松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

先生の仰るとおりに描きましょう(そうすれば入選しますよ)

2011年09月20日 | 日記
再び絵に関する話題、特定のグループや作家のことをさして攻撃するわけではないのでどうか誤解のない様お願いしたいのであるが、どうも展示されたアマチュアの絵を見るたびに考えさせられるのは、絵画をお稽古事と間違えていらっしゃる、間違えていらっしゃるというのは、グループ展を拝見するとみな主宰される先生の絵に傾向が似ているので愕然としてしまうのである。やはりここでは9月14日に記載した日本の画壇というものに触れざるをえないのである(美術評論なんてちょっと大げさですが)
今を去る200年前のダゲレオタイプ写真の発明はそれまでの画家の主たるビジネスであった肖像画制作の需要低迷を招くに至った。ヨーロッパの画家はマイスターのもとで徒弟制度による絵の具の調合、デッサン、ポーズのつけかたなどの厳しい修行して後に独立、フランスの例であれば、ル・サロン展及び国民美術協会サロン展などサロンに入選すると当時の貴族たちから肖像画制作の依頼が入り生計がたつという(そこまで単純ではないことは確かだが)そして後年保守的といわれたこれらの官展(これも適切な表現ではないが)に対抗して苦労を重ねる訳である、なかでもエポックメーキングな展覧会はサロン展に対抗して第1回印象派展と呼ばれるようになったモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーらが1874年に開催した展示会はこのときモネが発表した「印象、日の出」から、新聞記者が“Je suis incompétent pour l'impression que je comprenais=納得したよこれは印象的に下手だ”と揶揄してつけたものであって、当時この展示会は社会に全く受け入れられず、印象派(Les Impressionnistes)の名前はこのとき以来の呼び名となった。彼らは写実主義から離脱した絵画独特の表現方法を探索し続けた結果、細部やタッチにこだわらず、新たな空間表現と明るい色使いを多用した印象主義が発生したわけである。このように当時フランスにおいてはすでにアカデミズム絵画は、自然主義、印象主義、後期印象主義などのめざましい台頭により、次第にその主役の座を奪われつつあったのだがこの様に衰退の道を辿りつつあったこのアカデミズム絵画を文明開化の日本ではどのように受けとめて東洋の隅に西洋絵画を取り込んだのか?日本独自の「画壇」というものに言及しなければならない、その前に当時の日本の美術教育について一つは、黒田清輝率いる白馬会、そしてもう一つの流れは千葉県出身の浅井忠が親分である太平洋画会系だが、対立したこの二派もその源流はフランスの印象派風アカデミズムの画家ラファエルコランおよびローランスにあったのですが、ラファエルコランもローランスも印象派というにしては余りにも守旧派で殆ど両者のあいだには差異がなかった、すなわち旧態依然たる徒弟制度による修行の内容に前述した新たな空間表現と明るい色使いを多用した印象主義を付け加えて最新のヨーロッパ絵画として当時の日本の中枢であった東京美術学校であり官展であった文展などに植えつけられてしまったところに日本の洋画界独特の特異性、である「画壇」なるもの、すなわち「お茶」や「お花」や「書道」などに似た手法すなわち、先生の仰る様に描きましょう、絵に黒は使用してはいけません(黒田の言葉)そうすれば東京美術学校を優秀な成績で卒業できて展覧会にも入賞できて画家として生計を立てることができますからね(笑)なんてことをやってるうちにフランスの本家では民間企業であるデーパート業界などのスポンサーシップの下で1903年にマティス、ルオー、ジュルダン、ヴィヤール、マルケ、ボナール、カモアン、フリエスらの参加によってサロン・ドートンヌ展が誕生してこれまでの「印象派なんてアカデミックなものはだめよ」という流れが始まるのですがこの続きはまた今度。一応このブログは400字詰め原稿用紙4枚程度に収めるようにしていますが、、現在1663文字目

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