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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

古の霊地

2013-09-07 19:20:42 | 寺社
今日は昨日の午後から引き続き、空が雲に覆われていた。暑さはすっかり消えてしまった。釜石へ引っ越す時に、犬たちは優しい女性の訓練士の開設したばかりの訓練所に預かっていただき、釜石へ先に引っ越してから航空便で送っていただいた。花巻空港へ犬たちを迎えに行く際、職場の方にお手伝いいただいた。その方が先日亡くなった犬のためにわざわざ花をお持ち下さった。ちょうど、今日、お寺で火葬後の納骨があるのでその花を供えさせていただいた。お寺は日蓮宗で、釜石市街地周辺に大小たくさんある谷間の一つの最奥にある。車一台がようやく通れる細道の両側にもいくつも民家が建っている。中に人の住んでいない、一部崩れた古民家が建っていた。以前、境内に咲いた片栗の花を撮りに来たお寺だ。駐車場に車を止めて、車から降りると、ミンミンゼミたちの賑やかな声が耳に飛び込んで来た。坂道を上ると、途中に、「食べ物を残さないで下さい」と書かれていた。熊が食べ物があるとやって来て、墓を荒らしてしまうようだ。墓がたくさん並んでいる中でも比較的目に付く位置に供養塔が建っている。近づくとお寺の方が周辺を片付けておられた。早速、戴いた花を供えさせていただいた。右手にはこちらの家名と犬名の書かれた卒塔婆が立っていた。さらに谷の奥を見ると、今日もペットのための火葬が行なわれているようだった。斎場からはかすかな煙が出ていた。一昨日の夕方、そこへ我が家の愛犬を持ち込んだが、なかなか立派な設備であった。ゆっくりと周辺を見ながら坂を下り、駐車場で車に乗ろうとして、ふと、近くの小高い小さな山と石碑が目に入った。気になったので、そちらへ歩いた。先住民の供養塔や山神の石碑がある。このお寺の開山のために付近を掘った際、縄文時代の遺物が出て、「礼ケ口遺跡」となっており、その縄文時代にこの地に住んでいた人々のための供養塔のようだ。また、江戸時代の地図では、ここは霊廓地となっていると言うことで、神聖な地であったようだ。山神は小さな三角形の山に祀られており、そこは三覚山と名付けられたいる。「この山に登ると人生の甘い、辛い、酸っぱいの三味を覚えることができると言われている」とある。わずかな距離なので、付いている階段に沿って上ってみた。頂上には一本立派な松が立っていた。四方を見渡すことが出来る。確かに縄文期にはここは人々が敬う場所だったかも知れない。縄文時代の特徴である岩もある。縄文時代の遺跡はここだけではなく、釜石市内には何か所かある。最初に東北へやって来た阿蘇部族の一派ではないかと考えている。やがてそれぞれが定着地を見つけて住着き、後に岩手では麁族(あらぞく)となったと思われる。何千年も前からこの地には人が住み続けているのだ。谷間を川も流れ、水が得られる場所であり、山野には豊かな食材が溢れている。東北は書かれた記録がないためにただ野蛮な蝦夷の地とされて来ているが、人々は争いをせず、互いに平和な暮らしを続けていたのだ。争わずとも衣食住に満ちていた。亡くなった犬もこの霊地で古の人々と戯れているのかも知れない。
山神の石碑のある三覚山

初春の陸前高田

2010-03-15 07:04:24 | 寺社
昨日は風もあり日中の最高気温の予想も高くなかったが晴れていたので陸前高田まで足を伸ばした。陸前高田の市街地の手前で山側へ入り1241年創建の普門寺をまず訪ねた。この時期なので訪れる人もなく、樹齢が300年になると言われる杉並木の巨木の間を登り、山門を潜るとさらにうっそうとした杉並木が続く。本堂横のやはり樹齢300年の百日紅の巨木も今は葉もなく樹皮のない枝が四方に伸びるだけになっている。気仙大工の手になると思われる本堂の彫刻はいつ見ても感心させられる。本堂横の奥には県指定有形文化財となっている三重の塔があり、1809年に創建されたもののようだ。昭和37年までは茅葺き屋根であったようだ。ここへ来るたびに池の中のひっそりと立つ観音像につい目が惹き付けられる。昼食のために一端道の駅陸前高田へ出る。昼食後は古川沼を少し回り、高田松原を歩いた後砂浜へ出た。砂浜は打って変わって風がなく昼の日射しで暖かく久しぶりに気持ちのいい一時を過ごせた。沖合に水鳥が集まっていたがカモメかウミネコぐらいに思っていると何か違う。望遠で見てみるとウミアイサのようだった。また市街地から山手へ向かい氷川神社へ行くことにした。氷川神社の前に車を止めると左手の民家の庭先に花が開いているのが目に入った。梅だった。梅がもう開いていた。鳥居を潜ってそばのせせらぎに沿って進むと社務所があり、そこを少し左に折れると拝殿が見えて来た。左手の木立には古い石碑がいくつか立っており、さらにもう少し拝殿寄りには山神が他の石碑とともに祀られている。拝殿方向へ進むと小鳥たちのさえずりが聞こえて来た。エナガやシジュウカラ、ヤマガラたちだった。拝殿内からは祓いの祝詞らしき声が聞こえて来た。拝殿奥に本殿が祀られている。氷川神社の創建は定かではなく、氷川山山頂には理訓許段神社(りくこたじんじゃ)、登奈孝志神社(となこしじんじゃ)、衣太手神社(きぬたてじんじゃ)の三社が鎮座し、それらの里宮として氷川神社が祀られている。これら三社は延喜式神名帳に記されたいわゆる式内社である。祭神としては他に天照大神、素盞嗚神、稲田姫命も祀られているようだ。また境内には末社として拝殿両側には手名椎神社(てなずちじんじゃ)、足名椎神社(あしなずちじんじゃ)が、拝殿前方には松尾神社、旧奥宮三神殿、和魂奉齋なども祀られている。手名椎、足名椎は記紀神話の須佐之男による八俣遠呂智(やまたのおろち)退治に登場する神々で足名椎は大山祇(おおやまつみ)の子とされる。須佐之男は手名椎、足名椎の子である櫛名田比売を八俣遠呂智を退治した後に娶る。そしてその子孫が大国主となる。したがって氷川神社は理訓許・登奈孝志・衣太手の固有神を除くと稲田姫命は櫛名田比売の別称であるので天照以上に出雲色が強い神社であることがわかる。青森県には式内社はなく岩手県には14の式内社がある。いずれもが10世紀以前には創建されていた古社であることになる。とくにこの氷川神社の理訓許・登奈孝志・衣太手の三神には興味が惹かれる。

普門寺山門と百日紅

山門を潜って本堂を前に立つ杉並木

普門寺本堂と百日紅 左手の百日紅が樹齢300年になるという

高田松原の前に広がる砂浜 風がなく初春の日射しを受けて気持ちがよかった

氷川神社の鳥居そばの民家の梅 今春初めて見た梅の開花

社務所前の参道 左手の木立の前に石碑が立ち並ぶ

山の神がここにも祀られていた

氷川神社拝殿 やはり気仙大工の手になるようだ

山田町再訪

2010-03-10 07:04:59 | 寺社
先日の休みの日に山田町船越の荒神社が気になり、もう一度行ってみたかったのと同じ山田町内に魚賀波間神社(ながはまじんじゃ)という変わった字の神社があるのを知ったので出かけてみた。荒神社の前に広がる海に3羽の水鳥がいて、こちらに気付くと沖合へ移動して行った。よく見るとウミアイサであった。冠羽があり嘴に反りがあるのが特徴だ。砂浜をゆっくり歩き、荒神社の第二の鳥居前に出て1785年に造られた阿吽が左右逆の狛犬の間を通り拝殿に向かう。拝殿前に祀られた鉄剣には「荒神大明神」と大書され、正一位とあるが本当なのか。その下には「御祖大神 理久古円段」、「閉伊武者所」、「綿津見神」、「素戔嗚尊」の文字が並ぶ。伝承では「理久古円段」は「リクコタン」で、アイヌの漁の神だという。以前行った延喜式に載るいわゆる式内社である大船渡の尾崎神社は延喜式では古名が理訓許段神社となっており(ただ同じ陸前高田の氷川神社も式内社である理訓許段神社、登奈孝志神社、衣太手神社だという)、尾崎神社には「理久古多の神にささげし稲穂にも えぞの手振りのむかし思ほゆ」という歌も伝承され、実際、アイヌの1本の木から削り出された神道の御幣類似のイナウを宝物として祀っているという。船越の荒神社も大船渡の尾崎神社も海辺の良く似た位置に鎮座し、どこか共通したものを感じる。釜石の尾崎神社の奥宮へはまだ行っていないが恐らくここも同じ系統の神であったのではないかと考えている。これら荒神社や尾崎神社の伝承はいずれもアイヌとされているようだが、やはりアイヌではなくいわゆる「えみし」ではないかと思う。そしてアイヌ語ではなく縄文語ではないかと。小高いところにある閉伊頼基の霊廟を見た後海岸の岩場に立つと釣り人が二人膝まで海に入り糸を垂れていた。昼食をうどんで有名な釜揚げ屋で摂ることにして、頼んだあさりうどんが来るまでにふと山田町の北に隣接する宮古市のことを考えた。宮古市には北上山系である岩神山に発して80Kmの流程を流れて宮古湾に注ぐ閉伊川が流れる。宮古市の「宮古」地名の由来は通説では11世紀初めにこの地の神官が阿波の鳴門の鳴動を治めた事から一条天皇から「都」と同訓異字の「宮古」の地名を授かったとされているが他にもいくつかの説があるようだ。しかしこの説も一見尤もに聞こえるが何かしっくり来ない。褒美に「みやこ」の地名を与えるというのはちょっと不自然に思える。むしろ先日記したように荒覇吐王国の王城が閉伊に移されたことを考えると、閉伊の中心地としてむしろこの宮古市にまさに荒覇吐王国の王都があった可能性があるのではないだろうか。そうした遺跡が今後発掘されればいいが、などと考えていた。昼食を摂った後は魚賀波間神社に向かった。海岸部を走る45号線の山側にある連続する階段上に鎮座していた。拝殿は古い建物が失われたのか味気ない最近の資材を使った建物になっていた。最初の狛犬たちもまだ新しいものだったが拝殿の右にある小振りの狛犬は頭部に角があり、それぞれ海側の前足が後ろへ引かれて後ろ足と一緒になった変わった狛犬だ。1795年に造られたもののようだ。拝殿の右奥には「白龍稲荷」と名された稲荷神社が祀られていた。魚賀波間神社は以前は澤養寺という寺の守護をしていたが、坂上田村麻呂の蝦夷征討の時ここに来て、鬼を退治したことに由来する鬼拔大明神を祀ってこの長浜の地に移されたという。地名の長浜もおそらくは「魚賀波間」と記されていたものだったのだろう。そこにはやはり縄文語系の臭いがするように思う。帰路は道の駅「やまだ」に立寄り、いくつかの買い物をしたがイルカの肉が売られており、三陸近辺にイルカが遊泳していることを思い出した。イルカの肉と言うのは食したことがなかったので試みに買ってみることにした。自然保護の点から言ってもおそらく闇雲に捕獲しているものではないのだろうと思う。釜石では見かけたことがない。一度はせっかく三陸にいるので海で実際にイルカを見てみたいものだ。

45号線道路脇の魚賀波間神社の鳥居 階段を登り切って振り返ると山田湾が一望に見渡せる

階段の上の第二の鳥居そばの比較的新しい「阿」の狛犬

1795年に造られた角のある「阿」の狛犬 左前足が後ろに引かれた珍しい狛犬だ

魚賀波間神社の拝殿 中に大事なものを納めているのかかなり厳重な戸締まりがされていた

拝殿右奥の白龍稲荷 白龍稲荷や白龍明神などの白龍のつく神社は各地にあるようだ

北上川を見下ろす胡四王神社

2010-03-04 07:02:47 | 寺社
現存する5つの風土記の中でほぼ完全な形で残る『出雲国風土記』には国引き神話が記されている。古事記や日本書紀には記されていない。すでにこの事実が出雲にあったはずの王朝を記紀が認めようとしていないことを物語る。記紀はあくまで日本には初めから大和王朝だけしか存在しなかったということを主張する目的のために書かれた。しかしはるか縄文後期には出雲王朝があり、その傘下の越(こし)の国があった。恐らくそのころ東北の津軽にはツングース系の人々がいたと考えられる。越の王は勢力を現在の岩手まで延ばしていたのだろう。花巻市矢沢の胡四王神社やかっては胡四王神社であった紫波郡矢巾町徳田にある徳田神社などがその名残と思われる。花巻市の胡四王神社はその名も同じく胡四王山と称される山に鎮座する。ちょうど二コブラクダのコブのように山頂部が二つに分かれ、一つには宮沢賢治記念館がある。残る一つに胡四王神社が祀られている。胡四王山は標高176mの小高い山で北に向けて祀られた胡四王神社の近くからは北から南に向かって流れる北上川を見下ろすことが出来る。かってはここから眺望する縄文の櫓が聳えていたのかも知れない。胡四王神社はまさしく北に向けて祀られており、拝殿と本殿が鎮座する。毎年1月には蘇民祭が行われる。蘇民兄弟と建速須佐之男命について記された『備後国風土記』逸文から考えるとこの祭りの起源もその裸体の行事であることを合わせて弥生初頭前後に遡るのかも知れない。須佐之男は出雲系の神であり、越は出雲の傘下にあった。同じく出雲の傘下にあって筑紫で縄文の稲作を行っていた安日彦・長髄彦兄弟は天照の命でこの地に攻め入った邇邇芸(ににぎ)に降伏することを潔しとせず、津軽へ落ち延びて荒吐王国(あらはばきおうこく)を打ち立てる。この時邇邇芸(ににぎ)の傘下に落ちた越の国も勢力を弱めて行ったのではないだろうか。もともと同じ出雲の傘下であった越と荒吐の間にはほとんど戦いはなかっただろうと思われる。越のごく自然な勢力の縮小に伴い荒吐王国が拡大して行ったのではないかと思う。でなければ荒吐王国の支配領域となったはずの岩手に胡四王神社や1000年以上の歴史を持つと言われる蘇民祭が残ることはなかったのではないだろうか。人の誰もいない胡四王神社のそばで眼下に花巻の平野部を悠久の時を越えて流れ続ける北上川を眺めていると上古の様々な想念が浮かんで来る。

花巻市の胡四王神社 北向きの社殿のため背後から光が射す

「胡四王神社」の名が入る額

胡四王神社の西方の眺望 北上川が北から南に流れる

胡四王神社の北東に早池峰山が望まれる

志賀理和氣神社(しかりわけじんじゃ)

2010-02-28 07:23:00 | 寺社
花巻市と盛岡市に南北を挟まれて紫波町がある。ここに以前から気になっていた神社がある。最北の式内社であり、背後に北上川と接する志賀理和気神社(しかりわけじんじゃ)だ。「しかりわけ」とは何なのか、普通には解せない。これだけでも興味が惹かれた。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)、武甕槌命(たけみかずちのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、保食命(うけもちのかみ)、少彦名命(すくなひこのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、船霊命(ふなだまのみこと)の七柱となっている。いずれも縄文から弥生初頭にかけての神々だと思われる。特に出雲との関連が強い。しかし社伝では「志賀理和気」はアイヌ語に由来すると言う。確かに東北は地名もアイヌ語由来だとされるところが多い。ただいつもそうした由来に接すると思うのは名称だけが伝承されて文化が伝承されないなどということがあるのだろうか、という疑問だ。アイヌ語由来名称だけ残されて、アイヌ文化は伝承されない。まずは考えにくいのではないだろうか。ある1カ所だけということであれば偶然そう言うことになったということもあるだろうがアイヌ語由来とされる地名などはたくさんある。その全てで文化は伝承されないなどというのは考え難い。むしろアイヌ語は縄文語の一部として残り、本来はアイヌ語地名と称されるものが縄文語地名の可能性の方があるのではないだろうか。昨年末に亡くなられた名高い言語学者の小泉保氏が書かれた『縄文語の発見』を読んでみたいのだが、現在この書は入手が困難になっている。早稲田大学名誉教授でアイヌ語研究で高名な田村すず子氏は安易な日本語とアイヌ語の関連付けを警告しているようだが。志賀理和氣神社は道路に面して厳島神社に代表される前後に副柱を持つ赤い両部鳥居が立つ。この鳥居を過ぎると北側になる左手に恋に落ちた若い都人と近在の領主の娘が植えたとされる樹齢700年の「南面の桜」がある。娘を置いて都へ帰ってしまた人を恋しく思う娘の気持ちの現れで桜は南に向いて咲くと言う。この桜を過ぎてさらに北上川に向かって進むと石造りの第二の鳥居があるが、その手前左手の木立の中に山神が祀られていた。社殿はおそらくかって現在よりはるかに広くあったと思われる鎮守の森の中に鎮座している。社殿は式内社であり、南部一宮であっただけの壮麗さをどことなく醸し出している。前面の大きな拝殿の後ろには朱に彩られた本殿(神殿)が控えている。社殿の右には赤石天満宮と坂下稲荷神社が並ぶ。さらに右手前には小野藤稲荷神社と「紫波」の言われとなった赤石が祀られている。かって北上川の川底に赤い大石があり、川波が立つと美しい紫色に染まったことから「紫波」の地名が称えられるようになったそうだ。志賀理和氣神社もそうだがアイヌ語由来と伝承されながら祭神はいずれもこの神社固有の祭神ではなくなっている。敗者の固有の神々は葬り去られたということなのだろう。

志賀理和氣神社の朱塗りの両部鳥居

南を向いて咲くと言われる樹齢700年の江戸彼岸桜(東彼岸、姥彼岸桜ともいう)

第二の鳥居前の木立の中に祀られる山神ー周囲に巨石はない。農耕時期の里神として祀られたのかも

石の第二の鳥居ー社殿周囲に鎮守の森がある

志賀理和氣神社の拝殿 正月の飾り幕や提灯が残っているのか

側面から見た朱塗りの本殿 本殿の後ろの森のさらに後ろに北上川が流れる

「紫波」の謂れとなった赤石も祀られている

大船渡の椿と史跡を訪ねて

2010-01-25 07:02:01 | 寺社
昨日は天気がよく風もなかったので久しぶりに大船渡へ出かけた。冬場なので白バイは出ていないがパトカーは回っているはずなのでスピードには気を付けた。最初は以前にも行った熊野神社の三面椿を見に行った。以前一度だけ行ったことがあったが途中で道を間違ったようでしばらく進んでから近くにいた漁船の整備をしていた親子の方に尋ねて道を教えていただいた。引き返そうとすると狭くなった湾内に野鳥がたくさんいる。小鷺、大鷺、青鷺、ヒドリガモ、マガモなどがみんな一所に集まっていた。教えられた通りに行くと見覚えのある風景が現れ、無事熊野神社にたどり着いた。ここの椿は樹齢が1400年もの椿で平成14年の台風のため主幹2本が折損して樹形が半分になってしまったがそれでも国内最大の椿だという。種類としてはいわゆる薮椿になるのだろう。花はやや小振りですでにいくつか散った花があった。もともとは本殿を取り巻いて東、西、南の三面に椿が植えられていたが現在は東1面のみが残る。根元から13本の枝が出ていたが2本は失われた。根元の回りは8mあり、高さは17mにもなる。熊野神社自体の由来が分からないが三面椿の伝承から7世紀にはすでに祀られていたものと思われる。次に碁石海岸の椿を見てしばらくは松林に沿って断崖になった海岸を歩き、碁石岬へ出た。ここの眺望はすばらしく点在する岩礁には海鵜が群がっていた。時折漁船が湾内を出入りする。風がなく水面は日射しを反射してまぶしいばかりに輝いていた。椿館は昨年家人と訪れた時より少し花の開きが遅い感じだった。三度目のせいか花よりもその香りが印象的だった。時間があったのでちょうど反対側の半島にある尾崎神社へ行くことにした。ここも少し分かりにくい場所だったが何とか行き着くことが出来た。釜石にも同名の尾崎神社があるがこの大船渡の尾崎神社とは直接の関係はなさそうだ。大船渡の尾崎神社は本殿はさほど大きくないが延喜式にも載る式内社である。陸前高田の冰上神社(氷上神社)とともに理訓許段神社(りくんこたんじんじゃ)とされるが本来の理訓許段神社は尾崎神社だとされる。理訓許段はアイヌ語でりくんが「高い(所に)」で、こたんは「村とか郷」を意味し、高所にある村が原義だそうだ。1000年前にはこの地方には蝦夷の神である理訓許段神を祀る人々がいたそうだ。尾崎神社の神宝の稲穂は古代アイヌの祭りにつかわれたアイヌ語で「神にささげるもの=イナウ」だそうだ。蝦夷はアイヌ語の名を持つ神を祭りアイヌと同じ捧げ物を神に祀ったという。北海道には道内でも最も気温が低くなる陸別があるが、この陸別も淕別(りくんべつ)であったようで、べつは「川」の意味だという。ちなみに陸前高田の冰上神社(氷上神社)は衣太手神・登奈孝志神・理訓許段神の三座を祀るがよく分からないため日本の神話に登場する神を当てているそうだがいずれもアイヌの神のようだ。ここの尾崎神社は社伝によれば783年(延暦2年)の創建で、1625年類焼のため古文書・宝物悉く焼失したそうだが藤原三代・葛西氏・伊達氏の崇敬が厚く、気仙郡総鎮守であっという。尾崎神社の鳥居前の海には気仙大工の技術を生かした千石船「気仙丸」が浮かんでいた。

大船渡市熊野神社の三面椿 現在この東面だけでなく西面と南面にも椿が植樹されている

碁石海岸の雷岩 左奥の凹みの前の薄らと泡立つ海面の近くから雷鳴そっくりの音が響く

碁石岬 岬に連なるように続く岩礁にそって日射しが反射していた

大船渡の尾崎神社 鳥居の奥に小振りの社殿が見える。東北ではかなり古い寺社だと思われる。

陸前高田には魅せられるものがある

2009-08-28 07:04:37 | 寺社
先日一関市大東町山吹の棚田を見に行った際、行き帰りに陸前高田によった。自分も家人もこの陸前高田が気に入っている。釜石に比べ比較的平野部が広く、高い建物もごく限られている。それでいて街がちゃんと整備され、自然の保全のしかたも素晴らしい。延々と続く松原や砂浜だけでなく防波堤の築く位置やその背後の水辺の野鳥を考慮した小湖の在り方など。街に気負いがなくどことなく洗練された感じすら漂わせている。行きには陸前高田市の山手にある普門寺を訪れた。ここももう何度も訪れている。いつきてもほとんど人の姿を見かけないが広い境内に根元が苔むした杉の巨木が立ち並び、立派な本堂前には樹齢三百年を超える百日紅の木がある。今回はこの百日紅の花を見るためやってきた。鐘楼近くにも少し小さい百日紅の木があるがいずれもほぼ満開だった。夏の青空によく映える赤い花だ。普門寺からすぐ坂を下ったところにりんご園があり一部がもう赤く色付いていた。棚田からの帰りには陸前高田市の竹駒神社へまず立ち寄った。神社の手前には旧街道跡の松並木が残されている。734年行基が近くの玉山金山を開いた後伏見大社より金山守護神として勧請したのが創建と伝えられている。正一位稲荷大明神である。大きな一の鳥居から本殿まで1.5Kmあり、二の鳥居と本殿の間に2対の狛犬と1対の狐の石像がありいずれも赤い手拭いを冠っている。本殿裏には6社の末社と樹齢1000年を超える神木の杉の巨木がある。この後松原の方へ移動して松の香りに浸されながら砂浜に出た。この日は夏日に戻って暑い日だったので午後も4時頃になっていたが若者が仲間と泳ぐ姿が見えた。砂浜ではビーチバレーをやっている若者の集団もいた。海辺の砂浜に立っていると子供の頃毎年泳いだ同じような海を思い出す。残念ながら砂浜としての素晴らしさは四国愛媛の砂浜の方が好きだ。まさに白砂青松の字の如くで日射しが明るいだけでなく砂そのものがもっと明るい白で瀬戸内海に浮かぶ島々も素晴らしい景観を見せてくれる。難点はただその暑さだ。何もかもすべて満点というものはそう得られるものではないようだ。

陸前高田市の普門寺の百日紅 本堂はこの写真の右手にある

竹駒神社の二の鳥居前 向かって左手には石碑群も並ぶ

竹駒神社本殿 裏手に6つの末社が祀られ、本殿の左後に神木の杉が見える

陸前高田の松原 やや右寄りの海で若者達が泳いでいる

北限の棚田より室根神社に感ずるものがあった

2009-08-27 07:04:42 | 寺社
一関市大東町の山吹に日本の棚田百選に選ばれた北限の棚田があるのを知り一度見ておこうと出かけた。陸前高田まで南下しそこから343号線へ入り峡谷を走る。途中笹ノ田峠の手前に小黒山ループ橋がある。いくつかのカーブした小トンネルを抜けて峠を越えると大東町に向かって下って行く。少し迷ったがまもなく標識を見つけて道なりに進むと棚田に着いた。しかし棚田自体は正直がっかりした。これ位の棚田ならさほど珍しくもない。これだとよほど橋野の石組みの棚田の方が見応えがある。山吹は景色としては遠くに室根山を望みいいところだとは思うが。帰りはその室根山の山頂へ行き、小天文台の屋上から周囲を展望した。期待した室根牧場は山陰になり見ることが出来なかったが遠く陸前高田の市街地とその向こうに横たわる太平洋を一望出来る。気のせいか太平洋には点々と黒い島影らしきものが見える。大きさからすると船ではないと思うが。頂上から下る途中で牛やポニーや羊が放牧された牧場を見ながら8合目にある室根神社に向かった。室根神社は日本でも最も古いと考えられる形で祭事が執り行われるそうだ。本宮に金の鈴が、新宮に銀の鈴があり両者を振って願い事をすれば叶えられると言う。陸奥国で最初に瀬織律姫を勧請した神社らしいがその創建は不明のようだ。養老二年(718年)、鎮守府将軍大野東人が元正天皇の勅命を受け、蝦夷降伏の祈願所として、紀州本宮村の熊野神を勧請したものが本宮とされ、正和二年(1313年)、陸奥守護職葛西清信が奥羽七郡(磐井・江刺・胆沢・気仙・本吉・登米・牝鹿)の鎮守として、紀州新宮村から熊野神社の神霊を勧請したものが新宮とされる。源義経、弁慶も平泉から馬を走らせて二度も祈願に詣でたそうだ。境内の横を入ると江戸期に建てられた石像の33体の三十三観音が祀られている。そのためなのか立派な鐘楼が何故か建てられている。境内を眺めているとこうした山中の歴史ある古社はこうしたところを神聖視した太古の時代から続くものだろうと感じられる。

一関市大東町山吹の棚田 向こうに室根山が見える

室根山山頂の展望台から見た陸前高田の市街地と太平洋

金鈴の室根神社本宮 すぐ隣接して同様の祠で銀鈴の新宮も鎮座する

遅い夏の海と唐丹の天照御祖神社

2009-08-13 07:01:04 | 寺社
台風が低気圧を一緒に持って行ってくれたのか昨日はほんとうに久しぶりに晴れ渡った。釜石の内陸側にある自宅の上空は青空が広がり、筋雲と鱗雲が漂い、立秋を過ぎて秋空を演出していた。車で海岸部の市街地に向かうと天気がすっかり変わりどんよりと曇り、山には霧がかかっている。沿岸部を南下して行くと天気は徐々に回復しまた青空が見え始めた。大船渡の甫嶺や小石浜に咲く泰山木ももう終わりのようで小石浜の大賀ハスだけを見て引き返した。途中の畑地に夏咲きの彼岸花の一種が咲いていた。甫嶺漁港のそばに小さな天照御祖神を祀った社があったことから唐丹の天照御祖神社を思い出し今回は寄ってみることにした。その前に吉浜(きっぴん)の海岸に出るともうお盆で帰省しているようで思ったより多くの海水浴客が来ていた。外気温は20度そこそこで決して暑いわけではないが晴れた夏を楽しもうと夏休みの子供たちともども海へ飛び込んでいた。ここはいつ来てもサーフィンをやっているが愛知県の渥美半島でのサーフィンの国際大会などを見た目からすると波が子供の波のように見えてしまう。やっている人はかえって大変だろう。釜石の愛の浜へも行ってみたがこちらも海水浴客がたくさん来ていた。晴れているので海が青く輝き沖合には国の天然記念物であるオオミズナギドリが生息する三貫島もきれいに見えた。今回は唐丹の天照御祖神社はすぐ分かった。社務所もある立派な神社だ。近年に修復の手が入ったようで朱塗りの鮮やかな本殿があり、矛が周囲に屹立している。本殿の裏手に回ると石碑が並べられていて、古いものはほとんど字が判読できなくなっている。文化十何年の葛西何とかと言う人の寄進が記されたものもあり、江戸期のものらしい。本殿前には茅(ち)の輪くぐりが置かれている。

吉浜の海岸 この後さらに青空が広がって行った

三貫島の見える愛の浜 釜石に戻った頃には空は全面真っ青になっていた

唐丹の天照御祖神社 天照には謎が多い

三陸沿岸の変わらない人々の暮らし

2009-08-06 07:05:00 | 寺社
岩手はまだ正式に梅雨明けが報じられておらずすっきりしない毎日が続く。一日に何度も天気が変化する。まるで山の天気のようだ。ナナカマドの実も一部が色付き、萩も咲いて風も秋風と言っていい清々しい風だ。釜石は冬は素晴らしく晴れ渡る日が多いが夏はどんよりと曇った日が多い。夏らしい日が訪れない。そろそろ三陸沿岸の寺院の百日紅が咲いていないか見に出かけた。越喜来から小石浜、綾里と抜けて大船渡市街へ入った。途中の海岸には浜百合が今たくさん咲いている。山百合が終わり、鬼百合の自生が見られた。この鬼百合の自生するのを見ていて、ひょっとすると浜百合は鬼百合が海岸部で次第に変化して行ったものではないかと思った。浜百合の花びらが後ろへ大きく反り返ると鬼百合そっくりになる。大船渡近辺に近づくと蝉がヒグラシよりアブラゼミの声の方が多くなる。市街地ではヒグラシの声が聞かれない。陸前高田の普門寺へ行ったが百日紅はまだこれからのようだ。ごく一部が咲いているだけだ。ここの百日紅は樹齢が300年以上の大きな木だ。出かける時釜石市内の小佐野付近でねずみ取りを設置していたので帰路はゆっくりと車を走らせた。吉里吉里の吉祥寺にも行ってみようと釜石を素通りすると白バイとすれ違った。やはり要注意のようだ。残念ながら吉祥寺もまだ全く百日紅は咲いていない。ここにはやはり樹齢何百年かの大きな銀杏の木や枝垂れ桜などもある。椿の木も大きい。今は紫陽花がまだ咲き続けていた。三陸の沿岸部を走っていると幹線道路からはずれていくつもの小集落があり、他所と一見隔絶されたような立地になっている。多くは半農半漁で暮らしているのだろう。そうした所には遠野でよく見る石碑や八大龍神などと書かれた社がある。舟の神様である金比羅の石碑も多い。綾里には綾織姫伝説があり、綾巻明神という天照皇太神宮と関連すると記された古社に伝わるようだ。恐らく縄文期にはじまる伝承ではないだろうか。風早中納言などの記載もあり、伊予の風早国との関連まで想起させられた。

泊から見た越喜来湾 右端の湾口の向こうには青空の広がる太平洋が横たわる

泊の海岸に群生する浜百合