人知れずの記録ー障害後期高齢者の日々のつぶやき

日々のリハビリをはじめ、何でもかんでも書いてやろう!という日記帳。

雨 室内で訓練

2019-04-30 15:35:52 | 日記
雨 冷え込みがないのが幸い。昨日の外歩きでの杖無し歩行があるだけに今日は残念な気持ちが強い。
122 75 55 122 77 57
 朝食前に階段を使って踏み台。ほんの少しで疲れが出る。怠けてたからなあ。脚の強化作戦にとっては大切な訓練。
 朝食後、勢いで、自室の整理、掃除。腰が痛くなる悪癖でつらさを覚えた。その後、脚の強化を意識して、リビング、自室、廊下で、脚ゆがみ矯正訓練。竹棒を使って棒体操、強いゴム紐を使って左足強化訓練、同時に、脚首柔軟化を意識して。
 昼食はマグロ漬け丼。あまりおいしくはなかった。マグロ生肉が生臭い。
 午後は、少しの屋内運動と、回想などあれこれ。

外出リハビリと左脚・足首強化を意識した訓練

2019-04-29 18:00:53 | 日記
晴 雲は多いガ陽が差す。昨日ほどの寒さはない。燃えるゴミ出し。坂の上り下りに足の運びに神経をとがらす。これで今日のリハビリ重点課題を見つけた。ゴミ出しの後、庭のヘイを頼りに、脚首、脚の運動。大股横歩きの際、右方向に進むときに左脚を引きずりがち。
136 83 59 130 76 59
 午前中、新柏・東武ストアへ買い出し兼脚強化訓練。片道1200歩、約30分の道のり。今日は杖を突かずに往復。左脚が弱っているなあと実感したのが往路、帰路は、背に買い出しの重い荷を負い、緩やかながらも登り道がずっと続くが、往路ほどには苦を感じなかった。児童公園がなくなって歩行訓練を怠った生活が続いた付けが往路、帰路は勘を取り戻したようだ。こりゃあ、毎日、時間を掛けた散歩が必要だなあ。
 お昼は、久しぶりに、アヒージョ。美的センスなく、欲望だけで作成した証拠品。
りんご、アボガド、トマト、海老、本マグロ。

 庭でのリハビリ。腰割、久しぶりだなあ、ちゃんとやろう。爪先立ち、踵上げ。
 121 81 85 125 84 84

終日、在宅。ボケッと惚けて時を過ごした。

2019-04-28 17:53:45 | 日記
快晴 風強し 冬のような寒さだが、どこか暖かみを感じる。
134 81 52 136 82 54

 田村真広氏から献本を受けた。日生連仲間の春日井さん、山岡さん編著『生徒指導・進路指導』ミネルヴァ書房刊。田村氏は、第1章生徒指導、生活指導の歴史と変遷、執筆。生活綴り方にもふれ、ぼくの1980年著書からの引用が為されている。ちょっと気になるところがあるが、こまかい歴史の問題なので、まあいいか、と思う。なんとなく、『川口の後継』宣言の論文のように思うが、それは思いおごりだろうな。
 今日から1週間、デイはお休み。だからといってリハビリをしないままでいると、身体が固まってしまい、機能が後退してしまう。明日からはちゃんと取り組みましょう。今日は庭で急ぎ足歩行を少しと、ストレッチ少しをした程度。

通所リハビリ 増尾の最後の日

2019-04-27 15:35:55 | 日記
しとしとぴっちゃん雨 昼頃には雨上がり。{{ (>_<) }}。

143 85 63 127 79 57
 午前中、通所リハビリ。来月から新施設で。今日でお別れになるメンバーも何人かいる。今日でお別れになるメンバーも何人かいる。曜日が異なるからだ。
 今日のお昼

 久しぶりの讃岐うどん。具たくさん。おいしかったです。昆布、ニンジン、鳥コマ、卵。

【リハビリの通所施設に関わる長い綴り方】

 今の通所施設が5月から別のところに移転する。開所は2015年4月。ぼくは開所と同時に通所し始めた。当時、要支援2。

 退院直後から、自分で何でも出来る・する、出来なければ耐える、家族に迷惑を掛けることなどない、と思い込んで過ごした。その1年間は、要介護1の身だった。
 本当のところは、左半身がかなり不自由。分担家事仕事が出来ない身になっていた。すべて、家族に負担が回る。それでも、なんとか出来るところを増やそうと、あれこれ努めはしたが、左半身に力が入りにくい、動きにくい、作業できないと来れば、出来ることなど限られる。結局、「前には出来たんだっ!」という、何の生産性もない「おごり」に自分を安置することになるだけだった。

 それでも、自分流のリハビリ(毎朝2時間近くの「散歩」、自分で食べる分の食事作成、寝具の整えが主)には、あれこれ、取り組んだ。また、構音障害や難聴の身は社会的な関係性から身を遠ざけがちになることを心配してくれた幾人かの友人が、「買い物」「季節の遠出の散歩」「宿泊の旅」に誘い出してくれた。こうした活動が、ささやかな「機能向上」「改善」をもたらしてはくれた。

 しかし、屋内、屋外、路上で、しばしば倒れる。ある時など、タクシーを降りたところが坂道だったが、身体がすーっと、後ろに倒れていく、また、池の淵を歩いていたら、弱い左半身が身体を支えきれず、よろよろっと水に向かっていく・・・・。こういう場合に、同行者がいてくれたから、「事件」にはならなかった。
 心はともかく、身体は自立していないことを、しばしば、思い知らされた。やはり、自分流のリハビリでは、「自立」に向かっていくのはかなり困難性があるのかなあ、と考えるようになった。

 ケアマネさんも家族も、退院直後には、強く、デイでのリハビリを勧めてくれたが、デイに対する理解は、「機能向上」「改善」ではなく、「弱っちい人間が自分で何も出来ないので他人様にしてもらう、風呂にいれてもらって、みんなと一緒に食事して、娯楽して、・・・」という、どちらかというと、「弱者」偏見に満ち、みんなと一緒に楽しく・・・というところに「思い」を寄せていたから、「みんな主義」を徹底的に嫌って生きてきた人間としては、デイという存在を、多様なニーズの元に多様に作られているところだ、という事実へ考えを寄せるには及ばなかったのだ。

 退院して10ヶ月ほど経ったある日、外出をあれこれ「支援」してくれていた人が、故郷に帰ることになるから、支援は出来なくなる、施設嫌いはそれで自己満足的にけっこうかもしれないが、自分の支援がなくなったらその分、どうするのか、具体的に考えないと、身体が後退してしまう、と強く、何らか
の「ケア」を受けることを進言してくれた。

 2015年3月下旬、ケアマネさんの来訪を受けた。要介護1から要支援2に変わったことによって、デイで受けるサービス内容が変わる、という。ぼくの口から、無意識に、「飯いらない、風呂いらない、お遊戯ない、ボランティアが入る娯楽いらない、そういう施設がもしあるというのなら、見学してみようかと思う」とことばが出た。
 翌日、10施設ほどの紹介を得た。そのうちの一件に、目が釘付けになった。「この4月から開設。内覧会を開くので希望があれば事前申込を」という案内。ケアマネさんに、ここ見学してみようと思う、とと伝えた。ケアマネさん、目をまん丸にして、「手続きしておきますので、見学の日時は後ほど・・・」とことばを残された。

 2015年4月3日、内覧会。といっても他に人はいない。取締役重役と肩書きされた名刺を下さった方が現社長さん。大学を出てほどないお嬢さん。人も新しい、施設も新しい。こりゃあ、楽しいだろうなあ、とその場で「お世話になります」とことばを発し、同行のケアマネさんを、慌てさせた。

 4月7日が通所の第一日。それ以来今日まで、自分のリズムで訓練できるこの施設だからこそ、ぼくは通い続けている。もっとも、介護福祉行政が、一律画一の訓練を強制し始めているので、その煽りは受けざるを得ない現実となってきている。

「研究認知症」病者とのおつきあいはもうこりごりだ。

2019-04-26 17:45:43 | 日記
曇り 空気は凜として冷え、冬再来の感。おとなしく家に閉じこもる。
136 84 60 141 82 57 
 右脇腹の痛さが、とうとう、起床行動に悪影響が出始めた。痛いのなんのって。
 古くからの研究仲間のF氏からメッセージが届けられていることに昨夜気づいた。3月にいただいていた。内容は、あれこれと問題のある、そしてその実質被害者も出しているS氏と、川口は共同研究をしているという信じがたい情報に接した、その本意は共同研究行動を取りながらS氏の行動を糺そうとしているのだろうか、ということであった。やっぱり見る人は見ているんだなあ、と安心もしたが、返信:「共同研究をしている意識はまるで持ったことが無い。実質、S氏をはじめとする我が国のセガン研究のでたらめさに接し、呆れと怒りを覚え続けてきている、ぼくのセガン研究はそのような立場から為しているものだ。
 F氏からのメッセージ;
 公開される場所に書くのは憚られましたのでここにて。セガンをめぐる奇怪な世界とやら、そこの中心部にはおそらく*******S先生などもおられたのではないですか?僕は、彼の近藤益雄研究についても、彼の願望で事実の描写や解釈に歪みがあるのではないかと、彼のところの院生の指導を頼まれた折に指摘したことがありまして、その節ものすごくご機嫌を損なったことがありました。また、人間そのものを「私物化」して使い回す傾向もおありで、自分のゼミの学生がハンセン病の療養所巡りでこき使われたこともありました。結局、その彼女は彼に追い詰められ、パニック性心身症で大学中退を余儀なくされたのですが、肝心のS先生には罪の自覚なく、事実認識すらできておらず、失礼ながらこの方は認知系の障害を持っておられるのではないかと憤慨したこともありました。そんな方と、ある時期から川口先生が共同でお仕事なさってると伝え聞き、??な感じもいたしたのですが、もしかしたら川口先生の一連のご研究の実質は、S先生方の思い込みと事実誤認を正当に糺す性格のものであったのではと思っております。
 あまり生産性のない長文、どうも失礼いたしました。お読み捨ていただいて構いません。まだまだおやりになりたいこともあると思いますので、どうかご自愛ください。」
 「ぼくの返信のごく一部:
/S氏セガン論、S氏益雄論、すべて「歴史」を対象化しているように見えて、彼の「想像、願望」に基づく創作と言っても過言ではありません。すべて愚作、駄作という代物。私の「セガン研究」は、S氏へのアシストの中から、S氏のとんでもない「研究」を糺すことを直接的な目的を持って行いました。その結果は、S氏自身「誤り」を認めています。益雄研究に関しては、手厳しく批判し続けましたが、よく理解できていないようでした。偶像化してしまい、それが事実だと思い込んでしまっている「研究認知症」ですね。・・・」
132 79 80

☆「セガンの優れたところは、白痴は人間では無い、とされていた時代に、白痴もまた人間だ、だから教育あるを受ける権利が、と言って、白痴が教育可能であることを実際に組織体系化したことだ。」(セガン研究の第一人者と目されてきたS氏)
「そのことはどんな著作あるいは論文に書かれているのですか?」(川口の畏れ知らぬ問い)
「そういうことは、少なくとも研究者を自覚するなら、自分で調べるものでしょう!」(S氏)
「質問を変えます。先生のおっしゃったことは、先行研究書・論文で明らかにされているのですか?」(川口)
「ぼくが誰よりも先に書きました。」(S氏)
 それからすでに15年。確かにS氏の論は活字で目にした。しかし、セガンの論は、今もなお、目にすることが出来ていない。セガンは「教育が可能で一定の到達が得られればそれが人間の証しだ。」旨のことは、聾者や盲者の教育を引き合いに出して論じている。白痴にもその可能性を見ようとして、教育を開発した。「人間だから」という言い方では無い、「教育によって白痴は人間になった」という表現だ。(1843年)

 教育は、人を、生物的存在から社会的存在に作りかえる、社会的作業だ、ということを、セガンは白痴教育を通して解明した。この事実こそ、歴史的発見のはずだと思う次第。




まだ続く、筋肉の痛み 里親-里子

2019-04-25 18:05:22 | 日記
曇り 雨上がりだが、外に出る気力無く、雨戸も閉めっぱなし。筋肉の痛みは上半身全体に行き渡ってきた。その分、強い痛みは引いている。
130 74 54 129 80 56
 午前中ゴロゴロ。FBをやる気も起こらず、DVD観賞も気が続かず、かといって読書に心が動かず。完全に「引きこもり」状態。外出散歩の力復活を待つのみだなあ。このまま「ひきこもり」つづけるのはいやだという心持ちはある。
 今日のお昼は冷蔵庫に保存しておいたままになっていた、随分前に作成した牛丼。キノコや卵を落として加熱。痛みはまだ来ていない。


145 84 61 135 82 63

私には2歳年上の姉(1941年生まれ)がいる、いや、ある、だな。すでに物故者だから。

 姉は、私がこの世に生まれたことによって、父親の生家に里子に出された。国民学校教師で下級軍人の夫を持つ身で、2人の幼子を抱えるのは大変だったから。・・・・
 幾度も聞かされた話だったが、格段の思い入れも無く、ただ、姉は野山を同年のいとこと、かけずり回って育った健康優良児であったのに対し、私は戦時下及び戦後直後の食糧難に直撃され、「幸宏さん、まだ、生きてんのか?」という挨拶語が親戚から送られる、というような育ち方だったことだけは、妙に心に引っかかるものがあった。何で私は、姉のように、里子に出されなかったのか?と。

 で、話しの主題は「里子」ということ。
 大学生になって、教育史や社会史、さらには近世・近代史を学ぶ中で、「里子-里親」という社会システムがあった(あるいは、ある)ことを知り、姉はその「里子」なのか?それとも「戦争疎開」児なのか、あれこれ思いを巡らせたことがある。せっかくの大学のレクチャーも、この程度の結びつきの「学び」でしか無かったのだから、お教えをいただいた各先生方に、今は申し訳ないと思うばかりだ。
 それより時が下って、我が研究フィールド(教育学)で、「産みの親」「名付け親」「育ての親」と言うことがしばしば語られるようになった。子どもは複数の「親」を持って育つという「民衆の知恵がある」ということだ。「近代家族形態」はその知恵の具体をドンドン失いつつある、子どもを巡る家族論さらには保育論を再構築しなくてはならない、という立論に結びつく。

 しつこく語っている「セガン」の育ち評価で、地元クラムシーでは「セガンは里子に出されちゃったからねー。」と、「里子」システムをマイナーに捉える有識者が支配的だが、これをどう評価するのか、と考えていて、我が来し方のあれこれを考えた次第。

脚休めの一日

2019-04-24 15:52:19 | 日記
雨上がりの曇り空 杖突歩行に起因するのだろう、右脇腹の痛みが強い。これはなんとかなら無いものだろうか。歩行姿勢の問題か。ビニールゴミ出し。
137 82 55 124 78 58
 終日眠気に襲われた。体に疲れがたまっているのだろうけれど、本当に軟弱になってしまったなあ。

リハビリ外出の支援者さんは、2001年3月からの友人。愛称はトド。ついでながらぼくにつけられた愛称はツルピン。いずれも、かつてあったMSNのさるチャットルームのそれぞれのHN(の一部)を使用し続けている、というわけ。トドはさる商社の重役秘書を経て海外駐在員のお身内経験者。そして「(ネット上の)出会い」当時は街のコンピュータ教室の先生。・・・
 昨日は、ぼくが脳梗塞で倒れたしばらくの日々の話になった。ぼくが、もうどうでもいいやと思うよ、などと弱音を吐くと、あの闘病のすさまじいエネルギーはどこへ行ってしまったか!と活を入れて下さったのだ。
 左手および指がぴくりと動かない麻痺したからだ。見舞いに行ったときに目にした光景は、何度も何度もチャレンジして手指を動かそうとする。介添え無しだったからね。病院食に出されたバナナ1本を持つことさえ困難な手指状態だったけれど、今は、よく動きよく働いているよねー。などなど。
 「ツルピンはどうしてスマホであれこれしないのか、と聞いたら、スマホは便利だけど、手指の機能向上の作業には繋がらないから、といって頑固にPCだし。でも、それが確かなことだと言うことは、今のツルピンの左手の活発な動作が証明しているね。」
 はい。弱音はいけませんね。焦らず行きましょう。

132 73 60 125 76 63

船橋へ 長野・新潟物産展

2019-04-23 06:23:44 | 日記
曇り 資源ゴミ出し3往復。坂の上り下りの繰り返しは、今朝の左脚の調子にはつらい。今朝の左脚の調子にはつらい。痛くはないのだけれど、上がりにくいのだ。
137 81 66 117 76 64
 明日は天気が崩れるという予報が出ているので、足の疲れが残ってはいるが、船橋へ。長野・新潟物産展。併せて北海道の旅の打ち合わせ。
 人ごみに見舞われなかったのがうれしかった。ゆっくりと会場内を見て回った。今回の購入物品は、ハチミツ、刺身こんにゃく、茎わかめ、飴各種。帰路で朝食用のパン。家族用に、各種コロッケ、串団子。
 お昼はソースヒレカツ丼。そのボリュームに驚く。そして反省する。しかし完食。

 デザートは例によってソフトクリーム。ただし今回はチョコレートでコーテイングされている。

 物産展の後、北海道行きの打ち合わせ。釧路空港→阿寒湖→釧路湿原→厚岸を回る。杭s炉の大森さんのお世話になる。

130 81 79 135 92 79

通所リハビリ

2019-04-22 17:35:04 | 日記
晴 さわやかな気候。燃えるゴミ出しの帰り、隣接する雑木林から、ウグイスの鳴き声。大きく元気がよい。こっちまで張り切る気になる。返礼「おはよう-」
141 86 59 120 74 61
 午前中、通所リハビリ。今月は後土曜日で終わり。5月からは新しい施設に移る。
 今日の利用者数は15人。そして驚くなかれ、スタッフさんは総勢6人。初めてのこと。
脚の疲れが強く残っているので、無理をしない訓練を心がけたが、結局、いつもよりややきつめの訓練となった。新人スタッフさんと対面会話の機会があった。経済学部のご出身とか。優しい笑顔のお人柄で、ぼくにとってはとても馴染みやすいのでありがたい方。その一方で、別のスタッフから発せられた「○○してもらっていいですか?!」の醸し出す、慇懃無礼さには、かなり腹を立てた。「どうして、・・・して下さい、あるいは、・・・しましょう、ということばがあるのに、使わないのか、すごく無礼さを感じるのだけど。」と抗弁したが、蛙の面にションベン風情。ああ、イヤだイヤだ。
 きたくご少し午睡を取り、1か月後の北海道の旅について、あれこれ。阿寒湖、釧路湿原、厚岸。

適度に運動をしよう セガン研究の<ある日>

2019-04-21 18:37:56 | 日記
快晴 昨日までの脚の痺れが薄らいでいる。デイでの運動の効果だろう。「お散歩」を欠かさないように。
120 72 52 119 70
 左脚がまだ外に開いている。矯正訓練を忘れずに。

 午前中、散歩を兼ねて、東武ストアーへ買い出し。目的はティッシュペーパー、朝食用食パン。その他の買い物。お昼用の寿司、おやつ、鶏肉、焼き肉のタレ。それだけ?で、リュックが一杯。帰路、自宅近くで、見知ったお顔の男性と挨拶会話。「元気そうだね。散歩か?」「買い出しを兼ねてます。」右手を耳にかざしての姿に、「随分と耳も遠くなっちまったんだねぇ。」「左は全く聞こえないんですよ。」「そうか。とにかく、元気で過ごしましょう、互いに。」それだけでお別れだが、ほっとする一時だった。お名前は、相変わらず不明。向こうさまはぼくのことをよく知っておられるのだが。

セガン研究の<ある日>
 セガンはイタール実践に対する評価を行っている。簡単に言うと「白痴教育としては未完成である」と。白痴教育を手がけた先駆者ではあるが、それが普遍的妥当性を問わずに実践を止めてしまい、あまつさえ、実践対象の子ども「ヴィクトール」(アヴェロンの野生児)を(救済院に)棄ててしまった」。子どもの最期は惨めなものであった、という。「この最後のくだりを実証する史料はあるのですか?」「セガンが言っていることを嘘だというのですか?」 この時もこのようなやり取り。自分で確証ある史料を探し出さねばなるまい。
 意外なところに手がかりがあった。セガンとヴィクトル・ユゴーとが文学同人の仲間だったという説があるのでユゴー全集を紐解いて調べていたが、ユゴー「1813年頃フォイヨンティンヌで過ごしたこと」という詩編の編者注に「アヴェロンの野生児」という文言があるではないか。フォイヨンティンヌ街の元女子修道院の庭園にじっと潜む聾唖者を描いているその箇所に注記がつけられている。フォイヨンティンヌはアヴェロンの野生児の教育実験が行われた舞台パリ王立聾唖学校のすぐ近在である。調べた結果は、「アヴェロンの野生児は1811年、パリ聾唖学校から出され、フォイヨンテインヌ12の旧女子修道院で1826年まで余生を過ごした。その建物は彼の世話をするために聾唖学校がゲラン婦人に貸し与えたものである。」ということに落ち着いた。ちなみにユゴーが住んでいたのは、フォイヨンティンヌ4番。現在のフォイヨンティンヌ通り。下の写真建物が女子修道院跡に建てられた建築物。壁面にユゴーが居を構え得ていたことを示すプレートが掲げられている。

 図版は19世紀初め頃のフォイヨンテインヌの女子修道院跡外観、内部の庭園。


 やっぱりセガンは嘘つきやんけ。