松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

デジブック 『高尾山に行きました』

2011年09月28日 | 文学事評
9月27日思いついて高尾山に登りました。台風15合の影響でほとんどの登山道が荒れているということは聞きましたが、高尾山口での情報を見て吃驚!!予定していた登山道は全滅?ケーブルカーを使用しないで登れるのは稲荷山コース1本だけ、でも頑張って登りました、頂上ではご褒美の富士山が見えました。昼食は頂上でカップラーメンと食後のカプチーノ、小型のストーブ(コンロ)を持参すると快適な登山が楽しめます。
デジブック 『高尾山に行きました』

デジブック 『小さい秋みつけた』

2011年09月23日 | 日記
久しぶりにデジ一で、NikonD5100をぶら下げてご近所の散歩をしました。やはり秋ですね、花も虫たちも必死で生きています。カメラ自慢のお爺さんたち、機材やカメラの展示はいい加減にしてマクロで撮影してみたら如何ですか?秋は確実に来ています、、、
デジブック 『小さい秋みつけた』

デジブック 『花の美術館再開』

2011年09月22日 | 花の季節
千葉市稲毛区にある花の美術館が再開しました。先の地震で液状化が発生して6ヶ月閉鎖していましたが再開しました。
幸い午前中は台風一過の晴天でしたからLeicaX1を持って訪問しました、館内は爺カメが大勢屯して自慢の機材とカメラの展示会?を開催していました。
デジブック 『花の美術館再開』

先生の仰るとおりに描きましょう(そうすれば入選しますよ)

2011年09月20日 | 日記
再び絵に関する話題、特定のグループや作家のことをさして攻撃するわけではないのでどうか誤解のない様お願いしたいのであるが、どうも展示されたアマチュアの絵を見るたびに考えさせられるのは、絵画をお稽古事と間違えていらっしゃる、間違えていらっしゃるというのは、グループ展を拝見するとみな主宰される先生の絵に傾向が似ているので愕然としてしまうのである。やはりここでは9月14日に記載した日本の画壇というものに触れざるをえないのである(美術評論なんてちょっと大げさですが)
今を去る200年前のダゲレオタイプ写真の発明はそれまでの画家の主たるビジネスであった肖像画制作の需要低迷を招くに至った。ヨーロッパの画家はマイスターのもとで徒弟制度による絵の具の調合、デッサン、ポーズのつけかたなどの厳しい修行して後に独立、フランスの例であれば、ル・サロン展及び国民美術協会サロン展などサロンに入選すると当時の貴族たちから肖像画制作の依頼が入り生計がたつという(そこまで単純ではないことは確かだが)そして後年保守的といわれたこれらの官展(これも適切な表現ではないが)に対抗して苦労を重ねる訳である、なかでもエポックメーキングな展覧会はサロン展に対抗して第1回印象派展と呼ばれるようになったモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーらが1874年に開催した展示会はこのときモネが発表した「印象、日の出」から、新聞記者が“Je suis incompétent pour l'impression que je comprenais=納得したよこれは印象的に下手だ”と揶揄してつけたものであって、当時この展示会は社会に全く受け入れられず、印象派(Les Impressionnistes)の名前はこのとき以来の呼び名となった。彼らは写実主義から離脱した絵画独特の表現方法を探索し続けた結果、細部やタッチにこだわらず、新たな空間表現と明るい色使いを多用した印象主義が発生したわけである。このように当時フランスにおいてはすでにアカデミズム絵画は、自然主義、印象主義、後期印象主義などのめざましい台頭により、次第にその主役の座を奪われつつあったのだがこの様に衰退の道を辿りつつあったこのアカデミズム絵画を文明開化の日本ではどのように受けとめて東洋の隅に西洋絵画を取り込んだのか?日本独自の「画壇」というものに言及しなければならない、その前に当時の日本の美術教育について一つは、黒田清輝率いる白馬会、そしてもう一つの流れは千葉県出身の浅井忠が親分である太平洋画会系だが、対立したこの二派もその源流はフランスの印象派風アカデミズムの画家ラファエルコランおよびローランスにあったのですが、ラファエルコランもローランスも印象派というにしては余りにも守旧派で殆ど両者のあいだには差異がなかった、すなわち旧態依然たる徒弟制度による修行の内容に前述した新たな空間表現と明るい色使いを多用した印象主義を付け加えて最新のヨーロッパ絵画として当時の日本の中枢であった東京美術学校であり官展であった文展などに植えつけられてしまったところに日本の洋画界独特の特異性、である「画壇」なるもの、すなわち「お茶」や「お花」や「書道」などに似た手法すなわち、先生の仰る様に描きましょう、絵に黒は使用してはいけません(黒田の言葉)そうすれば東京美術学校を優秀な成績で卒業できて展覧会にも入賞できて画家として生計を立てることができますからね(笑)なんてことをやってるうちにフランスの本家では民間企業であるデーパート業界などのスポンサーシップの下で1903年にマティス、ルオー、ジュルダン、ヴィヤール、マルケ、ボナール、カモアン、フリエスらの参加によってサロン・ドートンヌ展が誕生してこれまでの「印象派なんてアカデミックなものはだめよ」という流れが始まるのですがこの続きはまた今度。一応このブログは400字詰め原稿用紙4枚程度に収めるようにしていますが、、現在1663文字目

個展開催中2011年9月17日

2011年09月17日 | 文学事評
土曜日だから来訪者が多いか?と予想したが意外にしかも極端に少ない、午前中は2人それも一人はバスの時間待ちの次いで、もう一人は雨宿りだった。まあ音楽を聴いたり本を読んだりで人が来なければ来ないなりにいろいろ楽しめる(負け惜しみ)ので気にしないことにする。午前中は時々雨が降る不安定な天気だったので出足が悪くても致し方ないと思うが、午後は一転してまた猛暑となる。来訪者が来ないので予め用意した2冊の本を読み始める、昨日からトーマス・マンの「魔の山」、今朝はそれに加えてアドルフ・ヒトラーの「わが闘争」を持参している。
魔の山(トーマス・マン)
毎日が完全に同じものならば、どんなに長い一生でも非常に短いものに感じられて、知らないうちに過ぎ去ってしまう事になるだろう。習慣を付けるという事は時間感覚が麻痺すること、少なくとも弛緩する事で、青春の日々はゆっくりと過ぎて行くように感じられるのに、その後の歳月は次第に慌ただしい急ぎ足になって過ぎて行くというのも、習慣がその原因にことに違いない、、、トーマス・マン著 魔の山から引用「佐藤晃一訳 筑摩書房」魔の山に登場するハンス・カストルプは23歳でドイツのハンブルクからスイスの高地ダヴオスにある療養所に入院する、最初は楽観的な気分で(いわば遊びで)療養所を眺めているが日を追って深刻な事態にと物語は展開して行く、先の一文は4日目のハンス・カストルプの心境を描写する際に作家が切り口として語り始める部分である。なにもこのような大げさな表現は不要であるが、人気のないアマチュア画家の個展の受付とはかくも暇なものかと感心するぐらい来客が少ない。という訳でトーマス・マン風にいえば受付に座って魔の山を読んでいる。魔の山という小説が盛んに読まれたのは私たちの世代が高校生の頃まで、よほどのことがない限り新訳など出ないだろうから、一昨年のカラマーゾフの兄弟の新訳の刊行と販売成績の良いのは例外として、、さてこの魔の山をどのように料理するのか、この本を翻訳したドイツ文学者に心から敬意を表する次第であるが、なにしろ回りくどいことにかけては先のペインに負けず、しかも登場人物が語る台詞の長いことゼテムブリー二というイタリア人患者の台詞なんてもう長いこと、しかし受付に座って身動きもままならない(また大げさな表現)身にとってこの長くて回りくどい言い回しを楽しむにはうってつけの読書環境ではないか?
我が闘争(アドルフ・ヒトラー)
種々雑多な本を読んでいる、本日は「わが闘争」言うまでもなくアドルフ・ヒトラーの著書というか正確には口述筆記だが、現在新刊で購入できるのは角川文庫版平野一郎・将積茂訳による「完訳わが闘争(上)(下)である、土曜日は来客が少ないため偶然昨夜本棚から手に取ったこの文庫本の上巻を読み始めた、買ったのは昨年だがなかなか読む気になれず放置していたものだ。訳者による序文ではこの本の危険性、危惧するほどの危険な読者が現在の日本に存在するか否かは別にして、を明確にしてあるので引用してみる、訳者はまずこの序本の中でヒトラーが類い稀な天才であったことを肯定したのちに「さらに言うならば、かかる狂気の天才に活動の場を与えた国民大衆側の責任、ヒトラーの言葉の魔術に幻惑されるような政治的、あるいは精神的な幼稚さの責任について、他山の石として考えてほしいのである。しかしこのことは逆に見るならば、それは邪悪であったけれどもヒトラーが、ありきたりの政治家に比して大衆の心理をはるかに的確につかみ、政治的な大衆扇動力を実際に備えていた証拠であり、その点で現代の政治家にとっても興味深い資料になっているのである」と述べている。第2次世界大戦後コミュニスト、シオニストはもちろんのこと普遍的かつ思想的な偏向のない人々からも訳者の言葉を引用させて戴くと極悪な犯罪者と言われるヒトラーについてどれだけのことを知っているのか?という疑問からこの本を読んでみたかったのである。ヒトラーに関する意外な側面は今までもしばしば語られている、曰く「1939年のクリスマスイブに独身でクリスマスを祝う相手も居ないヒトラーは寂しさのあまり終夜自動車を走らせて街中を彷徨していた」また曰く、というか先日見た映画のなかで、ナチ高官の子女たちが「ヒトラーおじさん」と呼んでなつき、ヒトラー自身も彼らに優しかったなどなど、誰だっていつも怒ってばかりいるわけではないので、当然の事なのだけれど極悪な犯罪人、狂気の総統ともなれば前述のような事柄が意外性を強調して語られるほどの人物の本質に迫ってみたかったのである。1942年生まれの私にとってヒトラーやナティズムについての極端に偏向したインプットの数々はハリウッド映画からが圧倒的な優位性をもって迫る、最初のヒトラー映画は何と言ってもチャプリンの「独裁者」であろう、この映画で描かれた独裁者の深層心理はほぼヒトラーの本質を表現しているとおもう。そして最新のものではトム・クルーズ主演の「ワルキューレ」だが、まだこのあたりは良心的な方であり1950年代のB級戦争映画に出てくるドイツ兵やナチ高官はみな野蛮で知性のかけらもない描写になっている。前置きはこれくらいにして、私が最も興味があるのはヒトラーのアーリア人優位主義、このアーリア人とはどのような民族を指すのか曖昧でほとんど定義することが不可能に近いのだが、まあコーカソイド位に考えておけば良いのだろうか、ユダヤ人蔑視に関連して日本に関する記述が第11章にある、いわく「日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術を付け加えたのではなくヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ」以降、将来アーリア人の影響が日本におよばなくなれば日本は現在の(ということは1930年代)の文化は硬直して70年前の(ということは江戸時代)の眠りに再び落ちる、と断言してアーリア人優位性を強調している。一方ではユダヤ人排斥の背景に関してはどうも明確ではないところがこの著書のいわば謎の部分だ。ユダヤ民族とマルクス主義者を強引に結びつけようとする論理、民族大移動に伴い一緒に移動してきたユダヤ人たちが「アーリア人と同一かあるいは似たような発展をとげる」ときめつける混血を嫌悪する主張、だが混血による弊害に関しては明確に定義されていない