松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

ベートーヴェン交響曲第7番

2018年01月30日 | 音楽
ベートーヴェン交響曲第7番の話題、ご存知の方も多いだろうが二ノ宮知子による日本の漫画を原作としたテレビドラマ、アニメ、実写映画などで取り上げられている曲なのだが、じつはベートーヴェンの交響曲の中では異彩といっていいほど時代を先取りした曲だ。1811年から1812年にかけて作曲され、リズム重視の曲想から現代においても人気が高く演奏される機会が多い。
日本ではベートーヴェンの交響曲は副題がつかないと売れないことから知らない人が多いらしい、ということは大多数の音楽愛好家を自称するインテリ・ミーハーにとっては知る機会のなかった曲なのだろう。同じ運命を辿らざるをえない第4番、第8番、(第1番と第2番は置いておいて)と同様の名曲と言える。
私がこの曲を知ったのは父がコレクションしていた初期のLPレコードの一枚がこの曲だったせいか繰り返し聴いていた、そのおかげで総譜を観ないでほとんど全曲の指揮が出来るくらい曲想と楽器が頭に入っている。これは暗譜というのではなく暗音?まあいずれにしてもそれくらい聞きこんでいるということだ。
ところがである、肝心のLPレコードなのだがブルーノ・ヴァルター指揮のコロムビア交響楽団で1958年2月―3月に録音されたもので、長い間CD化されていなかった、というかソースが明記されていなかった、ためになかなか聞く機会のない、あるいは知らなかっただけ?、私にとって幻の演奏だった。
最近インターネットで知ったのはこの録音は38㎝オープンリール・テープに2トラックのステレオで録音され、マスターテープも大切に保存されているらしい、平林直哉氏の解説によると、「ステレオによるワルター/コロンビア響のベートーヴェン全集は当時、予約限定盤で番号もない特殊なLPで発売され、雑誌の批評も掲載されませんでした。解説書にはそうした状況を、当時の雑誌の座談会から偲びます、演奏の本質とは直接の関係はありませんが、知っていて損はないと思います。と書かれています。
それだけ貴重なLPを惜しげもなく子供に買い与える亡き父も相当な変わり者だったのかもしれない。なぜ貴重?といえば当時の平均的な月給とりにとって2000円のLPレコードは月収の20%だから、それに33-3/1回転のレコードプレーヤーだってそれ以上に高価だったと思う。
そのレコードのCD版は最近HMV&BOOKS onlineで見つけた、他には1987年初期のCBSソニーのCDで高城重躬さんがCDの音質を絶賛されてるもの、これはベートーヴェン交響曲全集の第2巻なのだが、がある。
演奏の出来不出来(気に入ったか気に入らないか)はまた追って記載する。

デジャヴィ

2018年01月06日 | 日記
何度か夢に見た光景それは東欧の田舎町のある冬の日に大勢の観客とともにショスタコーヴィッチの交響曲第5番第3楽章ラールゴ嬰ヘ短調を聞いている、足元はしんしんと冷たい、そして観客の服装は様々、これが西ヨーロッパのコンサートホールであれば正装した人々が整然と椅子に座っているのだが、そのコンサートホールでは立席で観客の咳や話し声、とくに前述の通り第三楽章はミュートを付けた弦楽合奏で演奏されるので雑音がことさら大きく目立ってしまう。
話は現実の1994年の冬ブダペストのフランツ・リスト学院の大ホールで大勢の観客とともにショスタコーヴィッチの交響曲第5番を聞く機会があった、そして曲が第3楽章に進んだとき、まさに何度か見た夢の中の出来事が再現されたのである。第3楽章の終盤にさしかかり冷たく暗い曲想、弦楽器がそして次第に落ち着き最初のテーマが再現され、最後にハープとチェレスタを重ねた独特の音色のあたり(ちなみに初演の際にはすすり泣きの声が聞こえたとの言い伝えがある)に至ったときに、「ああここは夢で何度か見た、、懐かしい」という感覚が突然甦ったのだった。
正直な話観客の咳や騒々しい雰囲気はフルトヴェングラーがベルリンフィルを振ったブラームスの第4番の交響曲有名な1948年10月の録音の再現なのかもしれない、人間の記憶なんてかなりいい加減だから?

元日の夜は

2018年01月01日 | 日記
元日の夜はいつもウイーンからの中継番組、ウイーン学友協会大ホールでのニューイヤーコンサートを聞く(見るんかな)
今年の指揮者はリッカルド・ムーティ、それなりの年齢を重ねて貫禄がついてきましたね。
それにしても素晴らしい統率で低めの位置の指揮棒はメンバーが見やすくていいですね。
何度もこのブログで既述したが小生こと1994年から約2年間ハンガリーでの工場立ち上げのためブダペスト市内でホテル住まいをした。本拠のアパートはドイツのデュッセルドルフにあったのだがあまりとまることはなくブダペスト市内と工場のあるレチャグというスロバキアに近いハンガリー北部の街とをレンタカーで通勤していた。
ヴィザが切れるとウイーンかスロバキア国境までドライブしてビザを更新した。
ウイーンの町は当時住所があったドイツに比べてまことに自由というか、いい加減な管理で簡単にビザを貰えた。
スロバキアはもっといい加減で、国境警備隊のおっちゃんが「まあ一杯飲んでいかないか」とキリュシュをふるまってくれた、でもハンガリーのような訳のわからない国で仕事をしていると看板が読めるウイーンに入るとホッとする。
ハンガリーという国や人々を悪し様に言いたくはないが、住んでいてストレスを感じることに関しては世界一?の都会ブダペスト!車にガソリンを入れているちょっとしたすきを見て3人組が親切そうな顔をして他人の鞄をかっぱらっていく、そしてそれを見た周囲のハンガリー人たちは「あれはロマの仕業でハンガリー人ではないよ」と平然としてうそぶく。
まあそれはさておきウイーンのニューイヤーコンサートは楽しいイヴェントだ。