血圧123 70 脈動48 腰に張りが残ります
支援者さんからLINEメールが、北欧の空から、届けられた。船で移動の旅程が大幅に狂ってしまって、いくつか、すっ飛ばしになっているとか。荒れに荒れた海を進んでいく…想像するだに怖ろしい、院生時代の下田の旅を思い出す。早く土地を踏みしめることができますように。午前9時、やっとホテルにチェックイン、との知らせ。およそ24時間、大荒れの海に揺られ続けたということか!
午前中、原稿書き。相変わらず進みません。カレンダーの標語のごとく、「ゴールは遠い。ゆっくり歩こう。」だなぁ。
今日のお昼は氷見うどん。関西風。だし取りに使った昆布は最高級の羅臼昆布。だし取りの後はトッピングに。おいしいねぇ。はんぺん、白ネギとミョウガの刻みを添えて。美味しく出来上がりました。隠し味に入れた鷹の爪、なかなかいいですね。
頼まれている講演会、11月24日か25日になりそうだ。いわれていたよりずいぶん早まった。大変だ。今日作ったレジメ・・・以下、素案の1ページ。
「第2の誕生」を考える
ある歴史を切り開いた人の青年期の実相から
講演者(川口幸宏)について
1943年11月生まれ、柏市在住。2014年2月末以降、闘病生活。
三重県立津高等学校、東京教育大学(学部、修士、博士)で学ぶ。
埼玉大学(講師、助教授)、和歌山大学(助教授)、学習院大学(教授)を歴任。非常勤講師を含めると、約20校の専門学校、国立・私立大学で「教育学」系学問を語ってきた。2014年3月末を以てリタイア。学習院大学名誉教授。
大学院生時代に所属した研究分野は「国語教育学」。教えたのは、教員養成向けの教育学系科目:教育学、生活指導・生徒指導、道徳教育、特別活動、教育方法、他。
研究的業績:生活綴方研究(全国大学国語教育学会賞受賞)、現代日本教育史、生活指導、特別活動、モラル・エデュケーション、書くことによる教育の創造、知的障害教育の開拓者セガン、19世紀フランスにおける教育の自立のための戦い(学習院大学学術賞受賞)など、監修書、編著書、著書、翻訳書、多数。日本、アメリカ、フランスの初等教育とその歴史の研究を進めてきた。
本講演では、話題提供者が、先行研究で語られていることの、いわゆる「再試」(検証)作業によってえられた、新たな人物研究の課題、とりわけ「青年期」論をお話ししたい。
話題に取り上げる対象人物について
主題と副題に内意した人物は、オネジム=エデュアール・セガンというフランス人で、「知的障害」を持つ子どもたちの教育を開発し、子どもたちの社会参加が可能になるように育つことを可能にし、今日の知的障害者自立権の礎を築いた人である。それ故、「知的障害教育の開拓者」と冠が付けられて語られる。1812年フランス中部の地方都市に生まれ、思春期以降をパリで生活し業績を上げ、1850年アメリカに渡り、さらに大きな成果を残して、ヨーロッパ世界に強い影響を与えた。1880年ニューヨークで没した。
☆ふと・・・
かの通称「人権宣言」は「男性と男性市民のための権利宣言Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen」である。それに対して、オランプ・ド・グージュの「女性と女性市民のための権利宣言Déclaration des Droits de l'Femme et du Citoyenne」は通称「女権宣言」とされている。
おかしいなあ、と思うのはアホな僕だけ?
「女権宣言」という言葉を表に出してフェミニズムを含む歴史を論じるのならば、「人権宣言」ではなく「男権宣言」と改称すべきだ、と思うのだが。
ついでに、男性名詞citoyenにたいする女性名詞citoyennneはグージュによって生み出され、今日には定着している。深い意味があるわけだ。
★現職時代のある思い出
「教授はPPを授業でお使いにならないけれど、PPは使えない、ということですよね。」
言外に、この時代遅れ爺メが、という侮蔑感情がにじんでいた学生の言葉だ。
「もしよろしければ、ぼくの研究室に遊びに来ませんか?」
その日の放課時、くだんの学生が友人数名を引き連れて、遊びに来た。
PCモニターを彼らの方に向けて、ぼくはキーをガチャガチャ操作し、「講義でしゃべったセガンに関する電子情報開示だよ。」と、PPで作成したセガン半生史を彼らに提示しはじめたた。
「すげーよこれ。箇条書きの羅列じゃないし、矢印で示すような提示の仕方じゃないし、動きもあるから…」
「そう、電子紙芝居ね。少し楽しんでください。」
しぇべりを入れないで20分ほどかかったが、学生たちの目線は真剣だった。
終わってから、学生から、「何で授業でPP使わないんですか?絶対受けますよ。」
「教育方法ってのは限りない広がりと様式を自由に持つべきだというのがぼくの持論。ほとんどの先生がPPや映像を使っておられるので、最も古典的で最も普遍性のあるしゃべくりで、君たちの知性と感性を揺さぶろうと思ってね。」
「教授は板書もなさいませんね、ほとんど。」
「近代学校以前の授業というか講義というか、そういう方法にもこだわっているわけ。近世の知はどのように培われたか、それは古くて使い物にならないのか、ダサいのか。ぼくはそう思わないから、江戸末期の私塾をイメージして、講義してます。」
現在、引き受けた講演へどのような姿勢で臨もうか、臨むべきか、あれこれ想定中。悩ましい。