松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

トーマス・ペインの「コモンセンス」そして立原正秋の「埋火」

2011年09月16日 | 文学事評
時間の長さを苦痛を伴わないままやり過ごす方法として、iPodで音楽を聴く、読書など人様々な解決方法があると思うが、3日間受付に座り周囲に不自然さを感じさせないで(居眠りなどもってのほか)時間を浪費するには読書がいいと思う。読書を時間の浪費と表現すれば多々反論もあろう、若年の頃の読書は拓き行く人生の指針を得る手段として、あるいは当面する問題の解決策を探す手段にもなるだろうが、古稀を目前にした老人にとって単調な繰り返しの日々の解決策としての読書、これもなかなか味わい深いものである。ということで3日間に読んだ本は「トーマス・ペイン著 コモンセンス」、「立原正秋著 短編集 埋火」、コモンセンスはアマゾンから取り寄せた原書を読破すべく初日に悪戦苦闘したがこのトーマス・ペインという230年前の男の文章が何とも回りくどくて2-3ページも進まないうちに「何じゃいこれは」と絶望、、英米文学を勉強していない人間にはこれは難しすぎるということで岩波文庫から翻訳が出版されているのでこちらを買ってきて無事に読破(これを読破と言えるのか否かは疑問だが)そして改めて原書に挑戦して、こちらもめでたく??読破できた。ともかくアメリカ独立戦争のきっかけとなったと言われる当時の大ベストセラー、アジテーターとしてのペインの魅力は充分に読み応えのある本であった。続いて立原正秋の短編集「埋火」、この作家は一時期大衆小説を量産したことで知られる、また一部の評論家などからは厳しい評価をされることもあるが、初期と晩年の短編には素晴らしいものがある。掲題の「埋火」はあまり感心しないが「一夜の宿」や「仮の宿」などは初期の傑作「薪能」より読み応えのある作品であった。今日はその他思いがけない出会いがあった、定年退職後スペインにご夫婦で長期滞在された方が来訪されて、1時間以上話し込んであげくに自費出版された体験談をまとめた本を頂戴した。また旧パソコン教室の方々から差し入れを頂きありがたく頂戴する、夕刻には仕事仲間でパソコン教室や登山でご一緒するAさんが来訪、夕刻のひまで退屈な時間を忘れる一時であった。

来年のフランス行きを決める

2011年09月15日 | 日記
娘から携帯メールで日本航空のマイレージバンク、グローバルクラブ会員番号を聞いてきた、1年後のパリCDG空港行きの切符の手配を娘婿が始めたらしい。相変わらずこまめで気が利いていて、それで折衝も粘り強いことで頼もしい限りである。それにしても1年後の手配で空席待ち順位9番目とは!!さすが夏のCDG行きは価格が高くても人気抜群である。まずは航空券が最優先それ以降のことは出たとこ勝負で何とかなる、それにしても今年の夏はフランス語力の不足(不足なんてものじゃなくほとんどゼロ)を思い知ったので来年までには絶対にマスターすることを明言しておく(なーんちゃってどうせギリギリまで行動を起こさないに決まってる)

個展3日目を迎える

2011年09月15日 | 文学事評
3日目を迎えた、照明をさらに工夫してスポットライトだけにしてみた、ほかの蛍光灯はすべて消灯した。色温度が適切になったため自然な色相に見える様になった、もう少し早く気づくべきだった。毎日自分で絵は描かないが絵の解る人が来訪される、私も同じような傾向があるのであまり批判は出来ないが、もっとも迷惑なのは制作過程の批判、というか自分が理想とする制作手法の押しつけである。絵画教室の先生と生徒ではないのだから各自相性の良い、自分にあった、制作の方法がある事ぐらい理解してほしいものである。なかでも現場主義と称する戸外にイーゼルを立て目前の風景を直接キャンバスに描き込む手法にこだわる人々、19世紀の終わりに印象派の人たちが提唱したやり方であるが、日本の所謂画壇と称する世界にはこの現場制作主義に凝り固まった先生がいらっしゃると聞いている、創造性に乏しいアマチュア画家の中には絵画も茶道や華道と同じくマニエリスムだと思っている人が多いので前述の偉い先生に傾倒すると自然の中でイーゼルをたてないと絵ではないと決めつけてしまう。これはひどくはた迷惑な話であり対応に苦慮してしまう。さらには私の絵を見て「他人の写真や絵はがきを絵に仕上げた」と勝手に思い込む人もいらっしゃる、他人も自分と同じ手法を使うと思っているので誤解を解くために時間と労力を浪費する(対応しなくてもいいのだが)最終的にはこのような手合いには私のスケッチブックを見せなければいけないのか?と頭を抱えてしまった。ツアーで1-2回パリに行ったことのある人たちが最も始末が悪い、自慢にもならないが1987年以降仕事と私用でフランス入国履歴は2011年8月21日までに82回、延べ500日はパリで過ごし、パリ以外でも40日以上滞在している。寒い日にスケッチブックを抱えて朝からセーヌ河岸通りをうろつき回り、仕事では車で市内を運転していたことなどを説明してやっと理解してもらったが、何故このような説明までしなければならないのか?個展を開催していると疲れる事が多い。一方今日は午後からご自身も絵を描いていらっしゃる方が多く来訪されて制作背景や展示方法などを含めて絵の楽しさ、絵の難しさを時間をかけて(楽しく)お話しする事ができた。また旧知の方からいろいろ差し入れを頂くのもうれしい、この場を借りて御礼申し上げます。

個展開催について

2011年09月14日 | 文学事評
2011年9月13日(火)
9月13日個展の初日を迎えた。昨日の搬入作業でやり残した展示の残り作業である題名の表示や、表看板の掲示などを8時30分から開始してなんとか9時の開場前に準備を終えた。開場早々というか開場前に散歩のついでに寄ったというおじさんの来客、散歩のついでといいながらも絵画に対する並々ならぬ見識に少し警戒、続いてもう一人、こちらは駐車場の利用の理由付けと言う感じだが、10時前に2人のギャラリーで、このまま増えるかと思いきや以降は閑散としている。結果として初日の来訪者は34人であった。
市民ギャラリーの開催予定を見ても、圧倒的にグループでの開催が多く個展というのは私だけの様子、考えてみればプロでもないのにこれだけの壁面を埋めるだけの作品を制作する人がいるとは思えない。という事は当初計画していた新作だけでの個展開催など最初から無理があったと改めて自覚する。個展は来場者のレベルというか相手が持っている鑑識眼を把握することが大切である、それが無理でも来場の意図を見極めることが必要である。来場者の事は置いて、自身の画業に対する姿勢のあり方、何はさておいても感性を磨く事、そして基礎技術の向上、特に技術的なレベル、デッサン力の強化など展示した作品を俯瞰してみた結果課題が山積みである。絵の難しさを感じる今日この頃、そもそも絵画の制作とは何か?なにを目的として絵を描くのか?と問いつめたときに本音を正直に言う人は少ないだろうが、私にとっては間違いなく「功名心」あるいは「自己顕示欲」はたまた「好奇心」というか好奇心の対象の追求の手段としての絵画制作、この3点が主たる目的ではないだろうか。希望的な観測だが夏場だけでもフランスへ移住する方法も一つの解決策になるのかもしれない。パリは不思議な魔力のある街で、たとえ1週間の滞在でもツアーやビジネスで短期滞在する人間には理解できない不思議な感性を導きだしてくれる、少なくとも私には内面の変化が生じてくる事は間違いない。
2011年9月14日(水)
個展2日目である、昨夜思いついてポスターを制作した、Photoshopでバックグラウンドを造り文字入力でA3サイズにプリントアウトした。コピーは熟慮の上「パリの哀愁を描く」「夏村富也個展」とした。市役所第2庁舎前の掲示板に貼る、少しはキャッチ効果があるか?期待して客を待つことにする。今日は照明を変更してスポットライトで作品を照らすように工夫してみた。下手な絵も少しは上手に見えるのではないだろうか?と自問自答している、10時前に3人の来訪があった。その後パソコン教室でご一緒したボランティアのFさん、事務のKさんが来訪された。午前中に同好会の代表でボランティアで絵を教えている方が来訪された、来年2月にグループ展を開催されるとの事だったが、技術的な話に終始した、絵の解る人が見に来るのは覚悟しているが、勉強になる反面精神的なプレッシャーになるのは苦痛である。本日は31人の来客であり昨日よりは低調である。