松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

昭和40年代

2013年11月30日 | 中国

寒かった湖北省から新幹線で4時間、南国広州は花が咲いて気温は20度超え生き返った気分です。女性たちもあか抜けていて、ケチ紡貝塚的風貌の多い田舎の湖北省と比べると美人が多い、ええっ?ケチ紡貝塚って何かって?東洋の魔女のことです。まだわからない、、1964年東京オリンピックの女子バレーで優勝したメンバーのことです。これからもTVで放映されることことがあるかと思いますが、一度彼女たちの風貌をよく見てください。昭和40年代の日本女性は皮膚は浅黒いし鼻が低く眼は細く髪は強いウエーブをかけていて真っ黒、早い話がブスが多かったのです。湖北省の女性たちは皆彼女たちに似ているのでついつい差別用語を、、ケチ紡ではなく日紡でした。当時はケチというか経営基盤を確保するために出費を抑える会社が多くケチ紡とか、オンワードケチ山とかケチケチケーとか呼んで楽しんでいました。


中国湖北省咸寧

2013年11月28日 | 旅先から

コンサルタントの仕事で中国入りしています。台湾有数の電子部品会社の工場です、ここは湖北省咸寧(シェンニン)の工業団地、台湾の企業が多く進出している関係で保税区域になっていることもあってか、工場への出入りは警備が厳しい、その代り工場の内部ですべて完結するようになっていて、一部は住居になっている。写真の6階建ての最上階に台湾人幹部と一緒に暮らしています。域内の移動はガラスに覆われた通路を磁気カードを使って歩いて移動します。冬は寒くなるこの地方ならではの設備、塀の中にレストラン、というか大衆食堂、スーパーマーケット、郵便局、携帯電話屋さんなどが完備して部屋に置かれたバケツに洗濯物を入れておくと洗濯もしてくれる、でも部屋は寒くて寒くて、、


酒々井アウトレットパークと芝山町の道の駅

2013年11月17日 | 旅行

道の駅「ふわり」は成田空港に離着陸する航空機の通り道、飛行機の現物も展示してある、此処の野菜は本当に美味しい、そしてお隣り町の酒々井アウトレットパークアウトレット大好き人間としては車で20分という距離はうれしい、飛行機と一緒に写っている赤い車が愛車のレクサスIS250、アウトレットパークではライトアップも始まった。


不思議なご縁

2013年11月12日 | 旅先から

山形県酒田市に出張してきている、仕事を通じて昭和43年以来お付き合いのあった方の告別式に出た、83歳というから運刻斎とちょうど一回りの差である。仕事の関係では親会社(こんな表現は好きではないが)の設計担当者対外注の社長という関係であったが、気心の通じるまた任せておいて安心できる外注さんだった。この社長とは不思議なご縁があって15年前運刻斎が欧州に駐在しているとき、親会社のハンガリー工場へ部品メーカーとしてハンガリーに進出するか否かの経営判断に迫られて社長からご相談を受けた。会社の立場としては出てきて頂きたいのは山々だけど、冷静に事業計画を練ってみるとどのように贔屓目に見ても不採算は免れない。タイミングよくドイツから日本に出張してきていたので大田区蒲田にある会社を訪ねてデータを見せて「社長これは出ないほうが良いね」と正直に進言して思いとどまって戴いた。この行動はどう考えても会社の利益を阻害するものであって、親会社の立場としては出てきて下さいとお願いするのが本来の姿勢であったのだが、ここで嘘が言えないのが運刻斎の弱み(笑)70歳を過ぎた今もこの姿勢はぶれていない、自慢にはならないがこの考え方で仕事をしてきてそれなりに社会的に認められている(本当か?)のだから人生とは不思議なものだ。


四十九日の法要

2013年11月05日 | 親戚

佐倉市にある曹洞宗の長谷山宗徳寺にて故松村三生、戒名省三耕作信士の四十九日の法要を行った、宗徳寺は応永10年(1403)に小弓城主 原胤高により下総国小弓郷柏崎に創建され、元亀元年(1570)に原胤栄が臼井城主となって長谷津に移転され、この地にあった長谷山龍雲寺を合併したという関東ではかなりの古刹だ、室町時代にこの地を治めていた臼井氏を継いで領主となった原氏の菩提寺であり、ご住職は三生の葬儀の際に導師をお願いした。実際に宗徳寺にお伺いしてみると故郷の小さな菩提寺と較べて伽藍の大きさは比較にならない位立派なお寺だった。法要を終えたところ遺骨は宗徳寺のご住職が預かっておこうと仰って戴いたのでご好意に甘える事にした。じつは故郷の菩提寺である山口県光市室積にあるお寺から「他の寺で戒名を授けられた仏を供養する訳にはいかない」と体よく法要と納骨を断られたからである。宗徳寺のご住職や葬儀社の担当の方からは「よくある話」と仰られていたがまさか江戸時代からご縁があるお寺さんからこの様な言葉を戴くとは思ってもいなかった。亡き母の話では祖父や父はおりにつけて相当額の寄付をして本堂の修復等に貢献していると聞いたが金の切れ目が縁の切れ目か?そういえば私個人は何もしていない。後はお墓をどうするか?又ひとつ課題が増えた。松村家の素性は明確ではないが宗旨が西日本では極めて少数派の曹洞宗という意味合いから室町時代末期に関東から安芸国(広島県)に大挙して移住した野伏の一団であったらしい、かの地の過去帳から推察すると水先案内や船による戦闘を生業とし戦国時代の先祖は五軒屋五人集と言われる海賊グループの親玉で海岸を通行する船から金品を巻き上げたり、一攫千金を夢見て江戸時代初期には蝦夷地の探検などもやっている。先祖の悪行が祟ってか松村家はみな短命で古稀を迎えたのは私が最初だ。