しとしとぴっちゃん雨 昼頃には雨上がり。{{ (>_<) }}。
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午前中、通所リハビリ。来月から新施設で。今日でお別れになるメンバーも何人かいる。今日でお別れになるメンバーも何人かいる。曜日が異なるからだ。
今日のお昼
久しぶりの讃岐うどん。具たくさん。おいしかったです。昆布、ニンジン、鳥コマ、卵。
【リハビリの通所施設に関わる長い綴り方】
今の通所施設が5月から別のところに移転する。開所は2015年4月。ぼくは開所と同時に通所し始めた。当時、要支援2。
退院直後から、自分で何でも出来る・する、出来なければ耐える、家族に迷惑を掛けることなどない、と思い込んで過ごした。その1年間は、要介護1の身だった。
本当のところは、左半身がかなり不自由。分担家事仕事が出来ない身になっていた。すべて、家族に負担が回る。それでも、なんとか出来るところを増やそうと、あれこれ努めはしたが、左半身に力が入りにくい、動きにくい、作業できないと来れば、出来ることなど限られる。結局、「前には出来たんだっ!」という、何の生産性もない「おごり」に自分を安置することになるだけだった。
それでも、自分流のリハビリ(毎朝2時間近くの「散歩」、自分で食べる分の食事作成、寝具の整えが主)には、あれこれ、取り組んだ。また、構音障害や難聴の身は社会的な関係性から身を遠ざけがちになることを心配してくれた幾人かの友人が、「買い物」「季節の遠出の散歩」「宿泊の旅」に誘い出してくれた。こうした活動が、ささやかな「機能向上」「改善」をもたらしてはくれた。
しかし、屋内、屋外、路上で、しばしば倒れる。ある時など、タクシーを降りたところが坂道だったが、身体がすーっと、後ろに倒れていく、また、池の淵を歩いていたら、弱い左半身が身体を支えきれず、よろよろっと水に向かっていく・・・・。こういう場合に、同行者がいてくれたから、「事件」にはならなかった。
心はともかく、身体は自立していないことを、しばしば、思い知らされた。やはり、自分流のリハビリでは、「自立」に向かっていくのはかなり困難性があるのかなあ、と考えるようになった。
ケアマネさんも家族も、退院直後には、強く、デイでのリハビリを勧めてくれたが、デイに対する理解は、「機能向上」「改善」ではなく、「弱っちい人間が自分で何も出来ないので他人様にしてもらう、風呂にいれてもらって、みんなと一緒に食事して、娯楽して、・・・」という、どちらかというと、「弱者」偏見に満ち、みんなと一緒に楽しく・・・というところに「思い」を寄せていたから、「みんな主義」を徹底的に嫌って生きてきた人間としては、デイという存在を、多様なニーズの元に多様に作られているところだ、という事実へ考えを寄せるには及ばなかったのだ。
退院して10ヶ月ほど経ったある日、外出をあれこれ「支援」してくれていた人が、故郷に帰ることになるから、支援は出来なくなる、施設嫌いはそれで自己満足的にけっこうかもしれないが、自分の支援がなくなったらその分、どうするのか、具体的に考えないと、身体が後退してしまう、と強く、何らか
の「ケア」を受けることを進言してくれた。
2015年3月下旬、ケアマネさんの来訪を受けた。要介護1から要支援2に変わったことによって、デイで受けるサービス内容が変わる、という。ぼくの口から、無意識に、「飯いらない、風呂いらない、お遊戯ない、ボランティアが入る娯楽いらない、そういう施設がもしあるというのなら、見学してみようかと思う」とことばが出た。
翌日、10施設ほどの紹介を得た。そのうちの一件に、目が釘付けになった。「この4月から開設。内覧会を開くので希望があれば事前申込を」という案内。ケアマネさんに、ここ見学してみようと思う、とと伝えた。ケアマネさん、目をまん丸にして、「手続きしておきますので、見学の日時は後ほど・・・」とことばを残された。
2015年4月3日、内覧会。といっても他に人はいない。取締役重役と肩書きされた名刺を下さった方が現社長さん。大学を出てほどないお嬢さん。人も新しい、施設も新しい。こりゃあ、楽しいだろうなあ、とその場で「お世話になります」とことばを発し、同行のケアマネさんを、慌てさせた。
4月7日が通所の第一日。それ以来今日まで、自分のリズムで訓練できるこの施設だからこそ、ぼくは通い続けている。もっとも、介護福祉行政が、一律画一の訓練を強制し始めているので、その煽りは受けざるを得ない現実となってきている。