晴れ
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過去に、自分を起源としたごたごた問題の夢見で夜半から眠りに入れず。すべて、間違いなく過去のことであるので、今どうなる、今後どうなる、というわけではないが、ぼく自身の心性に深く食い込んでいる問題である。ちょっと振り返ってみよう。
戦前生活綴方教育史研究に関すること。
大学院生時代に、「当事者」T氏から史資料を幾点かお借りした(ほかの何人かの当事者からも資料・著書などをお借りしている)。「要らないものだけど、念のために借用のしるしを名刺に書いてください」。当時は「いただいた」という心性と「お借りした」という心性とが混濁していた。埼玉大学に職を得てからも、所属研究会にお招きして「証言」を幾度かお話しいただいた。友好性に満ちていた交流であったと信じる(交通費程度の薄謝は差し上げている)。お借りした史料を使って「生活綴方史考」を執筆し、埼玉大学紀要に投稿してもいる。これをT氏に献呈しておれば問題は起こらなかったのかもしれない。
その時から10有余年、身は埼玉大学から和歌山大学に移り、そして学習院に移ることが決まった。あろうことか、毎日新聞名古屋版に、第二次世界大戦戦死者の遺族を追う記事でわが家族が取り上げられたが、その記事の冒頭文に、ぼくが和歌山から学習院に移る、と筆が滑っている。T氏の「恐喝」的妨害行為が開始された。まずは、和歌山の同僚に、続いて和歌山の学長に、さらに学習院の学長に。ぼくには700万円の請求が来た。
知人を介して千葉の法律事務所に相談(当然有料)。「業務妨害に当たるかもしれない。が、相手が歳が歳ですから、静観の姿勢を。」という相談回答。大学から呼び出しを受け、顧問弁護士から「相手の言うとおりにすべきだ。大学を巻き込まないように。」との忠告。
ぼくのすべきことは、T氏の強迫的要求に応えることしかない。馴染みの古書店に出向き、「売価はいかほどになるか。鑑定書のようなものを書いていただけないか。」とお願い。「正式な鑑定書は書くことはできないが、売価見積書は書いて差し上げます。」というありがたい返事。「できるだけ高い値を付けてください。」と頼み込み、「本当はこんな値段はとても付けられないんだけどね、せいぜい500円かな、あくまでも売価ですよ、でも川口さんの頼み事だから1万円と書いておきます。」
それらを原資料とし、資料借用の年を起源として約20年間、毎年それの借用を繰り返したことにして1万×借用年数、そしてお詫び代としてその年数をかけた額を、お詫びとお礼の言葉を綴った書簡を同封して送付した。しかしT氏は、こんなはした金で済ませる気か、孫娘に婚礼祝いに1000万出しているのだ、との一文を添えて返送してきた。
意を決した。幾度でも送る、そして謝罪の意識はまるでなくなった。金持ち爺の嫌がらせ遊び相手は務めない。
大学院生の時、母に研究の話をした時ついでにT氏のことを話題に上らせたことがある。母は、ポツンと、「T氏とはかかわらん方がええに、よい噂は何もあらへん、怖い人らしい。」と言葉を漏らしたことがある。その当時は、母の言葉を真正面から受け止める力量がなかったなあ。
このことの経験はすごく重い。生活綴方の当事者=善人という等式が完全に崩れた、しかも地元三重の数少ない当事者の一人。ま、「世間知らずの青二才が勢いだけで生き抜けるような世界ではない」ことを知って、綴り方研究から足を洗うことにつながっていく。
続く「フレネ教育研究」では、「フレネが何たるか、まるで分っていない。」と罵倒に近い言葉を、フレネ教育研究のトップリーダーから厳しいご批判をいただいたこともあるが、どうも、現実態としてのフレネ教育を追い続ける力量と意欲に欠けており、いくつかの関連論文・著書を綴ってはいるが、「時の過行くままに」、ぼくの学的興味の領域から、次第に抜けていっている。
残るのは、パリ・コミューンとセガン。誰の干渉も受けることなく過ごしてきたが、史料の扱いに持て余している現実でもある。