Burning Pavilion Part3

日常のもろもろ

伝説のディーバ 前野曜子

2011-11-30 22:43:28 | 音楽
前野曜子の諸作品再発プロジェクトの真っ只中です。

前野曜子さんの有名どころとしては、ペドロ&カプリシャス初代ボーカリストとしての「別れの朝」、映画「蘇える金狼」のテーマ、アニメ「コブラ」のテーマでしょうか。
コブラのは昔聴いたことがあった。これは同世代の人でも(30代後半、笑)知ってるでしょう。
別れの朝は世良公則がヘビーなハードロックアレンジでカバーしていたのをCMで聴いてマネしていた(生ダラかなんかの間に流れていた)。

ちゃんと聴こうと思ったのは「蘇える金狼」を見てから。
ユニコーンが復活した時のツアータイトルが蘇える勤労だったので、この映画がテレビで放映された時に暇だったこともあって見たら、めちゃめちゃ面白かった。で、松田優作の映画にハマりだし、DVDで再度見たときにこの曲が気になってサントラをダメもとで探したらなんとあって、狂喜しながら購入してしまったという顛末。

このサントラはイメージアルバムだと思ったらちゃんと劇中で使われていて、しかも1曲1曲が歌ものとして完成されていた。タイトルは蘇金の作者の大藪晴彦の作品のタイトルが使われているため必ずしも曲と合っているわけではないけど、「俺たちに墓はいらない」、「無法街の死」、「唇に微笑 心に拳銃」が良い。どれも哀愁が漂っていて、前野曜子の声・歌唱による部分が大きい。
ベストトラックは「蘇金のテーマ」も良いけど、もう「野獣死すべし」でしょう(この曲は同名映画とは無関係ですが、映画には前野さんも出演されてます)。ハードなファンクでドラムとクラヴィネットの絡みが最高にカッコいい。演奏はSHOGUNだろうか?。

今回再発されているのは、ペドロ&カプリシャス在籍時の2枚と、リッキー&960ポンド在籍時の1枚、ソロ名義の蘇える金狼サウンドトラック。今後もソロ作品が3枚リリースされる(コブラのシングル、全長版も含む)。

個人的に驚いたのはペドロ&カプリシャスの作品に、ポール&リンダ・マッカートニーのEat At Home、バッドフィンガーのDay After Day、ビル・ウィザースのAin't No Sunshineといったロックの名曲カバーが含まれていること。
ジャニス・ジョプリンのMove Overが特に素晴らしい。




以下wikipediaより抜粋、編集した経歴

前野 曜子(まえの ようこ、1948年1月25日 - 1988年7月31日)歌手
ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカル。東京都中央区銀座生まれ(江戸川区生まれとの説もある)。

1965年、宝塚音楽学校に進む。
1967年、宝塚歌劇団ヘ入団。
1968年、宝塚歌劇団退団。伝説のディスコ赤坂「MUGEN」でゴーゴーガールを務める。宝塚時代に知り合った亀渕友香と「MUGEN」で再会し、リッキー&960ポンドに参加。
1969年、『ワッハッハ』がヒット。この頃は西丘有里と名乗る。
1971年、ペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加。
1971年10月発売の『別れの朝』が大ヒットし一躍人気・仕事の絶頂のさなかだった1973年、突然の脱退を発表して単身渡米もその後数ヶ月で帰国した。
帰国後は、事務所に所属せずマネージャーもつけずにソロとしてライブハウスなどで歌手活動を再開した。1976年に古巣のリッキー&960ポンドに復帰(のち3年間所属後再び脱退)。
1976年暮れごろから、前野の親友でもあり同じく若くして亡くなったジャズ歌手木村芳子 がリーダーで歌っていた六本木のジャズバー J&Bのバンド仲間に会いに夜よく顔を出していたが、当時は酒を飲んでいることが多かった。
1977年9月、リッキー&960ポンドとアルバム ABRAZAME を録音。このアルバムの中に収録された別れの朝 が最高の出来との評価もある。この名曲、名唱<別れの朝>はちなみに3バージョンある。
1979年に映画『蘇える金狼』の主題歌(タイトル同じ)をリリース。
1980年、映画『野獣死すべし』に、セリフのない役でカメオ出演。
1980年代初期には自己のバンドを組みリサイタルを行った。この1980年当時の住居は六本木近くの赤坂2丁目であった。 このときのバンド仲間との何枚かの写真では彼女の生き生きとした表情が見てとれる。 <この後病床に倒れたようだが、このあたりから彼女の詳細を知るものがほとんどいないのが実情のようである>
1982年から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌っていた。
しかし上記のとおり芸能活動に復帰・継続はしたものの、前出のペドロ脱退の経緯や、前野自身アルコール依存など健康上の問題が愈々深刻化するなど、結局往時のような成功・活躍をおさめることはついにできないままに終わった。
1988年7月31日に肝臓病で死去していたことが、逝去から2年半以上後となった1991年4月頃発売分の『[女性自身』で報道された。稀な美貌と歌唱力を持ち合わせデビュー時は業界・ファンからも期待されていた前野であったが寂しい晩年・最期であったことを窺わせた。




おまけ 「野獣死すべし」より、伝説のシーン 阿藤快 VS アフロゴリラ(鹿賀丈史)

↑ ひどい(笑)。


1 コメント

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Unknown (一人旅)
2014-05-26 21:58:34
前野曜子さん関連のブログ探訪をしている一人旅です。

草泉散人さんが主宰した4月18日の”前野曜子フアンの集い”に参加しました。
ペドロさん曰く、”曜子は低血圧でアルコールも弱く、飲んだ後は朝が起きられなくステージによく穴をあけたので泣く泣くやめてもらったけど、詩(うた)の心を歌える唄の上手い子だったね”と。

「別れの朝」は最初英語でリリースをする予定が、なかにしれいさんがさっと日本語訳を仕上げてあの歌になったとか、「夜のカーニバル」は曜子さんはラテンの唄が上手く彼女に合っていたので、当時流行っていたベッサメムーチョに対抗するものとして仲の良かったかまやつひろしさんに作曲を頼んだという話が出てきました。
技巧派の高橋真梨子、素直になんでも歌える松平直子、心を歌う前野曜子ということでペドロさんを含めみなさん一致したようです。
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