釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

3世紀のタタラ製鉄

2013-02-28 19:19:54 | 歴史
朝は-1度で、土は凍っていたが、昼には10度まで気温が上がった。風が少し出ていても、日が当たるところではとても気持ちよく、こうして今日のように気温が上がって来ると、春が真近かだと感じさせてくれる。西を見ると愛染山は霞がかかったように見えた。職場の上空には青空が広がった。薬師公園入口の山茶花はまだ蕾だ。震災前は今より多く山茶花の木が並び、早くから花を咲かせていた。昨年辺りからの冬の気温の低下が山茶花の開花を遅らせているのだろう。初春の訪れを知らせる蕗の薹や福寿草もまだ目にしていない。日陰に残っていた凍った雪も今日の気温んでほとんど融けてしまったろう。 4世紀頃から朝鮮半島から満州地方にかけて高句麗、百済、新羅の三国の時代が始まった。中でも高句麗は現在の韓国の一部から北を統治する広大な地域を支配し、朝鮮半島南端に近いところに、西は百済、東は新羅が国を建て、両国に挟まれたさらに小国伽耶が5世紀頃にはあった。現在の中国吉林省集安市には高句麗の第19代の王、好太王(広開土王)の事蹟が書かれた石碑が残されている。それによれば391年から「倭」が何度も朝鮮半島に侵入し、百済や新羅を脅かしている。3世紀に書かれた『三国志魏志』東夷伝弁辰条には「国(弁辰)、鉄を出す。韓、濊、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とあり、朝鮮半島東南端の弁辰(弁韓ともいう)では鉄が産出されており、卑弥呼の時代の「倭」はここから鉄を得ていた。その鉄を確保する為に4世紀末から5世紀初めの「倭」は好太王碑に書かれているように朝鮮半島に繰り返し侵入している。3世紀から朝鮮半島より得た鉄は「倭」でも製鉄されていた可能性があり、古田武彦氏によれば日本の唯一のタタラ製鉄研究会である「たたら研究会」では日本のタタラ製鉄は3世紀から始まっている、と言うことだ。昨年4月このブログの「虎舞と東北の製鉄」でも書いたように『総輯東日流六郡誌』(津軽書房)には「北筑紫なる邪馬壱国の女王卑弥呼、日高見国久流澗(くるま 来朝なり)の高倉に使を遣し、鉄の造法を伝へけるなり。よつて、古来もちゐ来りし銅の器物、すべて地中に埋めたる多く、倭の十二山に捧げたるもありしといふ。」「邪馬壱国にては、鉄のタタラ製法さかんにて、わが宇曽利タタラも、これに習ふとなり。また、日高見国の金銀銅鉄の砿山、みな、邪馬壱人の授伝なりといふ。」とある。1634年、「羽州高清水の住人物部総宮大夫」が記した伝承だと言う。古田武彦氏が明らかにしたように俾弥呼(ひみか)の「邪馬壹国(やまいちこく)」は北部九州、筑紫にあった。朝鮮半島は極めて近く、鉄や鉄鉱石を入手し、製鉄技法も入手し、頻回に半島を訪れるには地理的にも近い。俾弥呼の国が近畿の大和であれば、朝鮮半島へは簡単には渡れない。好太王碑に書かれた、半島に侵入を繰り返した「倭」もやはり、地理的に至近距離にある北部九州にあった。邪馬壹国を引き継いだ倭国である。日本列島で最初に朝鮮半島を通じて鉄の入手を確立した北部九州、「邪馬壹国」はそのタタラ製法を東北の宇曽利(青森県)へも伝えたのだ。3世紀にすでに東北にタタラ製法が伝わり、タタラ製法を行う為に原料である砂鉄や、鉄鉱石の発見が進められた。東北沿岸部に広くその痕跡が残っている。鉄の原料を発見すると同時に金も多く発見された東北を大和朝廷は何としても手に入れたかった。それが繰り返された蝦夷征討である。東北の古代はタタラ製鉄によって蕨手刀を生み出し、後の一関中心の日本刀の原型となる舞草刀へと繋がって行く。9世紀に坂上田村麻呂が登場するまで、東北が屈しなかった要因には優れた刀と駿馬の存在があった。
子白鳥

「地方」

2013-02-27 19:20:34 | 社会
今朝は寒さが若干和らいで-3度だった。日中も風がなく、日が射して、7度まで上がった。気温が上がると、周囲に春の臭いを感じる。犬たちも久しぶりに足を伸ばして横向きに休んでいた。我が家では今も唯一咲いているロウバイの黄色い花がとてもいい香りを放っている。昨夜も宮城県沖でM4.8の地震があり、釜石では震度3だった。夜半過ぎにもまた岩手県沖で小さな地震も発生した。福島県では25日の栃木県北部を震源とした地震の影響で、会津駒ケ岳と大杉岳で雪崩が発生し、国道を60mにわたって遮断している。 四国で生まれ育って、その四国を離れて東京で学生生活をしていた頃もどうも都会には馴染めなかった。社会人となって大阪の高層ビルで働くようになってからはさらに毎日の生活に違和感を覚えていた。その違和感を解消する為に再び学生生活に戻った。しかし、その後、再び新たな仕事を覚える為に東京で生活せざるを得なくなった。そうした時期を除けば、その後の大半は地方で過ごしている。東京や大阪で住んでいると、特に、東京だと地方はほとんど目に入らない。意識に上ることがない。地方にいると空も山や海、川や湖などが身近で、空気や水がとても美味しい。北海道道東の数千人しかいない町の水はこれまでで最高の水だった。先日も娘が大阪から一時的に戻って来た時、釜石の水を飲んで、その美味さにため息をついていた。人の暮らしの基本はやはり地方にあると思う。コンクリートで固められ、高層ビルが空を遮る大都会は本来人が住む場所ではない。しかし、残念ながら地方には仕事がない。若い世代は仕事も遊びも豊富な大都会へ憧れる。実際、大都会は身体が健康で、職種を選り好みさえしなければ、いくらでも仕事がある。もっとも、それも近年は厳しい状況にはなって来ている。企業が収益を上げられなければ、給与は当然低くなる。生活費は地方より大都会の方がずっとかかる。従って、大都会と言えども実質的な収入は目減りしている。楽な生活ではなくなって来ている。地方は地方で最近の円安の為灯油やガソリンが急激に値上がりし、それらに生活が支えられている冬の地方でも厳しさは増している。あれほど円高が悪のようにメディアが訴えていた頃、安くなるはずの灯油やガソリンは思うほど安くならず、円安となった途端、値を上げるとなるといち早く処置がとられる。自由市場とは名ばかりで、日本の経済システムは決して生活者のためのシステムにはなっていない。企業優先の姿勢が新自由主義が席巻して以来、ますます強められている。釜石市は沿岸部の南北3本の川沿いに主に展開する。中でも北の鵜住居川(うのすまいがわ)に沿った上流域が好きだ。沿岸部は四国の海沿いの地域とは異なり、平野部が少なく、川の流れる谷間に残るわずかな平地を利用して住着かねばならない。鵜住居川中流から上流にかけては遠野の風景を思い出せるとても落ち着いた光景を見せてくれる。その鵜住居川上流の一つである橋野地区に住む職場の方の話だと少し下った栗林地区まで行かないと食品などがまともに手に入らないと言う。しかも、値段は市街地のスーパーと比べれば高い。冬場は釜石の市街地よりも気温はさらに4~5度低くなる。狭い田畑しかない為、それだけではとても生活が出来ない。高齢者は住んでいても若い世代は職を求めて市街地へ出てしまう。地方は地方で地方の中でまた同じような問題を抱えている。その問題を解消するには、人と同じで、地方や地方の中の「地方」自身が自らの手で立ち上がる工夫をしなければ、地方はただ地方のままでいるばかりか、少子高齢化が進む中で、一層、廃れた状態になって行くだろう。
我が家で今も唯一咲いているロウバイ

子供と高齢者のための施設不足

2013-02-26 19:19:12 | 社会
今朝も昨日とほぼ同様の-7度だった。北海道では終日氷点下の真冬日が最高記録であった昨年を上回るペースになっている。昨日は青森市の八甲田山系の湯治場である酸ケ湯では観測史上最大の560cmの積雪量となった。青森市や弘前市では降り続く雪に除雪が追いつかない状態になっている。また昨日夕方には栃木、福島、群馬3県の県境付近を震源とするM6.2の内陸地震も発生している。日光市では震度5強の揺れを観測している。自然の異変が増えている。朝方まだ暗いうちに目が覚めると窓から傾きかけた満月が明るい光を投げかけて来ており、よく見ると、枕元だけに光が射していた。何とも不思議な感覚に襲われた。窓枠の関係なのか、こうした枕元だけに限られて月の光が射す光景ははじめての経験だった。 福島県浜通りの大熊町から震災で、会津若松市の応急仮設住宅に入居していた1人暮らしだった60歳の男性が死後2~3日経って発見されている。仮設住宅に入居しても周囲ははじめての人が多く、新たに人間関係を築かなければならない。職も失い、簡単には就労できない年齢であれば、尚、生活は大変になる。厚生労働省は仮設住宅の入居期間を3年間としていたが、再び延長し4年間とすることを検討している。仮設住宅は入居費がかからないので、収入の期待できない人にはとても助かっている。今回の男性などは食費にさえ困窮していた可能性がある。釜石でも仮設住宅入居者の多くが、長く仮設住宅に住むことを望んでいる。若い世代は仮設住宅の入居期限が過ぎれば、職に就きやすいことから簡単に仮設住宅を出ることが出来るし、途中で実際に仮設住宅を出た若い世代も多い。しかし、高齢者は簡単ではない。入居費が負担になる復興住宅が完成しても、転居が可能な人は決して多くはない。高齢の元漁師の人たちでは年金が10万に満たない人たちがほとんどだ。入居費だけで6万を超える復興住宅にはとても入ることは出来ない。こうした被災した高齢者はとても厳しい環境に置かれているが、日本の高齢者自体もやはり厳しい状態に置かれている。全国的に老人施設が不足し、増設された老人施設でも、介護に当たる人材が不足している。全国各地でとても深刻な問題になっている。現在でも深刻な状況だが、今後はさらに高齢者が増え続ける。また、少子化と言われる子供たちについても保育所の不足が問題となっている。東京23区では19,000人もが認可保育所に入れない状態だ。各地の老人施設でも代表的な特別介護老人施設などでは100人以上が入所待ちとなっている。有料老人ホームでさえもが不足している。(社)全国老人保健施設協会は先月、既存の施設では介護職員の人材不足が深刻であり、その解決には介護職員の処遇改善の必要性を強調している。しかし、国は昨年、むしろ在宅療養を促進する方向に転じ、施設に対する介護報酬は実質的にはマイナス改定となった。高齢化率の高い釜石を見ても、在宅療養を可能とするためには在宅の介護者が居らねばならず、若い世代は都会に出ている場合がほとんどだ。高齢者だけの家庭が多いのだ。職が限られる地方、生活費の高い都会、いずれも若い家庭は共働きせざるを得ず、子供を保育所に預ける必要がある。幼稚園は少子化とともに閉鎖に追い込まれるところも出ているが、預かる時間の長い保育所は絶対的に不足している。現状では少子高齢化が認知されているにもかかわらず、現実的な対策は何ら採られていない。無駄な公共事業を復活させるくらいであれば、よほど少子高齢化対策に回した方が就労機会の増加にも繋がる。
甲子川河川敷のカワラヒワ スズメとほぼ同じくらいの大きさの鳥

アベノミックス

2013-02-25 19:14:34 | 経済
今朝はまた一段と冷え込んで-8度になっていた。犬たちの水入れの水が表面だけではなく、底まで凍っていた。昨日降った雪を冠った車の雪は気温が低く過ぎて、車に氷結を作らないで、さらさらとした雪のままであった。簡単に車から除去できた。以前住んでいた北海道の気温を見てみると今日は最低気温が-17度で、最高気温が-8度となっていた。仙台から来られている職場の同職の方の話では昨日、仙台では大雪が降ったそうだ。やはり、同じ東北でも内陸と沿岸部ではかなり異なる。いずれにしても今冬の冷え込みは異常だ。九州では梅に続いてもう沈丁花まで咲いている。 日本は過去20年経済の低迷が続いて来た。その間円高とデフレが進んだ。これを脱却しようとアベノミックスが立てられた。過去20年間では財政か金融というどちらか一方が主に交互に採られて来たが、アベノミックスではその両者を同時に出動させている。その意味では確かに過去に決別しようという首相の強い意思表示と言えるかも知れない。しかし、最近の株と円の持ち直しは、あくまで、市場のインフレ期待によるもので、実態経済そのものが持ち直しているとは、現時点では言えない。国内経済を牽引して来た家電メーカーを見ても、従業員を切る形でコスト削減を断行し、黒字化しており、製品の競争力が回復して、販売量が増えた結果の黒字ではない。企業としては再びスタートラインに立つ為の方策でしかない。スタートラインに立ったからと言って、競争に打ち勝つ保証はない。開発力を強め、製品化に結びつけなければ、何も始まらない。しかし、コスト削減は長期的にはむしろ製品の開発力を削いでしまう。さらに円安が輸入エネルギーの高騰に繋がっており、円安による価格競争力を削いでいる。貿易赤字も急拡大している。日本銀行は政府からの圧力に屈して欧米の国債購入や短期国債の買い支えを決めた。白川総裁が任期前に職を辞したのは最大限の抵抗であったかも知れない。日本銀行は過去、勘定の拡大を抑えて来た。ここに来て一気に勘定が拡大する方向に無理矢理舵を切らせられた。円と国債の価値が低くなる。国内総生産GDPの2倍にもなった財政赤字を抱え込む中で、デフレ脱却だけを考えれば、政府の採る方策も頷けるが、問題はあくまで日本企業の競争力の回復だ。政府が決めた公務員給与の削減なども都会より地方に一層のマイナス効果が出る。疲弊した地方がさらに疲弊する可能性もある。コスト削減に走る企業に製品開発のための投資をどれだけ期待できるか。地方からアジアに工場移転した企業に地方はほとんど期待できるものがない。企業が復活する為の必要条件を確かに政府は提供しようとしているが、それはまた一方では国家の通貨と債券を弱体化させてもいる、危険な綱渡りでもある。
水鳥たちのいる今日の職場近くの甲子川

安藤昌益

2013-02-24 19:12:20 | 文化
今朝は-5度で朝から雪が降り続き、時には突風が吹き、降った雪が舞い上がった。犬たちの囲いの上のテラス状の屋根も役に立たず、囲いの中のケージ の中まで雪が舞い込んでいた。普段はケージに入ろうとしないベルギー・シェパードまでケージの中に逃れていた。強い寒気が続く今冬は、フードの暖かさがよく分かった。犬たちの世話をするために屋外に出る時、今冬、はじめてフードを使ってみた。顎下まで包み込むと冷たい風が吹いてもかなり寒さを防ぐことが出来る。雪国で使われていた藁頭巾の意味がよく分かったような気がする。雪は夕方になりようやく降り止み、沈みかけた日が射すようになった。 第8代将軍徳川吉宗の江戸中期の時代に東北には隠れた思想家がいた。安藤昌益だ。1703年、現在の秋田県大館市の農家に生まれ、初めは仏門に入ったが、仏の教えに疑問を持ち、30歳の時、京都へ出て、医師である3代目味岡三伯に師事する。この頃西日本では各地で大飢饉が発生していた。42歳で南部氏の八戸藩支配下の八戸に移住し、町医者として開業している。開業して間もなく同じく南部氏である遠野藩から訪れた流鏑馬の射手3名を治療したりしている。その後も八戸藩士や家老の治療を行う傍らで、藩内の寺で講演なども行っている。47歳の時、藩内に飢饉があり、3,000名が餓死するという被害が発生した。50歳の時、『統道真伝』、稿本『自然真営道』を執筆開始する。51歳で江戸と京都を版元とする『自然真営道』を発行するが、停止となった。翌年、改版した『自然真営道』を京都だけで発行する。53歳の時、八戸藩に凶作のため再び飢饉が訪れ、餓死者4,000~5,000名を出す。門弟には地元だけではなく、京都や大阪、江戸、松前など全国の人がいた。安藤昌益の思想の根本には「互性活眞」、相対性を「互性」の2文字で表し、その成立の状態を「活眞」の2文字で表現している。江戸封建社会の身分制度を痛烈に批判し、神君と呼ばれた家康さえも罵倒する。現状を追認する宗教、仏教も批判の的となる。自然の事物に「互性活眞」を見出し、農本主義を打ち出す。「農民は自ら直に耕して食ひ、以つて獨立の生活を營む」「しかるにも係らずさうした不耕貪食の徒は常に農民の上に位し、安逸な樂みをなしてゐる。」「實に不公平な不都合なこと」(引用は狩野亨吉著『安藤昌益』)。当時にあって危険思想であることを自らも意識しており、無難な発行物と、痛烈な批判を加えた私本とをたくみに使い分けている。この安藤昌益を最初に見出したのは同じく大館市出身で、第一高等学校校長、京都帝国大学文科大学初代学長を勤めた狩野亨吉だ。大館藩の支藩である久保田藩の学者狩野良知の子として1865年に生まれている。1868年の戊辰戦争で大館城が落城すると津軽藩に逃れる。1874年、父の内務省勤務のため上京。帝国大学理科大学数学科を卒業後、同大学文科大学哲学科2年へ編入している。在学中は夏目漱石とも親交を結んだ。第一高等学校校長に34歳で就任し、42歳で京都帝国大学文科大学初代学長を辞して、その後は官界から離れた。第一高等学校校長を辞した時の後任には新渡戸稲造が就いている。京都帝国大学時代には内藤湖南、幸田露伴などの学歴のない学者を大学に招き、物議をかもしている。東北帝国大学総長や皇太子であった後の昭和天皇の教育係などにも推されたが、自ら「危険思想の持ち主」であるとして辞退している。一高在任中の1899年に安藤昌益の著書『自然真営道』を見出し、1928年『岩波講座 世界思潮』誌上に「安藤昌益」を発表している。しかし、その後も安藤昌益は『忘れられた思想家』として埋もれ、敗戦翌年の1946年、駐日カナダ代表部主席として日本にやって来た日本史研究者のエドガートン・ハーバート・ノーマンによって再発見される。安藤昌益には「爭ふ者は必ず斃れる。斃れて何の益があらう。故に我道には爭ひなし。我は兵を語らず。我戰はず。」という考えが基本にあり、「危険思想」を有しながら時の支配者たちとの対峙を避けた。
日が沈んだ愛染山

葛湯と生姜湯

2013-02-23 19:19:16 | 文化
昨夜は遅くにまた雪が降った。一面が真っ白になったが、今日の晴れた日射しで、それもかなり融けてしまった。ただ風が結構出ていて寒さは相変わらずだ。パソコンはよく使うが、もともと携帯電話というのはあまり好きにはなれなかった。先日、その携帯電話を誤って濡らせてしまって、使えなくなった。これを機会に娘の勧めもあってiPhoneに切り替えた。iPhoneでは通常の通話以外にもパソコンのような使い方も可能となる。しかし、その最初の設定段階からApple社に誘導されているようであまりいい気持ちがしなかった。マニュアルなども届いた箱には入っていない。パソコンでも最近はソフトのマニュアルはネット経由でPDF形式のマニュアルを手に入れるようになっている。 先日、匠の方から今、釜石ではやっているインフルエンザや風邪を引いたりしないですか、と尋ねられた。インフルエンザや風邪は夏にはほとんどなることがない。体が冷えることがそれらにかかる大きな要因だと思っている。冬場は従って極力体が冷え込まないように気を付けている。少し、風邪を引き始めたかな、と思った時は、汗をかくほど暖房を強めて、汗が出れば、そこで汗を良く拭いて、着替えをする。常に心がけることはもう一つ、規則的な生活をし、特に、睡眠をできるだけ7時間確保するようにしている。今年のインフルエンザは予防接種をしていてもかかる人が多いようだ。人ごみに入ればまず風邪やインフルエンザの感染を受けていると考え、それが実際に発病しないことに注意するように気を付けている。ある時、スーパーで娘が葛湯(くずゆ)を買って来た。懐かしさもあって飲んでみたが、それからは頻回に飲むようになった。考えてみると風邪などで医者が出す、葛根湯(かっこんとう)も結局は葛湯と変わらない。職場の裏山でもどこでも葛は目に入る。その葛の根からとれる澱粉が葛湯の素になる。葛の澱粉には血液の流れを良くする働きの他にもたくさん効能があるようだ。葛の根から良質の澱粉を取り出す方法により地域毎に昔からの伝統がある。本来の葛の澱粉はわずかしか取れず、高価だ。スーパーなどで売られている葛湯はほとんどが他の澱粉を混ぜ合わせている。しかも、他の商品の例に漏れず、葛湯も中国産のものが多いようだ。本来の葛の澱粉は少し苦味がある。しかし、スーパーで売られている葛湯は決して苦くはない。最近、その葛湯の売り場に生姜湯(しょうがゆ)が売られているのを見つけて、それも今は飲むようになった。コーヒーやココアに少し飽きて来ていたので、物珍しさもあって毎日それぞれ1回は飲んでいる。生姜もやはり血液の流れを良くするようだ。いつまた飽きて来るか分からないが、いずれも先人たちが古くから口にして来たものだから体に悪くはないだろう。
甲子川のコサギ 後頭部から2本の白い冠羽が伸びている

続く死刑執行

2013-02-22 19:14:01 | 社会
寒い日が相変わらず続いている。今日は昨日ほど風が強くないので、まだいい方だが、それでも最高気温は2度だ。内陸の花巻に家があり、週末には毎週花巻に帰っておられる方の話だと、釜石から花巻までの道路は一応融雪剤を撒くので、雪はあまりないようだが、一部霜が下りたり、凍った部分があるため注意が必要だと言う。家の庭にも万年雪というより、氷となって残ったままのところが何か所かある。土まで固く凍ってしまっている。それでも土の中では植物たちはじっと春の到来を待っている。 昨日午前、また3人の死刑囚の刑が執行された。2012年末時点では死刑囚は133人となっており、統計を取り始めた1949年以来、同時期としては最多となった。死刑の執行はその時の法務大臣の裁量でなされる。法務大臣の考え次第だ。今回死刑が執行された3人のうち2004年奈良県の小学校1年の女児誘拐殺人事件の小林薫死刑囚(44歳)は自ら死刑になることを望んでいた。すでに裁判の過程でも死刑判決が出るようにあえて裁判官の心証を悪くするような態度をとっている。暴力を振るう父親の下で、唯一かばってくれた母親は難産で身障者として生まれた三男を生み残して亡くなった。小学校へ上がる前からいじめを受け、虐げられ、中学、高校では不良仲間に加わり、高校卒業後にはトラブルを起こしては転々と職を変えた。最後には「どうでもええわ」と自虐的になっている。彼は幼い女児を死に至らせてしまったことは否定はしていない。ただ警察の調書とは微妙に違いがある。逮捕から判決が出るまでの過程で、メディアや検察、警察の虚偽、彼への誹謗に対し、強い反感を持っていた。裁判では遺族への謝罪を拒否していた彼も監房では女児への祈りを行い、教誨師による読経供養も行っている。逮捕後はともかく死刑になり、自らを抹殺することを望んでいた。歪められた人格は頭で理解できていても抑えがたい衝動を根付かせてしまう。そのことを本人は分かっていた。それ故に反社会的となった自分を、自ら社会から抹殺しようとした。多くの死刑囚は執行間際にはうろたえるそうだ。しかし、彼の場合は進んで執行を望んでいた。人の命を奪うことは決して許されるものではない。まして保護されるべき幼い子供の命ならば尚のことだ。加害者が罰せられることは当然ではある。しかし、人が人の命を奪ってはならないのは、どんな立場の人間にも当てはまるのだ。死刑制度は国家や社会の名であろうとも、結局は人が人の命を奪っている。人と人の結びつきが失われ、子供の社会にも陰湿ないじめが横行する現代の日本からは彼のようなある意味で悲劇的な人間を今後も生み出して行くのではないだろうか。
甲子川で羽根を広げて濡れた羽根を乾かす海鵜 カラスが右の海鵜の尾羽を狙っていた

発送電分離

2013-02-21 19:15:56 | 社会
昨日に続いて今日も晴れているがとても寒い。今朝は大阪へ向かう娘を釜石駅で降ろして出勤した。昼休みに顔と手が痛くなるほどの冷たい風に吹かれながら、職場近くの甲子川へ行ってみた。先日見たばかりの4羽の白鳥たちの他に少し上流に3羽の白鳥が見えた。こちらも親子の白鳥だった。4羽の白鳥の中にいる子供の白鳥より羽根の色が黒っぽい。少し遅く生まれた子供の白鳥のようだ。子供とは言えシベリア方面から飛んで来たわけだから大きさは親たちと変わらない。犬を連れた人が近くを歩いていたので4羽の白鳥は少し人から距離を置いていたが、上流の3羽の白鳥たちは人だけが歩いていたので人に近づいていた。餌をもらえる可能性があるからだろう。わずかでもこうして甲子川で白鳥を見ることが出来ると何故だかほっとする。 全国には地域毎に一般電気事業者としていわゆる電力会社が10社ある。ある地域に住めば、供給を受ける電力会社は決ってしまう。電力を需要する側では選択権がない。1990年代に欧米では発電と送電を分けた発送電分離が行われ、電力の自由化が進められた。しかし、日本ではこれまで地域毎に同じ電力会社が発電と送電を行って来た。形式的には電気料金はその電力会社毎に決められ、国の了承を得る形になっている。しかし、実際は地域を独占している電力会社にとって競争原理が働かないため、電気料金の低下は期待しにくくなっている。2011年3月11日の震災で広い範囲で電力の供給が途絶えた。これまでは「電力の安定供給」を錦の御旗に掲げて電力会社による地域独占と発送電が維持されて来た。10年前にも欧米に遅れをとる発送電分離の議論がなされたが、結局は立ち消えになっていた。震災を契機に、逆に現状が電力の安定供給に繋がらないことが露呈し、一気に発送電分離の声が上がった。今月2日、経済産業省の専門委員会は発送電分離を目指した報告書を出した。2018年~2020年に実施するとなっている。同時に、個人家庭が電力会社を自由に選べる電力小売りの「全面自由化」も2016年に実現するとしている。発送電分離は電気料金に価格競争をもたらし、需要者側には利益があるが、一方で、安定的な供給が得られなくなる可能性も出て来る。そこで、経済産業省は電力供給を安定化させる新たな規制組織を設立しようとしている。発送電の分離が行われれば、発電に参入する企業数が増えるばかりでなく、再生エネルギーを使った発電なども増加して行く。しかし、太陽光発電や風力発電などを広大に可能とする地域では送電網が確立されていないなどの問題も残されている。従来の電力会社はこぞって発送電分離には反対している。地域において利益を独占して来たのだから反対するのも当然ではあるが、その電力会社の反対理由は「電力の安定供給」という相変わらずの錦の御旗である。天下りを送って電力会社と癒着して来た経済産業省が重い腰を上げたが、同省としても、腰を上げるからには省益に適うものでなければならず、「新たな規制組織の設立」という新分野を開拓しようとしているわけだ。いずれにしてもこれまでのような地域独占体制では再生エネルギー技術の発展は遅れてしまうだろう。そのためにも発送電分離は必要不可欠な条件となる。
7羽の白鳥 右端の白鳥の手前に重なって黒っぽい色の子白鳥がいる

心のケア

2013-02-20 19:15:25 | 社会
朝は晴れて内陸方向にはいつもの愛染山がよく見えていた。その後、次第に雲が流れ始め、午後には風と小雪が見られるようになった。最高気温も上がらず、寒い日になった。釜石では例年3月に入ってもまとまった雪が降ることがある。昨日、釜石で今日開かれるイベントのために、また娘が戻って来たが、すぐに大阪に行かねばならない。大阪ではU 先生の組織でカウンセリングの講習を受けている。今週末にテストを控えているそうだ。今、U 先生の組織はカウンセリングの必要性を国に働きかけておられる。日本がバブルで浮かれていた1980年代後半に、U 先生は米国でカウンセリングの重要性を知り、米国でカウンセリングを学ばれた。U 先生の友人には今も米国コロンビア大学の大学院まで進んだ後、カウンセラーとしても、ニューヨーク市立大学の准教授としても活躍されておられる方がいる。娘は一昨年、米国での研修の際、この方にも感銘を受けた。U 先生は米国で学んだカウンセリングを日本人にあった形で普及させたいと考えておられるようだ。精神を病んで日常生活が妨げられる人は精神科医が引き受ける。しかし、仕事をやりこなし、日常生活を一見上手く送れている人たちでも心のケアが必要な場合はたくさんある。そうした人たちの心のケアをする職種として、カウンセラーの日本での認知は限られている。2011年3月11日の震災後、U 先生たちはただちに釜石と石巻に人員を配し、被災者の心のケアに当たって来た。釜石での活動を身近かに見ていて、形だけの県が実施する「心のケア」とは次元が異なることを知った。日本には大学院を出て取らなければならない臨床心理士の資格制度がある。しかし、そうした資格を持つ県が派遣した「心のケア」チームは現場ではむしろ市に負担をかけるばかりで、被災者の心のケアにはほとんど役立っていない。基本的に現在の日本の臨床心理士は精神科医の補助者という扱いでしかない。そういう立場で養成された臨床心理士のほとんどは自力での心のケアが出来ないことが、被災地現場で明らかになっている。これは個々の臨床心理士の能力の問題ではなく、精神科医の補助者としてしか認めようとしない今の制度に問題がある。国の一部の部署ではその問題を理解しているようだが、医師会などの組織が強固に現在の制度を維持する姿勢にあるようだ。震災後、釜石でしばらく被災者に接して来た娘はその問題に気付き、一層、U 先生たちの活動に惹かれて行ったようだ。U 先生の組織では、オリンピック選手や大企業の従業員などもカウンセリング対象として活動されている。U 先生は今、釜石で市や大企業と手を結び、新たな心の支援活動を企画されている。以前、娘が勤めていたNPOへも参加要請するようで、娘もその仲介役を試みるつもりでいるようだ。U 先生はすでに1995年の阪神・淡路大震災、2001年の米国9.11事件、2004年の中越地震などでも被災者の心のケアを行って来ており、そのノウハウを蓄積されている。大災害では、直接の被災者だけでなく、その人たちを支援する支援者にも心のケアが必要になる。釜石市ではそうした支援者へもU 先生は心のケア活動を広められており、現場の人たちから高く評価されている。市もそれを認めているようだ。日本ではU 先生の組織のようなカウンセリングが出来る人たちがまだまだ不足している。
甲子川で餌を探していたダイサギ

樫鳥

2013-02-19 19:18:39 | 文化
今日は日中も気温が3度までしか上がらず、冷たい風が吹いた。職場の裏山にはまたカケスの群れがやって来ていた。昼休みに所用で職場を離れたついでに、甲子川へ行ってみた。いつものようにたくさんの水鳥たちが餌を獲っていた。少し離れたところに白鳥の姿が見えた。よく見ると4羽いる。親子3羽に別の1羽が加わったようだ。人が河川敷を通りかかると、その後を追っている。昨日見た老人もまた見かけた。風がとても冷たく、手袋をしない手が痛くなって来た。いつもより早く引き上げてしまった。 カケスも恐らく古くから列島に棲み着いていたものと思われるが、古くは樫鳥(かしどり)と言われた。樫の木の実を好み、樫の木にやって来ることからその名で呼ばれたようだ。歌人、若山牧水には樫鳥を詠った歌がある。牧水は26歳の時、友であった石川啄木の臨終に立ち会っている。牧水は富士の見える沼津の自然を好み、1920年、東京からそこに居を移した。特に日本百景にも選じられている千本松原を愛した。現在は、堤防と松原の前方を走る道路でかっての景観は損なわれてしまっている。沼津に隣接する清水町には富士の湧水を水源とする清流柿田川もある。沼津に転居した3年後の1923年に関東大震災が起きた。その2ヶ月ほど後の10月28日に牧水は17日間の信州への旅に出ている。沼津から鉄道で御殿場へ出て、そこから須走まで他に乗客のいない馬車に乗り、草鞋(わらじ)を履いた足で籠坂峠を越え、吉田を抜けて、岸の紅葉が美しい河口湖に宿をとった。籠坂峠への上り坂途中で、「萱か何かを折り敷いたまゝうと/\と眠つてしま」い、震災の為に「顔に半分以上の火傷(やけど)があり眼も片方は盲ひて引吊つ」た男に起こされている。翌日は「ルツクサツク」を背負って西湖を過ぎて、楓の紅葉する「青木が原」で「路をそれて森の中に入り」、「人目につかぬ様な所を選んで風呂敷包を開いた。」この時、「ツイ鼻先の栂の木に来て樫鳥が啼き出した。これは二羽だ。例の鋭い声でけたゝましく啼き交はしてゐる。」。その後、精進湖で宿をとり、翌々日に女坂峠、左右口峠、笛吹川、甲府、小淵沢などを経て、木枯と時雨のため松原湖に滞留している。この松原湖畔に滞留中に強い木枯らしの為に「湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作つて忽ちにこの小さな湖を掩ひ、それに混つて折々樫鳥までが吹き飛ばされて来た。」。この光景を見て、三首の樫鳥を詠んだ歌を作っている。『木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ』、『声ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる』、『樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ』。(引用は『木枯紀行』)森や林では今も樫鳥の群れを見ることが出来るが、その環境は明らかに牧水の時代とは変わってしまった。古来日本で詠まれて来た歌には自然の情景が多く詠み込まれて来た。足で歩くしかなかった時代は自然がより身近かであった。その時代に多くの歌人が現れたのも当然なのだろう。牧水がこの『木枯紀行』で訪れたところのいくつかは若い頃に自分でも行ったことがあり、その頃は樫鳥にも気付くことはなかった。見えていても見てはいなかった。伴にいた人への関心の方が強かった時代だった。
カケスの群れ 少し離れたところにも何羽か止まっていた