人知れずの記録ー障害後期高齢者の日々のつぶやき

日々のリハビリをはじめ、何でもかんでも書いてやろう!という日記帳。

数日ぶりで布団で目覚めた

2019-10-31 07:28:35 | 日記

晴れ 昨夜まで夜中にマッサージチェアに移って痛みを避け寝ていたが、、昨夜は、チェアーから布団に移って眠った。この調子でいってほしい。

138 80 44 134 76 43

 燃えるゴミ出し。今日は杖突かず。しかし、痛いものは痛い。

 デイに出かける準備をしているところへ、Dさんから「首里城が燃えている」とのメールが飛びこんだ。ぼくが、少なからぬ縁が沖縄にあることを知っておられるので、お知らせをくださった。ノートルダムに続く、歴史的建造物の火災。しかも全焼。どうしてこんなことが起こるのだろうか?
 ぼくがおく縄を訪れた最後は2010年夏。正殿は改修中だった。

 このころは、とても元気な姿を見せています。セガンに関する初めての著書を上梓した年でもあります。
 学習院で教職課程を担当していると、自分の「専門性」はいったい何なのか、という思いに取りつかれてしまった。専門的力量など何も持たないのに、「古巣」の「国語教育」を少しばかり夢想する。たまさか、琉球大学の国語教室主任で近々退官なさるO教授と会食機会を得た。沖縄出張の折だ。O教授はぼくの「来歴」をよくご存じな方で、「俺の後任として来てくれないか。」とお誘いくださった。同教室の助教授も同意しているという。たいそう心惹かれたが、やはり単身赴任を定年まで(10年ほどはあったろうか)余儀なくされるわけだし、同教室のくだんの助教授の教授昇格を抑えてぼくを教授で迎えることになる、という話にも、心痛むことだった。丁重にお断りし、ぼくと同研究分野の気鋭の人K氏を紹介して、ぼくは身を引いた。
 この時、沖縄の人になる決意をしていたら、その後、どのような人生を歩んでいるのだろうなあ。
 この話は、添付写真の頃よりはるか前のことになります。そのころの写真は皆無。

沖縄写真記録 「誰を待つやら親子像」2010年6月17日





【セガン・シンポジウム秘話】 セガン1846年著書住居論補論

2019-10-30 10:30:04 | 日記

 2012年10月下旬に開かれた「セガン生誕200周年記念国際シンポジウム」で、私の報告が、日本とセガン教育との関係史だったこともあり、こんな質問(意見)がフロアから出された。

「私は20年ほど前に山形の小学校を訪問したことがあるが、そこでは、子どもたちが農作物を作り、それを用いて調理もしていた。明らかにセガン教育だった。」
 ああ、この方はセガンの教育論をよくお読みなのだなあ、と感動したが、ちょっと現象的に共通するからと言って、そのように断定することは危険だと判断して、次のように回答した。
「セガンの影響があるかどうかは、把握していません。ご指摘のような教育実践では、わが日本の小学校では、比較的よくみられることです。私の勤務している学習院大学では、小学校教員の養成を準備中ですが、完成しますと、教育学科の学生たちが、入学後から卒業まで、自分の耕作地を持ち、稲などを育て、収穫し、仲間たちと共同の食卓に供します。小学校教員の資質のバックグラウンドとして重視しています。ですが、それはセガン教育論の直接の影響ではありません。広く、生活教育とか作業教育とかの名で、わが国には、理論および実践が作られてきた歴史と伝統があります。その源流はかのペスタロッチが代表的です。」
 フロアとのやり取りはそれで終わったが、シンポジウム後、私のところに数人詰めかけ、セガンと生活教育との関係についてもっと議論をする必要がある、とのご意見をくださった。

 シンポジウムはちょうどこの時期。パリ植物園

日本ではこの光景

セガン1846年著書、居住。松矢氏の訳、文法上の誤りではないが、どうにもしっくりこない。数日前からこだわってきたが、今、決断。

l'asile construit intra-muros, n'ad'antre avantage que do procurer aux employés supérieurs quinze à vingt pour cent sur toutes les fournitures de ces établissements dits de bienfaisance

松矢氏「100人につき4人か5人の高官に例の慈善施設の納入品を手に入れてあげることしか他に利点は無い。」

こうした、いわゆる慈善施設のすべての納入品に関して、100人の(職員)うち4、5人の上級職者にしか届かないことにしか、意味はない。


霧が深い朝

2019-10-30 08:30:48 | 日記

濃霧 片腹は相変わらず。眠りが浅くなる。

140 79 50 133 77 49

久しぶりで杖突で、坂の上り下り。ビニールゴミ出しのため。昨日、自室に閉じこもっていたこともあり、足の動きが思うにならず。特に左脚。

濃霧光景 蜘蛛の巣の観察が明晰になる。

 とにかく、体がどうなってんの?という愚痴しか出ないような不調続き。今日は左脚ひざががくんがくんとなる。自ずと体など動かしたくない、というだらしない自分に、はっとなる。せっかく晴れ渡った暖かい日になった午後。外に出る気力がわいてこない。で、久しぶりに、廊下でブーメラン投げ遊び。玄関たたきに落ちたブーメランを左手で拾い上げようと試みたが、やはりまた固まった体だ。右手で保護バーを握って体を支えても、どうにも手が届かない。ほらね、体を動かした生活の手抜きをしていると、こうなるんだよ。いてて‥もあるけど、やはり、少しでも体を動かしましょう。そうでなくても、爺を生きているんだから。

 


またもや片腹痛し

2019-10-29 10:44:55 | 日記

 

雨 痛いなあ

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クラッシュのため廃棄したハードディスクを起動してみたら、奇跡的に生き残っていたファイルがいくつか。そのうちの一枚。ぼくの最後の職場となった研究室光景。懐かしいなあ。

 この職場に着任して早々、研究室用品として、写真右端の5脚の背もたれ椅子を出入り業者に注文した。その翌月、本部の会計係長に呼び出され、いきなり、「この私でさえこの椅子なんですよっ!」としかりつけられた。4脚の背もたれ無しの作業椅子に彼は座っていた。そうか、事務系等の係長は、教務系統の教授よりも地位が高いんだな、と教えられたのだったな。「自費で購入します。」と申し出たら、「その必要はないっ!」と、会計事務室全体に響き渡る声で怒鳴られた。大学のヒエラルキーを厳しく教えられたのだった。世間様の見る目とはまるで違うわけです、実質は。


セガン命日 午前中通所リハビリ 午後自室整備

2019-10-28 15:02:32 | 日記

晴れ 2時間おきに目覚め 片原は相変わらず

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1880年10月28日、オネジム―エデゥアール・セガンは、赤痢に罹病し、ニューヨーク市の自宅で、63歳の生涯を遂げた。享年、63歳。葬儀は息子の手で、平信徒式で友人多数が参列して行われた。熱心なサン・シモン教徒であったが、いずれの教会にも所属していなかったことから、平信徒による葬儀となった。

珍しいセガン肖像写真

 そして、2012年10月28日(~29日)は、セガン生誕200周年記念国際シンポジウム。ぼくがフランス社会に初デビューした日でもある。シンポジウムで、シンポジストの一人として、1時間報告した。ぼくの報告によって、「セガン」が東アジアの小国である日本に、大きな影響を与えていることを知ったアメリカ。ヨーロッパからの参加者たちは(ほとんどがセガンに何らかのかかわりがある研究者、教師、市民)、ぼくの報告を驚きと感慨を持って受け止めていた。話し終わった後、スタンディング・オーべーーしょんなるものをいただき、心臓が飛び出すかと思うほど、高鳴りを覚えた。参加者、およそ百人。

 弘美君がこの写真を見て、「かっこいい」という声を出した。びっくりした。うれしかったですけどね。褒められたことなど経験のないことだから。

 

 午前中、、デイ。片腹痛いのは変わらず、ぞんぶんな訓練を行うことが出来なかった。特に自転車は、この1か月、実施していない。足の力が弱ってしまうぞ。

 昼食後、ふと、自室で倒れて担架で運ばれる様なことになっても、この状態では担架どころか、人も入れないような入り口の狭さだなあ、という思いが走り、特に、入り口近辺の整備に取り掛かった。この作業の間は片腹痛いのはすっかり消えてしまっているのだから、現金なものだ。見違えるほどの広さを確保することが出来、満足。外からわが部屋がしっかり見渡せる。


セガン1846年著書住居について6 施設の立地条件

2019-10-27 17:17:42 | 日記

 セガンは、白痴たちの居住の立地条件について述べる冒頭に、次のように綴っている。

On devra choisir un site élevé, exposé au midi, dans une contrée sèche, et pourtant fertile et assez boisée.

 乾いた土地柄ではあるが肥沃で森林に恵まれたところで、南に開かれた高台が選ばれるべきだろう。

 この一文を読んで、おや、クラムシーがそうだな、と直感した。松矢勝宏氏も、セガンは理想の環境としてクラムシーを思い浮かべていたのではないか、と綴っておられたが、あながち勘違いではないな、と共感したほどだ。セガンがそこまでクラムシーに思い入れをしていたという「裏付け作業」が必要なので、ぼくは、偶然の一致、という扱いにしておきたい。

 クラムシーのガイドブック『少し前のクラムシー』(エンリ・ラム著、1982年)の冒頭は次のような書きだしだ。

「ヨンヌ川とボヴロン川の合流点の高い山脚の高台にある、クラムシー(クラミシアクム)という旧市街は、その起源を、10世紀頃にヌヴェールの伯爵領主によって建造された城塞に持っている。そして最初の居住者たちはその近辺に住居を構えた。13世紀には、要塞の城壁が山脚の突端に回らされた。

 壁の外、つまり城郭街はすぐに形作られた:東には、パンテノール街。パンテノールは施療院の呼び名であるが、1147年のその創設に続いて;ボヴロンのはずれ、西には、16世紀に要塞壁がつくられた。

 19世紀半ば以降、村は、駅舎で整備された北側を含んでいる。・・・」


セガン生誕200周年記念国際シンポジウムに携えていったもの

2019-10-27 16:50:55 | 日記

 2012年10月27日の前夜祭の席は、日本から参加するのが期待されていたのが、すでにセガン研究を廃業し意識と体の片隅にも「セガン」をお持ちでない清水寛氏であった。

 ぼくは、せっかく参加するのだし、日本のセガン研究の到達の現実、つまり僕のセガン研究の成果を明かす発掘史料を紹介しようと、フランス国立図書館に眠っていた「労働者の権利クラブ」から出された1枚のポスタ―を複写していった。あらゆるセガン研究では未知の史料のはずである。これが、セガンのフランス時代の白痴教育の到達を示すと、ぼくは理解している。「白痴は社会参加可能であり、そのような教育・訓練がなされるべきだ」とセガンは具体で示したのだ。ポスターの全文翻訳。

自由 平等 友愛

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労働者の権利クラブ

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労働者に訴える

団結は力なり

同志諸君

諸君らのたくましい息吹によって、ようやく3度目で、王政の構築物は流れ吹き飛んでばかりである。

 諸君らのたくましい息吹は、略奪と特権から生まれたあらゆる制度を、王政の構築物とともに連れさっていく。

 監視の政体は永遠についえ去った。諸君らが始め、諸君らが利用するのだ。

 1789年は人間の権利を宣言した。1848年は労働者の権利を宣言しようとしている。

 我々の権利を認めさせ受け入れさせるために、我々の努力の総てを運命の巡り合わせを共にする人びとに結集せよ。

 冷静な理性と正義、自覚ある我らの力、それらこそが、我らが足どりの総てに偉大な刻印を伝える。

 暴動の時は過ぎた。平和的な行動の時が始まったのだ、決して止めることなく。

 我らのあらゆる行動の普遍の目的、それは、身体的精神的に苦しむ総ての人びとの境遇の向上であるに他ならない。

 総ての階級と総ての民族の労働者たちは、総てが、世界が一つの、偉大で永遠の共和国の兄弟となり市民となることが実現するような、その幸せな日に向かって、一致団結して歩むのだ。

アンドリュウ 錠前屋、アルフレッド・ロドリグ オランド・ロドリグの息子、J. ブロテ 植字工、エドゥアール・セガン、L. ギャロパン ラシャ製造業者、A. ピロウ 植字工、トラモ 植字工

 

注記:我々は総ての労働者、ジャーナリスト、職人、職長、工場長などを、それぞれの職場に、それぞれのセクションを直接創るよう、要請する。

 

 集会は月曜、水曜及び金曜に、2区の公立小学校で持たれる。

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ナポレオン・シェークス中央印刷所 ドゥルジェール通り8

 

 

 これを、セガン研究(セガン生育史研究)で、博士号を得た児童精神科医ジャン・マルタン氏に差し上げて、日本にもセガン研究者がいるぞ、と自己主張したわけだ。シンポジウム開始直前の空き時間、彼は極めて重要なシンポジスト。

 マルタン氏は隅々まで目を通すかのように凝視し、「この存在は私は知らない。セガンのフランス時代の到達を示すものと断言していいだろう。」と日本風にお辞儀をし、直後のシンポジウムでこのことを挿入して発題した。

 ああ、セガン研究を断念しなくてよかったなあ、としみじみ感じた次第。長くなりました。

 


2012年の今日は、「セガン生誕200周年記念国際シンポジウム」の前夜祭

2019-10-27 12:55:03 | 日記

2012年の今日は、「セガン生誕200周年記念国際シンポジウム」の前夜祭だった。忘れられない夜だ。しかし、その記録写真は無い。
 シンポジウム主催のクラムシー学芸協会は、日本からの出席・報告者に清水寛氏に大いに期待を寄せていた。1500ページに及ぶセガン研究の編著者であり、日本を代表するセガン研究の権威者であり、何よりもこのシンポジウム開催の提案者でもあったのだから、当然の期待感だ。
 が、現れたのは、名も業績もほとんど知らない(*一応、2010年刊行のセガン研究拙著は寄贈しておいたのだが、いかんせん、日本語ですからねぇ)よぼよぼの爺さん。
 当然のごとく、ぼくに対して「清水寛氏はなぜ来ないのか?」「清水寛氏は、今、セガン研究をどのように進めているのか?」「清水寛氏のセガン研究の後継者は何人いるのか?お前はその一人か?」
 簡単に日本文化風に言うと、「お前では役不足なんだよ!」となる。
 前夜祭はそんなこんなで、ほんと、帰りたくなった夜、ということで、忘れられないのであります。せっかくの「ハレのフランス・デヴュー」だというのにね。

 明日と明後日に、逆転するのだ!


セガン1846年著書住居について5

2019-10-27 09:59:02 | 日記

avant tout moyen spécial, avant tout médecin ou instituteur, il faudra un local convenablement situé et approprié.

松矢訳書ではtoutに「完全な」の訳語をあてている。完全な特別な教育方法・・というように。抽象的でぐたーがイメージできない訳語だ。ぼくは以下のように訳出した。

「特別な方法のみで良しとする前に、医師や教師のみで良しとするより前に、それなりのところにある、彼らにふさわしい地方が選ばれる必要がある。(後半は解釈訳)

*子どもたちに、特別な方法も、医師も、教師も必要だけれど、それでおしまいということじゃなく、何はともあれ、生活の場を整えてあげましょうね。


「かっこいい!」

2019-10-27 07:33:17 | 日記

薄曇り 寝起きに片腹痛い現象は続く。

130 66 44  132 66 42

 昨夜も列車に乗ってどこかへ行くあるいはどこかから帰る途中の夢を見た。

 昨夜の夕食時、「セガン」にかかわることを弘美君に話した。記録写真を見せながら。

 清水寛氏が「セガン生誕200年記念の国際学会をクラムシーで開きましょう。ぼく(清水氏)も、それまでにはフランス語を勉強し、セガンにかかわる最新の研究成果をフランス語で発表します。あなたもそのつもりで。」と、セガンの世界に引きずり込まれたのが2004年。その生誕記念の国際シンポジウムがあったのが2012年10月27日から29日。肝心かなめの清水寛氏はとっくにそんなこと(参加・発表するという決意表明)はお忘れになり、「ぼくは別の研究でそれどころではない」と、フランスからのセガン研究発表の要請があったことに対して知らんぷり、フランスの関係者と清水氏との間に入っていた僕は、腹をくくって参加・発表しました。その時の発表の様子です、とシンポジウムの記録写真を見せた。

 「何を」を漠然と語ることはあっても、「なぜ、どのように」についてはほとんど話してこなかったが、セガン関係もおんなじだった。だから、弘美君にとっては、ぼくのセガン関係の一端を具体的に知ったのは昨夜が初めてのことのはず。一言「かっこいい」という感想が返ってきた。これはうれしいことでした。

 考えてみれば、われら夫婦、それぞれが「何を」をしているのかは語り伝えあってきたけど、「どのように」しているのか、については語り合っていなかったなあ。