セガンは、1840年10月1日からパリの男女それぞれの不治者救済院に収容されていた子どもたちの教育に携わるべく、「白痴の教師」という肩書で、パリ市救済院総評議会によって雇用されている。しかし、実際の着任は1841年10月1日(記録開始)、しかも男子施設での教育のみに従事した。
命令を得て1年間の空白、しかも男子のみに就業という結果が記録に残っているが、この間の事情はどういうことなのだろう。つまびらかにはわからないが、次のような事情があったことが推測される。
1年間の空白について アドレアン・H 、フェリシテ・X、その他の個人教授の継続(アドリアン・Hはピガール通りの学校の生徒であったとみなされる記録がある)、オランド・ロドリーグの息子の家庭での教育についての相談、ピガール通りの学校についての裁判(訴訟)などが、継続していたと推測される。これは翌年にも未解決のまま(つまり継承された)。
男子施設のみで実践されたことについて このことのヒントは、セガンの次の文言にある。
j'ai douté, non de ma méthode, mais de mes force, (1842年第1著書。p.48)
中野義達は、これを、「私は、私の方法にではなく、私の能力に疑問を持っていたのです。」と訳している(中野訳本63ページ)。やり方は確信しているが、やる力が無い、という理解になるが、「やる力」って何だ?内在する諸能力のことだとすれば、建前的理解はしているが、それは本質的な理解でない、という評価もあり得る。この一文は、セガンを雇用した機関に対してセガンが為したことの報告書であるから、「私は無能者です」と、あけすけに言うはずはあるまい。雇用継続の可能性を後半で訴えているのだから。「わたしゃ無能者ですけんど、そこを曲げてなんとか、続けさせてください。」という馬鹿はおるまい(あ、日本社会はこういう馬鹿ばかりだったな。謙虚とか言うらしいけど)。
だから、他に訳文を求めようではないか。
「やり方には確信があります。ただ、有り体に言いますと、残務処理もあり、全力を傾けて取り組むことが出来ませんでした。とりわけ、女子の方に、そのしわ寄せが行ってしまったのです。」
こういうところか。