

2007年11月29日 22時12分19秒 | 読書記録2007
スタンド・バイ・ミー ―恐怖の四季 秋冬編―, スティーヴン・キング (訳)山田順子, 新潮文庫 キ-3-5(3818), 1987年
(DIFFERENT SEASONS Vol,I, Stephen King, 1982)

・四季にちなんだ中編4編のうち、秋編『スタンド・バイ・ミー ―秋の目覚め―(―The Body)』と冬編『マンハッタンの奇譚クラブ ―冬の物語―(―The Breathing Method)』の二編収録。
・スタンド・バイ・ミー:作中の "わたし" である、ゴードン・ラチャンスの若き日の回想。1960年代の12歳当時、仲間だったクリス、テディ、バーンと四人で行った、行方不明になった少年の死体探しの冒険について。
 同著者の著作は初見です。この作品もとても有名ですが、主題歌を耳にしたことがあるくらいで、映画も見たことがありません。もともと『スタンド・バイ・ミー』という題は原作にはなく、映画または主題歌からきているようです。映画は原作に忠実に映像化しているとすると、かなり怖い映画になっていそうで、怖いのが苦手な私にはちょっと見る勇気はありません。
・マンハッタンの奇譚クラブ:舞台はニューヨークの街の片隅にひっそりと佇む、紳士たちが集うクラブ。そこでメンバーの一人の老人が語った昔話。産婦人科医をしていた当時に出会った、ある魅力的な患者にまつわる不思議な思い出。
 元医師の老人の話がはじまると、ぐっと話に引き込まれる。戦慄のラスト。
・こちらの理解力が足りないのか、話がわからずちょっと前に戻って確認することしばしば。多少ストレスを感じる文章です。
・「しかし、作家は二万語に近くなると、短編の域を越えはじめたことを知る。同様に、四万語を過ぎると、長編の域に入ったことを知る。この厳然とした二つの領域にはさまれた中間の領域では、境界というものが明確にされていない。が、ある時点で、作家は自分が恐ろしい領域に近づいたことにはっと気づき、長めの中編(ノベラ)(わたしの好みとしては、多少気取っているが<中編小説(ノベレット)>ともいう)とよばれる、文字どおり無秩序なバナナ共和国に足を踏み入れてしまったことを知る。」p.9
・「暗がりに青ざめ血だらけになったデニーが、頭の横っちょがぐしゃりとつぶれ、シャツに、灰色の筋の入った血と脳のかたまりが乾いてこびりついたデニーが、立っているところを想像してしまう。デニーの両手があがり、血まみれの両手がかぎ爪のように曲がり、しわがれた声で呼びかける光景を想像してしまう。デニーは言う。 "おまえが死ねばよかったのだ、ゴードン。おまえだったらよかったのに" と。」p.64
・「「ただし、夢の中じゃ、おれはいつもあいつをつかみそこねるんだ。髪の毛を二、三本つかむだけで、テディは悲鳴をあげて落ちてしまう。気味が悪いだろ?」」p.115
・「一度、クリスが膝をすりむいた小さな子どもと、縁石にすわっているのを見たことがある。クリスはぜんぜん知らない子に、なにか話しかけ――町に来ていたシュライン・サーカスのことか、テレビの『珍犬ハックル』の話だろう――いつのまにか、その子にけがをしたことも忘れさせてしまった。クリスはそういうことがうまい。そういうことがうまくできるほど、充分にタフなのだ。」p.141
・「「おまえの友達はおまえの足を引っぱってる。溺れかけた者が、おまえの足にしがみつくみたいに。おまえは彼らを救えない。いっしょに溺れるだけだ」」p.205
・「なににもまして重要だということは、口に出して言うのがきわめてむずかしい。なぜならば、ことばがたいせつなものを縮小してしまうからだ。おのれの人生の中のよりよきものを、他人にたいせつにしてもらうのは、むずかしい。」p.225
・「本当は、こうも言いたかった。人がものを書くたったひとつの理由は、過去を理解し、死すべき運命に対し覚悟を決めるためなのだ、だからこそ、作品の中の動詞は過去形が使われている、わがよき相棒のキースよ、百万部売れているペーパーバックでさえそうなのだ、この世で有効な芸術形式は、宗教と、ものを書くこと、この二つしかないのだ、と。」p.234
・「わたしたち四人全員が大統領には若すぎるし、未成熟だとみなされる年齢のときに、四人のうち三人は死んでいた。」p.241
・「しかたのないことだ。友人というものは、レストランの皿洗いと同じく、ひとりの人間の一生に入りこんできたり、出ていったりする。そこにお気づきになったことはないだろうか?」p.302
・「ジョージはまるで初めて読むというように、じっくりと銘を読んだ。 "語る者ではなく、語られる話こそ"」p.323
・「ディケンズ全集、デフォー全集、トロロープの無限とも思えるような数の全集もあった。エドワード・グレイ・セビルという名の作家の小説全集(全十一冊)もあった。これは美しいグリーンの皮の装丁で、背表紙に金文字で入っている出版社の名は、ステッダム&サンとなっていた。しかし、セビルという名も、出版社の名も、聞いたことがない。セビルの最初の本『我らが同胞』の奥付は、1911年発行となっている。最後の本『破壊者』は1935年発行だ。」p.325
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【本】摩擦の話

2007年11月23日 22時01分38秒 | 読書記録2007
摩擦の話, 曾田範宗, 岩波新書(青版)791(G33), 1971年
・なぜ人間は地面を踏みしめて歩くことができるのか? これは決して自明なことではありません。靴の裏側が地面にひっかかるから? ひっかかるとはどういう状態なのか? 何と何がどのようにひっかかっているのか? 電子顕微鏡で見てみるとどうなるのか? こう突き詰めていくといろいろな謎が浮かんできます。『摩擦』の歴史とはその謎との格闘の歴史であり、本書では16世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチの時代まで遡り、現代に至るまでを概観します。この他、『日常身辺の摩擦現象』、『摩擦のメカニズム』など、豊富な図を使い平易な言葉で語った『摩擦』尽くしの内容です。数式も結構出てきますが、苦手な人は読み飛ばしても、内容の理解にはそう差し障りはありません。
・人が普段気にかけないテーマに光をあて、専門家ではない者にも「ほうナルホド、これはおもしろい」と思わせる、学問の入口である新書としてのお手本のような本です。
・バイオリンをはじめとする弦楽器のペグの部分。ペグの穴に弦の先をちょっといれてクルクル二~三度回すだけで、ペグの表面はツルツルにもかかわらず、弦がしっかりとまるのは不思議だったのですが、これにも摩擦(オイラーの原理)が絡んでいたのですねぇ。
・「第一は、静摩擦力でも動摩擦力でも、一般に摩擦力は物の重さ(正確に表現すると摩擦面に働く垂直力)に比例するということである。」p.9
・「第二の大切な性質は、動摩擦力(したがって動摩擦係数)が静摩擦力(静摩擦係数)よりも小さいということである。」p.10
・「すなわちこの実験から、重さがおなじであれば、相手の面と接触する摩擦面積はどうであっても摩擦力(したがって摩擦係数)は変らない、というおもしろい摩擦の性質が明らかにされたのである。」p.12
・「このことから、おなじ重さでも、接触面(摩擦面)の材質かかわると、摩擦力(したがって摩擦係数)は大幅にちがってあらわれることがわかる。」p.13
・「さてこれまでの実験でわかったいくつかの摩擦の性質を整理して、きちんと箇条書きにしてみよう。それは次のようになる。
(1) 摩擦力は摩擦面に働く垂直力に比例し、見かけの接触面積の大小には関係しない
(2) 摩擦力(動摩擦の場合)はすべり速度の大小には関係しない
(3) 静摩擦力は動摩擦力よりも大きい

 この三つの実験法則((3)は除くこともある)は、この法則の確立にもっとも功績のあった十八世紀のフランスの実験物理学者で、同時に工学者でもあったクーロン(Charles Augustin de Coulomb, 1736-1806)の名をとってクーロンの法則、またはかれの約百年前、この法則の存在をほぼ確認し、クーロンの研究の基礎をつくったおなじフランスの物理学者・工学者アモントン(Guillaume Amontons, 1663-1705)の名をとってアモントンの法則、さらに両人の名前を連らねて、アモントン-クーロンの法則とよばれており、その確立は摩擦の学問や技術の発展の歴史の上では画期的意味をもつものである。
」p.14
・「こうしてレオナルドは、クーロンの法則の内容をなす主要規定、すなわち摩擦力と垂直力との比例関係、摩擦力が接触面積に関係しないことの二つをすでに確立していたのである。」p.27
・「その多くは「車輪の直径は大きいほうが軽く動くか、小さいほうが軽く動くか」という一見きわめて幼稚な課題なのである。実験も容易である。ところがやってみると、条件によって大きいほうが得だったり損だったりして、一般的でかつ統一的な関係はまだよくわかっていないのである。」p.64
・「万有引力が質量のあるものの存在そのものに密着した自然現象であるように、摩擦は質量のあるものどうしの接触そのものに密着した自然現象なのである。」p.67
・「昭和十年にわたくしは東大の航空研究所に奉職し、はじめて、そして亡くなられるまでのきわめて短い期間だったが(寺田寅彦)先生の面識をえ、食堂などでお話をきく機会ができた。そのとき摩擦はおもしろい問題だ、いいテーマだからよく勉強しろ、という意味の激励をうけたことを覚えている。」p.68
・「オイラーの原理というのは、まるい物にまきつけたロープやベルトの一端を軽い力で引っぱっているとき、多端を引っぱってロープやベルトをすべらそうとすると、非常に大きな力が必要になることの原理である。」p.78
・「われわれの現在もっている工作技術では完全な幾何学的平面というものはつくりえず、かならず凹凸が存在する(図IV-1)。現在の工作技術をもってしては、最高の仕上げ面でも凹凸の高さは10-4mm前後であろう。」p.123
・「凹凸説とそのアンチテーゼとしての凝着説は五十年の論争を重ねたが、ようやくジンテーゼとしての近代的な凝着説が凹凸説を包含して完成に近づきつつあるとみてよい。」p.153
・「凝着説にせよ凹凸説にせよ、それらを統一的にとらえる接点は、要するに摩擦面の変形と磨耗なのであり、わたくしが「摩擦と磨耗とは表裏一体」といったのはこの意味だったのである。」p.179
・「一言にしていえば、「磨耗をともなわない摩擦はない」ということが非常に大切な現実の摩擦の概念だったのである。」p.180
・「しかし遺憾ながら実際には摩擦ブレーキの制動力は、一回ごとにその平均値の16パーセントくらいは大きくも小さくもなるのである。」p.201
・「われわれのつくりだしたスピードはわれわれがとめねばならない。しかしはたして思うようにとめることができるだろうか。残念ながらそれはできていないのである。」p.202
・「近年摩擦の研究が非常に進んで、摩擦のメカニズムもかなり明らかになってきた。摩擦の大きい小さいのメカニズムも、摩擦熱の発生機構から摩擦する表面の温度上昇の様子もだんだんわかってきて、われわれの知識もかなり豊かになった。そろそろこの摩擦という悍馬を手なづけることもできそうである。手なづけるということは、摩擦を小さくしておとなしくさせるのも一つだが、せっかくの悍馬だから悍馬のままその荒っぽいところを利用するのがいちばんの妙法だ。」p.208
・「本書の執筆にあたって、わたくしは読者にこのほとんど忘れられている摩擦という現象を身辺に感じとり、また親しみをもってほしいと願った。」p.213

?ジンテーゼ(ドイツSynthese) 1 論理学で、演繹的な推理法。  2 哲学で、思想の各要素を論理的に結合して統一すること、およびその結果。カントでは、直観と悟性の形式によって結合する先天的総合と、経験判断のような経験的総合とがある。弁証法では、新しい概念によって、二つの対立概念を統合すること。
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