今日も地球は周ってる

管理人の趣味や日々のことを徒然に。宇宙戦艦ヤマト好きーが現在進行形。時々、六神合体ゴッドマーズ。ALの右オタも兼務

まったく個人的な趣味による 「僕のいた時間」 と 「六神合体ゴッドマーズ地球編」 の相似についての解釈

2014-03-15 20:47:07 | GM
はい。突拍子もないタイトルですね。
そんなのはいつもの事(?)なので、余り気にしないで下さい。


何故に「僕のいた時間」と「六神合体ゴッドマーズ地球編(以下GM)」なのかと言いますと。

そもそも。
春馬さんのオフィシャルサイトのトップページの写真が、「タケルが三次元に実在したらこんな感じになる!」
って感じの写真だったからです(笑)
はい、それだけで春馬さんファンになりました。
あああああ。すいません、殴らないで下さいね。30年以上ずっと好きだった二次元キャラが、
突然目の前に三次元になって現れた衝撃を、どう表現すれば良いのやら。
と、本人も言葉に出来ないような状況で春馬さんにハマってしまい、ラスシンから見始めました。
過去作品を見て行くと更に好き度がアップして、最新の情報で更に深みに嵌まり…。

「僕のいた時間」に至っては、春馬さんが拓人なのか、拓人が春馬さんなのか。
ってくらい、入れ込んでドラマを見ております。


で、やっと本題。

「僕いた」と「GM」なのか。

それは、両方の主人公に命のリミットが科せられた事です。

拓人はそれまでごく普通に特に将来とか深く考えずに日々を過ごしている就活生。
たまたま出会ったメグとなんとなく恋仲になるも、突然病魔に襲われ…。
自分の未来を見失った拓人は、病気の事を隠してメグを別れ、一人、病魔と闘い始める。

マルメロ星のギロンを倒し、再び平和を取り戻せたかと思った矢先、タケルの両手首には悪魔の枷が嵌められる。
超能力を使う度、戦うたびにその悪魔の枷がタケルの生命を縮めていく。
そして、命が尽きるのはいつなのか、タケル自身にも判らない。

その後の物語の構成が何だか似ているんですよね。

始めは周囲にひた隠しに隠して、何気ない感じを装って日々を過ごす。
しかし、ある時に一部の人間に事情を知られてしまう。
その人等には「他の人(若しくは一番知られたくない誰か)には黙っててくれ」と、頼む。
そうやって日々を過ごすが、どうにも出来なくなり、真実が明かされる。

周囲の人間は「死ぬな」と言うが、主人公は「死にたいわけじゃない」と葛藤する。
(タケルの場合は、「もう、戦うのは疲れた」とか言ってましたけどねww)

つまり、死を目前にした状態で「生と死」について否応なく現実を見せつけられるのです。
拓人は確実に進行していく病魔に。
タケルは日に日に弱っていく自分の身体に。

生きて行くのも辛いけど、でも、死にたいわけじゃない。

なんて 「デ・ジャ・ビュ」!

GMは、まあアニメ的なご都合展開があって、タケルは悪魔の枷から解放され、
真の敵を打ち破り、宇宙へと旅立つ訳です(ここら辺り、色々と書いてみたいんですけどねw)
拓人は…それは次の水曜日。11話、つまり最終回を見ない事には判りません。
アニメじゃないですし、実際にある病気を軸にしているだけにご都合展開は無いでしょう。
なので、かなり覚悟して最終回を見るつもりでいます。

最後はどうなるか判りませんが、「命のリミット」「自分に起こっている事を隠す」「事実を受け入れ葛藤する」
そういった心理描写が、「僕いた」と「GM」がよく似ていたんです。

「僕いた」の脚本の橋部さん、実は私と同い年だそうです。
驚きました。
もう少しお歳を召した方だと思っていたのです。
でも、それで逆に納得した部分もありました。
「同い年なら、同じ番組を見たりした可能性もある。もしそれが同じ作品で、同じように共感していたら…」
と。

「僕いた」で説明的台詞がほぼ無い事、詳しい背景描写が無い事、それでも物語は現実性を持って進んで行く事。
この要素は、70年代後半から80年代にかけてのアニメの脚本などの特徴と似ているんですよね。
要所要所で必要最小限の台詞。少ない登場人物のきっちりした役割と性格、時間の流れを意識せずに進むドラマ。
特に、アニメでは藤川桂介氏が得意としていた手法です。
GMを最後に脚本家を引退され、その後は小説を書かれたり、大学で講師をされたりしていらっしゃいます。

そういった物を橋部脚本に感じたのです。
それが「僕いた」と「GM」の相似。と、なりました。

どちらかしか知らない方、もしくは両方とも知らない方、ごめんなさい。
両方知っていても理解できない方もごめんなさい。
これは飽くまでも個人的な解釈なだけで、考察にまで至っていない物ですので。

って、自分のブログだからこんな事も書けるわけです(笑)

あー、書けてすっきりした。
これね、ずっと思ってて、いつ書こうか迷ってたんです。
でも、「僕いた」9話のいつものレポが完全にSTOPしてしまった事で、
「(この解釈を書かない限り、私は「僕いた」の最終回が見られない)」
と、思ってしまった訳なのです。
自分が先に進む為にも、この解釈の記事は必要だったんです。

ただ、拓人とタケルが唯一違ったのは。
拓人はメグに(と、言うかメグの存在を意識していなかったかもだけど)生きる恐怖をぶつける事が出来た。
でも、タケルは誰にもそれを話せないままだった。(心の中の兄さんにだけは語ってたけど)
と、言うところ。

そんな訳で、ドラマとアニメの奇妙な相似についての、個人的な解釈は終わりです!

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