釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

震災を通してたくさんの人に育てていただいた娘

2012-09-30 19:20:26 | 社会
朝は少し霧雨が降ったが、昼頃から日が射して来た。半袖でちょうどいいくらいの気温だ。日は射したが雲も多く、夜半の3時には台風17号が岩手県に達する予想になっている。昨夜は匠の方の奥様がわざわざ娘のために送別会を開いて下さった。生憎、匠の方は入院されており、味の匠の方ご夫婦が出席され、私までお誘いいただいた。昨年の震災で被災された、匠の方のお知り合いが仮設商店で小料理店の営業を再開されていて、そこへご招待いただいた。このお店も美味しい料理を出してくれることで知られている。薄味でいながらとても美味しい料理だ。山海の幸を使って匠の技でとても美味しく作り上げる。久しぶりにお会いして、震災直後からの思い出話に花が咲いた。娘もその頃、皆さんにはずいぶんとお世話になった。こうした人たちの支えがなければ、釜石での娘の活動もあれほどは出来なかっただろう。それを思い出して、帰りの車の中で、娘はやや涙ぐんで「ほんとうにいい人たちだよね」ともらしていた。震災当日、経験したことのない揺れが続く中で、わずか、二日前に釜石へ来たばかりの娘は、そのころ家の中にいた2匹の小型犬を抱いて、庭に飛び出して行った。建物に接した囲いの中にいた大型犬たちも囲いから外へ出して、揺れが収まるのを恐怖の中で待っていた。とりあえず揺れが収まって来たところで、家の中の落下物を大まかに処理しておいた。津波に追いかけられていたことも知らずに車で帰宅した私と合流した後、匠の方の奥様が津波で海岸地帯が大変な状態になっていることを知らせて下さった。まだ寒さも和らいでいない時期で、停電にもなっていたので、味の匠の方のお薦めもあって、結局は、匠の方の小屋へ避難することになった。その後も、娘は何日かその小屋でお世話いただ後、私の職場で職場を手伝いながら一緒に職場で寝泊まりするようになった。6月に入って、家や職場が少し落ち着きを取り戻した頃、U先生が釜石で活動されるようになってからも、また匠の方ご夫婦や味の匠の方ご夫婦にはU先生たちのことで、娘はずいぶんお世話になった。釜石に住む匠は女性にも見られ、そうした方々にも娘は紹介していただいた。そうしたことのすべてが、その後の娘の釜石での活動範囲を広げて行くことに繋がって行った。人と人の繋がりがいかに大切かを学んだようだ。毎日接していると親でもあり、娘の変化には気付きにくいが、味の匠の方から震災の頃とはずいぶん変わった、と娘にお褒めをいただいた。人に頼れない環境に一時的ではあっても立たされれば、自分で積極的に何とかやり遂げねばならなくなる。娘の中に自ら動く姿勢が育ったことは間違いないだろう。釜石で直接被災した人たちの支援活動に関わるようになると、自分ひとりの問題ではなく、人の繋がりの重要さにも気付くようになったのだろう。都会では得られにくい人と人の強い信頼関係も築き得たようだ。人が自分を育ててくれたということにも気付いてくれたようだ。釜石で出会った多くの方々から娘は、また、釜石へ戻って来ることを期待されたようだ。10月の初旬には大阪へ行く予定だと言っていた。
近所の八重の山吹 歌人でもあった源実朝も山吹を詠っている

「日本記などは、かたそばぞかし」

2012-09-29 19:23:51 | 歴史
今日は台風18号の影響が遠のいたためか雨は上がった。しかし、海岸方向の山や内陸方向の山にも霧雲がかかり、空も雲が覆っていた。日射しがないだけ気温は20度を超える程度で、半袖でちょうどいいくらいになった。何よりも梅雨のようなやや鬱陶しくなりかかっていた雨が一段落してくれた。これで日が射していると少し暑くなっていたかも知れない。娘は今朝から各NPOがそろって主催する研修に出かけた。もうNPOは辞めているので本来は参加資格がないのかも知れないが。 日本では古事記や日本書紀が最古の歴史書になるが、日本書紀などには「一書」として書名を伏して他書からの引用を記している。また、『日本書紀』推古28年(620年)に『是歳、皇太子(厩戸皇子、聖徳太子)、嶋大臣(蘇我馬子)、共に議りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び國記(くにつふみ)、臣連伴造國造(おみむらじとものみやつこくにのみやつこ)、百八十部併せて公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録す』とあり、天皇記と国記が聖徳太子と蘇我馬子により編纂されたことが書かれている。しかし、天皇記と国記はともに蘇我氏の手中にあり、聖徳太子や推古天皇亡き後も権勢を振っていた蘇我氏を中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌子(藤原鎌足)らが滅ぼした、いわゆる乙巳の変(645年)の際に焼けたが、国記のみは無事だったとされる。『日本書紀』皇極4年「蘇我蝦夷(えみし)等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」。和田家文書ではこれら天皇記・国記はすでに蘇我蝦夷により隠されていて、中大兄皇子の手には渡らず、後に平将門を通じて、東北へ送られたとされる。『日本書紀』持統5年では「八月の己亥の朔にして辛亥に、十八氏に詔して、大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿倍、佐伯、采女、穂積、阿曇 其の墓記を上進らしむ。」の記事がある。各氏の先祖の事蹟が書かれた「墓記」が提出させられている。さらに『古今集』に「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の歌を載せられている阿倍(安倍)仲麻呂や若き吉備真備も留学生として参加した養老元年(717年)出発の第九回遣唐使の押使(全権委託者)である多治比県守らは玄宗皇帝から下賜された品をことごとく書籍購入にあてて帰国している。『旧唐書』日本国伝に「「得る所の錫賚(しらい)、尽く文籍を市(あがな)い、海に浮かんで 還る」とある。この時、中国の主な歴史書はすべて購入されたとされる。こうした国内・国外の歴史書を収集し、720年に日本書紀が完成されている。一方で、日本書紀以外の歴史はないとするために「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。」『続日本紀』和銅元年(708年)とあり、山沢に逃げて禁書をしまい隠し、百日経っても自首しないものは本来のように罪する、としている。国文学では紫式部の「物語論」としてよく引用される箇所だが、『源氏物語』「蛍」の巻で光源氏は「神代より世にあることをしるしおきけるなり。日本記などは、かたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ。」と語っている。蘇我氏を滅ぼして権勢を手に入れた藤原氏が栄華を誇った平安の時代の貴族文化の中に自ら身を置きながら紫式部は、藤原不比等の命で作らせた歴史書を人の真実の一部しか表現されていない、と言い切っている。実際、日本書紀は不都合な史実が書かれたものを「禁書」として取り上げ、豪族たちの先祖の事蹟の記録を参考にし、中国の史書と無理矢理整合性を持たせようと図っている。各地から発掘されている遺跡や残された地名はすでに日本書紀で目指された神代から続く大和朝廷という意図を崩壊させている。弥生期の遺跡は北部九州に集中し、装飾古墳は大和以外で多く見出され、銅鐸は畿内を中心とする文化でありながら日本書紀には影も見せない。天皇がいるべき紫宸殿の地名は北部九州にも四国の愛媛県にも見出されている。最も残念なことは考古学者や古代史研究者が日本の歴史を近畿一元論に収束しようとして思考停止に陥ってしまっていることだ。先入観を取り払い、内外の史書や遺跡、地名、伝承などを真摯に見直せば、多様な日本の歴史が見えて来るはずだ。
甲子川の堤に咲く月見草

冤罪が後を絶たない日本での死刑執行

2012-09-28 19:18:33 | 社会
晴天の暑い日が続いた後、いきなり雨と曇天の肌寒い日が続き、今日も小雨の降る日になった。周囲の小高い山々には霧雲が立ち込め、釜石の西に聳える愛染山はまったく見ることも出来ない。こうした日は必ず一日小雨がちになる。ほとんどの人が長袖に変わった。予想最高気温は22度、最低気温が16度だ。名古屋から西はまだ30度の高さがある。台風18号は明後日にかけて関東から東北の沖合の太平洋上をゆっくりと北東方向へ移動しており、大型で強い17号もゆっくりと30日には西日本に近づき、その後は関東や東北へも移動して来る予想となっている。 今世界の先進国で死刑制度があるのは日本と米国だけである。欧州やカナダ、オーストラリア、などはみんな廃止されたり、執行が停止されている。趨勢は廃止の方向にあり、国連関連機関からは日本も廃止の方向へ勧告を受けている。しかし、現在の政権はすでに7人の死刑を執行し、昨日も先月同様2名の死刑執行を報じている。一般的にも死刑制度には反対であるが、特に日本における死刑制度には多いに疑問がある。日本の死刑制度のどこが問題かと言うと、何よりも冤罪が後を絶たないことが問題である。Wikipediaに載る「冤罪事件及び冤罪と疑われている主な事件」だけでもかなりあるが、窃盗などの小事件でも冤罪は後を絶たない。冤罪の温床がある中で死刑制度があり、死刑執行が行われることに強い危惧を覚える。死刑が執行されていなくとも冤罪で長く収監された人たちの人生は取り戻すことが出来ない。まして死刑執行後に冤罪が明らかになっても取り返しはつかない。本年6月東京高裁が再審開始を認めた東京電力に従事していた女性の殺人事件についても冤罪がほぼ明らかなために被告であったネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ氏はただちに帰国となった。15年間もの長きに渡って服役させられていた。警察庁科学警察研究所でも指紋鑑定を学び、栃木県の警察の鑑識で指紋鑑定を行い、その後、民間の指紋鑑定士となった齋藤保氏は「冤罪はなぜ起きるのか」と題する文の中で捜査機関は「一方的な都合のみ」で捜査を行うため、被疑者・被告人に有利な証明は期待できず、真の「事案の真相解明」は期待できないと言う旨を書かれている。よく言われるように冤罪の温床は自白の重視と証拠の非開示にある。取調室で無罪である人間が自白に至るには、それなりの強要があってはじめて実現される。取調室の可視化が言われる所以である。裁判では証拠が決め手になるが、これまでの多くの冤罪事件では弁護側に有利な証拠の開示が検察により拒否されて来た。中には証拠の隠滅や改竄まで行われて来ている。かって検察官として広島高検の検事長まで務められ、後に弁護士となられた小嶌信勝氏は昨年5月に亡くなられたが、氏が書かれた「冤罪防止対策の研究」で、最高検察庁の刑事部長を務めていた時に、免田事件、財田川事件、松山事件などの凶悪重大事件が、死刑などの判決が確定してから20年以上も経過していいるのに、再審事件として係属していることの異常さに気付き、自分で検討した結果、判決確定後20年以上も経過している事件には、色々問題が多いことが分かって来たと言う。弁護士となって、冤罪事件が有罪になった根本原因に共通するものがあることに驚かれた。そして、冤罪事件発生の主たる原因は、「被疑者、被告人に利益となる捜査資料」が裁判所に提出されないためであると確信されたと言う。そうした冤罪が許容される温床が残されている限り、死刑の執行は許されるべきではない。昨日付けで日本弁護士連合会、日弁連は法務大臣に向けた死刑執行への抗議声明を出している。
近所の家の軒下で今も咲く朝顔

毛人(えみし)の国

2012-09-27 19:16:23 | 歴史
今日は朝少しだけ青空も顔を見せたが、その後は雲が覆い、小雨もちらついた。昼休みに職場の裏山を眺めていると、たくさんの野鳥がやって来た。メジロやヤマガラ、シジュウカラに混じって久しぶりに小型のキツツキ科の鳥であるコゲラも認めた。身体の大きいヒヨドリの方が数の多さに負けて小さくなっているように見えた。野鳥たちには異常気象であっても餌に事欠かないようだ。しかし、月の輪熊たちには今年はほんとうに山は不作のようで、先日も新日鉄の構内や大渡橋近くの甲子川河川敷にまで出没した。家の近くの甲子川の堤を熊が歩いていたという話も耳にした。こんなことは釜石へ来てはじめてのことだ。よはど山の木の実の成りが悪いのだろう。里では柿や栗が実って来ているが、裏山の2~3本あるクルミの大木もよく見ると確かにあまりクルミが成っていない。熊と人の遭遇がなければいいのだが。 自由民主党の新総裁に安倍晋三氏が返り咲いたようだが、この安倍氏の家系は奥州安倍氏、さらには荒覇吐王国の初代王安日彦(あびひこ)に繋がり、1987年に、両親である安倍晋太郎夫婦とともに晋三氏夫婦も祖先が祀られている青森県五所川原市の石塔山荒覇吐神社を参拝している。奥州安倍氏は朝廷の支配下に入ったとして蝦夷の俘囚と言われた。「蝦夷」は後代に「えぞ」と読まれているが、かっては「えみし」であった。飛鳥時代とされる時代には蘇我蝦夷や小野妹子の子である小野蝦夷など「えみし」の名が堂々と使われている。蝦夷は「毛人」とも書かれており、中国の史書にも毛人の国について触れられている。以前住んでいた群馬には上毛の名が残っており、かっては群馬県や栃木県あたりを上毛野国(かみつけのくに)、下毛野国(しもつけのくに)などとも呼ばれている。後に群馬は上野国、上州、上毛などと表されるようになる。現在もJRの両毛線が走っている。945年に成立した『旧唐書』や1060年に成立した『新唐書』では「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」とか「南・西は海に盡き、東・北は大山に限り、其の外は即ち毛人と云う」などと記されている。いずれも東や北は大山で限られていると書かれている。通説はこの「大山」を箱根山と見ており、箱根から北を毛人の国としている。箱根山を大山などと表現するだろうか。『新唐書』は670年に日本からやって来た使者の言葉として表現しており、実際に日本に住んでいた使者の言葉である。日本人であれば箱根山を他の山と比較して大山などと表現するだろうか。近畿から箱根までの間にずっと高い日本アルプスが聳えている。「大山」の表現はむしろこの日本アルプスの方がふさわしいだろう。東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)でも荒覇吐王国の境界を新潟県の糸魚川と静岡県の安倍川を結ぶ線としている。この荒覇吐王国の領域を毛人の国と見ていたと思われる。『旧唐書』では「日本國者倭國之別種也」とされ、倭国と日本国は別物だと認識されている。『新唐書』ではさらに「用明、亦曰目多利思比孤。直隋開皇末、始與中國通」と書かれ、日本国は6世紀末の後に用明天皇と贈り名された池辺皇子(いけのべのみこ)の時にはじめて中国と通交を持ったとされている。倭国は西暦80年頃に書かれた『漢書』や512年頃に完成した『宋書』でもすでに中国と通交している。かって、日本列島は倭国と日本国と毛人国の3つに分かれていたと言うことだ。そしてその日本国領域はもともと倭国の支配下にあったが、白村江の戦いで敗れた倭国を逆に日本国が吸収し、やがて毛人国も日本国が吸収したのが日本列島の歴史であった。
秋明菊 中国原産で、日本に入って野生化したものが、海外で改良されて戻って来ている。

地方が活力を維持するためにも

2012-09-26 19:18:06 | 社会
雨が続いて一気に気温が下がったが、今日は青空が広がった。日中は気温も25度まで上がり、日射しの中を歩くとやはり暑い。しかし、昨夜などは暖房を入れようかと思ったほど寒く感じられた。この時期は昼夜の気温差が大きい。犬たちも今日はうまく日陰に隠れて、喘ぐようなこともなく、とても気持ち良さそうだ。空気はもうすっかり秋に変わった。台風18号の影響か夕方には雲が空を覆うようになった。日も徐々に短くなって来ている。夕暮れの訪れが早くなっている。庭で一輪だけ咲いていた紫陽花もさすがに終わりかけて来た。今はダリアと酔芙蓉が咲き、紫式部の実が少しずつ色付いて来ている。娘はまた仮設住宅を回ってカウンセリングを行うS先生に付き添うため出かけて行った。 昨夜は娘と釜石の若者たちの職の在り方に始まって、日本の将来にまで及んで話し込んだ。釜石で出会った若い世代の職が限られており、釜石に住み続けるそうした世代の人たちの生活が将来どうなって行くのか。これまで日本の経済や文化を支える上で地方の果たして来た役割はとても重要であった。大都会への人の供給という意味でも重要であった。しかし、これからは急速に少子高齢化が進んで行く。都会より、地方の方がそのスピードは速い。地方ほど若い世代の負担は大きくなる。その負担を支えるだけの収入が地方にいて確保出来るか。これまで維持されて来た地方の伝統芸能やまつりも担い手が減って行く。かっては米国の主力産業であった自動車や電気機器で日本は急速に米国に追いつき、追い越し、お株を奪ってしまい、経済大国となったが、今やそれらの産業は中国に移って来ている。国内の地方にあった工場は閉鎖され、関連企業までもが生産を中国に移している。岩手県では自動車部品関連の工場の新たな誘致が行われるが、これなども先々はいずれ閉鎖されて行くことが見えている。野口悠紀雄一橋大学名誉教授がIMF(国際通貨基金)と世界銀行のデータから算出したところでは2030年には中国のGDPは日本の3.5倍になる。10年後のインドは人口世界一となり、IT産業を核として、英国のかっての植民地である英語圏にあることもあって経済成長を遂げつつあり、10年後には中間層が爆発的に増加すると言われている。中国やインドはかって米国が日本のよき市場を提供してくれたように、これからの日本や世界にとっては大きな市場を提供してくれることになる。しかし、そこに日本は何を売り込むことが出来るか。これまでのような自動車や電気製品ではもう売り込みは出来なくなって来ている。野口名誉教授だけでなく、他にも何人か日本はアップル社に学べと言われている。アップルは製品のアイディアを生み出すが、生産はすべて中国で行い、高価な商品として販売する。アップルの在り方は容易に誰もが理解出来るが、同じようにアイディアを生み出せるかとなると別問題だ。米国と日本の風土差が大きい。日本はもともと集団主義的で誰もが同じように動くことを求められて来た国だ。戦後米国の文化が流入して来たとは言え、米国のような個人主義が相対的には入り込んでおらず、知識や技術を持った移民も受け入れてはいない。独創的なアイディアを生み出す点では米国には及ばない。2009年には経済産業省と民間が産業革新機構を1兆円の資金を抱えて設立されたが、現在のところ新たな産業を興す動きは見えて来ない。技術水準が今のところは維持されており、今まさに日本は新たな産業を興さなければならない。省エネや再生エネルギー分野は十分その役割を果たす一つになる。しかし、政府は原発の維持にこだわり、それらを積極的に推進する姿勢は見られない。それらを推進しようとすれば発送電分離は避けられないからだろう。ここ5年が日本にとっての正念場となるかも知れない。
甲子川の堤に咲くコスモス

噴火が作り上げて来た「富士の美」

2012-09-25 19:19:42 | 自然
昨日から雨が続いている。そのせいもあって今日の予想最高気温は20度だった。今日は高齢者だけでなく若い人たちにも長袖を着ている人が多くなった。確かに半袖だと薄寒く感じる。雨に濡れると尚更だ。平田地区のコミュニティ型仮設住宅で行われる協議会に出席する予定の娘に、今朝出かけに傘を持って出かけるよう注意をしておいた。その時点ではまだ雨は降っていなかったが、雨雲が空を覆っており、愛染山が雲で隠れていて、雨が降るのは間違いないと思われた。出勤後間もなくしてやはり降り出した。娘はむしろ半袖で大丈夫かどうか、を心配していたようだ。急激に気温が下がったため風邪を引く人も出て来た。大阪ではまだ30度になっている。 日本には「富士」と名の付く山が321もあるそうだ。以前住んでいた北海道には17の山に富士が付く。日本百名山にもなっている道東の標高1,547mの斜里岳はオホーツク富士とか斜里富士と呼ばれており、その景色は今も印象に残る。岩手県には6つあり、岩手富士とか南部片富士と呼ばれる2,038mの岩手山がよく知られる。近い所では遠野市の1,294mの六角牛山が遠野小富士と呼ばれている。残念ながら私が好きな愛染山は山頂部が富士の形であるにもかかわらず、「富士」の名が付かないようだ。生まれた愛媛県でも4つあり、中でも石鎚山系の1756mの伊予富士には子供の頃から親しんでいた。一時期を過ごした群馬県でも榛名山が榛名富士と呼ばれていた。全国で名が使われている富士山は現在の形になったのが1万年前だ。500万年前は現在の富士山がある位置はまだ海であり、丹沢は伊豆半島とともに島になっていた。その海の部分に70万年前現在の富士山の下に隠れた小御岳火山(こみたけかざん)が出現する。小御岳火山の名は現在も富士山五合目にある小御嶽神社に残されている。小御岳火山が活動を停止した10万年前に小御岳火山の南側でやはり現在の富士山の下に隠れた古富士火山が活動し始める。小御岳火山や古富士火山の北側には古せの海や宇津湖と呼ばれる巨大な湖と小さな古明見湖があった。1万年前に古富士火山の山頂から現在の富士山に至る新富士火山の噴火が始まり、5,000年前から活発な噴火を繰り返した。その頃には北側の湖は、古せの海から水が引いて行き、少し小さくなった古せの海と河口湖になり、宇津湖も次第に水を失って行き、忍野八湖と山中湖となった。古明見湖はほぼそのまま残っていた。新富士火山の活動はその後も続き、3,000年前には北側には本栖湖、新せの海、河口湖が生まれ、山中湖は一度姿を消す。現在に近い富士五湖となったのはわずか1,000年前だ。富士山は2,000年間で30回の噴火を起こしている。100~200年に一回の割合で噴火が起きている。しかし、1707年の宝永噴火を最後に300年以上沈黙している。富士山の山体崩壊もこれまでは1万年に1回だとされており、最後の山体崩壊は2900年前だ。以前には休火山とされていた富士山は2000年頃から地下深くで低周波地震が増加して来て、2008年には御殿場と富士宮の距離が2cm広がるなど、マグマの蓄積が増大しているデータが得られている。昨年の震災直後の3月15日には富士山裾野を震源とするM6.4の地震も起きており、溜まったマグマへの圧力が増している。富士山周辺には200ほどの溶岩洞窟があり、昨年の調査では鳴沢氷穴のような氷穴では氷が溶けて来ており、地熱の上昇が見られている。数々の地震や噴火の予測を的中させて来た琉球大学の木村政昭名誉教授が予測する地震や火山噴火で最も近いものは首都直下地震や南海トラフの3連動地震、東北沖地震とは異なり、富士山の噴火だ。2015年プラス・マイナス3年とされている。
万葉集には東国の防人が詠った野生のバラの歌が残されている

日本の考古学の遅れは何故なのか

2012-09-24 19:18:26 | 歴史
朝には降っていた小雨も午前中には上がった。昼休みに職場の近所を少し歩いてみた。時々日射しが射して来るが、もう吹く風が熱くなく、秋のひんやりとした風になっており、1週間前のように汗が出ることはなくなった。出会う高齢者はみんなもう長袖を着ている。大通りを一歩裏手に入るとまだ配管や配線がむき出しになった建物がいくつも取り壊しを待って立っている。中には新築まもなく被災したと思われるきれいな建物もある。1~2カ所は被災前と同じように個人が生活を始めている家もある。消防署も今ちょうど取り壊されている最中だ。すでに建物が取り壊された跡には雑草が茂り、月見草や猫じゃらしが風に揺れている。昨日の共同通信を見るとかって秋田県の田沢湖だけに棲息していた日本固有の鱒であるクニマスは1940年以降、絶滅したと考えられていたが、2年前に富士山の裾野にある山梨県の西湖でクニマスが捕獲され、同湖で棲息していることが確認されたようだ。1960年代に田沢湖から西湖へクニマスの卵が放流された記録があったが、棲息の確認がとれていなかった。現在は山梨県でも人工繁殖に成功している。かっては東北の湖に広く分布していた淡水魚だったのだろう。東北には古代に蕨手刀(わらびてとう)という固有の刀もあった。これまでの歴史学では東北や北海道の鉄の文化は稲作同様に西日本に比べてずっと遅く伝わったとされて来た。しかし、北海道羅臼町の墳墓遺跡である植別川遺跡からは1~2世紀の鉄製刀子が銀製の装飾が施された鞘とともに出土している。銀製品としては日本最古だと考えられている。宮城県大崎市の中鉢美術館によれば秋田県の秋田城周辺からはウクライナを中心に活動したスキタイ(紀元前8世紀~3世紀)やモンゴル高原を中心に活動した匈奴(紀元前4世紀~5世紀)の間で使われたアキナケス剣が出土している。釜石に近い山田町の7世紀後半から8世紀前半とされる房の沢第四遺跡古墳群では35基の円墳と4本の蕨手刀が見出されている。蕨手刀は北海道から九州まで広く二百数十本以上発掘されているが、東北中心に北海道から関東や長野県に多く分布し、中でも岩手県は郡を抜いて七十本以上が見出されている。日本の考古学は未だに土器編年が使われており、炭素14による科学的な年代測定が遅れている。炭素14による科学的な調査により、弥生時代も500年遡るとされた。東北や北海道の鉄や鉄製の刀の年代測定も炭素14を使った科学的な調査が行われれば、いずれも年代がさらに遡る可能性が強い。にもかかわらず、東北の考古学者すらが東北の鉄の発掘と大和朝廷からの伝播を結びつけようとしている。そのため岩手県庁のHPでは蕨手刀について「信州地方から古東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられています。」とされる。蕨手刀は発掘状況を見ればどう見ても東北が中心の東北固有の刀であることは明らかだ。近畿では正倉院に残されているわずか1本しかない。四国や九州でもそれぞれ2本である。中国地方ではまったく見出されていない。東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)をはじめとする和田家文書を見れば東北は西日本よりはるかに古く、黒龍江(アムール川)地域を介した西アジアとの交流を通して鉄製品や鉄の技術を手にしている。日本の考古学が土器編年などの古い非科学的な手法にこだわるのは九州や東北の近畿以上に古い歴史が明らかになることを恐れているとしか思えない。欧米の考古学では常識となっている炭素14年代測定法など科学的な年代測定が何故積極的に行われないのか。考古学も歴史学も日本では近畿の王朝が先進の唯一の王朝であることを前提にしているため九州や東北、北海道、関東の遺跡出土品の十分な説明が出来ていないだけでなく、無理な近畿王朝へのこじつけがなされている。科学的な年代測定が行われれば日本の歴史は大きく書き換えられるだろう。
しらふの昨日の酔芙蓉(すいふよう)

酔いが回った今朝の酔芙蓉

知の低下

2012-09-23 19:17:34 | 社会
今朝は曇天で今にも雨が降りそうな雲行きであった。昼頃から小雨が降り出し、夕方には本格的に降り出した。最高気温は24度で最低気温は16度の予想だ。1週間前とはかなり気温が違っている。半袖で外へ出ると雨のせいもあって肌寒さえ感じるほどだった。9月には東京へ出る予定であった娘も少し考えが変わったのか、10月に大阪へ行くことにしたようだ。しばらくは大阪で過ごすことになるようだ。息子も今は大阪でゴスペルに専念する傍ら、英語とピアノを独習しているようだ。 高度経済成長期の後半は全国的に大学や高校は多いに荒れた時代でもあった。既存の権威を否定し、言論も様々に展開された。大学人にも気骨のある人が多く見られ、言論界にも自由と民主主義の立場で発言する哲学者や思想家、評論家がいた。彼らは明治末期から昭和の初期に生まれた人たちが多く、いわゆる大正デモクラシーの流れの影響も少なからず受けている。大正デモクラシーも明治の日本国家の基盤が固まった状況の中から生まれて来ている。国としての体制的基盤が固まった時期にある意味ではその体制の欠陥をつく言論が生まれでているとも言えるのかも知れない。ソクラテスやガリレオのように正しいと自覚されたことには自説を曲げようとしない気骨のある賢者はなかなか得難い。それでも現在に比べれば高度経済成長期には多くの哲学者や思想家、評論家がいた。ある種の賢者とも言える人びとだった。大学人にもそうした賢者がいた。しかし、その後は徐々に国の研究、教育機関への介入が強まり、研究、教育機関もまたそれを受け入れるようになった。かって唱えられた「学問の自由」などという言葉はもう死語となってしまった感がある。東北へはじめてやって来て以来、東北の農・漁業の中に残されている風習や民俗芸能に触れ、自然の豊かさに出会う中で、東北の古代の歴史の定かでないことに疑問を持つようになった。東北の古代史を調べるうちに古田武彦氏の著作に出会った。そのうち、昨年の大地震と津波が襲い、原発事故が起きた。地震や津波、原発事故を調べる過程でもそれぞれの分野の多くの研究者に出会った。そこで気付くのはやはり多くの著名大学の学者が現状を肯定的に捉えており、現状に異議を唱える研究者が無視され続けている状況があることが見えて来た。現状の肯定が決して論理的ではなく、素人から見ても明らかに偏りを見せていてることが多いことが分かる。それだけ、学問が科学的ではなくなって来ている。知性の低下だ。先日、国立教育政策研究所は全国学力テスト4回分の分析結果を発表したが、小学、中学の生徒たちの学力がまた低下していた。大学や研究機関の知性が低下しておれば他のすべての教育機関の知性が低下するのは必然であるとも言えるのではないだろうか。科学的論拠に欠けることが大学や研究機関でまかり通り、それらを主張する人びとが大学や研究機関で権威を持つ。従って、ますます大学や研究機関では異論を主張する研究者が排除されて行く。学会もそうした研究者は無視する。自由な学問的議論はまったくなされない状況が生まれている。これはもう学問とは言えないだろう。欧米には様々な問題があるが、相対的には少なくとも日本の学問の世界よりはまだその点で勝っている。国力の低下を防ぐには何より大学や研究機関の知性の維持が重要だ。中国やインドなどアジアの台頭する中で日本が生き残るためにも知性を高める必要がある。そのためには自由、かっ達な研究、教育環境が整えられねばならない。教育を考えてもかってのような個性ある教師は見られなくなった。個人の個性が閉じ込められた教育や研究では個性ある日本の将来など望むべくもない。これから予想される地震や津波を考えれば、原発など直ちに廃棄されなければ日本は間違いなく滅亡するとさえ言える。そうした中で少しでも国力の回復に期待出来るのが、大学や研究機関の知性のはずだ。現況を見ると日本の将来は決して楽観出来るものではないだろう。
今もまだ咲いている松葉菊

庭の虫たち

2012-09-22 19:21:10 | 文化
予報通り今日は秋めいた日になった。家の内外でとても過ごしやすい。とは言え、日射しはまだ強く、空気だけは秋の空気になっている。犬たちにもさすがに直射の日射しはまだきついようで、日陰を選んで休んでいた。我が家の庭には植木や花がたくさんあるが、よく観察していると様々の虫たちも多くいる。一つ一つを見れば中には決して気持ちのいいものではない虫もいるが、それだけ自然が豊かだと言えるだろう。昨日、札幌育ちの娘に土蜘蛛の巣を見せた。玄関近くにあるその巣は気をつけなければ見過ごしてしまう。娘にとって土蜘蛛の巣を見るのははじめてのことで、そもそも土蜘蛛などというものがいたことすら知らなかった。我が家のすぐ近くには大きな街灯が立っており、毎晩その街灯には羽根を広げると10cmほどの蛾が何匹か必ず飛んで来る。街灯に群がる虫たちを狙ってジョロウグモたちが巣を張っている。そのジョロウグモの巣にはほとんど毎晩蛾が何匹か絡まってしまう。絡まってしばらくして蛾の動きが鈍ると大きなジョロウグモの雌が一瞬にして近づいて蛾を麻痺させてしまう。その後ゆっくりと糸でさらにしっかり蛾を固定する。そうした雌のジョロウグモの作業中も小さい雄が交尾の機会を狙って、雌に近づくため上から糸を伝って下がって来る。しかし、雌に近づくのは容易ではなく、何度も逃げてはまた接近しようとする。蛾も大きいため朝までには処理し切れず、朝になるともうそのクモの巣を見知った鳥たちがやってきて、巣に絡んだ蛾を捕らえて飛び去って行く。毎日これを繰り返している。それを考えると近辺にはそれほどたくさんの蛾がいると言うことになる。娘にもこの話をするとさっそくジョロウグモの巣を見て、ジョロウグモの雌の大きさに驚いていた。豊かな自然とともに暮らすということはこうした虫たちとの出会いもある。広い庭のあった子供の頃の家ではこうした虫たちはごく自然に見かけられた。しかし、娘のように都会地で育つと虫たちとの出会いの機会はずっと限られてしまう。東北より暑い四国では家の中にまでムカデが侵入して来たこともあった。沖縄で過ごした職場の同僚の話では沖縄だと朝起きると巨大な蜘蛛やムカデなどがいつも家の中に侵入して来たと言っておられた。ゴキブリなども本州のものよりずっと大きいそうだ。都会育ちの娘も震災直前から釜石で過ごすようになって、家の庭に出ることが多くなり、時には草を取ったりするようになると、虫が多いのに驚いていたが、最近はそれにも慣れて来たようだ。虫が多ければ、虫を餌とする小鳥たちもたくさんやって来る。以前などめったに見られないキレンジャクまでやって来たことがある。すぐそばの甲子川では飛ぶ宝石とも言われるカワセミやヤマセミまでもが見られる。自然が豊かであるあるということは単に植物が豊かであると言うことではなく、生き物すべての種が多く棲息していると言うことでもある。今も鳴いているコオロギやキリギリスも含めた虫たちの豊かさが自然の豊かさが保たれるためにはとても大切だ。
鳥たちに蛾を奪われた大きな雌のジョロウグモのそばに小さな雄が控えている

加速的に膨張する宇宙

2012-09-21 19:23:17 | 自然
昨夜も雨になり、気温が下がり過ごしやすい夜だった。今朝も空を雲が覆っていて、小雨がぱらついていた。昼前には本格的な雨になり、暑さは消えてしまった。このままもう30度の暑さに戻ることはないだろう。雨の上がった午後、いつものように車で甲子川沿いに他施設の応援に出かけていると、川ではのんびり釣りをする人を見かけた。先日も鮎を釣っている人を見かけた。夕方暗くなって来ると戸を開けていると寒くなって来た。突然に秋に入ってしまったようだ。 北海道と同じく岩手県へ来てからも晴れた日の夜は星を眺めることが多い。釜石は南北を山で挟まれているため、北海道より眺められる夜空はずっと限られている。それでも星空を眺めていると地上の出来事がちっぽけに感じられ、地球が宇宙に無数にある星の中の一つでしかないことを思い出させられる。これだけの無数の星の中にはきっと生物のいる星もあるだろう。わずか90年ほど前まではこの宇宙は静止したものだと考えられていた。1915年にアインシュタインが発表した一般相対性理論では宇宙は静止したものとして考えられていた。しかし、1929年、エドウィン・ハッブルは距離が遠い銀河ほど大きな速度で地球から遠ざかっていることを発見した。以来、宇宙が膨張しているという研究結果が次々に出された。137億年前のビッグバンから宇宙の膨張が始まった。しかし、膨張の中心はなく、宇宙全体が膨らんでいるのだという。1998年まではその宇宙の膨張も減速して来ていると考えられていたが、同年米国カリフォルニア大学バークリー校のサウル・パールムッター教授ら3名の研究者によって宇宙の膨張は加速していることが明らかにされた。この3名は昨年、ノーベル賞を受賞している。同じ1998年にシカゴ大学のマイケル・ターナー教授は宇宙を膨張させているエネルギーを「暗黒エネルギー(ダークエネルギー)」と呼び、宇宙に存在するエネルギーの73%を占めるとされる。しかし、その後「暗黒エネルギー」はその正体はもちろんだが、その存在すら証明されていなかったために、2009年にはカリフォルニア大学デービス校の数学者らによって、アインシュタインが一般相対性理論の中で導き出した、重力と物質の関係を記述する場の方程式に対する解が提示され、暗黒エネルギーを持ち出さなくても宇宙膨張の加速について説明することができるという新理論が打ち出されたりした。これまでも様々に暗黒エネルギーの本質に迫る観測が実施されて来たが、いずれも宇宙の加速膨張を間接的に調べるもので、また不確実性の影響も受けやすかった。2003年になり、暗黒エネルギーの存在に関する確実な証拠を理論化した「ザックス・ヴォルフェ効果」が初めて検出されて暗黒エネルギーの存在が示された。しかし、検出された値が小さかったため、疑問も呈されていた。去る9月12日ドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンと英国のポーツマス大学の研究チームが2年にわたる研究で99.996%の確率で暗黒エネルギーが存在することを証明した。米国では62枚もの撮像素子を配置する5億7000万画素というとほうもない画素数の巨大なデジタルカメラ、ダークエネルギーカメラ(DECam)を開発した。DECamは80億光年先の光を検出可能で、当時の宇宙の姿が確認できる。そしてこのほど南米チリのセロ・トロロ汎米天文台に設置されたDECamによるはじめての画像が公開された。80億年前に宇宙の彼方から発せられた光が像を結んで、宇宙の一端が映し出されている。本年12月から本格的な観測が始まる。暗黒エネルギーの存在は明らかとなったが、まだまだその性質は明らかでなく、仮に暗黒エネルギーが加速度的に増えると宇宙空間は無限の大きさになり、銀河や星、さらには原子までがバラバラに引き裂かれてしまうという。どこまでも膨張し続ける広大な宇宙の無数にある星のの中の小さな一粒の星が地球なのだ。
木槿(むくげ)の花の蜜を吸いにやって来た蜂