松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

弟の松村三生

2018年04月26日 | 日記
亡くなって5年になるので弟の松村三生も成仏していると思う、いろいろな方からメールとメッセンジャーでコンタクトして戴いているのでこの際弟の実像にすこし踏み込んでみる。
学生時代からやっていることは無茶ばかり、早稲田に入学したときは文学部これは純粋に英文学を学びたいという動機からだったのだが、親の影響ではないと思うが政経学部に移った時あたりから無頼な生活を送るようになった。音楽、特にヴァーグナーに心酔する一方で、絵を勉強したいとのことで立石鐵臣氏の門をたたき細密画やその後まだ黎明期だったエアブラシの技法を学んで漫画雑誌の表紙を飾ったこともある。我々家族にとっての困りごとは19歳から65歳までいくつもの貸家を転々としたのだがそのすべてで部屋をごみ屋敷状態にして諸経費の未払いなどのトラブルで移転の時、移転後の清算、清掃代金と部屋のダメージに対する賠償金の支払い等々である。50歳代ころまでは両親が償っていたのだが母が亡くなった2003年以降はすべて長男の私が未払経費の精算でNTT、電力会社、水道局、インターネットプロバイダー、挙句は闇サラ金の清算、それに晩年は特養の入居一時金や毎月の支払など周囲に負担をかけることに悩まされ続けた。さて以下は当人に関わる明るい話題だ、今年の春以降文芸春秋社の翻訳出版部門からコンタクトして戴き「松村三生さんの著作権継承者を探している」とのことで文書による確認手続きの上で私がその責にあたることになった。そして5月10日同社から「ミスト」という題名で怪奇・幻想ものを多く訳した矢野浩三郎氏などとの共著で昭和61年にサンケイ文庫から上梓したスティーヴン・キングの「骸骨乗組員」がオリジナルの内容で刊行されることになった、添付画像が昨日受け取った贈呈本の写真である。
コメント

後期高齢者の独り言

2018年04月06日 | 日記
ひと月に一度循環器内科に行って定期的な診断をお願いしている。50歳代後半で高血圧、高コレステロールなどの症状で血圧降下剤などを処方してもらっている。今日の結果を見ると総蛋白=7.4、アルブミン=4.2、ALT(GPT)=11、AST(GOT)=16、HDLコレステロール=41、LDLコレステロール=82とドクターの表現をそのまま伝えると「驚異的に良い値」なのだが、反面クレアチニンが1.14、尿酸が7.4、尿素窒素が29.2となっていて腎機能の視点からはeGFRが48.7/ml/minとかなり低いことが分かっている(前々からだが)腎臓が機能的に良くないのは家系でもある。めでたく?後期高齢者になったのだからある程度の数値悪化は致し方ないことだが、専門家の忠告を聞いて健康に過ごすようにしたいものだ、健康寿命はいまや日本の喫緊の課題であろう。
コメント

小学生の頃ヴァイオリンを習っていた

2018年03月16日 | 日記
小学生の頃ヴァイオリンを習っていた、父の転職に伴って昭和26年から28年まで山口市で育った。
今から65年も前のことなので忘れないうちに記録をしておこうというのがこの記事の目的とするところである。ヴァイオリンのことは主眼ではなくヴァイオリンを習っていたことで忘れかけていた小学生の頃の想い出が次々に蘇えるのである。
師匠は山口高等学校で音楽を教えておられたヴァイオリニストの石井洋之助先生、当時我が家は山口市の中心部からやや北東に寄った円政寺町にあった、家の裏には国鉄山口線があって線路の向こうには椹野川が流れていた。石井先生のお宅はこの山口線の上山口駅と宮野駅の間にあり、小学校4年生だった私は3/4のヴァイオリンを抱えてレッスンに通った。

自宅からそのころ通学していた大殿小学校までは200m足らず、永見小路と呼ばれていた細い道をたどれば数分で着いた。大殿小学校の同級生には前述の石井先生のお嬢さんで私とは同級生だった石井志都子さんがいた、学校でも音楽部に所属して石井さんも同じクラブだった。
音楽部と言ってもほとんどヴァイオリン部と言ってもいいくらいヴァイオリンを弾く人が多く男の子は3人しかいなかった。
石井さんは今でもご健在の様子だが、当時一緒に練習した潮見さん、塩見さんなど皆さんお元気なのか気になるところである、皆さんお婆さんになられているでしょうね?
素朴な疑問をもってブラウジングしていると、Gooブログ「チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ」の記事の中に石井先生のレッスン室の写真があった。

コメント

デジャヴィ

2018年01月06日 | 日記
何度か夢に見た光景それは東欧の田舎町のある冬の日に大勢の観客とともにショスタコーヴィッチの交響曲第5番第3楽章ラールゴ嬰ヘ短調を聞いている、足元はしんしんと冷たい、そして観客の服装は様々、これが西ヨーロッパのコンサートホールであれば正装した人々が整然と椅子に座っているのだが、そのコンサートホールでは立席で観客の咳や話し声、とくに前述の通り第三楽章はミュートを付けた弦楽合奏で演奏されるので雑音がことさら大きく目立ってしまう。
話は現実の1994年の冬ブダペストのフランツ・リスト学院の大ホールで大勢の観客とともにショスタコーヴィッチの交響曲第5番を聞く機会があった、そして曲が第3楽章に進んだとき、まさに何度か見た夢の中の出来事が再現されたのである。第3楽章の終盤にさしかかり冷たく暗い曲想、弦楽器がそして次第に落ち着き最初のテーマが再現され、最後にハープとチェレスタを重ねた独特の音色のあたり(ちなみに初演の際にはすすり泣きの声が聞こえたとの言い伝えがある)に至ったときに、「ああここは夢で何度か見た、、懐かしい」という感覚が突然甦ったのだった。
正直な話観客の咳や騒々しい雰囲気はフルトヴェングラーがベルリンフィルを振ったブラームスの第4番の交響曲有名な1948年10月の録音の再現なのかもしれない、人間の記憶なんてかなりいい加減だから?
コメント

元日の夜は

2018年01月01日 | 日記
元日の夜はいつもウイーンからの中継番組、ウイーン学友協会大ホールでのニューイヤーコンサートを聞く(見るんかな)
今年の指揮者はリッカルド・ムーティ、それなりの年齢を重ねて貫禄がついてきましたね。
それにしても素晴らしい統率で低めの位置の指揮棒はメンバーが見やすくていいですね。
何度もこのブログで既述したが小生こと1994年から約2年間ハンガリーでの工場立ち上げのためブダペスト市内でホテル住まいをした。本拠のアパートはドイツのデュッセルドルフにあったのだがあまりとまることはなくブダペスト市内と工場のあるレチャグというスロバキアに近いハンガリー北部の街とをレンタカーで通勤していた。
ヴィザが切れるとウイーンかスロバキア国境までドライブしてビザを更新した。
ウイーンの町は当時住所があったドイツに比べてまことに自由というか、いい加減な管理で簡単にビザを貰えた。
スロバキアはもっといい加減で、国境警備隊のおっちゃんが「まあ一杯飲んでいかないか」とキリュシュをふるまってくれた、でもハンガリーのような訳のわからない国で仕事をしていると看板が読めるウイーンに入るとホッとする。
ハンガリーという国や人々を悪し様に言いたくはないが、住んでいてストレスを感じることに関しては世界一?の都会ブダペスト!車にガソリンを入れているちょっとしたすきを見て3人組が親切そうな顔をして他人の鞄をかっぱらっていく、そしてそれを見た周囲のハンガリー人たちは「あれはロマの仕業でハンガリー人ではないよ」と平然としてうそぶく。
まあそれはさておきウイーンのニューイヤーコンサートは楽しいイヴェントだ。

コメント