釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

淡い緑の季節に思うこと

2013-04-30 19:17:27 | 文化
出勤時にも降っていた朝の小雨は、周辺の山々の淡い緑と山桜を浮き出させていて、谷間に立ち上る霧を含めてとても幻影的で、まるで東山魁夷の絵画を見ているようだった。この淡い緑もとてもきれいだ。何でもないこの風景のすばらしさに気付くと、この状態がいつまでも続いて欲しいと思ってしまう。職場の裏山ではレンギョウに代わって山吹が咲き、雪柳とともに雨で一層項垂れている。たくさんの花を咲かせている椿にはヒヨドリやメジロが群れて、鳴き交わしながら蜜を吸っている。午後には小雨も降り止んで青空が見えるようになった。一昨日、目的の片栗の群生地では鹿のために片栗がすっかり消えてしまった、と聞いた。生まれた四国の四国中央市にある翠波高原でも栽培されていた30万本の菜の花が鹿のために全滅してしまった。以前、猪による被害もあったが、鹿は茎ごと食べ尽くした。本来、鹿たちの生息域であるところへ、人が侵入した。自生した片栗ならば、食べ尽くされても、いずれまた、違った場所に群生地が見られるようになる。鹿たちの領域に侵入した人は、また、花を植えるしかない。それを覚悟で侵入するしかないだろう。お邪魔した職場の方の橋野の実家も確実に熊や鹿たちの生息域にある。その被害も何度も受けながら生活を続けている。職場の方は以前、夜、実家へ帰ろうとして、鵜住居川沿いの道を上流に向かって車を走らせていた時、その道に熊がいて、一時的に熊と並走する形になり、とても怖かったそうだ。山間部で農作業をしていた人たちや山菜採りをしていた人たちがこれまでにも熊の被害に会っている。野生動物と人間が共生する道を選ぶしかない。でなければ、人間が退くか、動物を滅するしかない。職場の方の橋野の実家にいると、時の経つのを忘れた。居間から見える鵜住居川対岸の山も淡い緑に覆われ、そこに寝転んで、一日その山を眺めていたい気分だった。山間部に住着いた農家の人たちは長い年月をかけて動物との共生の道を模索し、豊かな自然を同時に保全して来た。政治家はこうした農家の人たちの暮らしを知らない。見ようともしない。TPPを進める現政府は安価な輸入農産物と農業の集約化を促進しようとしている。効率の悪い高齢者による農業を廃する。日本人が好む農産物が海外で作られるようになる。そこには日本企業の進出もあるだろう。日本企業が海外の土地を契約し、日本人にあった作物を大量に作らせる。今、産直で見るような形には囚われないが、朝採れたての新鮮な作物を味わうことは出来なくなってしまうだろう。当然、山間部の農家は仕事としての農業を止めるしかないだろう。現在、第一次産業に従事する人口は全国で4%しかいない。岩手に限れば、12%だ。産業別人口で見ればわずかと言えるが、そこでは、数字には表れない景観などは無視されている。北海道でよく見かけた捨てられて、荒廃した土地と残された廃屋の光景が日本の各地で見られるようになる。一度荒廃した農地は取り戻すのに何年もかかるだろう。そして、一度失われた農地はそのまま荒れた状態になる可能性が強い。木造家屋と田園風景という「日本の原風景」はこのまま失われて行くしかないのだろうか。
家の近くの住宅地に接する淡い緑の山に山桜が咲き始めた この辺りも毎年熊が出る

山野草の季節がやって来た

2013-04-29 19:18:29 | 歴史
今日は春霞のかかったとてもうららかな日になり、花巻に向かう車の中で、娘は残念がっていた。通り過ぎる産直に心残りの様子だった。娘を送った帰りは、いつものようにのんびりと風景を楽しみながら車を走らせた。釜石ではもう桜が終わり、周囲の山々に淡い緑が出始めて、それに混じって山桜が咲くようになった。しかし、遠野ではまだ桜はほとんど咲いておらず、かえって、花巻の方が少し咲き始めていた。花巻近くの丘になった田園地帯に遠目では桜と見間違えるようなコブシが咲いていた。連休とあって車の量は普段より多くなっており、中には初老の夫婦がフランス製の小型オープンカーに乗り、気持ちいい風を受けていた。遠野の風の丘付近まで戻って来ると国道が渋滞になった。ようやく風の丘に入って、見てみると、市街地寄りの路上で交通事故が起きていた。大型トラックと2台の乗用車が止まっているのが見えた。救急車もすでに到着していた。風の丘も他府県ナンバーの車がたくさん止まっており、いつもより賑わっている。山野草を2品ほど買って、車に乗ったが、市街地方向への車線の渋滞はまだ続いており、仕方なく、一旦郊外へ向けて走り、裏道から市街地へ入って行った。遠野の特徴ある和風の家屋が風景によく溶け込んでいる。これで桜が咲けばさらに趣が出るだろう。5月3日には大名行列があるようなので、天気が良ければ是非行ってみたい。市街地からさらに裏道を通り、国道へ入って間もなく、上郷の産直へも立寄ったが、今日は置いてある山野草が少ない。赤羽根峠のトンネルを抜けて、住田町へ入り、峠を下った途中の、山野草専門店「山田園芸」へ行った。さすがに連休なので店を開けていた。なじみのおばあさんが客と話をしていた。並んだ山野草を一通り見て回った。ここに置かれている山野草は同じ物であれば他の産直などより値段が高い。ただ、値段が高いだけにそれに見合った立派に育った山野草が並んでいる。花の咲いている山野草なども見事な花を見せてくれる。この店の向かいに当たる谷間に広い本来の敷地があり、そこでは時期になると、入園料を払って、敦盛草を見せてもらえるが、これがまた見事な敦盛草で、さすがに、プロの育てたものだと納得させられる。育てているのは結構頑固なおじいさんだ。ある種の職人肌のような感じがある。いずれにしても来月末には必ずまた来てみるつもりでいる。今年の敦盛草がどんなものか見てみたい。峠のそばの産直でも「かっこ花まつり」がある。結局、いくつか山野草を買ってしまった。毎年のようにここに来ているが、専門店だけに、必ずはじめての山野草に出会える。峠の産直も見てみたが、こちらでは今日は山野草が見られなかった。住田町は敦盛草を町の花としており、同じく、山鳥を町の鳥にしている。そのため、トンネルや橋桁にはそれらの絵が描かれている。農業と林業が中心の人口6,000人の小さな町だが、遠野のように、町の自然や伝統を大事にしている。娘は遠野より住田町の方が好きなようだ。住田町にも気仙川の清流が流れており、季節には全国から釣り人がやって来る。地方は時間を含めたすべての流れがゆっくりしている。昨日も同じ職場の、実家が橋野にある方のその実家でも話したが、やはり地元の人たちには溢れている自然はそれが当たり前として見て来たため、他地域と比べていかに豊かであるか、よく分かっていないようだった。東北は歳とともに住みやすくなる環境を与えてくれている。そこに東北の再生の鍵があるように思う。
遠くで桜のように見えるコブシの咲く田園

風の丘から見える遠野三山のひとつ六角牛(ろっこうし)山

今年も咲いた庭の梅花錨草(ばいかいかりそう)


満たされた橋野周辺での半日

2013-04-28 20:35:56 | 自然
朝からやや雲が多く、時々日が射すような天気だったが、昼頃から青空が広がり、午後には一時雲一つない青空が覆った。八雲神社裏の大天場山の片栗の花が終わりかけていたので、咲き始めの片栗の花を見ておきたいと思っていた。職場でその話を遠野から来ておられる方に話すと、橋野地区の山間に片栗の群生地があることを教えてくれた。職場で橋野地区出身の方が実家の裏の山肌にシラネアオイが咲いている、と話してくれたので、それを見るとともに、片栗の群生地を見ておこうと考えた。同じく橋野地区から出られた職場の匠の方にも協力いただいて、橋野近辺の山に詳しい方に連絡いただき、今日の昼過ぎに案内していただくことになった。先ずは待ち合わせの橋野地区出身の方の実家へ向かった。同乗した娘と鵜住居川の清流沿いの景色を楽しみながら車を走らせた。桃の花が咲くようになっており、川の流れとともに目に入る景色がとてもすばらしい。目的の家の前で相手の方の携帯電話に連絡しようとすると圏外のため、連絡が出来ない。仕方がないので、少し下って行こうとすると職場の方がちょうど実家へ戻って来られた。その方の家の電話で待ち合わせの相手の方に連絡していただいた。そこから少し川の上流へ行ったところにある相手の方の家の前で落ち合うことが出来た。片栗の群落があると聞いていた能船木(よいふなぎ)の片栗の群落は今ではほとんど見られなくなっていると言う。和山高原にも群落があるそうなので、そちらに向かうことになった。最初に訪れた牧場のそばの清流沿いにはまだ片栗の花は咲いておらず、風もさすがに冷たい。しかし、清流の眺めはすばらしく是非秋にも来てみたいと思った。途中で見えた高原の電力発電用の43基の大型風車の下にはまだ雪が残っていた。牧場で教えていただいた、栗林小学校の生徒たちが植樹した「学校林」へ移動する。ここでは片栗の花がいくつか咲いていたが、やはりまだ早いようだった。なだらかな傾斜地を歩きながらその片栗の群落を見て歩いた。今年中に下草を刈り取る予定なので、来年はさらによく見えるようになるだろうとのことだ。引き返して、案内いただいた方の敷地に植えられた山野草を見せていただいた。この辺りに住む方の家の敷地は広く、敷地には山も含まれていて、林の中では椎茸も育てられていた。そこから少し下った職場の方の実家へも立寄らせていただき、ご両親も含めて歓談しているうちに2時間近く過ごしてしまった。先祖伝来の地に居を構えたこの家の裏山にはシラネアオイがまとまって咲いており、その横には敦盛草の群落が見えた。五月の終わりにはまたその花を是非見せていただきたいとお頼みしておいた。家の仏壇はこれまで個人の家では見たこともないほど立派な仏壇で、古い農家の構えに娘もすっかり気に入ってしまった。居間からは縁側を中にして外の自然の風景が見渡せ、とても気持ちが落ち着く。その家の前の鵜住居川の対岸にも片栗の花が咲くのだと教えていただいた。帰りにはその家の敷地で採れたたらの芽をいただき、娘はとても喜んでいた。山間の道を下り、被災した鵜住居地区で、避難した多くの方が犠牲となった防災センターを初めて訪れた。この8月にはこの建物も取り壊される。天井部は破壊されており、むき出しの壊れた配管が無惨だった。祭壇も設けられており、グローブなどの遊具も供えられていた。近くの鵜住居駅も破壊された駅舎がすでに取り除かれていた。線路もなくなっており、はるか遠くに続いていた線路が見えた。娘は釜石へ戻る度にこうした被災現場を見て歩く。明日はまた大阪へ行くので花巻まで送って行く予定だ。
和山高原の片栗の花の群落がある「学校林」

まだ早く、片栗の花が少しだけ咲いていた

職場の方の実家の裏山に咲くシラネアオイ

8月に取り壊される鵜住居防災センター

プラットホームだけが残る鵜住居駅

あらためて釜石市内を探訪する

2013-04-27 19:43:19 | 文化
昨夜の雨で桜がかなり散ってしまった。今朝は曇天で時折小雨が降っていた。昼前頃から薄日が射すようになり午後には青空も少し見えるようになった。娘の希望で、今日は釜石の探訪をすることになった。初めに甲子町大畑の老人福祉センターの近くにある「一本桜」を見に行った。不動の滝の勢い良く流れる水を眺めながらゆっくり坂道を上り、作付けされていない畑地のそばの道に車を止めて、まだ少し花の咲く「一本桜」をのんびりと堪能した。よく見ると下の方の畑地は釜石自動車道の延長工事予定地になっている。それを見ただけで少し怒りが込み上げて来た。自然の残された、しかも、立派な「一本桜」がある、そのすぐそばに高く聳える自動車道が出来るのだ。娘も残念がっていた。近くの個人の家の敷地でレンギョウの古木が花を咲かせていた。坂道をさらに上って行くと甲子川の支流に橋が架かっていて、その袂の山肌に巨石があり、小さな祠が設けられていた。何も書かれていないが山神が祀られているように思えた。支流の流れもとてもきれいで、一時それを眺めていた。さらに道を上って行くと、箱根あたりにでもありそうな立派な別荘風の建物がある。門構えも並でなく、塀が周囲に廻らされている。そこを過ぎると山間に畑地が見えて来て、人の住んでいない建物が残されていた。しばらく行くと、民家が並ぶのが見えて来た。まるで自然に溶け込むように配置された家々だ。特にその内の一軒は、とても気に入った。敷地に小川が流れ、そこで岩魚か山女を飼っているように見える。いつかこのあたりにちょっとした休日を過ごす小屋のようなものを持ちたいと思わせられるほどの場所だ。釜石市街のすぐそばにこれほど自然に溶け込んだ住まいがあろうとは思ってもみなかった。娘もとても気に入ってしまった。休日、付近をのんびり散策するだけでもリフレッシュ出来そうだ。どの家も敷地がゆったりと取れており、畑を造って、4~5人、家族で苗を植えている人たちも見かけた。もう少しこのあたりを見ていたい気持ちを抑えて、平田のニュータウンに向かった。職場の匠の方から聞いていた川沿いの桜を見たかった。おおよその感で道を辿ると、それらしき川沿いの桜が見えて来た。枝垂れ桜が並び、いい景観を創り出している。区画されたニュータウンとしてはとてもいい眺めになっている。近くを通る老人に店の場所を聞き、「昇華」のラーメンを食べた。魚介の出汁らしき味で、油が浮いていても、薄味の美味いラーメンだった。地元の人の話では以前はもっと美味しい味だったそうだが。店の前の公園の桜も薄紅色の花を咲かせて、ちょうど満開だった。近辺の家々でも花をよく植えていて、道を通るだけで目を楽しませてくれた。娘が見ておきたいと言う平田の二カ所の瓦礫置き場へ向かった。モデル仮設住宅近くの瓦礫置き場はかなり処理が進んでいたが、日本で初めて養殖チョウザメからのキャビアの商品化に成功した「釜石キャビア」近くの瓦礫置き場にはまだ高く瓦礫が積み上げられていた。震災時、職場にまでこの「釜石キャビア」の養殖チョウザメが流れて来た。やはり娘が見ておきたいと言う仮設魚市場へ向かう途中、松原地区のコンビニに立寄った際、小高い山に鳥居が見えた。気になって、行ってみると松原神社であった。津波の時の避難所にもなっていた。小さな社殿の横にも小振り鳥居と祠があり、降魔剣が奉納されている。恐らくここも山神が祀られていたのではないかと思われる。仮設の魚市場はもう今日の水揚げが終わったのか誰もいない。震災後はじめて見る魚市場が以前のものよりずっと小規模になっていることに娘は驚いていた。しかし、すぐそばで仮設の建物に魚河岸食堂が復活しているのを見つけて嬉しそうだった。魚市場の岸壁近くの海には50羽ほどのスズガモの群れがいた。北へ帰る途中で休んでいるのだろう。相変わらず釜石湾内の海底に沈む瓦礫を除去するために浚渫船が動いていた。
甲子町大畑の「一本桜」

平田ニュータウンの枝垂れ桜

「釜石キャビア」近くの瓦礫置き場

仮設魚市場の岸壁から 浚渫船やスズガモの群れの一部が見える

さらに遡ったマヤ文明の起源

2013-04-26 19:12:13 | 歴史
朝起きるとまだ雨は降っていなかったので、庭の花たちをまたゆっくり見ていた。庭には山野草を含めてほとんど日本で古くから咲いていた花たちだけを集めている。東北の気候と風土にはそうした花たちが合っている。市の整備したところには洋風の花が多い。それを見ても、都会の雰囲気への憧れが見えるような気がする。自ら郷土に背を向けているように思えてならない。庭の花を見ていると、住宅地からウグイスの声が聞こえて来た。いよいよウグイスも住宅地にまで下りて来た。出勤後、裏山を眺めていた時にも、ウグイスが鳴いた。午前中から雨が降り出し、雷まで鳴った。 青山和夫茨城大学教授ら日米合同の研究チームが中米グアテマラのセイバル遺跡で3000年前の紀元前1000年頃に造られた建造物を発見した。地表から10m下で、祭祀に使われたとみられる高さ2mほどの土の舞台が出て来た。2005年から発掘調査が進められて来た。地層に含まれた木片によって年代が明らかとなった。中米のメキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなど広い地域で見られるマヤ文明の遺跡だ。この地域は政情が不安定で、発掘調査も難しい。マヤの人々は少なくとも紀元前1000年頃からこの地域に住み、その末裔は現在も先住民として生き続けている。世界の四大古代文明、エジプト、メソポタミア、インド、中国では文明の成立条件として大河、車輪、金属が必須とされて来た。しかし、マヤ文明はそのいずれもが欠けていた。グアテマラのティカル遺跡は紀元前600年頃から都市が形成され始め、紀元8世紀に最盛期を迎えた。都市・郊外・田園の三層に区分けされ、周囲には濠と土塁が構築された。10万人が住み、広さは日本列島の3倍以上にもなる130平方Kmあった。15世紀ルネッサンス期のヨーロッパ大都市を超える人口を擁していた。13の貯水池が整備され、3000のピラミッドや石像が造られ、都市の中心には5基の巨大なピラミッドが配され、最高で70mの高さがあった。何度も地震に見舞われながら、崩れることのなかった建設技術も驚くべきものだった。こうした都市がいくつもあり、金属を一切使用せず、高度な数学と天文学を駆使していた。最盛期のマヤ文明では人口が1000万人以上いたと推定されており、考古学者によっては6000万人に達したとするものもいる。9世紀頃から次第に都市国家が衰退をはじめ、スペイン人が侵入する16世紀以前にすでにマヤ文明は滅んでいた。何故、この高度な文明が滅んだのか諸説出ているが、未だに謎のままだ。このマヤ文明を担った人々もモンゴロイドであり、以前にも書いたが、これらの人々はバイカル湖周辺から東へ移動し、アラスカを経由して、北米大陸から中米に至った人々だろう。同じ血脈の古代津軽にやって来た津保化族は一度このアラスカ経由で北米大陸へ入り、その後、祖先の故地を求めて引き返した際に、津軽に流れ着いた。
庭の二種の猩猩袴(しょうじょうばかま)

気持ちのいい春日和

2013-04-25 19:12:23 | 自然
今日は朝からよく晴れて、愛染山がきれいに見えた。庭の山野草も花が開き始め、染井吉野より遅い八重桜も開き始めた。遅い椿もようやく二輪ほど開いて来た。今日のような春めいた気持ちの良い朝だと、犬たちの世話をした後、ついつい庭の花たちを眺めてしまう。長い冬の間、土の中にいて、姿を見せない花たちが再び芽を出して来るのを見るだけでも感動するようになった。特に、山野草ではその感動が強い。昼も気温が17度まで上がり、風までも気持ちのいい昼休みになったので、気になっていた八雲神社裏の大天場山まで行ってみた。桜はもう終わり始めていて、斜面の片栗の花も少し来るのが遅かったようだ。それでもまだまだ日を浴びた可憐な片栗の花が随所に見られ、よく見ると、片栗の花に混じって延齢草も咲いている。こうして山に自生する小さな花たちを見ていると、それだけで気持ちが和んで来る。近くの花びらの舞う桜にはメジロたちがやって来て、可愛い声で鳴いていた。昭和30年代の釜石の絵はがきを見ると、この大天場山にはたくさんの桜が咲いており、釜石の人たちの花見の場でもあったようだ。しかし、現在は桜もずっと少なく、古木が駄目になったために植え替えられたもののようだ。数も少ない。それにしても、こうして自生する山野草が市街地のすぐそばで見られることがとてもありがたい。誰も他におらず、一人でこの環境を満喫させてもらった。職場への帰路、通勤路でもある位置に枝垂れ桜の並木が満開になっているのも楽しんだ。今も青空に映えるその枝垂れ桜はさらに大きくなるとすばらしい景観を見せてくれるだろう。近くの線路沿いの土手には桔梗も咲き始めていた。通勤路から八幡神社横にもある枝垂れ桜を見上げると、ここの枝垂れ桜も8分咲きになっていた。こちらは近くにレンギョウがまだ咲いている。赤い椿が咲き乱れる職場の裏山ではウグイスが鳴き、さすがに以前よりは上手く鳴くようになって来た。以前職場の歓送迎会で、自家の裏山で山野草を育てておられる方から教えていただいた花たちがそろそろ開き始めて来ているという。山に咲くその花たちを是非見せていただくことにした。別の職場の方からもほぼ同地域にある山で片栗が群生していることも教えていただいた。ただ、ネットで教えていただいた地名を調べても出て来ない。山間部は地図でも地名が表示されていないところがほとんどだ。職場に詳しい地図があるようで、山野草を育てておられる方がその地図を借りて下さり、その方の家の位置と片栗の群生地域の位置を教えていただいた。週末に天気が良ければ、出かけてみようと考えている。ただ片栗の群生地への道はかなり細いとのことで、若干不安はある。いずれにしても、さらに具体的な位置は地元の人に直接聞くしかない。大天場山の片栗に比べるとその山間部の群生地は気温のせいでやや遅れるはずなので、上手くすればちょうどいい頃合いに出会えるかも知れない。連休中には遠野桜が咲き、青笹地区の喜清院の枝垂れ桜が楽しみだ。「遠野物語」の歌にも唱われている福泉寺も遠野では桜の名所になっている。さらに今年は、南部氏が八戸から遠野へやって来て、鍋倉城に居を構えたことを記念した「大名行列」も催される。
大天場山の片栗の花

通勤路の枝垂れ桜の並木

八幡神社横の枝垂れ桜

開放感

2013-04-24 19:14:53 | 文化
今日は曇天となり午後には雨が降った。癌年齢に達して、一次検査で疑いが出て来たため、昨日は二次検査で釜石の基幹病院へ一泊入院となった。痛みを伴う針生検と検査後の感染の可能性にためらいを感じながらも、覚悟を決めて入院をした。はじめての入院経験で、いろいろと参考になった。麻酔が上手く効いてくれて、おかげで痛みは避けられたが、一番閉口したのは12時間に及ぶ点滴であった。その間動きが制限されていることの苦痛がどれほどのものか、十分すぎるほど思い知らされた。自分では平常心を保っているつもりでいても、検査前に測った二度の血圧と検査後の血圧で、20の差が出たことで、いかに実際は緊張していたかよく分かった。1週間ほど釜石へ戻って来た娘も、検査後の表情がまるっきり違っていた、と言っていた。午前中に無事退院してみると、開放感に満ちて、娘の提案通り遠野方面の産直巡りに出かけることにした。釜石自動車道を抜けて、住田町の赤羽根峠を越えて下って行くと、山道の両脇には蕗の薹がたくさん出ていた。例年行っている山野草の店を訪ねたが、今日は休みなのか、閉まっていた。店の前には網のかけられた棚に山野草が並べられていた。坂道を引き返して、途中で山菜好きの娘は蕗の薹を料理用にいくつか採った。赤羽根峠の小さな産直へも立寄った。山野草と新鮮な野菜を購入する。五月末にはここで敦盛草の育て方の実演と販売が行われる「かっこ花まつり」がある。峠を引き返して、遠野へ入り、本郷の昨年できた新しい産直へ行く。ここでもこちらは山野草を購入し、娘は山菜を物色した。遠野近辺の産直はそれぞれ個性があるが、ここの産直は特に、個性が強い。神楽の本物の面や藁細工の民芸品なども置いてあり、娘が以前から気にしていた「熊の爪」のキーホールダーなどもある。今回、とうとう娘はそれを買ってしまった。お店の人の話だと、遠野ではもう冬眠から覚めた熊が出たそうだ。この「熊の爪」も個人の方が自分で熊を獲って、作ったものだと言う。産直に併設された食堂で「おらほの野菜みそラーメン」を食べた。娘はラーメンと「しょいっこおにぎり」を食べた。「しょいっこおにぎり」は昔地元のお母さんたちが採れた野菜を背負っこ(しょいっこ)して沿岸部を売って歩いた時に持参したおにぎりだそうで、中には自前の味噌漬けの大根が入っている。そのおにぎりは古来長く日本で使われて来た杉を薄く削った経木に包まれて持ち運ばれたため、そのままに経木に包まれた状態で出て来た。杉や檜を削った経木や竹の皮には殺菌作用があり、今再びそれらが見直されて来ている。この食堂では近辺の農家で採れた食材が使われており、サービスのサラダも提供者の名前が書かれていた。食事が終わって外に出ると雨が降り出していた。釜石では桜がもう終わりかけて来ているが、遠野はまだ桜がまったく見られない。今日も遠野は釜石より気温が5度も低くなっている。道の駅「風の丘」にはこの時期の山野草が並べられていた。ここも多種類の野菜やその他の産直物が置かれており、店内を見て歩くだけでも楽しい。隣接の部屋では遠野を描いた絵画展も行われていた。同じ遠野の風景も写真とはまた異なる趣がある。ここでもこちらは山野草を、娘は山菜と野菜を買い、二人して満たされた気分で、雨の中を帰路に就いた。
山間の道端で見つけた蕗の薹 地元の蕗の薹を使った「バッケ味噌」も娘の好物になっている

中国四川省の地震

2013-04-22 19:19:12 | 自然
朝、出勤時に西を見ると、愛染山が再び白い雪を冠っていた。市街地周辺の山でも高い所には白く雪が残っていた。今日は晴れて気温も上がって来たので、日中のうちに周辺の山の雪は融けるだろう。昼休みに所用があって車で出かけたが、日を浴びた満開の桜がとてもきれいだった。通勤路にある枝垂れ桜も8分咲きになっていた。職場の隣の醤油工場裏の山では桜や椿がもう散り始めている。工場の通路の上にたくさんの赤い椿の花が落ちていた。週末にはもう桜は終わってしまうだろう。連休は遠野の桜が見られるようになる。花はほとんどがそうだが、やはり青空の広がる日が一番色が鮮やかになる。曇りや雨の日はまた違った趣もあるが。 一昨日午前8時2分(日本時間同9時2分)、中国の四川省雅安市蘆山県で地震が発生した。同国の国家地震台網の発表ではM7.0で震源の深さは9Kmとなっている。日本ほど地震の観測網が密になっていないため、各地の震度は明らかにされていないが、今朝までに死者188人、行方不明者25人、負傷者は11492人に達している。本震は10秒ほどで、震源付近の多くの家屋が損壊し、竜門村では地域の99%の家屋が倒壊した。水道、電気、交通は遮断され、携帯電話もつながりにくくなっていると言う。M4~5の余震も合わせて1000回を超える余震が続いている。雅安市にはパンダの繁殖施設があり、人口は154万人になり、震源地の蘆山県には12万人が住む。2008年には同じ四川省の阿壩・チベット族チャン族自治州汶川県でM8.0の地震が起きており、直下型地震としては最大級の地震であった。死者・行方不明者は9万人を超え、負傷者も37万人以上となり、家屋の損壊、倒壊は436万棟に上った。四川省は中国の東西のほぼ中央部にあたる内陸部にあり、そこには長さが300kmにもなる龍門山断層が走る。太平洋の広範囲を覆う太平洋プレートが西へ向かう圧力をかけており、中国大陸の内陸にある断層へも影響を及ぼす。今月1日から今日まででアジアでは M6前後以上の地震が14回発生している。そのうち3回はM7以上の地震だ。4月6日にインドネシア・パプアでM7.1の地震、16日にはイラン・パキスタン国境付近でM7.8の地震、19日には千島列島でM7.0の地震がそれぞれ発生している。千島列島では20日にも続いてM6.0の地震が発生した。太平洋のプレート境界付近を震源とする地震は日本列島から距離があるだけ揺れは抑えられるが、津波の発生を招く。それに対して、内陸の断層に基づく地震は直下型となるため、津波の発生はないが、同じ地震エネルギーであればプレート境界型よりも揺れの被害は大きくなる。地球の表層はすべて繋がりがあり、それぞれの地震は必ずその繋がりに影響を与え続ける。この意味でも日本列島の地震は絶えることはない。
付近に仮設店舗がある石應禅寺山門前

上栗林の「種蒔桜」

2013-04-21 19:10:40 | 自然
朝は雨が降っていたが、次第にミゾレに変わり、さらに湿った雪になった。さすがに気温も低く、暖房をつけざるを得なかった。この時期の雪なのですぐに融けてしまうが、一時は山の木々に雪が積もり、白くなっていた。北海道の釧路では吹雪になっている。北海道に住んでいた頃、一度だけだが、五月の連休中に雪が降ったことがある。今日の雪は路面に積もる前に融けるだろうが、庭の一部は白くなっている。念のため、車のタイヤは毎年連休が過ぎるまではスタッドレスタイヤのままにしている。4月も中旬が過ぎているのに東北の春はやはり一筋縄では訪れない。 一昨日、職場の方から、遠野へ出る笛吹峠の途中の栗林地区にある桜がライトアップされていて、とてもきれいなので是非写真を撮って欲しい、と言われた。その日は歓送迎会に出席させてもらったので、行くことが出来なかった。昨日、暗くなって来る前に家を出て、鵜住居地区へ入った頃にはすっかり日が落ちており、そこから山に入って行くともう真っ暗になっていた。おおよその場所は見当がついていたが、ともかくライトアップされた桜なら、暗くなっていても目立つはずなので、それを目当てに車を走らせた。やがてライトアップされた大きな桜が見えて来た。路上の隅に車を止めて、カメラと三脚を抱えて、わずかな坂道を登ると、開けた場所に桜の巨木が見えて来た。すぐそばに立て看板があり、そこに書かれたものを見ると、「上栗林の桜」と書かれていた。釜石市の天然記念物になっており、江戸彼岸桜だ。幹の周囲は4.9mある巨木だ。巨木の根元には小さな祠がある。説明文では、古くから農事の目安となって来た桜なので、「種蒔桜」と呼ばれて来たとなっている。江戸彼岸桜は姥(うば)彼岸、東(あずま)彼岸などとも言われ、彼岸桜のうちで唯一の自生種で、本州、四国、九州の山地に分布すると説明されていた。残念ながら樹齢は分からない。以前行った福島県の三春町に咲く「滝桜」は幹の周囲が9.5mで樹齢は1000年を超える。同じ東北の山形県白鷹町には樹齢500年を超える桜が8本もあり、「古典桜の里」と呼ばれている。その一つ、「八乙女種蒔桜」は樹齢500年の江戸彼岸桜で、幹の周りが4.45mとなっている。同種の桜であることを考えれば、「上栗林の桜」の桜も樹齢が500年を超える古樹だろう。しかし、東北はほんとうに桜の古木が多い。すべて自生種だ。釜石近辺ではさほどでもないが、特に、枝垂れ桜の古木が多いのには驚かされる。白鷹町にも樹齢500年の「原の枝垂れ桜」があり、福島県にはいずれも樹齢450年になる「護真寺の枝垂桜」、「古舘の枝垂桜」などがある。釜石近辺では遠野青笹の喜清院の枝垂桜が知る限りでは、最も古い枝垂桜だろう。公式な樹齢は分からないが、350年から400年の古木だとも言われている。三春の「滝桜」とともに『日本三大桜』と呼ばれる、岐阜県の「根尾谷淡墨桜」(樹齢1500年超)や山梨県の「山高神代桜」(樹齢2000年)はいずれも過去の時代に開発の手が及びにくいところで過ごせた場所にある。特に、東北は開発が立ち後れた代わりに豊かな自然が残された。ただ釜石で残念なのはこの「上栗林の桜」を見ても、せっかく市が天然記念物に指定しながら、「景観」として保全していないことだ。背後には田畑があり、正面には十分な空間がある。にもかかわらず、巨樹のそばには移動可能な建物がそのまま放置されていて、見事な大樹を景観としては駄目にしている。ここでも釜石がいかに自然の景観としての大切さを理解していないか、知らされる。
上栗林の桜

花の名所

2013-04-20 19:16:10 | 文化
時々薄日の射す曇り空となった。消耗品である車のウィンカーランプが切れてしまったので、修理工場に持ち込んで、車を預けたまま、徒歩で周辺を見ながらゆっくり帰宅した。風は少し冷たい。国道沿いにある、中世の遠野の領主阿曾沼氏の家臣であった柏館新五左衛門が築いた柏館跡がある小山に桜が咲いていた。八重の赤い椿や白木蓮も近くに咲いている。道路の反対側ではボケの花や梅、雪柳、レンギョウが咲く。甲子川の支流沿いからそばの公園に続いて何本もの桜が咲いていた。公園では桜の下にシートを敷いて、子供連れの若い家族が楽しんでいた。甲子川に沿って上流方向へ歩いて行くと、対岸にも桜が何本か咲いている。家々の庭先に咲く椿や早いツツジも目に入った。仮設住宅の造られている公園では北側の薄い紅色の桜はすでに終わっており、南側の染井吉野がほぼ満開だった。「復興 釜石新聞」によれば、有志の団体が、釜石市が計画している釜石港の防浪施設「グリーンベルト」や海岸沿いの公園に2015年から5000本の桜を植樹する。釜石にも新たな桜の名所が出来る。遠野には猿ヶ石川に沿った見事な桜並木があるが、釜石では小川川や甲子川などの川沿いに少し桜並木が見られるだけだった。薬師公園の桜も夜はライトアップされているが、老樹のためか花の数が年々少なくなって来ているようだ。昨晩、職場の一部署で歓送迎会が行われ、声をかけていただいたので、参加させてもらった。とても楽しく歓談し、二次会までは付き合わせてもらった。シラネアオイと敦盛草を育てておられる方がいることを偶然知り、花が咲く頃に見せていただくことになった。釜石の自然に話題が及び、ほとんどの人が、その豊かさを知らないことを再確認させられた。山にはたくさんの山菜と山野草があり、甲子川では多種の淡水魚が棲息する。寒流と暖流が流れる海は複雑な海岸線を構成し、そのため豊かな漁場となっている。かっては10万人近い人口であった街は3万7000人まで激減し、内陸から隔たり、交通の不便な地となると、住民は都会への憧れの方が強くなるようだ。盛岡や仙台と言った都市に近づくことが夢になってしまう。若者はある意味で仕方がないだろうが、熟年者の志向もさほど変わらない。冬が過ぎると釜石では山野草も含めてたくさんの花が長く見られる。広い敷地にこれらの花たちを集めれば、たちまち名所になるだろう。5000本の桜の植樹がそのことに気付くきっかけになってくれればいいと思う。花の楽園を訪れた人たちに地場産の山菜や海や川の新鮮な魚介類を釜石の美味しいラーメンとともに食する場をも提供すれば、もうそれだけで県内はむろん県外からも多くの人がやって来るようになるだろう。そのための自動車道の整備であれば自動車道も意味を持つようになる。人を惹き付けるものもなく、ただ自動車道を造ってしまうと、人はかえって都市部へ流出して行くだろう。海岸部にある釜石には今海岸に沿って南北に、内陸に向かって東西に自動車道が造られようとしている。震災後、「復興」を名目にその整備が加速された。このまま整備されて行けば、確実に釜石の人口はさらに減って行くだろう。
満開の桜