人知れずの記録ー障害後期高齢者の日々のつぶやき

日々のリハビリをはじめ、何でもかんでも書いてやろう!という日記帳。

悲しいほどに目の能力が・・・Pauvre de moi!

2019-01-31 16:29:02 | 日記
 怠けてばかりの毎日。少しは研究の心を取り戻そうと、朝から、フランス革命以降の救済院、施療院等の法整備過程を学び直そうと、19世紀パリ市の「救済院、施療院ならびに家庭看護」法規集(1824年)をひもとき始めた。
 愕然!フランス語を視覚で読み取るのに非常に困難を覚えるではないか?眼鏡を変え、明かりをもう一つ増やし、拡大鏡を利用し、ようやく、ひとまとまりの入力を終えた。2時間はかかっている。セガンを始めた頃には、ものの5分とかからない入力量だ。以下のごとし。

p.611 
TITLE H
Des Hospices pour les Vieillarrds et Infirmes

CHAPITRE 1er Des Fondanteurs d’Hospices ou autres Établissemens de charité

Les fondateurs d’hospices et autres établissemens de charité qui se sont réservé, par leur acte de libéralité, le droit de concourir à la direction des établissemens qu’ils ont dotés, et d’assister avec voix délibérative aux séances de leurs adminisdtrations ou à l’examen et vérification des comptes, seront rétablis dans l’exercice de ces droits, pour en jouir concurremment avec les Commissions instituées par la loi du 7 octobre 1796 (16 vendémiare an 5) , et par celle du 27 novembre 1796 (7 frimaire an 5), d’après les règles qui en seront fixées par le Ministres de l’intérieurs sur une proposition spécitée des Préfets et l’avis des Commissions instituées par les lois précitées, et à la charge de se conformer aus lois et réglemens qui dirigent l’Administration actuelle des pauvres et des hospice.
 第1章は、救済院あるいは慈善施設の設置者規定。。

 だが、見えない、判読出来ないわけではない。その能力はまだある。時間と根気が必要だが、無能になったわけではない。この気力をこれら以降も持続していくことが、ぼくの人生課題だ。
 それにしても、黄斑変性症、げに恐ろしい眼病だ。治療法がようやく開発される見通しが立っているとか。この面での医療の格段の進歩を望む。ぼくには間に合わないにしても。

 今宵はオリジナル・スープカレー。スパイス20種類使用。ほうれん草を加えてみた。おいしいできっでした。


白鳥の歌2題

2019-01-30 19:38:19 | 日記
 歌人で誰を好みますか?こういう問いを受けることが多くあった。(近年はまるでない)
即答 牧水です。

私自身を「Vagabondヴァガボン(仏語読み)漂泊者」と称してエッセイを綴ることが多くあった(これも過去形。)

大学生時代、牧水の短歌を歌謡化した「白鳥の歌(しらとりのうた)」を披露することも多くあった。


「白鳥の歌(これは、はくちょうのうた Schwanengesang)」は、かのペスタロッチの晩年の著作名(1826年)。「生活が教育する Das Leben bildfet.」の名句を生み出した著作である。「ペスタロッチ研究」は我が終生の課題意識下にある。

 今日のリハビリ課題 腰割

 電子ピアノ演奏 MOMOSTYLEさん

今日は長男の命日。

2019-01-29 09:29:57 | 日記
今日は長男の命日。幼くして急性骨髄性白血病に罹病して、治療の甲斐なく、神の下に召された。

当時の私の身分は大学院生(博士課程在学中)。妻は勤労学生。夫婦交代で、病院の個室ベッドで、長男をあやし、寝かしつけ、遊びなどの生活が半年続いた。

私は、長引くであろう治療費等の捻出のためすぐさま職を得なければと、どのような職能でも覚悟を決めているので紹介してほしいと、指導教授に願い出たが、時を待て、焦るな、と。
研究職・教育職に就くための論文作成を、何本か、ベッドの上でつづったなあ。ぼくにとっての出世作となる『綴方生活』第一次復刻版月報に連載した史料解題的な『解説』のほとんどはベッドの上で生まれたものだった。

つらい、悲しいというのは、死の後に襲ってくるものだ、ということだった。命ある限り、という言葉は本当だと思う。生への戦いのエネギーに満ち満ちていた。もちろん、多くの人からいただく温情なしではありえないことだった。

・・・45年前の思い出。

とても寒い日 通所リハビリ

2019-01-28 18:04:43 | 日記
 起床後すぐ、燃えるゴミ出し。左脚のツッパリ感と虚脱感が強い。空には全面薄雲が広がり、太陽光線が差し込むのを遮っている。とても寒い朝。
 午前中デイの日。迎えの車待ちの時間を土曜日タイムと間違え、30分余、車庫屋根庭で軽体操。7番アイアンで空気抜けボールを叩く遊び。パコンという音を楽しむ。けっこう大きな音を出すので、ほんの少しばかり気を使った。他に、足慣らし体ならし運動あれこれ。脚のハリはすこしほぐれたが、まだまだだ。
 デイではいつも通り。コーヒー淹れの作業につく。最近、「いただきます」やら「ありがとう」やらの声掛けをなさる人が少なくなってきている。もう、当たり前の「行事」だという認識と行動なのだろうか?少しだけだが、「社交性のなさ」を感じる人が増えた感もする。一言添えれば気持ちいいだろうになあ。ぼくは、デイからお茶のサービスを受けるとき、間違いなく、「ありがとうございます。」と声掛けを欠かいていないのだが。どうして言葉にならないのか、そのあたりの心理はわからない。「今時の若い者は!」という言葉はまったく使うことのできない年齢構成だから、年齢や年代のせいでは議論ができない問題だ。これがいわゆる「都市化現象」なのだろうか?「自分しか見えない・見ない」ということね。
 今日の訓練内容は、個別のみを羅列すると、ハードル、ステップ、レッグマジック、滑車、スカイウオーカー、バランスボール、バランスシート、腹筋ローラー…。整体終了時に、腹筋起き上がり(成功!)、相撲の立ち合いの型、ストレッチあれこれ。楽しんで時を過ごすことができました。腹筋起き上がりができた時に、拍手をいただいた。ありがたいことです。
 社長さんとほんの少しお話。調髪をほめられた。すっきりした、若くなった…。ぼく自身があこがれているホームレスタイプは、やはり評判は良くないんだな。

同郷、同学の士・中村弘行氏、拙宅に来訪

2019-01-27 12:18:23 | 日記
 ご自宅で育てられたレモンの果実等を手土産にして、中村弘行氏がぼくの見舞いというか様子見を兼ねてだろう、午前中、わざわざ拙宅にまでおいでくださった。
 お土産にいただいたレモン、キンカン、ミカン。レモンの立派なこと!

 中村氏のことをぼくは「有さん」と呼んできている。それは氏が海輪有の筆名で何篇かの文学を発表しているからだ。ここのところは、「寒天」生産の歴史を求めてあっちこっちを歩いておられる。近々、樺太にわたられる予定とか。かの地の人たちに招かれてのことという。
 中村氏は、三重県伊勢市の出身、高校は伝統名門校伊勢高。ぼくより8歳年下になるか。東京教育大学の最後の頃の入学生。教育学科生ということでもあり、ぼくは大学院生として彼と親しく交わるようになった。それ以降、所属研究室は異なるけれども、ドイツ語の学習会をはじめビリヤードなどの遊び仲間であった。卒論の相談にも乗っていたっけなあ。
 有さんの自撮りで記念の写真。

 彼は、ぼくのセガン研究の良き理解者でもある。しかし、というか、彼が「筏師は面白いね。」と言ってくれたことが、何よりもうれしい。セガン研究から派生した、セガンの生誕の地の産業、薪材を筏に仕立ててパリに運航する「薪材筏」、それの運転者兼筏建造者「筏師」のぼくの叙述に目を向けてくださったわけだ。「セガン研究」に引き継いで「筏師研究」を進めようとしていた矢先に脳梗塞で倒れてしまったので、史資料の在りかはわかっていても、まったく手につけていない悔しさ。今手元にある数冊で概要はつかめるけれど、それ以上の考察は不可能なのだな。
 こんなことも、今日の中村氏との語り合いの中で語ったことである。
 中村氏が「寒天」研究に行きつき、ぼくが「筏師」研究の扉に接した。両人とも「教育学研究者」なのだけれど、表の「教育学」では見えなない人間史を見るに至ったことも、また、面白いことだと思う次第。

セガン研究の一視点 FBF相原氏との問答

2019-01-26 16:04:06 | 日記
今朝は寒い。しかし、春を呼ぶ寒さ。
 寒い朝https://www.youtube.com/watch?v=TY6dTOxms3M

 禁じられた遊び 映画シーンが思い出されます。
*****
(妄言)
 1970年代、ヴィクトル・ユゴーを、「彼の教育論は観念論だ」と、ソヴィエト・マルクス主義者が断じた。要はユゴーがマルクス主義者ではないが故に、彼の所論を本質的には評価できない、ということのようだ。ぼくの大学生時代も、唯物論者か観念論者かの二分法が流行った。ぼくもその二分法で世の中を見ていた。もちろん唯物論者至上主義。
 排他的二分法は視野を狭めてしまいましたね。

山岡 寛樹 ヴィゴッキーの扱いを考えると、いろいろ考えさせられます。

相原 功志 レ・ミゼラブルで、1832年パリの、共産革命を掲げた学生蜂起が見事に散っていました。という解釈で良いでしょうか?

川口 幸宏 あれは共産革命と呼べるものかどうかと思いますけれど。史実としては共和主義を要求するエリート学生たちですね。1830年代の初めにはcommunisme思想はまだ形成されていないと思います。もう少し数年後のこと。

相原 功志 なるほど。理解が深まりました。ありがとうございます。

川口 幸宏 相原さん、当時の秘密結社で「家族協会」というのがあったのですが、1840年にその家族協会の一メンバーによってcommunisme概念が提出されています。

川口 幸宏 ついでながら、「家族協会」綱領は1834年に結ばれていますが、そこではプロレタリア概念が登場しています。共産主義という概念はこの段階で未提出です。

相原 功志 なるほど。しかし、共産主義の芽生えは少しずつ始まっていたのですね。レ・ミゼラブルを熟読すればするほど、真の幸せはどこにあるのかと考えさせられます。共和制?帝政?王政?自由?平等?しかし、究極のところは、各個人とそのコミュニティーにとっての平和と安定なのだと思い知らされます。そして、さらにさらに究極のとことは、イエス・キリストが君臨する王国の実現なのだと。

川口 幸宏 1830年革命、1848年革命、1871年パリ・コミューンと、度重なる革命によって,人びとと社会とのあり方・関係性を性格づける諸思想が誕生しますね。ユゴーは敬虔なクリスチャンであり自由主義思想家、研究者によっては植民地主義者だと規定する立場もあります(私もその立場を支持しています)。それはともかく、社会的平等と精神的平等とを統一的に捉える思想や運動の一つにサン=シモン主義(サン=シモン教)があります。「空想的社会主義」と「教科書知識」化されていますが、キリスト教と社会主義とを統一した思想・運動でありました。私が研究してきた知的障害教育の開拓者エドゥアール・セガンという人がその立場の人として知られています。

相原 功志 そうですか。先生のご専門のセガン氏はそうした思想家・運動家であったのですね。また何か疑問に思うことがあったらぜひ教えていただければ感謝です。

川口 幸宏 セガン研究の先達は,セガンを、サン=シモン主義からマルクス主義へと接近していった人、その立場から知的障害教育を開拓し、実践し、世界を啓蒙したと理解されているようですが、私は、サン=シモン教徒として自己完結をした人だと理解しています。前者だとキリスト教否定につながり、後者だとキリスト教徒として生涯を貫いたと理解されますね。1800年代は思想的にも激動の時代で、面白いです。

豚軟骨煮込み奮戦?記

2019-01-25 19:20:02 | 日記
 昨日、ふなばし新鮮市場で入手した「豚軟骨」の煮込み作業を、朝から行った。とにかく初めてのことゆえ、M-FBFから教わったことを頭に入れて、オリジナルレシピ。
 圧力鍋も、炊飯器も使用環境にないので、ごく普通の煮炊き鍋使用。朝9時半から開始。
 沸騰したお湯に豚軟骨を投入、そのまま沸騰させてアクを掬い取り、豚軟骨を取り出して水洗い。続いて、ネギ(青い部分)、しょうが、板昆布、料理酒と一緒に、水洗いした豚軟骨を、コトコトコトコト弱火で煮続ける。3時間ほど。その間,アクを掬い取る作業を適宜入れる。煮続けながら、しょうゆ、砂糖、みりんを適宜加えて味を調える。こんな具合に。

 3時間ほど煮続ける間に、一度、水を足した。空焚き焦げ付きには気を付けないとね。
 4時間の煮込み作業で、試食。

 いやもう、なんというか、うまい!!昆布が絶妙であるが、肉部がトロトロのおいしさ。軟骨はもう少し柔らかくした方がぼくにはいいだろうと思う。

 コンロから降ろして余熱でじわじわと柔らかくする。1時間。すると!・・・

 軟骨がコリコリでない、モチモチ!初めての食感。おいしいです。また作ろ!、

 今宵のミュージック
  岸洋子 希望

ふなばし生鮮市場

2019-01-24 20:45:20 | 日記
 お昼前に船橋に出、支援者さんたちと、2月中旬のユキ・カニ大喰らい旅の日程について打ち合わせ。回転寿司屋にて。なかなかおいしい店でした。
 その後、お茶・スイーツ、そしてふなばし新鮮市場(船橋市地方卸売市場)で、お買い物。ここは公設市場だけあって、品物が新鮮であり安価。船橋に出ると立ち寄るところである。今日は豚のブロックと思い込んで買った品、豚軟骨。コトコトと煮込んだら美味しいだろうなあ、歯触りも含めて。明日以降の調理の楽しみ。

 脚は不調。痛くはないのが救い。しかし、すぐ疲れが押し寄せてくる。きたかぜの冷たい外気にさらされて、右手杖、左手ポケット、首には手編みのマフラー(通所仲間から一昨年、誕生祝だと、プレゼント)。いつまで続くのかなあ。

2か月ぶりの診察。血液検査を併せて。

2019-01-23 16:26:13 | 日記
 待合室はマスク人間で埋め尽くされているという感じ。ほとんどの方が、おそらく、感染予防だと思いますが。ぼくは無防備。病院の帰路に、ネギ山盛りの味噌ラーメンで風邪対策をしました。 
 血液検査の結果。
 ドクター曰く、全く問題ないね。
 医者が問題ないというのだから、血糖値の数値が高いと機械がはじき出した結果は気にしない気にしない…。
 支援者さんに報告のメールを入れたら、鹿児島物産展で黒糖を大量に購入されたでしょ?と返ってきた。健康にいい食品であってもメカはメーっだというのね。お菓子の食べすぎに気を付けましょう、ということで穏便に済みました。
 帰路はやはり徒歩。歩き続けると1時間。ちょっと今日はつらいぜ、ということで、ラーメン屋さんに立ち寄り、床屋で髪を切ってもらい、スーパーで今夕の食材を購入し、ギッタンバッタンいてーなー今日は!とぼやきながら帰宅となりました。
 今回の徒歩帰路に際しても、いつものごとく、面白い社会現象と遭遇。
 第1弾:病院から新柏駅に向かう途中にある児童公園で脚休めをし、立ち上がったところ、初老のご婦人が声掛け、「どこへ行こうとしているのか、分かるの?」 うーん、これほど直接的に痴呆を疑われた経験はない。「自宅に帰ろうとしTるよ。」「自宅ってどっちさ。」もう、ぼくは地方を疑われたことをからかいの対象にする遊びは止めた、このご婦人には。「あなたにあたしの自宅の在りかをお教えする言われはありませんがね。人さまに水化するのならご自身の身分をきちんとあかしてからになさいな、無礼な。」ぼくの「権幕」に、「ふんっ」と大きな音を口から出して、ぼくが進む方向とは反対に進んでいった。ご苦労さんだねー。
 第2弾:その公園から50メートルほど新柏駅に向かって進むと、向かい側に理髪店がある。今日こそ髪を切ろうと思い立ち、ドアを開けた。小さな店だ。ぼくの前にぬっと男が立ちはだかり、「何の用ですか?!」ときつい口調。今日はそんなに汚い格好ではないのでホームレスと間違えるはずはないから、やはり痴呆老人が舞い込んできた、と思ったのだろう。ぼくは当然、髪を切ってもらいたい、と口にすべきなのだが、どうしたわけか、言葉が出てこない。古い映画の話になるが、戦傷軍人が終章先の両用所からふとした機会に抜け出し街におり、タバコ屋に入り込む。店主のマダムが、何の用か、欲しい銘柄は何か、と訊ねるがとっさには言葉が出ない、失語症ではないけれども、状況にふさわしい言葉を紡ぐことがやや難しいという少々を見せる。あの場面と同じような身の立場を感じた。構音障害がとっさの時に出る。かみにてをあて、か、か、かっと、と店主に言葉を発した。そのあとは、スムーズ。
 ぼくはいつまで、こんな迷い道を歩き続けるのだろうかなあ。二つの今日の出来事は、けっこう、J心にずしんときている。

 次回の病院は2月20日。レントゲンがあるようだ。

 8時半出発、14時半帰宅。

ぼくはどの道を選ぼうか 善君の進路

2019-01-22 21:35:30 | 日記
 今日は孫の善君が「ジジに(と?)話がある」というので、来訪を待ち構えていましたが、昼前に顔だし。昼食をとるために、南柏駅近くの旧6号線沿いのCocosに向かいました。幸い、周りが静かな2人掛けの席に案内され、落ちついで話を聞き、語る環境となりました。
 高校1年生、そろそろ高校の後をどうするかを見据えた「興味ある学びの分野」を定めていかなければならない時期。彼は、文系史学、日本史、明治期、具体的には大隈重信に興味と関心があると言います。高校の授業で興味を抱いたらしい。まあ、よりによっていっじの嫌いな典型的な「下剋上立身出世人間」とは!
 語りは、「歴史」を学ぶということはどういうことなのか、ということに尽きるのですけれど、表だけを捉えてかっこいい!というのなら、それは学問とは言えず、メッキに目くらましされているだけ。手っ取り早く「偉人伝」を読むだけで済む。はあ~すごいね~で終わり。明治近代というのは、新しい身分制度を作り上げた時代でもありますよ、知ってますか?そうですね、なんかはその一つの例。そういう、ヨーロッパ近代とは違う日本近代がどうして生まれたのか、今とは違うのか違わないのか、ジジはそんな興味を持って明治時代を見ます。自由民権を叫んだ人が胸に勲章を吊り下げ八の字ひげで澄ましこんでいるのは、どういう意識と行動の現れなのでしょうねl
 歴史学を学ぶことは、事実をきちんと知ることです。教科書にかかれていることで「歴史」だと思うのは、今はそれでいいけれど、そこから抜けていかないと、とてもつまらない歴史になります。フィールドワークという方法がとても大事にされるのも歴史学です。帰り道やってみましょう。
 今谷上町の「今谷刑場跡」を案内し、刑罰史の話も少ししました。よく、見せしめのために重罰が必要だと言われますが、少しも実証されることはない。権力による刑罰は権力の権威性を誇ることでしかない、ということなんだけど、歴史学は、これこれこういう刑罰がありました、と羅列することではなく、ジジが言ったような歴史の意味を明らかにすることなのですよ。(写真は今谷刑場跡で)

 最終的にどのような学びを求めるのかはこれから悩むことでしょう。物事の裏を見ることの必要性に気がついてさえくれれば、うれしいと思います。こんなにたくましい青年に育っています。


 善君が、イアン君もジャマイカのグランマも、ジジがジャマイカを訪問することを強く願っていると伝えてくれました。「行けるとしたら、今度のクリスマス休暇が最後の機会だろうねぇ。飛行機がつらいよ。」と答えたら、ビジネスかファーストでと明るく言う。金がねえっすねぇ。

 今宵はこの歌で…若者たち 他
 そして
 おはながわらった ピアノ演奏

 ああ!パリのあちこちが… Erik Satie - Gymnopédies