人知れずの記録ー障害後期高齢者の日々のつぶやき

日々のリハビリをはじめ、何でもかんでも書いてやろう!という日記帳。

午後通所リハビリ パリの大木戸

2019-07-31 19:48:26 | 日記
快晴 本当に暑い
125 73 59 126 76 58
ビニールゴミ出し 左脚無力痺れ感、昨日の外出の疲れかな。
 今日のお昼は、冷やし中華風うどん

 キムチとベーコンン乗せ。おいしかったでっす。
 午後、デイ。左脚の痛み故、のんびりとやりました。今日もYさん、他のメンバーと会話交流。ぼくの「回復」あるいは「機能向上」について、「そもそも倒れたのか?」という源のことの聞き込みなどをされた。「半身不全構音障害」の診察名をもらったことなど。
 その一方、不快きわまりない男性利用者某の存在。挨拶はしない。場を譲ってもらっても礼の一つも無い。それでいて、女性スタッフにちょいタッチセクハラはする。セクハラ場面を目撃し腸が煮えくりかえる思いをした。今度、「落とし前」、つけてやろうか!!とさえ思う。

パリの大木戸サン・ドニ市門」 在パリ紀行


 1850年代の大規模な都市改革によって現在の整然・清潔なパリが誕生した。それ以前は常に伝染病に襲われていたことで分かるように不潔不衛生な、小さな大都市であった。後者の史跡を探し歩く私は、このパリを「旧パリ」と呼んでいる。
 旧パリとフォーブルとを分かつのが市門(添付写真のサン・ドニ市門はそのうちの一つ)。パリ歩きをしていて市門に出会うと、その巨大さに驚く。この門は、いったいどんな役割を果たしてきたのか。そんな興味・関心が私の脚を、門の内外の地域散策と歴史書頁開きへと誘ってくれる・・・。
   
 旧パリの猥雑さを今も残り香に持っている地域が、パリを南北に貫きサン・ドニ市まで続く旧サン・ドニ街道沿い、とりわけフォーブル(原義:郊外)。非合法街娼が日中から客引きをし、深夜ともなるとホールドアッ事件がたびたび起こっている。多人種、多民族、多文化混在地域である。

 生活教育と生活綴方の関わりについてお訊ね下さるという、古くからの研究仲間Y氏へ
 Yさん、以前にも申し上げておりますが、私の手元には生活綴方を語る史資料はなくなっています(手放した)。また、日生連が「綴り方」を<放逐>しましたから、日生連の言う「生活教育」の論議の中には「生活綴方」は位置づかないでしょう。「生活」や「自由」についての本質的・本格的検討もしていないのですから。・・・戦前の生活綴方と生活教育に関する歴史評価は、川合章先生や教育科学研究会によって決着がつけられているというのが、学的歴史的運動的到達ですから、それでいいんじゃないですか?今更耳を傾ける人など、おられましょうか?

散髪 スーパーへ買い出しなど

2019-07-30 13:50:46 | 日記
晴れ 暑いです
123 75 59 124 71 51

 近所の床屋は高いので避け、今のぼくの脚で歩いて30分ほどにある、2000円床屋へ。しかし待ち人多数。ここは諦め。
 そこからさらに歩いてーあくまでも今のぼくの脚でですぞー20分のところにある「65歳以上1750円」(看板表示)の床屋へ。半年以上前に来て、会計担当のマダムに「大人2500円」の正規料金をふんだくられた因縁の店。他にも床屋がその近在にあるが、もう歩き疲れて、とにかく飛び込んだ。
 待ち人無し、すぐ「どうぞ!」 ただし、理容師さんはマスクをしており声がくぐもっているので、ぼくには難敵の相手だ。
 こいつは音声会話は難しいヤツだ、と正しい判断をなされた彼は、身振りと鏡を道具としてぼくの意思を、都度に確認し、きれいさっぱりと仕上げて下さった。
 さあ問題の会計だ。前回には提示しなかった健康保険証を用意し、金額提示に耳を傾けた。1750円!保険証見せずじまい。
 短髪は短髪だが坊主でも無し、角刈りでも無し。細君の、嫌なのよ、それ~、というしかめっ面は見なくて済むだろう。
 帰路、東武ストアに立ち寄り、種々買い物。店舗が大きく拡張されており、見間違えるほど。

通所リハビリ

2019-07-29 16:15:47 | 日記
晴れ 暑さで寝苦しく朝を迎えた。
121 73 54 121 75 56
 燃えるゴミ出し。左足の動きを統制しにくい。転倒防止に神経を使う坂の上り下り。

 午前中デイ。
 5本指靴下はまるで足裏に吸盤がついているようだ。靴を履くのに難儀した。いったん着用した5本指靴下を脱ぎ、デイに着いてから通常の靴下と履き替える作業。
 臨席のご婦人が、やにわぼくの作業の手を払いのけ、「これ、やっかいなのよね。」と声出ししながら、足指1本1本ていねいに靴下を填めて下さった。
 周りの人は、靴下おしゃれねー、なんて会話しながらことの成り行きを見続けていた。
 靴下を自分以外の手で履いたのは、記憶の限りでは、無い。脳梗塞で倒れてからも悪戦苦闘しながらも、自力だ、これは通常の靴下だけど。そんなこんなで、恥ずかしいやら歯がゆいやら。
 でもよー、今日はよかったねー、幸せだったねー、だよ?次回からの保証は皆無なんだと、自身に強く言い聞かせながら、「ありがとうございました。助かりました。」と、きちんとお礼の言葉を出したのであります。
 ご婦人のお名前は今もなお、覚えられない。

室内であれこれ パリ・コミューンのファッション

2019-07-28 16:32:38 | 日記
雨午前中に晴れ間 5本指靴下朝からはいた。
127 74 52 131 73 52
 午前中、室内で訓練あれこれ。歩行訓練、ストレッチングボード、ペダル漕ぎ、棒体操。足裏にボールを置いてころころ。これがなかなか難物であります。すぐいやになる。おなじくすぐいやになるカラーボール手指でころころ。これは思いついたときにいつでも出来るようにパソの隣に置いている。

ついにファッション史に脚を踏み入れた」在パリ紀行
 まだ、フランス滞在の日の浅いある日、国立古文書館前あたりに古書店を見つけた。さあ、19世紀半ば以降の教育史料が見つかるか?
「パリ・コミューン関係の史資料を置いているか?」
「パリ・コミューン?知らないな、それはフランス語ではないから、フランス語で言うと、なんというんだい?」
「???(パリ・コミューンはフランス語じゃないの?) えっと、1871年の3月から5月に起きた政変。コミュニズムの運動だといわれているけれど・・・。」
「それは、『ラ・コミュヌ・ド・パリ1871』と言って、略称が『ラ・コミュヌ』。フランス地方行政自治体の固有名称<ラ・コミュヌ・ド・パリ>とは区別している。で、ウチはファッション関係の古書店だから、『ラ・コミュヌ』反対派人物が『ラ・コミュヌ』のファッションを戯画にして出版したものがある。置いてあるはずだから、探してみよう。」
 かくして入手したパリ・コミューン関係ファッション史料。その一頁を添付しておきましょう。「パリ・コミューン」議会議員は赤いたすき着用義務が議会で決定されています。図版は、最長老議員を中心に描いています。

 上記に、パリ・コミューン関係のファッションと、その事例として、「パリ・コミューン」議会議員の赤タスキの図版を載せた。これはフランス革命以来の議会伝統で、特段、赤=コミュニズムという象徴ではない。
 しかし、パリ・コミューンをコミュニズムの戦いだったと強弁したがるアメリカ及びその支配下にあったフランス・ジャーナリズム、そして日本政府関係者は、これを契機に、「赤色云々」というレッテル貼りをし、それが現代にも大きな影を残している。フランスにおける「赤」は共和制のシンボル色。
 話は戻して、パリ・コミューンファッションを描いた出版人は、議会議員のシンボルとしての赤タスキ(これは史実)を描くだけでなく、議員で無い者の「色分け」をしている。フランス社会に婦人参政権が実現するのは、ずっと後の時代のことだから、女性が政治的立場を表明するのは、「言論集会」「デモ」「戦闘の後援部隊」となる。しかし、史実として「赤」色を象徴的衣類にしていたということはない。
 さあ、描き手の戯画家はどうするか?添付図版をどうぞ。


 これらの戯画を掲載している画集の「まえがき」を次に記しておこう。

まえがき
 このデッサン画集は想像や空想の産物ではない。
 ラ・コミュヌ支配の間パリに滞在していた『ル・スワール』(訳注:夕方)誌-それは異なった三つの政体の下で次々廃刊に追いやられていた-の版元編集者;当時ただ一つの風刺紙であった『グレロ』(訳注:鈴)紙-それでも最後まで発行を続けた[1]-の編集者であり画家、すなわち私は、ラ・コミュヌの風変わりな奴、奇妙なあるいは悪意のある外観、綬、飾り紐、羽振り、恐ろしくまた血なまぐさい、喜劇を悲劇で演じるしかない夢の中で、その役割を演じた役者と端役、これらの常軌を逸した光景すべてが目の前で崩れ落ちていくのを見てきた。
 暗闇に紛れて演じた役者、つまり今はもういない彼ら、灰燼と化したコスチューム、消失した羽根飾り、もはや実際に目に呼び起こすことのないそれらの色、特徴、性格のどれもを、私は表現しようと試みた。
 ともかくも、私たちが生きてきた歴史のこのささやかな局面を、どうにかこうにか、一つところに定めて見るという好奇心があったのだと、私は思っている。
 ほかに取り柄がないとしたら、この画集は誠実さだけが取り柄であろう。
ベルタル
 1871年7月、 パリ



在宅であれこれ 天井灯の取り替え

2019-07-27 18:38:36 | 日記
曇り 雨の跡で少し過ごしやすい朝です
134 80 61 124 71 52`
 お昼はカレーうどん。具たくさん。汗一杯かきました。塩分は押さえています。

午後の作業
洗面所の天井灯の電球が切れた。脚立を使って取り替えればどうってことの無い作業。とはいうものの、それは健常時の話。左脚のつっぱり感がとても強いこの頃。平面でさえバランスを失い倒れることがあるのだから・・・と怖じ気ついて取り替え作業をしていなかった。
 でも、こうやって意識しないうちに、身体機能能力を失っていくんだなあ。
 よっしゃ、やるかっ!
 脚立を組み立て、1段1段、身体が不安定でないか、確かめながら昇った。天井灯に手が届く・・・。大げさだね、わずか少ない方の数段だけなのだから。
 恐る恐るの数分間の作業は無事終了。天井灯の明かりがあると、とても明るい気分になりますね。
 5本指靴下、悪戦苦闘の末、試着成功。自分の足の指のことがさっぱり分かっていないことを理解した。これから少しずつ分かっていきたいものだ。


華の都の地下墓場でランデブー」在パリ紀行

 韓国料理の屋台村にて、韓国料理に挑戦。食い意地が張るぼくは手当たり次第に野菜食材を麺の上に乗せた。長椅子で隣り合わせになった彫りの深い顔つきのお嬢さんが、「それ、死ぬほど辛い思いをするから、お止めになった方がいいですよ。」と助言を下さった。が、何、かまうものか。ho
 その恐ろしさを未だ経験していないぼくは、青唐辛子1本、口に放り込んだ。生き地獄でのたうち回るぼくに、お嬢さんは、かいがいしく水などのお世話を下さった。・・・・
 在仏用名刺をお渡しした。「やはり日本の方なのですね」「1年間の研修中です」。お嬢さんは、沖縄出身、パリに住んでいる、観光ガイドの仕事に就くため語学修行中。それでその日はお別れした。またお会いすることもあるまい、と思いながら。
 数日後、アパートの電話が鳴り響く。
 フランス語会話などできない身。電話に出るときは日本語で出て、殆どの相手を撃退?してきた。電話の向こうは、「AIKOです。先日の韓国屋台村でお会いしました」。用件は、地下斎場カタコンブに「連れて行ってほしい」とのこと。
 パリ入りした当初、パリを作っている建築物の石灰石などは、どこから運んできたのかに興味を強くし、パリ築城当時はパリの地下の石灰岩を掘り出していた、と知った、と自己紹介がてらお話をしている。それで彼女も文献などを求めて知識を共有することが出来た、その跡地がカタコンブ。地下斎場など、多様な目的で活用されていることを知った、是非、この目で見たい、「連れて行って下さい」。「いや、ぼくもたいそう興味がありますね。レ・ミゼラブルの描写舞台でもありますし。パリ・コミューンの一舞台ともなっていますから」。

 ということで、2000年10月のある日、沖縄美人に引きずられながら、カタコンブの入り口まで到達したのであります・
・・。
添付写真は地下斎場の入り口(2000年当時) 敬虔さが保たれた閑静な斎場でした。他の参観グループとはまったく出会うこともなく、独占状態。現状はまったく敬虔心を持たない、観光・娯楽場となっているとか。ま、「弔い」のあり方は多種多様でありますが、私は行く気はまったく起こりません。

メガネの新調

2019-07-26 18:16:04 | 日記
快晴 風はさわやかに吹く 台風?
120 69 53 120 76 57
 朝から船橋の東武デパートに出かけ、メガネを誂えた。
 せっかくだから、いつもいろいろと脚とをいただいているTさんと合流し、身体状況をお伝えするべくランチをご一緒して頂いた。季節の豆腐料理を含むランチコース(添付写真)。左の調子は一向に改善されない。痛みが襲わなくなっているのは救い。

大物の買い物メガネ購入をしたので、鰻が大賑わいで売られていたがパス。今度はいろいろとリュックに詰め込むぞ。

(キーボードを新しくしたためタイピングがスムーズでなく、思考もそれに釣れて流れない。)

夏到来 在パリ紀行「石畳の路地裏」

2019-07-25 18:05:16 | 日記
快晴 カンカン照り。
117 70 55 132 77 58
 今日は終日、弘美君が在宅。これからこういう日が多くなるんだな。特段に会話無し。それぞれがそれぞれの時を過ごしている。TVが高校野球を映し出している。ぼくがつけたのではないし、チャンネルを回したのでもない。これは意外。
 朝の内、大汗かいてリハビリ運動。ストレッチングボード。ボードの傾斜を少し緩めた。やっぱり物足りない。明日は元に戻すペダル漕ぎ1000回転、12分強だった。徐々に増やしていくつもり。階段の静かに座り静かに立ち上がる繰り返し。今日はぐらつき無く安定動作。廊下歩行。ゴムバンド牽引訓練。カラーボール指先ころころ。
 暑さに負けて午睡。目覚めて慌てて布団干し。明日も干したいのだが船橋行き計画。
 夕刻庭でほんの少し運動。膝屈伸。両膝と左膝と。

「石畳の路地裏」在パリ紀行


 スファルト舗装がまったくされていない石畳の道に出会うと、パリが死滅していない証拠を見つけたかのようにホッとする。たいていは路地裏とも呼べるほどの細い道だ。この路地裏こそ、パリの文化に出会う、絶好の場所なのだ。とくに古書店は足繁く通う対象となる。
 過日、リトグラフ・挿し絵のファイルを一つひとつめくっていて、目に留まった一枚の絵があった。
 門口の上に「ECOLE」(学校)と書かれ、門口の側に一人の男性が指さしをしながら立っている。11人の多様な年齢層の子どもが「学校」に今まさに入ろうとしている。絵の下には「学校  不幸と悲惨な生活の始まり」とタイトルが付けられている。画面左隅には「charla」の文字が壁にいたずら書きされているかのごとく描かれている。その単語の右隣には置き石が描かれているので、単語は完全なものではないらしい。charlatanと補って読めば「ペテン師」となる。教師も含めた丸ごと学校がペテン師だと言いたいのだろう。     
 門口の隣にはカリキュラムをかすかに読むことができる。読み・書き・算、特定宗派の教義に基づく生活規律を教える,とあるところから、庶民のための学校、今日の義務教育に通ずるものである。暗記のために、テキストを丸ごと読み、丸ごと写し、むち打つ教師に訓練されるという教育を受け、それらによって「学力」をつけたところで、村の子どもたちは、都会に出て厳しく単調で長時間にわたる最下級の労働者になるのが関の山である。「学力」をつけることは、村の伝統的な生産活動から離れ、プロレタリアートになるということでもあった。ごくごく一部の者が社会の上層に上ることが約束されているが、圧倒的多数の子どもの未来は「不幸」と「悲惨」とが待ち受ける工業化社会があるに過ぎなかったわけである。
 石畳の路地裏には歴史が丸ごと隠されている。じつに楽しい空間である。

通所リハビリ(午後)

2019-07-24 21:36:37 | 日記
晴れ
130 76 55 131 76 56
 朝の内はのんべんだらり。
 午後、通所。ブータレ環境が変化しているようにも感じられ、ぼくの方からも。というわけで、コーヒー入れから。やはり、コミュニケーションを作るきっかけとなった。Yさんというご婦人と会話。コーヒーを何故入れるようになったか、という切り口。デイで最古参の利用者が、入所当初から今にいたるまで、どのように身体の変化があるか、機能が改善、向上してきたか、とお話しした。「励みになる」との返しの言葉をいただい。た。嘘は言っておりません。あと、どうしてもご婦人との対話になるけれど、数人の方と。
 ぼく自身の訓練は、ハードル歩行とレッグマジックのみ。水曜日のコマ、今日のようにぼちぼち行きましょう。5本指の靴下?足袋?を用意すること。金曜日の船橋行きのおりに購入しましょう。

「地下に潜った話」 在パリ紀行

 「歴史的パリ」という看板。パリ市役所の近く、貴族の館が遺されているというので観光名所になっているマレ地区の一角にある。
 「歴史的パリ」の正式名称は「歴史的パリの価値の保護保存」という市民ボランティアによる機関と施設である。案内の席に座っている数人のマダムのところに近づいた。「入館料はいりますか?」と尋ねた。
「あの団体と一緒か?」と尋ねられたのでノンと答えると、マダムは私が案内してあげる、と先導してくれた。団体は階上へと行ったが、マダムは階下、すなわち地下階段へと案内してくれる。狭い石の階段でずるりと滑ったのはご愛敬。すんでの所でマダムをけ落としてしまいそうだったのは愛嬌にはならない。
 地下に入ると・・・!黄土色の、パウダーが固まったような土、そしてその空間を囲む石鹸石の壁、そして天井を支えるアーチ型の柱。さらに下へと縦穴に掘り進んでいったのが井戸のような形で遺されている。壁の一角に鉄柵状のドアがあったのでそこを覗き込んでいるとマダムが鍵をわざわざ開けてくれた。入っていいわよ、でも頭と足に気をつけてね。横穴になっているのは、横に向けて穴を掘っていき、また今いるような空間を作り、建築素材を得、建築物の土台を作るためのものだ。壁を一つひとつコンコンと叩く。あるところで空間の音がする?マダムが笑いながら、それはプラスチックよ、と教えてくれた。
 「メルシー・ボクゥ、マダム」を何度も繰り返して保存会を後にした。去るときにもらったガイドには、ご自由にお入りください、とあった。

もう少し手指の訓練を

2019-07-23 19:00:56 | 日記
曇りから雨 資源ゴミ出し。隣の町会のゴミステーションは我が家から20メートル、坂登。我が町会のそれは100メートル坂登。今朝は雨のようでもあり両手がふさがっていることもあるので、隣町会のを借用した。 
132 78。 59 131 78 58
 何年か前の修善寺の旅で購入したカラーボール・オルゴール付きを引っ張り出して、手指訓練具。明るく楽しくリハビリはすべきなのです。

 朝食前、手指の運動少々。食後、ストレッチング・ボード、ペダル漕ぎ、ゴムパイプ牽引(手、足とも)、マッサージチェアをフラットにして腹筋、ボールで土踏まずゴロゴロ、廊下で歩行訓練、携帯小椅子で座り、立ち上がり訓練。計1時間ほど。今日は汗をかきませんでした。
 夕刻、木曜日に予定する外出のためにと、財布等を整えていたところ、財布が見つからない。外出バッグ数種、衣類、おまけに吊り下げ衣類のポケットなど、考えられるところをくまなく探したが見つからない。財布を最後に使ったのはいつ、どこか?船橋の生鮮食品街まで記憶を辿った。しかし、どうしても外出先でなくしたとは考えらない。ディスクの引き出しも奥まで手を突っ込んでみた。
 これは絶望だな、さて、この後どうする?血圧を測ったら動悸を含めて異常数値。要するに、パニックを起こしている。
 ・・・ディスク引き出しの一番手前のペーパーの下に隠れていた。そんなところに、いつ?なぜ?無事見つかったけれど、自分の行為を自分が説明できないので、愕然としている今。ああ、亡母と同じことをしているなあ、おれ。違いは、「盗られた!」と騒ぎまくらないことだ。

X氏から、
「共同で研究してほしい、お教えを請いたい。」
というお申し出があり(2005年⒐月)、戦前生活綴方教師と評価されている、ある人物の論稿を読み合わせているとき、
「なんでここ、赤線引かないの?」
と、きつい口調で仰る。意味が分からず、「は?」とだけ応対した。すると、X氏は、
「赤――客観的に見て、最も重要な箇所 ・青――客観的に見て、まあ重要な箇所 ・緑――主観的に見て、自分がおもしろいと感じたり、興味を抱いたりした箇所 という風に、傍線を引き分けるんだよ。さっきのところは客観的に見てもっとも重要な箇所なんだよ。」
と、仰る。
 向かっ腹が立ち、さっさと研究会をお開きにしようかと思ったけれど、最後っ屁ぐらいは噛ましたいと決意。
「斉藤なにがしかの三色ペン使い分け術が大変ブームになっているようですが、60,70の研究者と言われるじいさんが、雁首揃えて、あ、ここは赤でしょ!とか、いや、緑だよ、とかやり合うんですか?みっともないと思いませんか?私は書物に傍線はよほどのことが無い限り引かない、ましてや人に指示されてする行為とはまったく思いません。」

 その場はX氏が引き、研究会継続を合意したけれど、ふとした機会に思い出し、研究会継続その後の絡みで、強い自己嫌悪に襲われるのです。 

通所リハビリの日

2019-07-22 07:33:30 | 日記
小雨 燃えるゴミ出し。左脚の運びが思わしくない。運動で負荷かけ過ぎなのかなあ。
140 80 60 133 81 61
 午前中デイ。月曜日の仲間たちとはすっかり溶け込んでいるので、会話あり、教えあいあり、コーヒー淹れあり。自分の取り組みは、チョット、ひるむものもあったが、楽しく時を過ごすことが出来、汗もかいた。いつもこうだといいのだけれど。これもまた、マイペースだといえばマイペースなのだから、水曜日もこういきましょう。コーヒーの銘柄産地などを確認しなかったが、ナッツの香りがし、優しい口当たり。とても珍しい味わいだ。
 午後は、ゆっくりと身体休め。チョットうとうととした。


FBFのH氏より「仮面浪人」に対する「感想」が届けられた。以下長文だが、そのまま転載。ありがとうございます。

読後、この国の大学教育、特に私学に対する危機を痛切に感じてしまいました。毎年入学~卒業を繰り返して学士の“安直な生産”を続ける大学、そうであることを望む学生、双方の利害関係一致によって改まることなく続くレジャーランド化はさらに深まったのではないかと思った次第です。

その施設を有意義に利用するには、感覚や意識を共有することが条件となり、何らかの理由でその条件を持ち合わせていない者にとっては不満どころか、苦悩をも味わう修羅場にもなりかねない怖さを備えています。
川口さんが文章中で書かれている3人の学生は、まさにそうなのではないかと思われます。

察するに、3人はわたし(1961年生まれ)よりも5~10歳ほど下の世代でしょうか。だとすれば、偏差値という相対的なメジャーによって輪切りに学力を、ともすれば人間性をも判断しかねない価値観が高度に進みつつあるハシリの年頃。その弊害として、雑駁な言い方ですが、利己的な考え方をする傾向が強いかという印象です。
その辺りについては、学生と直接向き合ってこられた川口さんはリアルに実感されていることと思います。わたしの認識が誤っていたなら、一笑に付してください。

3人のうちでは、二番目に書かれた山元氏が最も気がかりと仰られていますね。わたしも読んでいてそのように感じました。
学生時代、エリート家庭の中で劣等意識を抱いている友人がいて、その者と重なるところがありました。
山元氏の精神面のコンプレックスは相当に根が深く、思考様式が容易に切り替わらない様が気の毒でなりません。

それにしても、書かれた3人の学生に対する川口さんのご対応には敬服です。先日に読ませていただいた文章でもそうでしたが、心の苦しみを深く感じ入り、長く接触を保ち続ける姿勢には、ほんとうに頭が下がります。

冒頭に大学をレジャーランドと称しましたが、もちろんそれは望ましいことでなく、そんなはずはないという思いも持ち合わせています。それは、大学には川口さんのような先生が少数派とはいえ必ずや存在しているにちがいない、という期待が根拠にあることに他なりません。

自分のことについて述べさせてください。
わたしは高3での受験失敗後、高卒し、一浪で予備校に通うさなかの6月に父が急逝しました。家業は自営の印刷屋でしたが、写真を生業としていたいた兄が急きょ継ぐといいましたが、「生活困窮とは言わぬまでも、裕福とは言いかねる家庭において、大学に行くべきか否か」と、わたしは迷いました。
その迷いはすぐさま母と兄によって否定され、大学進学に向けて受験勉強を再開。自分でも、お金のことは奨学金を借りたりバイトでもしてどうにかしよう、と気楽な考えに転じたのです。

そして迎えた入試。あいにくわたしの理系科目はからっきしダメで、国公立は無理ですから、受験科目の少ない私立大志望でした。新宿生まれ育ちでしたので、近所にあった早稲田に対する憧れは強く、3学部を受けました。その結果、かろうじて合格したのが夜学の第二文学部でした。
昼に完全な定職を持ちながら学ぶという考えは持ち合わせていなかったので、すでに合格していた昼間の他大学とどちらへ行くか迷いました。しかし「昼間バイトもできるし、ちょうどいい」という安易とも言える考えが浮かび、第二文学部(以下、二文)に決めた次第です。

入学してみたらこの夜学の二文は、とてもユニークな学部でした。様々なプロフィールをもつ学生のるつぼだったのです。昼に社会人として働く者(職種は公務員、会社員、大使館職員、タレントなどいろいろ)もいれば、年長者、外国人、全盲障害者、そして他の大学の環境に馴染めず再受験し入学してきた者も何人もいました。

二文は、早稲田の昼間学部よりいわゆる偏差値が低いためブランド力に劣り、また夜学の文学部ということで就職の安定性にも欠けました。そんなこともあって、卒業後には願わくば大企業とう一般的安定志向の者からは当然ながら対象外です。
わたしのような自営業育ちで将来の職種について具体的に思い描いていなかった者には無関係。同じような自由といえば自由、能天気といえば能天気な者ばかりが多かったです。昼の学生とは明らかに異質な空気を発していました。

結論とすれば、わたしはこの二文に行ってよかったです。世の中の「常識的」な価値観にとらわれず、様々なことを考え、経験し、夜学ならではの雰囲気のもと、先生ともわりとざっくばらんに付き合うことができました。
川口さんの文章を読み、3人の学生にはぜひ二文に来てほしかったなあと思いました。もっともこの第二文学部は学部改編の嵐に見舞われ、2006年の入試を最後に廃部となってしまいました。残念です。

手前味噌で自慢めいた話を長々と書き連ね、失礼しました。たしか以前、川口さんの奥様が夜学生だっことのエピソードを書かれ、共感したことを覚えています(記憶違いならばごめんなさい)。
貴重な文章をありがとうございました。また別のものがありましたら、ぜひとも、読ませていただけたら幸いです。厚かましいお願いですが、期待いたしております。