朝は-1度で、土は凍っていたが、昼には10度まで気温が上がった。風が少し出ていても、日が当たるところではとても気持ちよく、こうして今日のように気温が上がって来ると、春が真近かだと感じさせてくれる。西を見ると愛染山は霞がかかったように見えた。職場の上空には青空が広がった。薬師公園入口の山茶花はまだ蕾だ。震災前は今より多く山茶花の木が並び、早くから花を咲かせていた。昨年辺りからの冬の気温の低下が山茶花の開花を遅らせているのだろう。初春の訪れを知らせる蕗の薹や福寿草もまだ目にしていない。日陰に残っていた凍った雪も今日の気温んでほとんど融けてしまったろう。 4世紀頃から朝鮮半島から満州地方にかけて高句麗、百済、新羅の三国の時代が始まった。中でも高句麗は現在の韓国の一部から北を統治する広大な地域を支配し、朝鮮半島南端に近いところに、西は百済、東は新羅が国を建て、両国に挟まれたさらに小国伽耶が5世紀頃にはあった。現在の中国吉林省集安市には高句麗の第19代の王、好太王(広開土王)の事蹟が書かれた石碑が残されている。それによれば391年から「倭」が何度も朝鮮半島に侵入し、百済や新羅を脅かしている。3世紀に書かれた『三国志魏志』東夷伝弁辰条には「国(弁辰)、鉄を出す。韓、濊、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とあり、朝鮮半島東南端の弁辰(弁韓ともいう)では鉄が産出されており、卑弥呼の時代の「倭」はここから鉄を得ていた。その鉄を確保する為に4世紀末から5世紀初めの「倭」は好太王碑に書かれているように朝鮮半島に繰り返し侵入している。3世紀から朝鮮半島より得た鉄は「倭」でも製鉄されていた可能性があり、古田武彦氏によれば日本の唯一のタタラ製鉄研究会である「たたら研究会」では日本のタタラ製鉄は3世紀から始まっている、と言うことだ。昨年4月このブログの「虎舞と東北の製鉄」でも書いたように『総輯東日流六郡誌』(津軽書房)には「北筑紫なる邪馬壱国の女王卑弥呼、日高見国久流澗(くるま 来朝なり)の高倉に使を遣し、鉄の造法を伝へけるなり。よつて、古来もちゐ来りし銅の器物、すべて地中に埋めたる多く、倭の十二山に捧げたるもありしといふ。」「邪馬壱国にては、鉄のタタラ製法さかんにて、わが宇曽利タタラも、これに習ふとなり。また、日高見国の金銀銅鉄の砿山、みな、邪馬壱人の授伝なりといふ。」とある。1634年、「羽州高清水の住人物部総宮大夫」が記した伝承だと言う。古田武彦氏が明らかにしたように俾弥呼(ひみか)の「邪馬壹国(やまいちこく)」は北部九州、筑紫にあった。朝鮮半島は極めて近く、鉄や鉄鉱石を入手し、製鉄技法も入手し、頻回に半島を訪れるには地理的にも近い。俾弥呼の国が近畿の大和であれば、朝鮮半島へは簡単には渡れない。好太王碑に書かれた、半島に侵入を繰り返した「倭」もやはり、地理的に至近距離にある北部九州にあった。邪馬壹国を引き継いだ倭国である。日本列島で最初に朝鮮半島を通じて鉄の入手を確立した北部九州、「邪馬壹国」はそのタタラ製法を東北の宇曽利(青森県)へも伝えたのだ。3世紀にすでに東北にタタラ製法が伝わり、タタラ製法を行う為に原料である砂鉄や、鉄鉱石の発見が進められた。東北沿岸部に広くその痕跡が残っている。鉄の原料を発見すると同時に金も多く発見された東北を大和朝廷は何としても手に入れたかった。それが繰り返された蝦夷征討である。東北の古代はタタラ製鉄によって蕨手刀を生み出し、後の一関中心の日本刀の原型となる舞草刀へと繋がって行く。9世紀に坂上田村麻呂が登場するまで、東北が屈しなかった要因には優れた刀と駿馬の存在があった。
子白鳥