〇 今日で平成時代は終わります。私にとっては50才代から70才代までの30年間でした。この30年間を前期、中期、後期に分けて思い出してみようと思います。
1 前期(平成10年まで)
県庁勤務の終り頃の10年ですが、企画部では県の特定用地の買収にあたるり、山陽自動車道や淡路縦貫道周辺の用地買収を担当しましたが、洲本・姫路農林水産事務所時代では、姫路勤務の終り頃に阪神・淡路大震災に見舞われました。その後は震災復興センターに転勤し、続いて農林水産部長を担当しましたが、県職員としての最後は園芸公園協会の理事長でした。兵庫県庁に36年間勤務しましたが、この10年間は幹部職員として、それなりの役割を果たしたと思っております。
昭和終りに父が86才で亡くなりましたので田舎の古い家を私が引き継ぐことになりました。地震で壊れた個所も沢山ありましたので、父が残してくれて遺産と私の退職金を予定して家の修復に2000万円ほどかけました。それに伴ってメダカを飼育する池や露天風呂も作りました。農地も20アールほどあいますので、その管理も大変でした。しかし、この田舎の家を守って行くために私の庵「メダカ庵」と名付けました。
2 中期(平成20年頃まで)
退職後の勤務先は兵庫県信用漁業組合連合会の会長でした。かな高給でしたので経済的には恵まれ、ゴルフや夜の付き合いも頻繁に対応しました。しかし、小さいながら金融の仕事で、東京行きも多く技術屋の私には判断に迷うことも多々ありました。水産の技術者が金融機関の会長をしていると世間からは疑問視されているような気がしましたので、兵庫大学経済学部大学院に入学して経済学修士の学位を取得しました。卒業後大学から非常勤講師の依頼がありましたので、5年間の大学教員生活も体験しました。
この年代に孫が二人生まれました。智哉君とまー君ですが、二人はそれぞれ今年4月に大学と高校に入学しました。孫の誕生は私にとっては大変うれしいことでした。
この10年間は急速にITが発展した時代でもあります。私もパソコンや携帯電話を日常的に利用しなければならないことになりましたが、アナログ時代の私にとっては便利であっても至難のツールでした。カメラもデジタルになりましたのでメダカの資料を作成して「メダカと照葉樹林食文化」というソフトを作成して各地で公演して回りました。
比較的気楽な立場でしたので遠いところに度々旅行しました。ブラジル、メキシコや南アフリカ、ジンバブエ、アメリカ・カナダ、ロシア、中国や韓国も行きました。国内もあちこちに行きましたが、四国八十八カ所巡礼は思い出の旅でもあります。
3 後期(平成20年から31年まで)
70才を過ぎるまで大学に勤務しましたが、5年間で大学を辞めて専業の百姓になり、メダカ庵通い農業とメダカの飼育に専念しました。時々メダカの講演依頼もあり、比較的忙しい日々でしたが、かねてから世界一周クルーズ船に乗りたいと思っていましたので、平成12年1月から5月までの約100日間で世界一周航海の旅にでました。タヒチやペルーのアンデス、パナマ運河、カリブ海のキューバなどは初めての国で、セネガル、モロッコ、カナリヤ諸島も始めてでした。地中海に入ってフランスやイタリアはあまり感動はありませんでした。黒海のブルガリア、ルーマニア、ウクライナは初めてでした。ローマにしろエジプトにしろ歴史のある国は変化がないことがわかりました。スエズ運河の通過も興味がありました。5万キロを超えるクルーズは良い思い出です。
兵営22年には叙勲を受け。今日退位される天皇に拝謁しました。皇居や東宮御所には数回行ったことがあり、天皇や皇后と話したことがありますが、連れ合いは初めてなので、拝謁に参列しました。
70才代になると急激に体力の衰えを感じるようになり、血圧の不安定や疲れが顕著になり、農作業やゴルフが億劫になりました。目の網膜の病気などで2回入院し、喜寿を過ぎてから胆のう炎で入院して胆嚢を摘出しました。視力の低下で車の免許更新もできなくなり、その上足腰の骨も変形して歩くのも困難になりましたので、毎年行っていた北海道旅行も昨年は中止し、米の作付けも止めることにしました。百姓も廃業です。
今日で平成は終わり、明日からは令和時代です。令和に入ってすぐに私は傘寿を迎えます。平均寿命まではあと僅かですが、余禄の人生をどのように過ごすべきか思案中です。文化的素養がない私ですのラジオを聞きながら酒を飲んで暮らすことになりそうです。30年代になって生まれた3人目の孫も今年から小学校です。この子の成長を楽しみに少しでも長いぃしましょう。