釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

寒い夜桜見に

2014-04-18 19:13:26 | 社会
今朝の気温は3度で、空は高い雲で覆われ、日射しが射していなかった。昼前から日射しでて来て、次第に青空も広がったが、風はやや冷たく、日中も11度くらいまでしか上がらなかった。昨夕は職場の方々と急遽、職場の隣接地の薬師公園でお花見をすることになった。公園の桜は8~9分咲きで階段に沿って提灯に灯が灯されていた。小山の中腹にある公園には平和像や女神像がある。高台の周囲に桜が植えられており、そこからは釜石の新しく出来たイオンタウンをはじめ市街地や釜石湾を眺望出来る。その高台の公園に着くと、ちょうど女神像のそばに鹿が3頭やって来た。しばらくそこにいたが、そのうちどこかへ行ってしまった。職員の方たちがやって来て、ビニールシートの上に座って、会食が始まった。釜石市は都会からの人材募集をしており、職場にも4月から若い女性が一人東京からやって来た。その女性も釜石ではじめての花見に参加した。よく考えてみると、自分もこうした形での花見は釜石で初めてであった。夜桜は、また日中とは違った雰囲気を醸し出してくれる。空は晴れ渡っていたため、日が沈むに従い、空は濃紺の美しい色が広がり、小さな星の光が見え始めて来た。会食半ばにやはり女神像のそばをハクビシンかテンのような動物が走り抜けた。この公園には熊の警告が表示されており、昨年もやはり公園に熊が出ている。そんなことから一時は熊談義も弾んだ。歓談とともに街灯に照らされた桜を楽しんだが、さすがに東北の花見は気温が低く、次第に寒さが募って来て、日中の暖かい気温に合わせた服装では我慢ができず、ビニールシートの余ったところに身を入れて凌いだりした。職場の方たちもこの公園での花見は久しぶりのようで、子供の頃に小学校の遠足でやって来た頃の話なども聞かせてもらった。公園の片隅には大砲の砲弾が置かれている。戦争中に釜石は製鉄所があったために空爆だけでなく、釜石湾からの激しい艦砲射撃を受けて、街が壊滅状態になった。その記憶を忘れないための砲弾のようだ。釜石は江戸時代末期から鉄の街として栄えて来た関係で、その記憶から抜けられないでいる。震災後、復興事業のために一時的に多くの人が他府県からやって来ているので、道路を走る車も多く、人手もそこそこ多いが、実際の釜石の人口は減っている。少子高齢化による人口減は釜石のような地方都市では典型的に加速して行くだろう。日本経済そのものが将来に暗雲がたれ込めている。そんな中での地方都市の未来は自力で切り開いて行くしかない。昨日も市の部長職を兼務する同僚や他の職員にも、釜石へ来てから感じて来たことをお話しさせてもらった。地方が活性化するためには、地方の弱点を逆手にとるか、地方の特色を全面に出すか、方法は限られる。釜石は高齢化率が震災前には37%になっており、震災後はさらに進んで40%にはなっているだろう。今後はさらにそれが進んで行く。であれば、もう街全体を高齢者の街にすればいいのだ。高齢者の街を掲げて、都会で退職して老後を過ごす人々を呼び込む。街全体に高齢者用のサービスを整備する。当然介護者が必要になるので、若い人々の職も創出出来る。高齢者には海と山の新鮮な食材を提供出来る。空気や水も澄んでいる。植物が示すように年間の気温がとても安定している。こうした高齢者に適した条件も備わっている。さらには、楢の木平のような遊閑地を利用して、東北の長く見られる花たちを、山野草を含めて集めて、一大花の楽園を造れば、観光客も呼び込むことが可能となる。自動車道も整備されて来ていることが有効に利用出来る。その花の楽園では釜石近辺の新鮮な山海の食材を堪能してもらうための設備も併設すればいい。観光客だけでなく、都会から移って来た高齢者にも楽しんでもらえる。さらにはそうした楽園があれば、都会からの高齢者の子供たちも親の元を訪れやすくなる。釜石の植物は冬以外は3シーズンを楽しめる。それらの植物たちを揃えるだけのスペースは十分にある。同僚は鹿の食害を心配されていたが、これも楽園周囲をフェンスで囲めば済むことだろう。この同僚の話では釜石を高齢者の街にする案は市でも出てはいるようだ。本来ならば、震災後のこの復興の時期にこそ、釜石を変えるための基本的なプランを実行に移せるチャンスであったと思う。残念ながら、現在行なわれているのは単なる復元が主軸だ。市としての基本姿勢はほとんど変わっていない。
公園に着いて間もなく鹿がやって来た

街灯に灯が灯された

提灯にも灯が灯される

日が暮れて間もなく

歓談と会食が進む