人知れずの記録ー障害後期高齢者の日々のつぶやき

日々のリハビリをはじめ、何でもかんでも書いてやろう!という日記帳。

船橋へ 食の物産展

2021-04-30 17:02:45 | 日記

晴れ

135 81 70

昼食を挟んで、船橋東武デパートで開催されている食の物産展に出かけた。左脚の不調は相変わらずで、ご支援をいただいているBさんに、多くのご負担をおかけすることになってしまった。でも、楽しく買い物が出来たのは幸せなことだ。日常口にすることのないような食料品を買うことが出来るのが嬉しい。今日は「薩摩揚げ」など、

お昼がこれ。屋上でさわやかな風を浴びながら。最高です。


通所リハビリ 今日はユゴーの詩編から

2021-04-29 06:41:18 | 日記

135 83 71

燃えるゴミ出し 杖突で傘は差せぬ たいした雨ではないので、「春雨じゃ、濡れていこう」と維新の志士気取り?

 

【ヴィクトル・ユゴーの詩より】

ヴィクトル・ユゴーが子ども時代の思い出を次のように詩に歌いこんでいる。拙訳でご紹介します。1855年の作品。
(タイトル)わが母なるもの(注:母なるもの=フォイヨンティンヌの庭園)
 
夏のこと。月が昇る頃、
その日にふさわしい素晴らしい夕方を過ぎて、
薄暮の時、愛が深まる時、
庭園に、光と風が戯れる。
いつも悲しげに、いつも切なげに、さまよう。
水、空、林に低い声で訊ねる、
行き当たりばったり、声を聞こうとして。
穏やかな庭園の時、、
灌木の茂みでそっと動く昆虫、
葉っぱの陰のタマオシコガネ、トカゲ
汚水溜の底に月明かりの流れ、
厚い葉っぱの活けてある青色の陶器、
陰鬱なヴァル・ド・グラスの東洋風の丸屋根、
壊れた、しかしまだなお優しい修道院の回廊、
マロニエの木々、黄金色に芽吹く葉、
木々の枝が揺らぐ影を静かに落とす胸像、
蒼いヒルガオ、白いヒナギク、
灌木、喬木、葦の花々、
鳥の歌声にそれらが香りで返す、
水たまりに落ち、草藪に隠れる
華麗な雰囲気を自ずと漂わせる黒檀から、
白樺と混じり合う池の縁へ、
水のキラキラ輝く中で金色の房に揺らめき;
枝葉の隙間で煌めく空、
かわいらしく煙立つ屋根、
私はそれらに語りかける、
このすばらしい庭園、輝く楽園、
この崩れかかった壁全部、このバラの新芽全部、
この物思いに耽ったもの全部、この穏やかなこと全部、
波打ち風そよぐ我が母なるものに語りかける、
小声で語りかける:「私を子どもにしておくれ!
私を子どもにしておくれ、乱れた哀れな母なるもの、
熱く、無邪気な、キラキラと輝くその瞳、
どんな悲しみも見せない、穢れないその表情、
再生のこの魂、母なるものよ、私を子どもにしておくれ!
無理矢理雑踏の中に子どもを投げ入れないでほしい。
雑踏は渦巻き流れる奔流。
鳥々も子どもたちも怖がっている、
私たちの澄んだ空気に、私たちの湿ったもやに、
夢の翼のようにふんわりとした私たちのため息に、
けっして嘘などついたことのないこの唇、
無邪気なこの微笑み。その純真さを失わせないでおくれ!
おお 心の奥深くの母よ、私を子どもにしておくれ!
私はあなたにたっぷりと心を綴ったものしか差し上げられない。
日々、ひらめくものを取り替えて;
神は満足げなその目でしっかりとご覧になるだろう;
私が花々を、小枝を、光を求めるから、
私が自然と永遠の泉を求めるから
そこは、あらゆる渇望があふれ出て、すべての翼が洗われる、
林そして畑、ただ賢人だけが理解した、
それは偉大な精神のすべてを育むのだ、と!
我が気高いざわめきの中で子どもを育てよ。
私には分かるのだ、この柔らかい香り、
天空の風から生じ、すべての美しいところに散らばり、
人間から生じさせ、神にまで登らせるもの、

ペスタロッチとセガン

2021-04-28 06:58:14 | 日記

晴れ

144 81 59

ビニールゴミ出し。もちろん、という言葉がついてしまうが、今日も「乳母車」で足運びを確かにする。転けて怪我をすることを避けるために。帰路、ご町内のAさん(ご主人)とご挨拶。非常に希な関係性だ。だが、大切にしていきたい。Aさんは、玄関先で、「蛍続」の最中だった。止めたいけど止められない、ということなんだろう。

帰宅してすぐ、庭で、運動。今日はアイアンを振り回した。いや、振り回す勢いが出ない体になっていることに気づいた。う~ん。これが老化ということなんだろうけどねぇ。

 

【ペスタロッチとセガン】

 教育界に生きる人は、ペスタロッチの名前を知らない人はいないだろう。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi, 1746- 1827)、今日で言うスイスの人、ドイツ語圏チューリッヒを中心に活躍した人だ。「羊飼いは自分が飼っている羊の本性を知っている。なのに、民衆を統べる人たちはなぜ民衆の本性を知ろうとしないのか。」は、教育不信、教師不信で生きていたぼくの心臓を直撃した。そして、卒論の対象とした。ひどい出来だったが、人間とは何か、教育とは何かという命題は、今日まで引きずっている。とくに、2003年以来進めてきているセガン研究も、その命題の上にある。
 セガンの名は、少なくとも障害児教育や福祉を担う人々の間で、知られてしかるべき人である。オネジム=エデュアール・セガン(Onésime-Édouard Séguin(1812-1880)、フランス・パリ、そしてアメリカ・ニューヨークなどで活躍した人である。ペスタロッチと同じように実物教育、作業教育を導入し、知的障害を持つ人たちの労働等社会参加への道を切り開いた人である。
 ペスタロッチの晩年にセガンがこの世に誕生している。ぼくにすれば、ペスタロッチがそのバトンをセガンに委ねたように思われる。ペスタロッチもまた知的障害を持つ子どもの教育を指向していたし、セガンもまた「普通教育」を指向していたのだから。
 しかし、両者の生まれ、社会に出るまでの育ちは、まったく違う。
 ペスタロッチは外科医(包帯医者)を父に持ち、また貧民窟の住民の「救い」の活動に専念する宗教者を祖父に持ち、祖父に手を引かれて育った。靴屋が営む初等学校、つづいてラテン語学校で学んだ。彼は祖父と同じ宗教者になることを将来像に描いていたため、資格を得るための神学を修めなければならず、ラテン語は必須だったわけだ。続いて大学の神学コースに進む。これを修了すれば無事念願の牧師職が待っている。
 セガンは経済的にも社会的地位にも高いところにいる医学博士を父に持った。育ちは、貴族・大ブルジョア家庭に共通した乳母、里親に預けられ、最初の学びは家庭教師だった。続いて国家的リーダーを育てる中等学校、高等教育機関に進む。これを終了すれば無事、弁護士の職が待っている。
 だが、ペスタロッチは発禁処分にされていた『エミール』の地下読書会に参加し、それが発覚して退学処分。神職には就けず、社会的放浪の人生が始まった。
 セガンは、1830年革命に参加、新しい思想実践集団サン・シモン主義者「家族」に加わり、また、思想・政治の運動体・秘密結社に加わり数度検挙され、弁護士資格を得るための学びを中断。これまた社会的放浪の人生が始まった。
 人生の航路を進める順調満帆船を自ら難破させてまで、自身にこだわり問い続け試行錯誤し、実践を積み重ねたふたりの教育者を学ぶ機会を得た人生を、へろへろではあったが、改めて嬉しく思った今日だった。
 

在宅であれこれ

2021-04-27 06:13:03 | 日記

晴れ

134 80 65

資源ゴミ出し。この件で通路近在にナイーブになっている自分が惨めではある。が、「任務」は放棄すべきではない。「折り合い」の付け方はぼく自身にある。早朝ゴミ出し以外にそれはない。「監視」目の出没しないうち、ということだ。

 夕刻から「白痴教育史」の再学習。文献は、セガン1856年論文。著書『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』所収。目との戦いで在り、なかなか根気が続かない。ぼちぼち行きましょう。

別ブログ 筏師に関わって

2013-01-23 (hatenadiary.org)

 

【セガン】

19世紀前半、セガンの父親はパリ医学校を出て、生地ではない田舎町(クラムシー)で医業を開業した。
 文字にするとそれだけのことだが、診療所(クリニック)を新たに設けるって、結構、大変だったんじゃないかなあ。誰かが医師を引退することで生じた開業医株を買うなり譲り受けるなりしないと、その土地ではクリニックでの医療活動ができない…なんか、文学で読んだ気がする。
 このあたりも、セガン研究史では触れられていない。「代々医師の家系であった」という大嘘でごまかしてきている。
 

通所リハビリ

2021-04-26 06:20:47 | 日記

晴れ からだの軸が弱っちい

139 84 57

燃えるゴミ出し 

今日は室内で朝の軽い運動。 

午前中デイ。利用者数13人、うち男性5人。自力歩行が困難なご婦人が目的の訓練機器の所に移動したいという意思をお持ちになり、挙手でその意思を表された。所が、従業員は誰もそれに気がつかない。たまりかねて社長さんに「今日はクレームをつけます。」と申し出た。話をお聞きになり「どうも申し訳ございません。」と仰る。「私に謝る問題ではありませんよね。」「ご指摘ありがとうございます。従業員を指導いたします。」「新人さんだからなかなか気がつきにくいのかなと思いましたが、支援を受ける方としては、支援者が新人だからどうのこうの、ということにはなりません。」社長さん、キチンと全職員にご指導下さることと思います。

ぼくの訓練状態は、新体制新友にかんばしくなく、デイの方のご理解もいただき、のんびりと過ごしました。また、ケアの方もいつもにまして、していた枝来ました。早く回復することを、願っています。

昼食に伊勢うどんを供してもらった。嬉しいことこの上なし。夕食にはタケノコの土佐煮。これもまた嬉しいこと。

午後は、「靴磨き」観賞。

 


脚がとても弱くなっている

2021-04-25 07:19:36 | 日記

曇り

132 84 62

布団の上げ下ろしはまだ出来るが、布団を運ぶことがちょっときつくなっている。脚の運動過多による疲れか、それとも弱体か。弱体化しているのだろうなあ。これからドンドン・・・?

起きて庭で体操、運動。へっぴり腰になっている自分に気づく。体もそうだが、気も弱まっている。ネット上の知友の訃報に接したことも一因しているのだろう。ぼくよりお若い方だった。

午前中、南柏駅そばのスーパー等へ買い出し。主たる対象物は、消毒・殺菌スプレー、ゴミ袋。他に、お昼、お菓子などけっこう多くになりました。

 

【セガンー里子】
私には2歳年上の姉(1941年生まれ)がいる、いや、ある、だな。すでに物故者だから。
 姉は、私がこの世に生まれたことによって、父親の生家に里子に出された。国民学校教師で下級軍人の夫を持つ身で、2人の幼子を抱えるのは大変だったから。・・・・
 幾度も聞かされた話だったが、格段の思い入れも無く、ただ、姉は野山を同年のいとこと、かけずり回って育った健康優良児であったのに対し、私は戦時下及び戦後直後の食糧難に直撃され、「幸宏さん、まだ、生きてんのか?」という挨拶語が親戚から送られる、というような育ち方だったことだけは、妙に心に引っかかるものがあった。何で私は、姉のように、里子に出されなかったのか?と。
 で、話しの主題は「里子」ということ。
 大学生になって、教育史や社会史、さらには近世・近代史を学ぶ中で、「里子-里親」という社会システムがあった(あるいは、ある)ことを知り、姉はその「里子」なのか?それとも「戦争疎開」児なのか、あれこれ思いを巡らせたことがある。せっかくの大学のレクチャーも、この程度の結びつきの「学び」でしか無かったのだから、お教えをいただいた各先生方に、今は申し訳ないと思うばかりだ。
 それより時が下って、我が研究フィールド(教育学)で、「産みの親」「名付け親」「育ての親」と言うことがしばしば語られるようになった。子どもは複数の「親」を持って育つという「民衆の知恵がある」ということだ。「近代家族形態」はその知恵の具体をドンドン失いつつある、子どもを巡る家族論さらには保育論を再構築しなくてはならない、という立論に結びつく。
 しつこく語っている「セガン」の育ち評価で、地元クラムシーでは「セガンは里子に出されちゃったからねー。」と、「里子」システムをネガティヴに捉える有識者が支配的だが、これをどう評価するのか、と考えていて、我が来し方のあれこれを考えた次第。
 
【「人間」規定】
人間社会の質に関わる歴史の学習をしていて一番困るのは「言葉狩り」に遭うことだ。その典型が、「差別語」だと公知されている言葉類。
 ぼくは18世紀半ばから19世紀半ばの人間社会のありようについて学習しているが、生病障死を伴うのが生命体としての人間の事実なのだが、その事実を説明する言葉を以てして、生命体ではなく存在体を説明する。存在体に特定の価値を添えるのが「優越」であり「差別」である。だから、本当のところは、「言葉」が差別しているのではなく、言葉の使い手が差別しているのであるから、「言葉」を狩ったところでまた新しい「言葉」が産み出される。「存在が意識を規定する」。そこのところと真正面から向かい合わない限り、「差別」はなくならない。
 話はついでに。
 19世紀前半期のフランス科学アカデミーのある会議で、盲者、聾唖者の能力の可能性について議論をしている。盲者が「視覚の代替としての触覚を獲得し外界を認知することが出来るようになった」、聾唖者が「音声の代替としての身振り表現(手話等)を獲得することによってコミュニケーションが可能になった」、と18世紀の到達を総括した文言の後、「そして盲者聾唖者は人間になったのである。」という(1843年)。
 この「人間になった」という表現に対して、ぼくは、強い違和感を持つ。科学アカデミーが想定する「人間」は、視覚によって外界を認識することが出来、音声によってコミュニケーションが出来る、ということである、という前提があり、かつ、何らかの社会生産性がある存在だ、という「人間」観が前提となっている。人間を他の生物と分かつ特徴として、言葉を持ち、火を使い、社会を作り…という「あれ」である。だから、その特徴を持ち得ない存在者は、抹殺され、囲い込まれ、排除されてきた長い歴史を持つ。
 
 

終日,自宅であれこれ

2021-04-24 07:47:48 | 日記

晴れ

135 85 64 少し冷える朝

起きてすぐ、庭で運動、体操あれこれ。ほんの少し、飛び上がりをしてみた。爪先がわずかに地面から離れてはいる。

左脚に明日空が回らない。布団を抱えて運ぶことが難儀。結局弘美君にやってもらうことになる。

かなり考え込んだ今日。

 

【セガン】

 セガン生誕の地ニエヴル県クラムシーは父親が入植した地
 セガンの父が医学博士となって3年後、ニエヴル県クラムシーの開業医、監獄医として、入植している。その父親(セガンの祖父)の残した莫大な遺産をあてにし、土地資産、そして医療株を購入した。医療株は、サロという老医学博士から購入した。セガン誕生の3年前のことである。

終日蟄居

2021-04-23 07:53:40 | 日記

晴れ

128 81 74

起床後、庭で運動、体操。今日は股関節の柔らかい動きを求めた。膝上げてグルグル。日課になるな。

ヒメがリビングにのっそり顔を出した。いつものごとく、ぼくと目が合ったら、のっそりのっそり二階に姿を消した。なんなんだ?

午前中はダイニングで、リンゴジュースを作ったり、昼食準備をしたり、リハビリしたり。膝屈伸は継続すること。尻落としまでするには手に支えが必要。

 

【セガン】

ぼくが初めて「セガン」について公的に紹介文を書いたのは、清水寛編著書『セガン 知的障害教育・福祉の源流』全4巻(日本図書センター、2004年)の宣伝パンフレットにおいてであった。(2004年早春のある日) 
「E.O.セガン Édouard Onézime Séguin 1812~80 
知的障害者教育の先駆者。フランス生まれ。1837年、知的障害児の教育をイタール、後にエスキロルの指導のもとではじめる。その実践はヨーロッパに彼の名を知らしめた。1850年頃にアメリカへ移住し、各州の知的障害児教育施設の創設や生理学的教育の普及に尽力。晩年にはニューヨーク市に生理学的学校を創設した。思想と科学に裏づけられたセガンの知的発達障害者教育は日本をふくめ各国に大きな影響をあたえ、世界の新教育運動にも影響をおよぼした。」
 清水寛氏から、小さな軽食堂でレクチャーを数時間受けさせられ、それを元にまとめたもの。
 
追記 コーヒー一杯とて、ごちそうになりませんでした。仕事手伝えというご下命だったのだけどなあ。弟子でもナシ、研究室を同じくするでもナシ。。。。このけちぶりは浅草商人の血?それじゃ、ぼくが好きな浅草下町イメージが壊れます。天性のペテン師なのでしょうな。多くの「被害者:ガいることが強く想像できます。「目下」にたかるなんて、伝統日本文化にはないですよねー。

通所リハビリ セガン

2021-04-22 06:40:05 | 日記

晴れ

133 77 65

燃えるゴミ出し 左脚腿左のスジにピリッと痛みが走る朝。気をつけて過ごします。早朝通勤の車の通行が恐いのでその時間帯を避けるようにしていたが、朝早くから空が明るいので車も早くなった。本道から通り抜けて近道を走る車が多い。生活道の設計がまったく意味をなさない道路事情。

【フォト】

紫蘭の花

蜘蛛の糸

帰宅した細君

【セガン】「この紋所が目に入らぬか!」
 日米セガン研究史において、フランス、パリの「サルペトリエール」という歴史のある一大精神病院(現在は市民病院)は、きわめて意味のある所だとみなされてきている。そこでセガンが11人の男児に対して教育に携わり、大きな成功を収めた、と理解されていた。しかし、セガンが白痴教育に携わった19世紀前半期において、そこ、当時の通称「サルペトリエール救済院」は、制度名で「女子養老院」とされていることから明らかなように、女子専用施設であった。
 そこではセガンは実践していませんよと、謙虚に物言いしていたセガン研究者がただ一人おられたが、その声に耳を貸す自称セガン研究者たちは一人もいなかった。
 私といえば、フランス近代における性差別の問題に神経(だけ)をとがらせていたので、一応下調べをした後、偉大な、否、尊大なな自称セガン研究者に、このように異議申し立てをした。
 「サルペトリエールは、セガンの時代は女子養老院というのが制度名です。女子専門の救済院で、女性の棄民施設です。一方セガンが白痴教育に大きく成功したといわれるその実践対象者は9歳から20歳までの男子です。男女席を同しゅうせず、の時代のことをどのようにお考えですか?」
 くだんの自称セガン研究者は速攻で次のように答えた。「アメリカのセガン研究にかかわる博士論文が、セガンはサルペトリエールで実践したと言っているのですよっ!それでも違うというのですかっ!」
 いや、水戸のご老公の印籠は単なるご老公のための薬篭にしかすぎないのでありまして、万人に薬効があるものではございませんが…。2003年秋、いまだ私はセガン研究を進めていない時のことである。

 


南柏へいろいろ買いだし

2021-04-21 07:49:24 | 日記

晴れ 昨夜と打って変わって眠れず

132 84 72

ビニールゴミ出し ゴミステーション往復、杖無し歩行完遂。ちょっぴり気持ちいいが、本当の実力ではないことを肝に銘じましょう。

続いて、庭で体操、運動。「これがオレの居場所なんだ」と内言。ちゃんと、居場所があるじゃないか。安心して毎日を送りましょう。

 

【セガン】

歴史事象を研究対象として学び続けてきたが、「史実」特定をどうするかは、なかなかむずかしいことだ。
 「オネジム=エデュアール・セガン」という知的障害教育の開拓者に関する研究は、世界を見回せば「五万とある」が、ほとんどが「史実特定」では無く、「史実推測」「史実憶測」の上で綴られている代物。もちろん「史実誤認」も少なくない。
 何で、そんなことになってしまっているのか、というのがぼくのセガン研究の出発動機なのだから、いわんやをや、なのだ(ぼくのセガン研究は2005年以降)。
 この道の我が国における先駆的研究開発者とされるS氏などは、「セガンがそう言っているから本当のことだ」という立場を頑なに保っている。「セガン教の原理原則主義信者」と、ぼくに言わしめるゆえんである。何度「セガンが嘘つきだというのですかっ!」と怒りの声をぶつけられたことか。
 セガンだって人間、時の都合や自分の都合に合わせて、自分史を「回想」することだってあるさ、という見方がぼくなんだけど、やっぱり許されないんだそうだ。しかし、文献調査、歴史調査、フィールドワークの成果は、間違いなく、「セガンの誤認」がかなり多いことが判明している。
 セガンの出生の地フランス共和国クラムシー市は、2003年頃から、セガン伝を映像化し始めた。しかし、「まだ完成はあきらめていませんよ。」との映画化関係者のことば(2012年)は、「完成しました!」という声に変わっていない。さもありなん。セガンが「回想」することに従って行くと、史実に大きな矛盾が生じるからだ。
 一人の人物が「綴る」世界がすべて「史実」であれば、歴史学など存在しなくていいだろう、と強く思うのだ。もっとも、ぼくは歴史学者ではなうけれど。
  • 一人の人物が「綴る」世界がすべて「史実」であれば、歴史学など存在しなくていいだろう>>>>>うん、うん、うんwww
    ◯◯の「回想」に従っていくと、史実に矛盾が生じる>>>なんだろう、この感慨
    ありがとうございます。