人知れずの記録ー障害後期高齢者の日々のつぶやき

日々のリハビリをはじめ、何でもかんでも書いてやろう!という日記帳。

セガン、手紙書き

2018-04-03 23:03:29 | 日記
血圧126 86 脈動60 立ち上がり失敗 きつい運動をした翌朝ゆえだろう。
 午前中、笑顔ちゃんと小鮒智先生への返事書き。笑顔ちゃんに添付したエッセイ「マシュマロ行状記」の若干のリライト。このエッセイは20年近く前の作品。返信本文は以下のごとし。
「笑顔ちゃん、
 お便りとメッセージカード、お子様の写真、ありがとうございました。手が麻痺のため健常でなく、筆書き(ペン書き)がとても乱れて読みにくくなってしまいますので、ワープロ打ちの手紙になってしまい、すみません。
 笑顔ちゃんが、戸惑い、迷いながらも、ご自身の人生をしっかり見つめておられることに、喜びを覚えています。芝居の世界でご活躍なさること、とても楽しみです。
 夫君及び詩葉ちゃんの父君は、現役学生なんですってね。なんとなく、僕ら夫婦と似たような歩みをしておられることもまた、うれしいです。僕らが結婚をしたのは、ぼくが大学院生で、妻が二部学生(夜間大学生)。妻は昼間働き夫を養い、夜、学んでいたのです。子どもが生まれたのもその時。つまり、妻は、妻であり母親であり勤労者であり、そして学生であった、というわけ。出産のため卒業を1年延ばしましたけれど、ね。とても楽しかった(苦しかったことも多いですが)思い出深い時期です。
 そうそう、ぼくが犬猫派だということの証明として、20年ほど前に綴った軽いエッセイを末尾に添えておきました。最後の飼い犬となった「ジンジャー」、最初の飼い猫となった「マシュマロ」のお話。ご笑覧ください。」
 小鮒智先生への返信。
「ご長男様のご結婚、おめでとうございます。
 私が我が子の結婚式を経験したのは、2002年の次女のそれです。相方がジャマイカ人であったため、私ども夫婦にとっては未知の世界の結婚式でした。準備過程も何もかも向こうのいう通りで、楽といえば楽でしたね。結婚式当日、セレモニー終了後はダンスパーティがもたれ、全く未経験の私は、椅子から腰を上げることが全くできず、ダンスの相方となる人(向こうの母親)をとても困らせたようです。キリスト教社会文化そのものは私の体にはどこにも染みついておりませんし、むしろ、排斥的な生き方をしてきましたので、ダンス経験そのものもありませんしね。そんなことを思い出しました。
 3月末から今日まで、いろんなことが私の周りで、もちろん私にも起こり、それに心と体を向ける対応をしてきています。
 我が家の向かいのお宅で一人住まいをなさっていた方(私とほぼ同年代の男性)が亡くなったことは、我が身をあれこれ考えざるを得なくさせました。昨日、お嬢さんが訪ねてきて、「お別れ」はすべてすんだとお知らせくださいました。公的介護支援を受けておられたので、我が身と重ね合わせたわけです。やっと、気持ちも落ち着き始めましたので、今日から、自身のしてきたこと、考えてきたこと、学んできたことのとらえ返し作業を再開していきます。
 先生のお書きになった著作などを拝読していて、問題意識の底流にあるものはかなり共通しているにもかかわらず、それに迫るための「武器」の選び方がかなり違うことに気づき、ある種の「劣等意識」のようなものを抱きます。それは時代社会を読み解く「哲学」の選び方、といえましょうか。先生の著述に綴られる人々の名とそれに関わることがらは、私は知っています。しかし、知っているだけであって、教養にはなっていない、してきていないのです。日常的な読書対象にしてこなかった、ということでしょうか。
 先生のお書きになった諸論から、たくさんの「時代を見る目」をお教えいただいています。とてもありがたいことです。
 私の教養形成過程は「ヴァガボン」(vagabond:フランス語:放浪者)としか言い様がないものです。その意味で、私は、大学に籍を置いて研究をしてきたけれど、学者を名乗ることはできないと思っています。また、このことについては綴ることにいたします。」
 今日のお昼。ニンニク、ニガウリ、タマネギ、にんじん、ジ昆布、そしてイカ。塩、醤油、黒蜜。主食としてリンゴ1個。なかなかのお味です。口にするまではこわごわでしたけれど。


 ふと思った。自分の人生は学校の付録だ、と。

 乳幼児期から教師である母が自分をしばしば学校に連れて行った。伝え聞くところに拠ると、教室で床に寝転がったりはいはいをしたりして、女生徒たちに愛嬌を振るまっていたそうだ。
 それからは小学校、中学校、高等学校、受験予備校、大学、大学院と児童・生徒・学生・院生生活を、去りたくとも去ることもできない気弱さで、通い続けた。これは31歳まで。
 続けて70歳まで大学教員生活。血反吐を吐くことや鬱に苦しむことがあっても、辞めることができなかった。辞めたら生きていけないという強迫観念もあった。

 現在は浪々生活、自宅療養生活。学校強迫症から逃れることがこんなに楽しいのか、という思いの日々。だけど、狭い教養しか身につけてこなかったから、自分の精神を新たにすることは難しい。まだまだ学校がヒモでつながれている。