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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

覇権国の凋落は債務が兆しとなる

2020-05-26 19:16:16 | 歴史
16世紀の世界は西のスペインと東の中国の明が覇権国であった。当時オランダはスペインの支配を受けており、盛んであった毛織物工業や商工業の利益はスペインに吸い上げられていた。1581年には北部ネーデルラント7州が独立を宣言した。1602年に史上初めて株式会社制度を導入したオランダ東インド会社を設立し、経済力を一挙に増大させ、1621年にはオランダ西インド会社も設立した。1625年にはスペイン、明を追い越し、以来、大英帝国に破れる1780年まで世界最大の覇権国として君臨する。世界最初のバブルと言われるチューリップ・バブルは1637年に起きている。オランダは世界を回る優秀な船舶を造り、17世紀の発明品の4分の1を生み出した。世界中から集めた富で軍事力も強化していた。通貨ギルダーは史上初めての基軸通貨となった。しかし、そのオランダも国家債務を抱えるようになり、軍事力が弱体化し、政治的内部対立も生まれ、台頭して来た英国との何度かの英蘭戦争に敗れ、破産してしまう。英国は次いでナポレオン率いるフランスと戦い、ナポレオンを敗り、戦勝国(英国、ロシア、オーストリア、プロイセン)会議である1814年9月〜15年6月のウィーン会議で、覇権国として出発する。オランダ東インド会社に代わって英国東インド会社が登場し、政府よりも強大な軍事力をも保持した。この英国の基盤は18世紀半ばからのいわゆる産業革命であった。英国はオランダを真似て、さらにそれを産業革命による土台で強化し、富を築いて行った。しかし、第一次、第二次世界大戦により英国は覇権国として多大の戦費を負担せざるを得ず、国家的債務を膨らませ、基軸通貨ポンドの地位を大戦後、国力を付けた米国の通貨ドルに譲らざるを得なくなる。米国はエジソンの発明などの第二次産業革命や国土が戦場にならなかったこと、軍事品を生産し、欧州に売ったことで富を蓄積していた。歴史上の覇権国家は全て自国通貨で債務を抱え、最後には凋落している。現在、日本も米国も自国通貨での膨大な債務を抱えている。このウイルス禍はその債務をさらに膨らませている。MMT(現代貨幣理論)は、自国通貨での債務はデフォルト(債務不履行)しない、とする。確かに、今の中央銀行は日本でも米国でも際限なく債券を購入するとしている。政府がいくら借金である国債を増やしても、みんな中央銀行がそれを買ってくれる。中央銀行は何もないところから、ただ通貨を印刷すればいいだけである。しかし、それをいつまでも続けることが可能なのか?それが可能なら、何故、国民は税金を払うのか。本当にそれが可能なら、最初から政府は税金など国民に課さないで、国債発行だけで予算を立てられるはずである。それも制限なくである。しかし、さすがのMMTも「インフレの可能性がなければ」と但し書きを用意している。この世に貨幣、通貨が出来てから、どんな借金にも必ず何らかの「返済」が付きまとう。経済にただ飯はない。政府債務の返済方法には3つある。そのうち国民負担が極端ではない方法は一つしかない。経済成長による税収増である。当然これは今のような経済成長率では、どんな先進国も不可能な方法である。残り二つはデフォルトとインフレである。どちらも国民には大きな負担となる。敗戦直後の日本は後者を選択した。財産税と言うおまけが付いたが。時の大蔵大臣は「払うものは払う」として、借金の返済を断行するために、国民から財産を奪って、返済に当てた。同時にインフレも生じていたため、政府債務額の実質的な引き下げにもなっていた。戦争により生産設備が破壊され、生活必需品の生産量がわずかで、それを欲しがる人の数が多く、通貨は戦中に大量に発行されていたためインフレとなっていた。コロナ禍は今後も続き、政府は何度も補正予算を追加しなければならなくなるだろう。経済が落ち込んでいる以上、税収は減りこそすれ、増えることはないため、全て赤字国債の発行で賄うことになる。コロナ禍は全ての生産活動を抑制するため、生産量は減少する。一方で、中央銀行は大量の通貨を発行している。実物量が少なく、通貨が大量となれば、どこかでインフレのリスクが生まれて来る。返済は不可能であった債務額がコロナ禍でさらに増額される。デフォルトを避けるならば、インフレしかないだろう。日米政府は共にインフレで債務を「チャラ」にと考えている。米国などは基軸通貨の地位にあぐらをかき、政府債務だけでなく、30兆ドルを遥かに超える対外債務まである。債務まみれの覇権国家の通貨が過去どんな運命を辿ったか。日本の科学的根拠の全くない緊急事態宣言とその解除は、ウイルス感染の減少とは何も関係しない。そもそも感染の実態そのものが誰にも分からない、とんでもない状態なのが今の日本である。
自生する一輪草

新元号を前にして

2019-04-26 19:10:32 | 歴史
来週水曜、5月1日から新元号、「令和」となる。現在の世界で元号を使うのは日本だけである。元号は中国で始まった。時の支配者の正統性を示すものとして設けられた。紀元前2世紀の前漢の武帝の時代の「建元」が始まりとされる。以後、中国では満州国の「康徳」を最後に1945年に元号が廃止された。日本の元号は古事記や日本書紀の記述から、645年の「大化」が元号の始まりとされている。女帝、皇極天皇の時代だ。記紀では後の斉明天皇と同一人物とされる。「大化」の後、「白雉」が続くが、その後は654年〜686年まで元号がなく、686年に「朱鳥」がわずか2ヶ月だけ使われ、再び、686年〜701年まで元号がない。701年には「大宝」となる。以後は1300年代まで安定して元号が使われている。しかし、平安時代後期に作成されたものを元に、鎌倉時代後期に作成されたと言われる『二中歴』では、すでに517年〜521年の「継体」から元号が続き、695年〜700年までの「大化」まで途切れることなく、元号が記されている。日本史ではこの『二中歴』に記された元号は「私年号」として、日本の統治者の元号ではないとしている。古田武彦氏は、まさにこれらの年号は、700年まで続いた九州王朝の年号だとされる。主に北方から日本に入って来た縄文人に対して、南方の九州北部にやって来た弥生人たちは、九州に定着し、後の「邪馬壹国」通称邪馬台国に発展し、さらに九州王朝へと続いたのだ。中国の史書に記された「邪馬壹國」や「邪馬臺國」、「卑弥呼」は古事記にも日本書紀にも書かれてはいない。大陸に近い九州北部には文字や仏教も早くから伝わったはずであり、万葉集の原本となるものも含めた書物も多く記され、本来は残されていたはずだ。しかし、701年以後に成立した近畿王朝は、それらの書物を日本書紀や続日本紀に記されるように「禁書」として抹殺されてしまった。このため、日本の貴重な歴史が闇に葬られてしまった。科学的な年代測定に基づき、九州の遺跡を綿密に調査すれば、明らかになることだ。また、古田氏も主張されていた天皇陵の発掘が行われれば、さらに日本の歴史は覆されるだろう。宮内庁は頑なに天皇陵の発掘を拒否し続けている。単に修復のための発掘しか認めない。明治維新で、天皇統治の日本を作り上げ、その前提が現在までも基盤となっている。明治に決定された天皇陵の指定がそのまま踏襲されている。科学的な調査は一切されていない。明治に唱えられた「万世一系」が暗黙に現在までやはり踏襲されている。しかし、記紀の記述を見ても、「万世一系」などとは言えないだろう。作られた歴史が明治以来現在も維持されているのが日本の歴史である。日本人はどこからやって来て、どのような文化を築き上げて来たのか、歴史的事実の探求が妨げられている。日本の考古学もとても閉鎖的で、学会の重鎮達が主導し、異見は無視される。古代史はいまだに土器編年が使われてもいる。経験が重視され、科学的手法が排除され、あくまでも古事記・日本書紀の記述が前提とされる。古事記・日本書紀が勝者の歴史書である、と言う発想はない。日本人として生まれた以上、命あるうちに日本の古代の真実を知りたいのだが。
木瓜(ぼけ)の花

万葉集の日本史

2019-04-03 19:19:26 | 歴史
今朝は晴れていたが、昼頃になると雲が青空を隠し、雪が一時舞って来た。朝の日射しを受けた庭で、睡蓮鉢が凍っていた。冬に枯れて、氷の張ることが多かった睡蓮鉢で、氷が溶けると金魚が元気な姿を見せてくれた。側のたくさんの鉢植えの花たちも次々に芽を出し始めて来ている。東北の冬では死んだように見える生物たちも春がやって来ると息を吹き返して来る。改めて自然の生命力のたくましさに感動させられる。東京では桜が満開になったようだが、釜石はまだ3週間くらいかかるだろう。 新しい元号は万葉集からの引用で、元号としては初めて和書から引用されたと発表された。最古の歌書である万葉集からとされる。しかし、「新日本古典文学大系『萬葉集(一)』」を出している岩波書店によると、「初春令月、気淑風和」は同書の「補注」にもあるように、中国の詩文集『文選』に収録されている後漢の学者、張衡の「帰田賦」の「仲春令月、時和気清」に依拠するものだと言う。万葉集の該当序文は「天平二年(730年)正月十三日」に大宰帥で、大伴家持の父である大伴旅人が邸宅で旅人を含む32人の歌人を集めて「梅」を歌ったことが書かれた記事である。梅の花は、古田武彦氏によれば、中国の南朝が愛でた花であり、その南朝に従していた九州王朝も愛でた花だと言われる。その梅を旅人は歌った。旅人は665年の生まれで、663年の白村江の戦いの敗北後に生まれている。古田氏は近畿王朝の成立は701年からと考えておられた。大伴旅人も九州王朝の官吏であった可能性がある。720年に、征隼人持節大将軍として隼人の乱を鎮圧している。九州王朝の官吏であっても、近畿王朝に帰順したものは官吏として続いて登用された可能性がある。近畿王朝の史書には名前すら一切記述がなく、『古今和歌集』の仮名序でのみ正三位と官位が記されている歌人、660年生まれの柿本人麻呂がやはり九州王朝の官吏であった。近畿王朝の史書がいかに伏せようとも、歌書には綻びが出る。白村江の戦いは南朝に服属して来た九州王朝が北朝である唐に敵対した戦いであった。九州ルーテル学院大学板楠和子教授によると、白村江の戦いで捕虜となり、その後、帰還した兵士について、「歴史の研究をする者はこの出身地を非常に注目する」と言われ、「筑前、筑紫、筑後、伊予、肥後、讃岐と次、陸奥というのに印を付けて頂くと例外に一例であとは筑後、伊予、備後、大雑把に言いますと、一例を除けばほとんど西日 本、畿内よりも西側の中国、四国、九州の出身者なんです」と述べておられる。また、万葉集の防人の歌を詠った人の出身地が、遠江、相模、駿河、上 総、常陸、下野、下総、信濃、上野、武蔵と「東国、畿内から見て東日本」であることに注目されている。ただ、同教授も九州に築城された大野城、基肄城、鞠智城などの山城を史書の記述を前提に白村江の戦いの後に築城されたものと捉えているようだ。しかし、古田氏が言われていたように、白村江の戦い後、664年、665年、669年には進駐軍として唐の郭務悰が九州へ派遣されて来ており、そんな中で、唐や新羅を敵として、山城を築城することなど出来ようはずがない。山城の築城は普通に考えても白村江の戦いの前である。日本書紀はあたかも近畿王朝が白村江の戦いの後に築城したかのように書いているが、山城は九州王朝が唐・新羅連合軍が九州へ襲来した時の防御として白村江の戦い以前に築城したものだ。万葉集も、板楠教授の注目する事実が示すように、九州王朝がすでに編纂していた「万葉集」を盗用して新たに編纂されたものだ。近畿は白村江の戦いへは参加せず、無傷であったために、唐と協調することで、疲弊した九州王朝に取って代わることが出来た。

秋田美人

2019-04-02 19:11:10 | 歴史
日本の三大美人は、京美人、博多美人と秋田美人と言われている。東北へ来て、実際に言われるような秋田美人に出会ったことはないが、この釜石にも地元の方の話では、いわゆる目の覚めるような美人がいると言うことだ。和田家文書である『北鑑 第七巻』の「秋田北譜」を見ると、「古きより秋田の地に山靼の国人、能く移民し来たりぬ。秋田の国に連峯せる山また山のかしこには、金銀銅の鑛ありて、是を採鑛せしむ溶鋳の法を傳へたるは、通稱オリエントなる古代シュメールの技法なり。」とある。「山靼」は西アジアから中央アジアにかけてを指す。西方の国の人々が秋田の地へやって来て、移り住んでいる。2003年の東京大学医科学研究所の論文によれば、秋田県や青森県西部ではヨーロッパ人の系統に近いJCウイルスのタイプが見られると言う。科学的にも秋田には西方人の血が入っていることが分かっている。しかし、「秋田北譜」に書かれているようなことは、日本最古の史書である古事記・日本書紀には全く記述がない。日本書紀では、阿部比羅夫が斉明天皇4年(658年)から3年をかけて日本海側を北上して蝦夷を服属させたとある。しかし、「秋田北譜」では、「古きより鑛産と相互たるは、産馬及び漁撈の營みなり。更には海獸毛皮の商益にては、北域の民と相通ぜる物交にて交易の品を欠くことなかりき。秋田にては土崎湊、北浦湊、怒代湊を以て山靼交易とせる多し。然るにや、是を掌握せんとて阿部比羅夫、海湊を侵せども、その了に達せず敗れたり。」とある。内容は全く異なっている。そもそも日本書紀のこの斉明天皇や阿部比羅夫は大和朝廷の人物として書かれている。亡くなられた古田武彦氏は、斉明天皇は九州王朝の天子であると考えていた。私の郷里である愛媛県には、紫宸殿、天皇などの地名が残り、斉明天皇の伝承もある。北部九州を拠点とする九州王朝は、朝鮮半島に於ける新羅・唐の軍事的脅威に備え、瀬戸内海に面した愛媛の地に天皇が避難先を構えていたのだ。斉明天皇も阿部比羅夫も九州王朝の人物であり、古田氏が言われたように、日本書紀は九州王朝の事績を盗用した。その九州王朝すら、阿部比羅夫の事績を偽っていたと考えられる。東北は「山靼」との交易が盛んであった。従って、操船技術にも長けていたはずだ。しかも、「山靼」由来の製鉄技術により、優れた刀剣を豊富に持ち、産馬により馬術にも長けていた。最も古い刀剣である蕨手刀は圧倒的に東北の遺跡から発掘されている。残念ながら、こうした東北の遺跡の年代測定が、同時に発掘された土器による土器編年や、大和文化が先進であり、その文化が遅れて東北に伝播したと言う固定観念により、東北の考古学が歪められてしまっている。稲作の伝播も同じであるが、遺跡はそうした観念を打ち砕いている。科学的な年代測定が行われれば、古事記や日本書紀の記述が誤りであることが明らかになるだろう。そして、古代の東北がいかに大陸との交易を早くから行っていたことも分かって来るだろう。秋田美人だけでなく、秋田県男鹿半島のナマハゲに見られる鬼の伝承も、本来は製鉄炉で赤銅色に染まった山靼人に由来するものだと言うことも明らかになるかも知れない。京の都は、東北の方向を鬼の門、鬼門とした。東北には鬼がいる。その鬼は製鉄と密接であった。
枯れた葉の間から早池峰薄雪草の芽が見えて来た

考古学的根拠のない天皇陵

2018-10-17 19:19:36 | 歴史
今月下旬から、仁徳天皇陵として知られる堺市の大山(だいせん)古墳が宮内庁と堺市の共同で発掘調査を行うことが発表された。大山古墳の周濠の水により古墳の浸食が激しく、修復工事が必要で、そのための事前調査である。現在、天皇陵として治定されている全ての陵墓は、薩摩と長州が中心となった明治政府が定めたもので、宮内庁は現在も一切の学術的な調査を拒んでいる。従って、この大山古墳も第16代天皇とされる仁徳天皇の陵墓であるかどうかは考古学的に証明されていない。日本の古墳は大和を含むその周辺部のものが他地域の古墳に比べて突出して大きい。この大山古墳はエジプトのクフ王ピラミッド及び秦の始皇帝墓陵と共に「世界三大墳墓」と呼ばれる。古墳の規模の大きさをもって、近畿が日本の歴史の中枢であるかのようにも解釈されている。しかし、亡くなった歴史家の古田武彦氏は、むしろ逆だと考えておられた。古墳時代には、高句麗好太王碑に記されているように、倭国と朝鮮半島の間には激しい戦いが行われていた。そんな最中に巨大古墳を造る余裕はない。機械のない時代の巨大古墳の造成には多くの人力を要する。好太王碑も100mほどのものだ。大山古墳は墳丘が486mもある。人力に余裕がなければとても造れない。この時代、近畿は日本の王朝ではなかったのだ。倭国の中心地は北部九州であった。その九州はやはり高句麗と同じく100mクラスの古墳である。近畿は北部九州の王朝に属していてはうだつが上がらないと判断して、大和へ兄とともに「東遷」した神武により打ち立てられた分王朝である。しかも、その分王朝は「欠史八代」と言われる8代の天皇とされる時代には断絶してもいる。古田氏は大和近辺に巨大古墳が造られたのは、朝鮮半島と直接戦う必要がなかった大和分王朝で、いざという時に砦ともなり得るものとして、巨大古墳を造営したと考えられた。堺市の百舌鳥古墳群からはおびただしい数の鎧・兜や剣が発掘されており、奈良県桜井市のメスリ山古墳からも何百人分もの鉄器・武器が発掘されている。これらはいざという時に備えて置かれたものだ。砦や武器の規模が大きいのは、実際に激戦に参加していなかったからである。ちょうど、白村江の戦いに参加しなかったために勢力を温存し、「日本国」として新たに王朝を打ち立てた近畿王朝と同じである。本来、近畿は銅鐸文化の地域であったが、その銅鐸文化の勢力が大和により駆逐されてしまった。銅鐸文化の中心は大阪府茨木市の大量の銅鐸鋳型が発掘された東奈良遺跡の地域であった。銅鐸文化は紀元前2世紀から400年続いた。大和に侵入した神武たちはこの銅鐸圏の勢力に阻まれて、大和に止まっていた。古田氏は、古事記や日本書記で沙本毘古(さほひこ)王として、皇族として書かれている人物を銅鐸圏最後の王だと考えておられる。古事記や日本書記では、沙本毘古、沙本比賣(さほひめ)兄妹がいて、兄は妹を第11代垂仁天皇の妃とさせて、妹に垂仁天皇が眠っている時に殺させようとする。しかし、妹が失敗し、垂仁天皇は、兄の砦に逃げていた妃もろとも砦を攻撃し、兄妹を葬ってしまった。この兄妹の本拠地が通説では、奈良県の佐保とされているが、古田氏は茨木市・摂津市にある佐保や佐保川地域だとされる。そもそも第44代までの天皇名は8世紀の淡海三船により名付けられたものであり、史実性とは無縁である。宮内庁が天皇陵の学術的な調査を拒み続けているのは、史実が明らかになると困るからである。日本の歴史が大きく覆されてしまうからだ。
職場の裏山の鹿たち

「禁書」扱いは倭国の書物だけではなかった

2018-08-28 19:19:39 | 歴史
中国の王朝、唐(618年 - 907年)についての史書は二つある。945年に成立の、唐の始まりから滅亡までを記した『旧唐書』(くとうじょ)と、1060年に成立した『新唐書』(しんとうじょ)である。ウィキペディアによると、『旧唐書』は「初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があ」るため「後世の評判は悪」いが、「資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。」とされる。その『旧唐書』では、「倭国伝」と「日本伝」があえて分けて書かれており、倭国伝では「倭国は古の倭奴国なり。」とされ、日本伝では「日本国は倭国の別種なり。」と明確に記されている。この「別種」と言う書き方は朝鮮半島の高麗伝や百済伝でも見られる。「高麗は出自、扶余の別種なり。」「百済国の本も亦た、扶余の別種。」とある。すなわち、「別種」とは、明らかに別の国であることを表している。日本伝には、さらに「日本は旧小国、倭国の地を併す」「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」と記されている。東界北界の大山とは、富士山やアルプスを指すものと考えられる。従って、「山外」は関東甲信越方向を指し、そこには「毛人の国」があるとされる。現在のJR線には両毛線があり、両毛は上毛と下毛を言う。上毛は現在の群馬県、下毛は栃木県とされる。日本国の成立時は「毛人の国」はまだ別の国であったのだ。岩手に来た当初、花巻市に胡四王神社があるのを知り、何度か訪れた。また、何年か前には、大仙市の古四王神社にも訪れた。古四王神社は秋田市にもある。ウィキペディアによれば、「新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に胡四王、古四王、巨四王、小四王、高志王、越王、腰王、小姓 等という標記の神社が多数分布する」とあるが、古四王神社の由来を「崇神天皇の時代、四道将軍大彦命が蝦夷を平定するため北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために」あるいは「斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し」したものとされている。しかし、これは後世に古事記や日本書紀をもとに由来を修正されていると思われる。古四王はまさに越王であり、越の国の王である。越前・越中・越後と分割された、本来の「越」の国があった。ところで、717年に遣唐使に随行して唐へ留学し、そのまま唐に残り、唐の科挙に合格して、唐の官吏となり、ついには位階従二品の大都督までになった阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ)は、唐の詩人である李白や王維とも親交のある文人でもあり、百人一首の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」の歌が知られるが、仲麻呂は阿倍比羅夫の孫である。そして、その阿倍比羅夫には筑紫大宰帥と言う官位が付いている。阿倍比羅夫は日本国の官吏ではなく、倭国の官吏である。万葉集で知られる柿本人麻呂も古事記や日本書紀では一切名の出ない、紀貫之が古今集の仮名序に正三位と位階を記している、その位階はやはり倭国の位階であり、柿本人麻呂は倭国の人で、日本国の人ではない。倭国は古田武彦氏の言われるいわゆる九州王朝であり、近畿の王朝である日本国とは異なっていた。古代には東北に蝦夷国もあり、毛の国、越の国などにも書物はあったはずだ。日本では最古の書物が615年の聖徳太子による『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)とされるが、埼玉県行田市の稲荷山古墳からは5世紀の銘文の記された鉄剣が出土しており、熊本県の5世紀末から6世紀初頭とされる江田船山古墳でも銘文の書かれた大刀が出ている。日本国成立以前からあった各地の国々にも書物は残されていたはずだが、いずれも日本国の支配が及んだ時点で、それらの書物は「禁書」となり、没収されて失われたものと考えられる。九州の博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王」と書かれた金印は、『後漢書』(ごかんじょ)で、西暦57年に光武帝が倭奴国の使節に与えたと書かれているものあり、当然、すでにこの時代に文字が理解出来、書くことも出来ていたはずである。使節はあくまで使節であり、属する国の王の上表文を携えていたはずだ。古事記や日本書紀以前の書物がほとんど残されていないこと自体があまりにも不自然である。意図的に抹殺されてしまったと考えるのが妥当だろう。ちなみに、志賀島の志賀海神社では祭礼で「君が代」の神楽が奉納されるが、その「君が代」は古田武彦氏が著書『奪われた国歌「君が代」』で明らかにされているように「君が代」は九州王朝の大君への賛歌である。
職場の裏山で咲くアザミ

日本書紀が編纂された目的

2018-08-08 19:18:02 | 歴史
日本の古代史は古事記と日本書紀が代表的史書として引用されることが多い。しかし、不思議なことに、古事記・日本書紀ともに天武天皇の勅命で編纂されたにもかかわらず、古事記は抹殺され、1372年に真福寺(名古屋)の僧の写本が現存する最古の写本である。同時代に編纂された日本書紀や後の続日本紀にも一切触れられていない。このため、古事記は偽書とされることがあったが、1979年に奈良市で、2行41字の銘文が刻まれた墓誌とともに編纂者の太安万侶の墓が発見されたことで、太安万侶の実在が明らかとなり、古事記が天武天皇により編纂された可能性が高まった。では、何故古事記は隠されたのだろうか。古事記は33代推古天皇までが記述され、日本書紀は41代持統天皇までが記述されている。完成は古事記が712年で、日本書紀が720年である。編纂の勅令を出した天武天皇の在位期間は673年から686年である。日本書紀の編纂の中心人物は天武天皇の皇子である舎人親王となっている。古事記が抹殺されたのは当然、何らかの不都合があったためであり、日本書紀こそが正史であると主張するためである。勅命を出した40代天武天皇は、38代天智天皇の皇弟であり、大海人皇子と言われ、672年に古代史最大の内乱と言われる壬申の乱(じんしんのらん)で、天智天皇の太子である大友皇子を撃って、天皇に即位した人物である。この壬申の乱の記述が古事記と日本書紀では大きく異なっている。古事記では序文で触れられただけだが、日本書紀では三十巻のうちの卷第二十八で詳述されている。他にも両書の違いは多々あり、景行天皇の九州討伐なども日本書紀は九州一円の統一として大々的に記述している。両書が編纂された当時の宮廷での権力者は藤原不比等である。藤原不比等は622年の乙巳の変(いっしのへん)で、中大兄皇子(天智天皇)とともに、蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏を滅ぼし権力を得た藤原鎌足の次男である。蘇我入鹿は、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる天皇記・国記の二書を保持していたために、それを藤原不比等らが奪う目的でもあった。日本書紀は、従って、藤原不比等の意向が反映されたものでもあると考えられる。同じ天武天皇の勅令で編纂されながら、古事記と日本書紀の完成には8年の隔たりがある。797年に完成した、日本書紀に続く正史である続日本紀には日本書紀に書かれていない記述がある。それは707年に出された「山沢に亡命し、軍器を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初の如くせよ。」との勅書の記事で、さらに708年には「軍器」が「禁書」に変えられた同文の勅書が出され、717年には「禁書」の部分が「兵器」にさらに変えられた勅書が出されていることである。「軍器」や「禁書」、「兵器」を所持して、山沢深く「亡命」していた者がいて、100日以内に自首すれば罪を問わないとする勅書が出されている。亡くなった古田武彦氏は701年に出された大宝律令以後が近畿王朝であり、その以前は九州王朝の時代であったとされる。九州王朝には軍器は無論、史書もあった。「禁書」にはその史書も含まれる。日本書紀は「亡命者」から押収した九州王朝の史書から多くを転用したのだ。正史は時の権力者のための歴史書である。敗者は無視され、その事績すら権力者のために利用される。日本書紀は天地開闢以来、日本列島の支配者は近畿天皇家であることを書き綴る目的の史書である。縄文のイザナギ、イザナミの列島支配を弥生のアマテラスがあたかも自分がその子孫であるかのように伝承させ、縄文人を支配下においた。アマテラスの孫であるニニギノミコトは北部九州の最古の水田稲作地帯を征服し、後の卑弥呼が支配する邪馬壹国の礎を築いた。やがてそれは九州王朝へと発展した。古田氏によれば、その九州王朝でうだつが上がらないと考えた神武が兄弟とともに九州を離れて新天地を求めて、大和の支配者を駆逐して、大和を支配するようになった。しかし、後には神武の子孫も絶え、他者がこの地を支配した。日本書紀はこれらを一切無視して、イザナギ以来、アマテラスを経て脈々と天皇家の血筋が続くものとして記述している。
葛(くず)の花


縄文の神々

2018-06-12 19:12:32 | 歴史
現生人類、ホモ・サピエンスは何万年かの間ネアンデルタール人、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと共存していた。しかし、氷河期が訪れた中で、体格が大きく筋骨たくましいネアンデルタール人は家族単位で生活をしていたために滅び、体格が小さく、筋力も弱かった現生人類は集団になることで生き抜いた。その集団を維持出来たのは共通の信仰であった。つまり宗教が集団を維持させた。日本の古代史は古事記・日本書紀が正書とされるが、いずれも時の権力者のための史書である。先に古事記が書かれたが、後にその存在を伏せ、日本書紀が新たに書かれた。いずれの書も倭国、九州王朝の事績を盗用した書であることを亡くなられた古田武彦氏が見出した。古事記や日本書紀には多くの神々が登場する。そして古来、日本の神事では大祓詞(おほはらひのことば)が唱われて来た。そこにも古事記や日本書紀に登場しない神の名が登場する。祓戸四柱神と称される神々だ。瀬織津姫(せおりつひめ)、速開津姫(はやあきつひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)、速佐須良姫(はやさすらひめ)である。瀬織津姫は岩手の霊峰である早池峰山に祀られる女神でもある。人々の罪穢れを海へ流してくれる女神だ。ところで、古事記や日本書紀は日本の天皇家の歴史を天照まで遡るとしている。古田氏は天照は弥生時代初頭に対馬海峡に中国から流れ着いた人で、北部九州の豊かな稲作地帯を孫のニニギに天降(あまふ)らせたー侵略させた人であるとした。天照の末裔が倭国、九州王朝に繋がり、そこではうだつが上がらないとして、後に神武が大和へ侵略して行った。古事記や日本書記には縄文の神と弥生の神が混在する。祓戸四柱神も縄文の神々だ。縄文の人々を弥生の侵略者である天照たちが支配するために縄文の人々の神を利用した。木花開耶姫(このはなさくやひめ)は富士山の浅間神社に祀られる女神だが、古事記や日本書紀では天照の孫のニニギに嫁いでいる。これも古田氏は縄文の人々に崇められていた木花開耶姫が嫁いだ相手であることで、ニニギを縄文の人々にそれほどの人であると周知させるためであったと考えられている。大祓詞は弥生の侵略者の罪を洗い流すための神事で使われたもので、そこに登場する瀬織津姫たちも縄文の神々であった。出雲も縄文の王国であったが、天照に「国譲り」と言う形で降伏している。日本では712年成立の古事記が最古の史書である。しかし、文字はそれ以前から存在した。万葉集に載る歌も600年代後半からのものがある。700年以前の倭国、九州王朝にも史書があったはずであるが、それらは大和で始まった日本国により抹殺されてしまった。現代の歴史家のほとんどが古事記や日本書紀の記述を疑わず、ただ神々が登場する部分を単に「神話」だとして片付ける。その意味するところを深く掘り下げようとしない。それを試みて隠れた歴史を見出した古田氏が亡くなられたのがとても残念だ。
遠野郷の早池峰山

日本列島の渡来人

2018-06-01 19:11:01 | 歴史
昨日から小雨が降り続いた。さすがに雨だと日課のウォーキングは中止せざるを得ない。晴れた夜は、たまに流れ星を見ることが出来るので、それもあって星や月を見るのを楽しみにしている。小雨の中を昼休みに、職場のそばの小山に出かけて、朴(ほう)の木を見て回った。ウグイスやホトトギスの声が聴こえて来た。小雨が降るので、上って来る人もいない。山の朴の木は大きく、花の蕾も次々に開いて来る。山道から見える花は木が大きいので、小さく見えるが、実際は大きな花だ。花の周りを取り囲むように、やはり大きな葉が並ぶ。毎年、この時期にはこの花を見て回るのを楽しみにしている。 地球上では、これまで何度も寒冷な氷期と温暖な間氷期が繰り返されて来た。最後の氷期は11万年前から1万5000年前までである。そして、2万1000年前頃が最も寒冷となった。その頃の海面は現在より130m低かったことが2013年の科学誌Natureで発表されている。いずれにしろ、この頃津軽海峡は徒歩で渡れた可能性がある。ただ、マンモスの化石は北海道しか見つかっていないので、重いマンモスは氷の上を渡れなかったのだろう。現在のインド象よりも小型のナウマン象の方は本州でも多く分布していた。対馬海峡には流れがあったようだ。釜石の隣の遠野市で発掘された8-9万年前の金取遺跡は出土した石器から縄文人の祖先とは異なる人々だったことが分かっている。出雲市の砂原遺跡はさらに古い11万~12万年前の石器が発掘されている。(2万年前の沖縄の港川人もやはり縄文人の祖先ではないことが分かった。)20万年前に、アフリカで現生人類、ホモ・サピエンスが誕生してから5万年前まで、地球では現生人類以外に、北京原人・ジャワ原人などのホモ・エレクトスとネアンデルタール人と言うホモ・サピエンスの亜種も共生していた。現在の日本人のルーツは縄文人と弥生人につながる。先住の縄文人は1万6500年前に初めて土器を作っている。和田家文書によると、三内丸山遺跡は津保化族によるものであり、その津保化族より早く阿蘇部族が日本列島に先住していた。しかし、両部族ともに祖先は同じくバイカル湖周辺の人々であった。つまり、縄文文化の始まりを担ったのが狩猟を主体とした阿蘇部族で、規模の大きい集落を形成した縄文人は岩木山の噴火で滅んだ阿蘇部族を継いだ津保化族だと思われる。最も寒冷となった2万年前にバイカル湖周辺の人々が動物を追って東に移動し、一部はアラスカを経て、北米大陸へ渡り、一部は沿海州から樺太、北海道へと渡った。前者が津保化族の祖先で、後者が阿蘇部族だ。南北米大陸に渡った津保化族の祖先がそこで定住したが、後にその子孫が故地のバイカル湖周辺を目指して移動中に日本列島に流れ着いた。これが津保化族である。南米エクアドルの太平洋沿岸のバルディビアで、九州の阿高貝塚や三浦半島の田戸遺跡から出土するものと類似する5500年前の土器が発掘されている。三内丸山遺跡も5500年前から始まっている。田戸遺跡は5000年前の遺跡とされている。阿高貝塚の方は縄文中期とされており、年代測定はされていないようだ。世界では考古学でも先進技術を取り入れて、年代測定や遺伝子解析が盛んに行われているが、日本では学会の重鎮が土器編年で研究を続けて来た関係で、まだまだ科学的な解析が遅れている。考古学の世代が変われば、日本人のルーツやその列島での広がりが、文化とともにより明らかとなって来るだろう。
小雨の中の朴の木の花

和田家文書と遺跡

2018-05-02 19:12:18 | 歴史
昨日まで続いた晴天は終わり、今日は薄雲が空を覆う日になった。時々薄日は刺すが。近くの旧居にもまだ山野草を残しているが、新居の庭でも山野草の鉢を並べている。昨年5月に新たに手に入れたものだ。もともと花木を育てるような性格ではないので、ほとんど手入れをすることがなく、水やり程度である。それだけにダメにする山野草もある。そんな中で、敦盛草が4芽も出して来た。早池峰薄雪草もダメかと思っていたが、花を開いて来てくれた。植物の生命力の強さに驚かされもし、感謝の気持ちまで出てくる。 東北の初期の歴史では三内丸山遺跡や遮光器土偶で知られる亀ヶ岡石器時代遺跡がよく知られている。いずれも一般には単に縄文遺跡とされるだけである。しかし、『東日流外三郡誌』など和田家文書を読むと、それらがいずれも津保化族(つぼけぞく)によるものであったことが分かる。青森県の津軽地方には今も「ばか者」を意味する言葉として「ツボケ」が残されている。『東日流外三郡誌』によると、かって、一族郎党と共に津軽に逃れて来た安日彦・長髄彦兄弟たちに、いつまでも屈することなく、反し続けた津保化族にちなんで、反する者を称して「ツボケ」と呼ぶようになったとある。津保化族は米大陸から祖先の地であるアジア大陸のバイカル湖周辺を目指して引き返す途中で、青森県の下北半島根付けに漂着した。そこの宇曽利、糠部、都母に一旦は定着したが、次第に西へ移動し、三内丸山などに移り住んだ。しかし、八甲田山の大噴火により、難を逃れて亀ヶ岡などへ移動した。津保化族が米大陸から漂着して来る前から住んでいた阿蘇部族は阿蘇部盛に住んでいたが、その森は行来山とも呼ばれていた。その東にある山は八頭山と言われていた。阿蘇部盛はしかし大噴火を起こし、阿蘇部族は壊滅し、わずかに残った者は長く戦い続けて来た津保化族に服した。阿蘇部盛、行来山は後の岩木山であり、八頭山は八甲田山である。『東日流外三郡誌』第一卷「津保化族伝話」に「彼の津保化族、自称にしてはツモと曰ふ。津保化族の狩は馬にて駆け、弓にて狩り、海にいでては舟網を用いて漁し、土を焼きて器を造り、常に火を用ゆる食生なり。」「常にして犬及び馬を倶にくらせるは、今にても習はしありぬ。」「津保化族は能く神を崇むこと常とし、・・・・」「神々らを日毎朝夕に拝し、屋内に神床、即ちオサを造りて、山川海辺より神なる石を見付ては安置なして鎮む。後世にては、土を練り焼きて像を造り、また岩をけづりて像を造るもありける。」とある。三内丸山遺跡の始まりは5900年前頃とされ、亀ヶ岡石器時代遺跡は4000年前頃に始まるとされる。八甲田山は4200年前に大噴火を起こしている。岩木山は6000年前にも噴火しており、この時の噴火で阿蘇部族が壊滅した可能性もある。亀ヶ岡土器は近畿にまで及び、九州にも影響を与えている。和田家文書は東北に伝わる語り部の語録や伝承を江戸時代半ばに記録したものである。
早池峰薄雪草