釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

SFの合成食品が現実化して来た

2014-04-30 19:11:16 | 社会
今日は残念ながら小雨がちの日となった。気温は17度まで上がったが、日がささず、暖かくはなかった。釜石の市街地の桜はもうすっかり終わり、今は遠野が桜の見頃となっている。ただ遠野も今日は同じような天気である。釜石と同じように山の桜も咲いている。ただ、遠野の山の桜は釜石と違って、赤味の濃い花が多い。遠くから見てもよく目立つのだ。猿ヶ石川に沿って長い桜並木があり、北上の展勝地とはまた違った趣がある。遠野ではこの桜並木が注目されがちだが、よく見ると、釜石や北上以上に桜の木が多い。街中で桜が咲いている。青笹地区の喜清院と言うお寺の枝垂れ桜も樹齢の古い見事な桜だ。樹齢が350年を超えると言われている。遠野には他にも何か所か桜の大樹がある。今年は残念ながらそれらを見ることは出来そうにない。 1973年に米国で『ソイレント・グリーン Soylent Green』と言う映画作られた。2022年の未来社会で、貧富の格差が拡大しており、野菜や果物と言ったものは富める者しか食べられず、貧民はソイレント社が作る合成食品を配給されて生きていた。ソイレント社の新製品であるソイレント・グリーンがたくさんの人間の死体から作られていたことが明らかになると言うSF映画だ。昨年米国のアトランタ住む若干24歳のロブ・ラインハートRob Rhinehart氏が、この映画と同じソイレント社Soylent Corporationを立ち上げ、合成食品「ソイレント」を作った。この4月から「ソイレント1.0」の出荷が始まった。数ヶ月ほとんどこのソイレントだけを食べて、健康に異常を来していないのだと言う。ビタミン、ミネラル、必須アミノ酸や炭水化物、脂肪などの栄養素が含まれ、脂肪はオリーブオイルやフレッシュオイルだけを使用し、炭水化物にはオリゴ糖を使っているため、長期間エネルギーを体に保つことができるのだそうだ。現在、世界では7人に1人が栄養失調であり、発展途上国では3人に1人が食料不足だと言われる。国連によれば、2050年までに世界人口は90億人に到達し、食糧危機は避けられないと警告している。野菜や果物、肉はそれらの人々すべてに行き渡ることは不可能だとされる。「ソイレント1.0」は現在、出荷が米国国内に限られているが、いずれ国外へも出荷する予定だと言う。「ソイレント1.0」は1週間パックが65ドル、1食が3.1ドルだ。今日の為替相場が1ドル102円ほどなので、1食が316円くらいだ。専用のピッチャーと計量カップが附属する。粉末のため、水を注いで、飲むだけだと言う。米国では貧しい人が簡便で安いファーストフードを主食とするため、今や米国人の70%が太りすぎや肥満だと言われている。その一方で世界の食糧の50%は捨てられている。確かに、栄養的に問題がなければ、「ソイレント1.0」のような合成食品は食費を極端に減らせ、輸送にも便利なため、飢餓に喘ぐ人たちの救済には適しているのかも知れない。ハイテク企業が揃う米国シリコンバレーでは、今、ソイレント社だけでなく、食品産業に新しい企業が次々に参入していると言う。コンピューターで栄養素を組み合わせ、合成食品の開発に乗り出している。プログラミング技術を食品分野に広げているのだ。米国にはすでに世界的規模で食品分野を支配する超巨大企業が存在する。それらの企業に対抗して、ハイテクを使った合成食品を作ろうと言うのだ。しかし、これまでも、シリコンバレーで生まれた革新的なものの多くは巨大企業に買い取られ、吸収されて行った。同じ道を進むことになる可能性があるだろう。また、何より、合成食品は緊急避難的な使われ方に限るべきだろう。自然界にない食品が人にどう言う影響を与えるかは、未知のことが多く、長い年月をかけて検証して行くしかないからだ。
延齢草

丹頂草

梅花唐松

春の休日

2014-04-29 19:15:24 | 自然
今朝は7度で午後には13度まで上がったが、風はやや冷たく感じたが、日射しを受けると、寒くはなかった。日課になった庭の花たちの様子を見てから、家の近所を歩くことにした。予報では午後から曇りとなって、明日には雨も降るようだったからだ。市街地の染井吉野はみんな終わったが、周囲の山々には山桜が咲き、その桜の周りの木々に淡い緑の葉が伸びて来ており、その淡い桜や木々の色合いがとても優しく、眺めているだけでとても気持ちがいい。南北にそれぞれ山があるが、北側の山裾には以前は農家をやっていた家が何軒かあり、それぞれ周囲の家とは違って敷地が広く、庭にいろいろ花木を植えている。それらの家以外はあまり庭も広くない比較的新しい家がたくさんまわりに建っている。新建材を使った洋風の建物が多い。しかし、山裾の古い農家の中でも1軒だけとても気に入っている家がある。桃が咲き、椿が咲き、リンゴの花も咲いていて、近くではウグイスやキジまで鳴いている。山裾に沿って立てられた新興住宅の前の山に並行した道をゆっくり進んで行くと、そばの山の淡い緑と桜の白が日を浴びて、とても綺麗だ。八重桜が何本か花を咲かせているところもあった。八重のツツジが咲いているところがあったが、山裾の橙色のヤマツツジの方はまだ咲き始めて来たばかりだ。山裾で、鹿が頻繁にやって来るためか、畑地を網で囲ったところもある。家から比較的近いところでは、この北の山裾を歩くのも好きなコースの一つだ。熊もよく出没するところではあるが。晴れた休日なので、家によっては庭の花の手入れをしているところもあった。ただ、釜石は住む人たちも遠野や住田と違って、建物に合わせたためなのか、花木も外来のものが目立つ。釜石はせっかく在来種の生育に適した地域であるので、ぜひ在来種を多く植えて欲しいのだが。元農家らしい家はさすがに在来の花たちを多く見受ける。山裾から下って、釜石線の線路が通るところまでは歩いても2~3分くらいの距離しかなく、その線路沿いにも何軒か元農家らしい家があり、その1軒の庭にコブシが咲いていた。そのコブシを植えてくれていることだけで、とても嬉しく思ってしまう。風に花びらを吹かれながら、青い空に映える白いコブシが綺麗だ。山が南北すぐ近くに迫っているので、それらの山を含めた釜石の雰囲気としては今の時期が一番好みかも知れない。山全体に淡い緑が広がり、とこどころに山桜が咲き、そうした情景が市街地を取り囲む。2時間近く、カメラを抱えて、のんびり歩いていると、とても気持ちがいい。ただ2時間を歩くだけであれば、恐らく疲れてしまっただろうが、花を見ながらのんびり歩いていると、歩くことがまったく苦にならない。むしろ日射しを浴びて気持ちがいい。毎日運動をしていることもあって、足もとても軽く感じる。あらためて、人は動物なのだから、身体を日常的に使ってやらねばならいのだ、と感じる。帰宅して、窓から庭を見ると、植木の葉がやはり日射しを浴びて、淡い緑に輝いていた。ウグイスも遠くで鳴いていた。
市街地に迫る山の桜

山裾の桃の花 すぐそばでウグイスが鳴いていた

桃の花の近くで咲いていたリンゴの花

松月桜の咲く家があった

もうシャクナゲの咲いているところがあった

八重のツツジ

花蘇芳(はなずおう)が咲き始めていた

綺麗な色合いのモミジを見つけた

花水木

釜石の動植物

2014-04-28 19:15:38 | 歴史
今日は高い雲が空を覆い、日射しを見ることが出来なかった。そのためか、気温は朝から16度になっていた。日中も気温はさほど変わらず、最高気温は18度となった。昼休みに職場の近所に出かけたが、山の桜とその周囲の淡く色付いて来た緑の調和がとても綺麗であった。八幡神社横の枝垂れ桜も今がちょうど見頃だ。職場の隣りの醤油工場の裏山の染井吉野はもう終わってしまった。その代わりに雪柳や山吹がたくさん咲いて来た。それらに混じって著莪 (しゃが)の可愛い花も咲いている。近くではハナニラも群生していた。通勤路ではライラックも開き始めた。 釜石へやって来て、あまりにも多くの花の育つことに驚き、毎年のように花を手に入れ、今では庭には50~60種類くらいの花木や草花がある。それらにこれからは水をやるだけでも一仕事だ。休日以外は仕事が終わって、犬の世話をした後になる。暗くなった中でヘッドライトで照らしながら、新しい芽や花が出ていないか、楽しんでいる。無精なため、うっかり水やりを忘れたり、時期的な栄養をやり忘れたりするが、植物の生命力もさすがに素晴らしいものだ。人間の有り様とは関係なく、自らの命を必死で育んでいる。雑草も植物であるから、当然たくさん生えて来る。タンポポもその一つだ。多くの雑草は抜き取ってしまうが、タンポポだけは残しておく。玄関先には小鳥が種を持ち込んだのか、2~3年前から苧環(おだまき)が大きく育って来ている。紅葉の木から離れた場所にも何か所か紅葉の小さな木が出て来ていたりする。人の話に植物にも表情があると言うが、さすがに表情までは掴めないが、水分を多く必要とするものは、葉がすぐに萎れて来て、こちらに訴えかけているように感じることはある。冬場に積もった屋根の雪が落ちて、その勢いで、斜めに傾いてしまったままの鉢植えの木が、真っ直ぐ伸びたまま斜めになっていたものが、日射しを求めて、途中から上に向かって伸びていた。職場の裏山の木たちを見ていても、隣接するものは互いに邪魔にならないように枝葉を伸ばしている。植物に話しかければ生育が違うと言う人もいるが、さすがにそこまではする気になれない。もともと独り言をするタイプでもない。釜石市街地は南北の山に挟まれた狭いところに延びている。庭からもそれらの山がすぐ近くに見える。南北の山が迫っているため、その山に今、山桜が咲いているのも見える。今年は山桜が里桜と変わらず咲き始めた。いつもだと山桜は里桜より少し遅れるのだが。里桜はほぼ散って来たが、さすがに山桜の方はまだ咲いている。先日の土日はその山で害獣駆除が行なわれていた。どこか離れたところで行なわれているのか、鉄砲の音が聞こえて来なかった。昨年は近くで鉄砲の音が聞こえた。鹿が繁殖し過ぎて、農家が被害を受けているようだ。岩手は山地が多くを占め、その山地が豊かなために、人も良く山へ入る。そのためか、ここのところ山火事が続いている。釜石近辺では一昨日と、何日か前にも発生し、盛岡では昨日からの山火事が依然鎮火してないようだ。山が近いおかげで、しかし、小鳥たちも市街地に簡単に入って来る。大天場山の片栗のように自生した山野草も身近に見ることが出来る。これが山だけであれば、多少閉塞感が強くなるかもしれないが、海も近いので、閉塞感はほとんど感じない。海辺には夏には釜石市の花でもある浜百合が咲く。浜茄子が群生しているところもある。内陸は平野部が広いが、その分、釜石に比べれば山や海から離れる。こうした釜石の風土が一層、動植物に適しているのだろう。
見頃となった八幡神社横の枝垂れ桜

個人の庭先のモミジの新しい紅い葉も出て来た

山の岩場の雪柳と山吹

雪柳や山吹に混じって著莪が咲いていた

ハナニラの群生

田園の春

2014-04-27 19:13:56 | 自然
今日は朝から12度もあり、最高気温は26度まで上がり、夏日となった。。朝、庭で花たちに水をやっただけで、汗が滲んで来た。次々に伸びて来た若葉に日が射して、緑がとても新鮮だ。白い花をたくさん付けた大島桜も葉をたくさん付けている。山桜の変種なのだろう。しかし、山桜よりずっと花が大きく、色と形がとても清楚に見える。日本の桜の原種は10種類ほどで、それらが交配して100種類もが野生化しており、園芸品種も合わせると600種類にもなると言う。我が家の庭にも7種類の桜がある。ほとんどが八重咲きだ。枯れたように見えて、諦めていた木に若葉が出て来ている桜もある。花を咲かせていないので、どんな桜だったかも忘れてしまっている。若葉の形と幹の様子から桜と分かるのだが。 昨日、釜石へやって来たSL銀河を小佐野駅で迎えるべく、出かけて行った。すでにカメラを持った人たちが来ていた。線路沿いに毎年目を楽しませてくれる桃の花が咲いている。入場券を買って、ホームに出ると、警備会社の職員が注意事項を説明してくれた。後からもホームへはカメラや三脚を持った人たちがやって来た。近くの陸橋にも人が集まっていた。やって来たSL銀河は今日もあっという間に通り過ぎて行った。小佐野駅には停車しない。ホームセンターで少し買い物をして、住田町へ向かった。途中、先日行った大畑の一本桜の近くの鬱金(うこん)桜を見て、釜石自動車道へ入った。今日は車の数も多く、自動車道はまた数珠つなぎとなっていた。70Km制限と標識が出ているが、自動車道なので他の区間であれば、80~100Kmのスピードで走っているところが、釜石ー遠野間では60Kmで走る人がいたりして、簡単に数珠つなぎになってしまう。同じ釜石自動車道であっても、遠野の宮守から花巻方面はスピードがもっと早い。自動車道を遠野で下りて、住田方向へ左折して、赤羽根峠を越えて、住田町へ下って行く。今日もまた山野草専門店に立寄ったが、さすがに今日はどこも人がたくさん来ている。2~3山野草を買って、昨年は見ることが遅かった坂本地区の「福正院の樺桜」を見に行くことにした。釜石はもう桜が終わったが、住田町は今がちょうど桜の見頃になっていた。里山にも桜が咲き、気温も上がって、この辺りの空気がとても美味しく感じられた。小さな坂本川の流れのそばに一本、桜が咲いていた。車を止めて、その桜を見てから、川を覗いてみると、20cmほどの山女魚が走り去った。気仙川の支流なのだろうが、ここも意外と釣りの穴場かもしれない。樺桜は見事に咲いていた。道路側に樺の大樹があり、それと並んで後ろに桜の大樹がある。おそらくそこから樺桜と名付けられたのだろう。そばの祠には「福正神」とあり、小さな鳥居も近くにある。何故、「福正院」と言うのだろう。神様のようだが、仏教的な「院」の呼び名付いている。神仏習合によるものだろうか。付近をしばらく見ながら歩いた後、引き返した。途中で、車を止めて、傾斜のある畑地のそばを登って、まわりに見える桜を眺めていた。細い農業用の水路のそばにも1本桜が咲いていた。傾斜を下って、車に戻って、ふと、その傾斜に咲く白い花が見えた。イチゲの花だ。こんなところにも自生している。赤羽根産直へも人が来ていたので、寄ってみたが、まだ山野草は置かれていなかった。遠野のホームセンターで犬の餌を買い、その足で、風の丘に向かった。さすがに今日はもう駐車場は満杯で、よく見ると他府県ナンバーの車が多く、特に宮城、仙台のナンバーが多い。ここでは山野草を置いてあったが、ほとんど家にあるものばかりであった。遠野もさすがに今日の気温で桜が開きかけており、よく見ていると、釜石ではあまり見られなかったコブシがあちこちで咲き始めていた。やはり遠野郷は釜石と違って、園芸品種であるモクレンよりコブシが目立つ。春霞が立ち、残念ながら早池峰山は見えなかった。標高1,294mの遠野三山の一つ、六角牛山(ろっこうしさん)にはまだ雪が残っている。釜石は植物にとても適した地域だが、製鉄所の影響と土地の狭さから住田町や遠野のような田園の春を味わうことが出来ない。こうして、しかし、簡単に出かけられるので、今日はその田園の春を十二分に味合わせてもらった。
小佐野駅の桃の花

小佐野駅に近づいたSL銀河

鬱金桜

坂本川沿いの一本桜

遠くに樺桜が見えた

福正院の樺桜

左手前が樺の木、右の後ろが桜(左の一番手前は杉)

帰りに見つけた坂本川沿いにあったスズメバチの大きな巣

農家の敷地には白いコブシの花が見えた

デジタルカメラ

2014-04-26 19:13:50 | 歴史
今朝は10度ほどで、春霞のかかった良く晴れた日となった。日中は18度まで上がって、気持ちのいい春風が吹き、庭の山野草や八重桜も咲いて来ている。玄関先の杏の花はさすがに散って来た。椿はたくさん花を落としているが、それでも木にも花がたくさん付いている。若葉の新緑も見られるようになり、これから5月にかけてが東北の素晴らしい季節の一つとなる。ほんとうに諦めていた山野草が小さな芽を出して来る場面が多々あり、驚かされる。そんなことからもやはり東北は植物に適した地域だと考えさせられてしまう。毎朝、新しい芽や花が開くのを見るのが日課のようになっていることに自分でも驚いている。東北にやって来るまで、花木を育てることには何の関心もなかったからだ。 北海道に住んでいた、まだフィルムカメラが主流であった頃から写真に興味を持つようになった。知り合った方がとても素晴らしい写真を撮っておられて、その方の影響があったのだろう。北海道を離れる頃になり、デジタルカメラが少しずつ普及し始めて来た。愛知県に移ってから、デジタルカメラを本格的に導入し、風景や、花、野鳥たちを撮っていた。CANONのカメラとレンズを道具として使っていた。しかし、東北へ移って、歳も重ねて来ると、器材を持って、撮るには重さを感じるようになった。写真を撮る時には結構歩くので、普段から、スクワットや腕立てなどの運動もしているが、それでもやはり軽量化を考えるようになった。デジタルカメラの性能はフィルムに相当するCCDとかCMOSとかの撮像素子と呼ばれる部品の面積の大きさによる。大きな撮像素子ほど1画素当たりの受光量に余裕があるため、画質は良くなる。現在一番大きいのはPENTAXが出す、中判カメラと言われるものだ。それに次ぐのが一般的に使われるフルサイズと呼ばれる35mmフィルムに相当するサイズのものになる。現在最も多く使われているカメラはAPS-Cと呼ばれるものになり、フルサイズより撮像素子は小さくなる。これよりさらに小さいのがOLYMPUSやPANASONICが採用するフォーサーズ、あるいはマイクロフォーサーズと呼ばれる規格のものになる。一般にコンパクトカメラと言われている家庭用のカメラはこれよりさらに小さく、順に、1型、2/3型、1/1.7型、1/2.3型などと呼ばれる小さな撮像素子が使われている。カメラを小型軽量にするには撮像素子も小さくしなければならない。そのために画質の低下が伴って来る。一般には従ってフルサイズ機が最も画質がいい。この画質の点でこれまでCANONを使って来たのだが、昨年、OLYMPUSがマイクロフォーサーズ規格のカメラとプロ使用に耐えるレンズを出して来た。海外のレビューをはじめネットでの情報を参考にこのOLYMPUSの器材を導入する決心をした。CANONのレンズがあるので、完全に移行するつもりはないが、OLYMPUSを積極的に使って行こうと考えている。デジタルカメラでは撮像素子の他に、撮像素子で受けた光から、画像を作り出す画像エンジンと呼ばれる部品の性能も重要で、それもまた日進月歩に高性能化されている。画像エンジンはコンピューターソフトによって画像を作り出す、小さなコンピューターだ。カメラは戦前からドイツが技術的に先行していて、戦後には日本でもたくさんの会社がカメラを作った。フランス、イタリア、英国、米国などにもカメラを作る会社があった。しかし、普及機では日本の精密で安価なカメラが世界を席巻するようになり、ドイツの高級カメラを除けば日本の一人勝ちになった。しかもデジタルの時代に入ると、俄然、日本の技術が最先端を行くことになり、ドイツの高級機ライカでさえPANASONICのデジタル技術を導入せざるを得なくなった。日本国内では少しずつカメラメーカーが淘汰されて行っており、代わりにSONYがあらたにカメラに参入して来た。MINOLTAを吸収しての参入だ。MINOLTAには優秀なレンズ技術があったがSONYはドイツのZEIS(ツァイス)のレンズを使い、同じくレンズ技術を持たなかったPANASONICはやはりドイツのLEICA(ライカ)のレンズを使っている。いずれも自社のカメラに合わせたレンズを各ドイツ企業に設計してもらい、日本でそのレンズを生産している。それらのレンズは家庭用のコンパクトカメラにまで使われている。小型コンピュータ部品を使った製品の発達は急速で、今やデジタルカメラのフルサイズ機は35mmフィルムカメラの画質を超えたとさえ言われている。昨年出されたOLYMPUSのカメラとレンズもそのフルサイズ機に匹敵するとまで言われ、プロも導入するようになった。CANONやNIKONのような巨大カメラメーカーに対抗して他社も独自の画像作りを売りにして、生き残りをかけている。韓国の三星SAMSUNGもカメラ技術を向上させて来ている。同じ韓国の現代自動車は日本市場で拒否されたが、米国では受け入れられ、売上げを上げて来ている。日本のカメラは国内での競争が激しいので、まだしばらくは自動車や家電のようにはならないだろうが、そのためにも熾烈な競争はまだ続いて行くのだろう。
今年も庭で大島桜が咲いた

普賢象桜

普賢象に似た楊貴妃桜

山野草の山荷葉(さんかよう)がもう咲いて来た

山吹草

黄花片栗 原産地は北米大陸の山地だ

桃花大輪梅花唐松(ばいかからまつ) 米国の山地が原産で多くの品種がある

留学生数の急減

2014-04-25 19:13:21 | 社会
昨夜から空には星が出ていて、良く晴れていた。今朝も晴れた空だったが、放射冷却はさほど強くなく、9度であった。日中も良く晴れて、最高気温は20度になり、とても気持ちのいい春の日となった。花が咲くところでは必ずと言っていいほど近くでウグイスが鳴く。釜石の素晴らしいところは市街地の中で普通にウグイスの声を聞くことが出来ることだ。薬師公園に隣接するため職場の窓からは近くで鳴くウグイスの声を一日聞いていられる。市街地の桜は風で散り始めているが、山際の桜はまだきれいに咲いている。やはり春は気持ちがいい。庭の山野草も少しづつ花を開かせて来た。 昨日の日米首脳会談後の記者会見でオバマ大統領は、2020年までに日米間の留学生数を2倍にすると表明し、安倍晋三首相は会談で、本年度に6000人の日本人留学生を米国に送る計画を伝えたと言う。日本人の海外留学者数は2004年以来減少の一途を辿っている。実は昨年すでに文部科学省は官民協働海外留学創出プロジェクトを立ち上げ、民間の資金を投入し、官民連携でグローバル人材を育成することを決定していた。このプロジェクトは具体的に2020年までに留学生数を2倍にすると言う目標を立てていた。今回の大統領の発言は、ある意味で日本側が要望したやらせである。昨年11月11日、米国国際教育研究所Institute of International Education(IIE)はThe 2013 Open Doors Report on International Educational Exchangeと言う通称オープン・ドアーズ・レポートを発表した。これによると、2012年から2013年にかけて米国の大学に在籍した留学生は81万9,644人で、2011年から2012年の76万4495人から7.2%増加している。国別で留学者数の最も多いのは中国で、235,597人おり、2位はインドの96,754人、3位は韓国の70,627人となっており、日本は7位で19,568人で前年度よりまた2%減少している。ドイツは12位で9,819人、13位に英国が8,467人で続き、フランスは8,297人で16位となっている。日本人留学生は2004年の8万2945人をピークに年々減少を続けている。その一つの要因はやはり経済状況の悪化でもあるだろう。米国には留学生たちによって毎年220億ドルが入っている。国の経済状況の悪化は留学にも大きく響く。2011年12月14日の日本経済新聞によると、「米国の大学は急ピッチで学費を上げている。授業料や部屋代、食費など留学中の9カ月間にかかる諸費用の平均は、2011~12年度が公立の4年制大学で3万3973ドル。3年前に比べて16%も上がっている。」と言う。また日本では「企業の採用活動が前倒しになっていることで、留学が就活に悪影響を与えると考える学生が増えた。グローバル化といいつつも、実際には海外での経験を採用時にあまり重視しない企業が多いこともマイナス」だと言う。しかし、企業の採用については留学生数がピークであった2004年当時も変わらない。従って、現在の減少傾向の要因とは考えにくい。関西学院大学社会学部鈴木謙介准教授は「社会学的には、海外志向とは別の意味での『内向き志向』が若者の間で強まっている」、「ローカルで閉じられた生活圏での暮らしを望む傾向は明らかに顕著になってきた」と語っている。留学適齢期の18歳から29歳までの若者の数は1997年をピークに急激に減少し、2400万人を超えていたのが、2010年で1800万人まで減少している。少子化が留学へも確かに影響しているだろうが、この少子化の減少率以上に留学者数の減少率が大きい。やはり、留学生の減少の最大要因は家計所得の落ち込みだろう。文部科学省がプロジェクトを設定したのも、国としてこの留学生の減少に歯止めをかけたいためだろう。民間企業の後押しがあるとは言え、経済的な留学生への支援は限られているから、個人が負担する部分はやはり大きいはずだ。経済の根本的な再生に着手しない限りは留学者数の増加はさほど期待出来ないだろう。結局は経済再生と少子高齢化の重要課題に立ち戻ることになるのだ。アジア諸国が留学生を多く米国へ送り込むことで、英語に堪能な企業人や研究者を育てることに熱心である現状はいずれそれぞれの国の国力に反映されて来るだろう。この点でも日本はもう斜陽化していることの証しだと言えるのではないだろうか。
庭のモミジの葉に朝日が射し、とても綺麗に見えた

八幡神社横で

同じく八幡神社横で

八幡神社の鳥居のそばに咲いて来た山吹

薬師公園で

にぎり寿司

2014-04-24 19:14:57 | 文化
今日の釜石は釜石らしい青空が広がり、朝は気温が5度であったが、午前中から気温が上がり、17度まで達した。良く晴れ渡った昼休みに再び、大天場山の片栗の群落を見に行った。相変わらず人は誰もいない。桜もちょうど満開であった。ヤマガラが近くで鳴いていた。斜面の片栗の群落に射し込んだ光に透過された紫がとても綺麗だ。通勤路の枝垂れ桜もすっかり花を開かせていた。八幡神社横の枝垂れ桜も同じく花が綺麗に開いて、風に揺れていた。しばらくはモクレンやレンギョウ、柳、雪柳、桜が織りなす、色彩に一人浸っていた。 昨夜、羽田空港着の政府専用機で国賓として来日した米国オバマ大統領は安倍晋三首相に招かれ、銀座「すきやばし次郎」で「寿司」を食べたようだ。ハワイ生まれの大統領はこれまでも「寿司」をずいぶん食べて来たが、この時の「寿司」は「人生で一番おいしいすし」だったと言う。「すきやばし次郎」では「現代の名工」に選ばれている店主の88歳の小野二郎氏が「寿司」を握ったようだ。小野二郎氏については2011年に米国デヴィッド・ゲルブ David Gelb監督により制作されたドキュメンタリー映画『二郎は鮨の夢を見る Jiro Dreams of Sushi』が公開されている。現在、「寿司」は全国どこでも食べられようになっているが、江戸時代に始まる「にぎり寿司」は1923年の関東大震災までは東京にほぼ限られたものであった。「にぎり寿司」は江戸時代の後期、文化年間(1818~1830年)に始まると言われる。日本での「寿司」は奈良時代に中国から魚を穀物に漬け込み、自然発酵させたものとして伝わったようで、その伝統が大阪中心にした関西寿司として発展して来た。その関西風の「寿司」が江戸で「にぎり寿司」として新たな寿司が作られた。しばらくは江戸、維新後は東京に留まっていた「にぎり寿司」も関東大震災により、寿司職人が地方へ帰らざるを得なくなり、地方に伝わるきっかけとなった。さらには太平洋戦争の敗戦により、やはり職人が地方に帰郷したことが地方の「にぎり寿司」を加速させた。1957年に市販が始まった冷蔵庫も1967年に普及率が70%(1978年に100%)に達し、漁場から離れた内陸部でも「にぎり寿司」が食べられることになった。回転寿しは1958年の東大阪市の「廻る元禄寿司 1号店」に始まったが、1968年に仙台に「元禄寿司」のフランチャイズ1号店が進出し、1970年の大阪万国博覧会で出店されたことで一気に回転寿が全国に知られることとなる。以後全国に次々に回転寿司が回転され、高い「にぎり寿司」のイメージから手軽に食べられる「にぎり寿司」に変わって行った。しかし、こうして「にぎり寿司」が全国へ普及することで魚介類の需要が急増し、魚介類の乱獲を招く一端にもなった。米国で良く知られるようになった日本食の代表である「寿司」も高々、200年の歴史でしかなく、日本人さえ「寿司」を一般に食べられるようになってからは40年に満たないのだ。蛇足だが、「寿司」は当て字であり、本来は「鮨」あるいは「鮓」である。
大天場山の片栗の群落のある傾斜地



通勤路の枝垂れ桜

八幡神社横



二人の冤罪被害者

2014-04-23 19:19:44 | 社会
今朝の気温は6度になっていた。雲の多く流れる晴れた日で、朝は少し寒く感じた。午前中から北上に向かった。遠野は釜石より気温が3度高い。山間部から北上の市街地の見える辺りから桜が咲いていた。山間部はやはりまだ咲いていない。「桜名所百選」、「陸奥(みちのく)三大桜名所」である北上川に沿った2Kmの桜並木がある北上展勝地は車の渋滞が始まっていた。その渋滞を外れて、車を止めて、広いまだ水の引かれていない水田の畦道に入った。桜並木の後方には遠く雪の残る焼石連峰が望まれる。標高1000m以上の14の山が連なる。桜並木を対岸から見ると、雪解け水で水量の増した北上川が流れ、観光用の遊覧船が行き交う。珊瑚橋には立ち止まって桜を見る人たちがいた。北上は釜石より気温が5度も高く、良く晴れていた。 1966年6月17日、米国ニュージャージー州で3人の白人が銃で射殺された。それから13日後の6月30日、静岡県清水市で一家4人が殺された。両事件で逮捕されたのはいずれもプロボクサーであった。一方は1937年生まれのルービン・カーターRubin Carterで、他方は1936年生まれの袴田巖だ。事件が起きた頃の米国は黒人差別が残り、公民権運動も盛んになっていた。黒人であったカーターは少年時代に盗みをしたため少年院に入り、その後軍隊でボクサーとしての才能に目覚め、プロボクサーとなった。ヨーロッパのライト・ウェルター級チャンピオンにまでなっており、リングネームをハリケーン称し、ルービン・ハリケーン・カーターと名乗っている。逮捕された後、終身刑を言い渡され、19年間服役したが、無罪を訴え続け、カーターに有利な証拠が検察により隠蔽されていたことなどが発覚し、1985年に有罪判決が破棄された。自由の身となったカーターはカナダのトロントで冤罪被害者の支援活動に関わり、1993年から2004年まで支援団体の初代代表を務めたりしていた。1994年、世界ボクシング評議会(WBC) は、カーターに世界ミドル級名誉チャンピオンの称号とチャンピオンベルトを授与している。袴田巖は20日近くの勾留に耐え切れず、自白したが第一回公判で罪を全面否認した。以来、無実を訴え続けるが、死刑判決が下さる。長期の拘禁状態に精神状態も異常を来したが、なお、無罪を訴え続けて来た。有罪の決め手となった衣類にも不審な点が多々あり、袴田に有利な新証言もあって、今年3月27日、静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定した。ギネスブックにも記録された48年間の拘束であった。その1週間前の3月20日ルービン・ハリケーン・カーターは前立腺癌の合併症によりカナダのトロントで死去した。袴田もカーター同様に世界ボクシング評議会認定フェザー級名誉王者の称号とチャンピオンベルトを授与されている。カーターについては現在来日中の歌手のボブ・ディランBob Dylanも自ら事件を調べ、冤罪であることを確認し、支援の歌「ハリケーン」を歌っている。また1999年にはデンゼル・ワシントン主演の映画『ザ・ハリケーン』も公開されている。袴田については2010年に映画『BOX 袴田事件 命とは』が公開され、1979年に歌手の松山千春が「窓」を歌っている。二人はともにプロボクサーとして将来を期待されている時に突然、冤罪により、ボクサーとしての道を断たれ、袴田などは人生の半分以上を拘束された身で過ごすことにされた。同じ冤罪で逮捕されながらも袴田はカーターの倍以上の拘束期間であった。そこには日米の司法の違いも大きく影響しているだろう。日本は未だに逮捕後の弁護士との接見が制限されており、隔離された拘束環境で自白が強要されやすくなっており、物的証拠も警察や検察が捏造する体質が黙認されている。本来ならば裁判所がそれを見抜かなければならないが、裁判所も検察側の主張を入れやすい体質になっている。警察の捜査結果を検察がチェックし、検察の主張を裁判所がチェックすると言う2重のチェック機能が全く機能していないのだ。冤罪事件がいつまでも絶えないのはこうした日本の司法制度が一向に改善されないためである。昨年12月に成立した特定秘密保護法はこうした冤罪をさらに増やす危険性も持っている。1967年に起きた布川事件で44年間拘束された冤罪被害者の桜井昌司は現在もなお、関係した当局者に会うと「やったのはお前たちだと確信している」と言うそうだ。冤罪は公権力で平気で殺人を犯そうとしているようなものだ。袴田事件で「事件は無罪であるとの確証を得ていたが裁判長の反対で死刑判決を書かざるを得なかった」と自分の下した判決に涙した熊本典道元裁判官のような存在は裁判官の中でも稀である。
焼石連峰を背後に控えた北上展勝地

赤い屋根の付いた名物の馬車も出ていた

駐車場は満杯になっていた

北上川には鯉のぼりも風に揺れていた

遠くに珊瑚橋も見える

北上市立利根山光人記念美術館付近の山に自生する片栗の花

片栗の花の近くにはこの菊咲きイチゲや二輪草もたくさん咲いていた

たくさんの遺跡があるが

2014-04-22 19:19:34 | 歴史
今朝は気温が8度あったが、空は今ひとつすっきりしない一日となった。日中の気温は11度までしか上がらず、寒くはないが日があまり射して来ないので暖かくも感じなかった。しかし、昼休みに八雲神社のある大天場山へ出かけた時には日が射して来て、桜や片栗の群落を見ているうちに汗が出て来た。ここも釜石ではとてもいいところで、何より人がほとんどいないので、一人で時間の許す限り桜や片栗の群落を堪能出来ることだ。メジロがたくさんやって来て、近くからは鶏の鳴き声も聞こえて来た。ウグイスもよく鳴いてくれた。タンポポがたくさん咲いていた。古来からのスミレも咲いている。 6年ほど前に釜石へ移ったことで、はじめて東北を知ったが、それまでは東北は西日本ほどの歴史のない地域としか考えていなかった。しかし、実際に東北に来てみると、とりあえずはその少ない歴史も調べてみようと思った。主に知られている中世の歴史から入って行ったが、調べている中で、古田武彦氏の著作と氏が関わった江戸時代に著された『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』に出会った。氏の著作を読んで驚くと同時に、歴史は勝者の記録であることを改めて再認識させられた。天照あるいは神武天皇以来日本は唯一天皇家を中心とした歴史を持つとされて来たことが、作られた歴史であった。勝者がそれ以前にあった敗者の歴史を抹殺したのだ。敗者の歴史をも取り込んで勝者の事蹟と偽った。そのことを知るとともに『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書を読み、東北もまたその勝者によって敗者の歴史が抹殺されたことを知った。和田家文書では津軽の地に最初に粛慎の阿蘇部族がやって来て、後に靺鞨の津保化族がやって来た。縄文時代の出来事だ。阿蘇部族は山裾で狩猟生活をし、津保化族は平野部で畑作なども行なっていたようだ。彼らの生活跡が東北にはたくさん残されている。青森県の三内丸山遺跡だけではなく、岩手県でも馬淵川流域の二戸市や閉伊川流域の宮古市、北上川流域にも多くの縄文遺跡が残されている。宮古市では鎌倉時代までのもの含めるが680もの遺跡がある。縄文時代の遺跡は前期から晩期まで各時代のものが発掘されており、4500年前の崎山貝塚などでは中央に隆起のあるドーナツ状の窪地の広場を挟むように東西に集落が形成され、400もの竪穴住居跡が見られている。このドーナツ状の広場は明らかな土木工事として、他の縄文期の集落に類例を見ないと言われる。弥生時代に入り、西から敗走した安日彦、長髄彦兄弟が彼らを阿蘇部族、津保化族、中国からの亡命者を含めて統一し、荒覇吐王国(あらはばきおうこく)を建国し、津軽を王都としたが、後には王都を現在の二戸市や宮古市へも移している。山靼ー中央アジアから西アジアまでの人々との交流もあった。世界では鉄器は紀元前15世紀のヒッタイトに始まると言われる。中国では紀元前17世紀から紀元前11世紀まで続いた殷の時代に鉄器が使われている。チグリス川とユーフラテス川流域に開花したメソポタミア文明の最初の担い手はシュメール人である。メソポタミアも鉄器によってヒッタイトに征服される。それにより、メソポタミアには鉄器が流入した。和田家文書ではシュメール人も東北へやって来ている。従って鉄の文化が東北では早くからあった可能性がある。しかし、通説ではあくまで大和朝廷が中心で、鉄についても、724年陸奥の支配強化の目的で多賀城を建設した時に鉄職人も移住させたのが東北の鉄の始まりとされている。しかし、山田町の村上遺跡の製鉄炉は土器編年と言う手法でさえ7世紀後半のものとされており、多賀城に近い柏木遺跡では4基の製鉄炉、5基の木炭窯、鍛冶工房などが発掘されているが、これも円筒形の縦型炉であり、大和系の製鉄炉とは形式が異なっている。釜石の北に隣接する大槌町の夏本遺跡でも4基の鍛冶炉が見つかっているが、山田町や大槌などでは出雲に始まる砂鉄を利用した大和系の製鉄ではなく、餅のような塊であることから名付けられた餅鉄が使われており、製法が異なる。三陸の北上山地には豊富な鉄鉱石が含まれていて、それらが川に流出して、川にはたくさん鉄鉱石があり、水で表面が滑らかになり餅のような柔らかな曲線になった。現在でも大槌の山間部の小鎚町ではその餅鉄が散在している。宮子市や二戸市、山田町、大槌町などで貴重な遺跡がたくさん出ているが、すべてが大和朝廷の支配を唯一の視点として解釈されるために、今もなお東北の真の歴史が解明されないままになっている。
八雲神社のある大天場山の桜

桜の近くの大天場山の片栗の群落

可憐な片栗の花

通勤路の枝垂れ桜も咲き始めて来た

入口から見た薬師公園の桜

日本の最大の問題

2014-04-21 19:17:13 | 社会
今朝は朝から空を高い雲が多い、日射しはなかった。ただ気温は朝は8度になっていて、日中も14度まで上がった。午後遅くには雨もちらついて来た。昼休みに甲子川に架かる大渡橋の袂にある一本桜を見に行ったが、風で花びらがたくさん散っていた。津波にも堪えて毎年花を咲かせてくれている。八幡神社横では枝垂れ桜が蕾をかなり膨らませて来ている。梅はもう終わり、近くには染井吉野が咲いている。レンギョウや雪柳、白木蓮も咲いて、若葉を付けて来た柳と相まって、彩りが綺麗だ。薬師公園入口の枝垂れ桜も咲いて来た。職場の隣りの醤油工場の裏山でも桜と椿、白木蓮、レンギョウ、雪柳、山吹が彩りを見せてくれる。ウグイスが近くで毎日鳴いている。 15日に総務省が発表した2013年10月1日時点の人口推計によると、日本の総人口は1億2729万8000人で前年より21万7000人の減少となった。15~64歳の生産年齢人口は116万5000人減少し、7901万人となり、32年ぶりに8000万人を下回ったと言う。日本の総人口には外国人も含まれており、2013年6月末時点での在留外国人は同省によると204万9123人となっている。日本の総人口は2010年をピークに減少に転じた。在留外国人は2008年をピークにわずかずつ減少して来ている。65歳以上の人口は前年より110万5000人増加し、3189万8000人となり、総人口の25.1%を占め、4人に1人が65歳以上となった。これに対して、0~14歳の年少人口は1639万人となり、前年より15万7000人減少している。総人口の12.9%で、過去最低となる。総人口の減少率よりも生産年齢人口の減少率が高いことが深刻だ。1946~1949年にかけての団塊世代が一気に65歳に達していることが、大きく影響している。高齢化が進み社会保障費は毎年1兆円ずつ増えて行くと見られている。政府は社会保障の財源を目的に消費税を引き上げて行くが、今後も生産年齢人口の減少は加速し、その一方で、高齢者は増加して行くため、焼け石に水であり、社会保障への抜本的な対策を考えなければ、国民全体が悲惨な生活を強いられることになるだろう。政府財源は税収入が大きく、経済が成長している限りは税収も増えて行くが、経済が低迷すると、税収は減少せざるを得ない。財源を確保しなければ今後さらに増えて行く社会保障費は確保出来なくなる。その意味でも日本経済の将来を考えたしっかりとしたマスタープランを作らなければならない。産業の大転換をしなければ今後の経済成長は絶望的になる。自動車も家電産業も今や直接、間接の政府保護がなければ利益を上げられない斜陽産業となってしまっている。経済成長を促すとして、旧態依然の道路や橋などの公共工事を大々的に行なうばかりで、結果的に建築資材の高騰や建設従事者の不足を招いているだけで、新規の主要産業とするべき、再生エネルギーなどに力を入れることも中途半端になってしまっている。原発再稼働にこだわる限り、そうならざるを得ない。日本にはまだまだ世界に誇り得る技術が残されている。それをどう有効に活かして行くか、真剣に考えて行かなければ、その技術すらをも失ってしまうだろう。原発もすでに斜陽化産業となっていることは明らかであり、それを含めて、斜陽産業の保護に走り、戦前への回帰を渇望する現首相では日本の国力はますます低下して行くだろう。官僚や財界、政治家など本来長期的な日本のビジョンを持たなければならない人たちが今、目先のことしか見なくなってしまった。国のリーダーたちの凋落が現在の日本の一番大きい問題かも知れない。
大渡橋の袂の一本桜

八幡神社横

八幡神社横の枝垂れ桜と白木蓮

薬師公園の開いて来た枝垂れ桜

裏山の山吹と雪柳