釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

「盛岡冷麺」の由来

2010-11-30 12:59:53 | 文化
職場に花巻出身の方がおられるので、先日食べた白金豚やほろほろどりの話をしていると、わんこそば、じゃじゃ麺とともに盛岡三大麺と言われている「盛岡冷麺」の由来を聴かせていただいた。東北には鉱山がいくつかあり、戦争中にはその鉱山にたくさんの大陸からの強制労働者が連行されて来ていた。私の出身地でも別子銅山があり、戦争中は多くの中国人や朝鮮人が収容所に入れられ、強制労働に従事させられていたそうだ。戦後、朝鮮人の一部は残留し、子供の頃、そうした人たちが住むところを「朝鮮」と言う特殊な地域と言う感じで教えられた記憶がある。東北では秋田県大館市の花岡鉱山で起きた虐殺事件が有名だそうだ。800名ほどの中国・朝鮮の強制労働者が現在の鹿島建設の監督官たちから虐待を受け、集団で脱走して、捕まった後、様々な方法で半分の400名が虐殺された事件だ。秋田に比べ岩手の松尾鉱山は扱いが多少違ったのか、そうした事件は起こらず、戦後、朝鮮から来ていた人たちは盛岡に住着き、ごく自然に街に溶け込んで行ったようだ。そうして盛岡に住むようになった朝鮮半島北東部の咸興(ハムフン)出身の方が昭和29年に盛岡で食堂をやり始めて、故郷の冷麺をメニューに入れたそうだ。ただ朝鮮半島での冷麺の本場は半島の北西部にある平壌(ピョンヤン)で、そこの冷麺とも違っていたため「盛岡冷麺」となったと言う。朝鮮半島での冷麺は夏の食べ物ではなく、寒さが厳しい半島の冬の食べ物だったようだ。身体がほてるほどオンドルで暖められた部屋で冷たく酸味のある腰のある麺を食べる。「そば粉の麺に、大根や白菜のキムチ(トンチミ)と豚肉をのせ」て作られたようだ。この「キムチ」は本来は唐辛子を使わないものだったそうだ。確かに冬でも暖房で暖かくなると冷たいものが欲しくなることがある。北海道の冬等は特に暖房が行き届いているせいで、汗をかくことすらあった。冷麺はむしろ北国の生活の中から生まれた食べ物だったのだ。

風で吹き集められた落葉

北に向いた拝殿の意味ー胡四王神社

2010-11-29 12:54:04 | 歴史
今朝は愛染山やその周囲の山が雪を冠っていた。今週水曜日には予想最低気温がー3度となっている。秋が終わって確実に冬に入って行く。先日花巻の宮沢賢治の童話村を訪れた際、昼食を宮沢賢治記念館のところにある山猫軒で摂った。ほろほろどりのチキンカツ定食を頼んだが、初めてのほろほろどりの味はあっさりとしていて美味だった。昼食後は同じ胡四王山山頂にある胡四王神社を再訪した。拝殿が北を向いている事が特徴的で、新潟県や秋田県でも見られる。「胡四王」の「胡四」は「越」である。つまり、「越」の国の王を神として祀った神社である。ところで和田家文書の「奥州風土記」に「奥州一統信仰之事 荒覇吐石化保野利我古神」の記事があり、「我が日乃本国は唐書にある如く、故主は耶摩堆国の阿毎氏、安倍なり。即ち、阿毎氏とは古き世に、山靼より、満達、朝鮮を経て越州にたどりて加賀の犀川に居住し、白山神三輪大神を祀り、地民と染むるに国を 耶摩堆に拡め、耶馬止王とて君臨せる故事ありき。」(「耶摩堆」の「摩」は「手」が「非」)とある。山靼=ユーラシア大陸からやって来た阿毎氏=安倍氏は最初「越」の犀川に居住し、すでにやはり山靼からやって来て住着いていた地民と一緒になったとされる。北陸から東北にかけて見られる胡四王神社の「胡四王」は本来「越」の国の王であるから、秋田や岩手で祀られていることにすっきりしないものを感じていた。しかし、この「奥州風土記」の記述からすると「胡四王」は阿毎氏=安倍氏を指している可能性がある。阿毎氏=安倍氏であれば荒覇吐王でもあり、荒覇吐国は「坂東の阿毎川」を境に東方を支配していたこともあり、越も含まれていた。彼らは山靼からやって来ており、故地である北方の山靼に向けられた拝殿が胡四王神社の拝殿であったのではないだろうか。(和田家文書では東西の山靼国があり、西山靼はバイカル湖や沿海州を指すようだ)

胡四王神社(花巻) 見晴らしのいい胡四王山山頂で、北向きの拝殿を持つ

晴天の花巻

2010-11-28 12:41:13 | 文化
昨日は岩手に残った娘の希望で花巻へ出かけた。以前には花巻の宮沢賢治記念館へは何度か行っていたが、そのそばにある宮沢賢治童話村はいつも素通りしていた。今回娘が是非ここへ行ってみたいと言い出した。広い敷地の中には池や川もあり、大きな建物が2カ所に建てられていた。「賢治の学校」と「賢治の教室」があり、「学校」は賢治のメルヘンの世界が各部屋に表現されていて、教室は賢治の童話に登場する「植物」、「動物」、「星」、「鳥」の展示と「森の教室」、「森の店っこや」などのログハウスが並び、じっくりと時間をかけて楽しむ事が出来る。一通り回って、帰ろうとすると、庭園を管理されている方が話しかけて来られた。池にはアメンボーや国内の8割のトンボが飛び、雑木林には玉子茸が自生して、天然のほんとうの赤の色を見る事が出来るそうで、わざわざ玉子茸の携帯写真も見せてもらった。夏には必ずまた来てみたいと思った。特に2cmほどの八丁トンボまでいると聴けば尚更だ。童話村の後は未見の北上川にあるイギリス海岸に向かった。泥岩が露出してイギリスの海岸に似ていたことから宮沢賢治が「イギリス海岸」と名付け、農学校の生徒たちと泳いでいた場所だ。行ってみるとその岩はほとんど見えず、地元の人の話では台風のために流れが変わって、岩の群れは水没してしまって、「イギリス海岸」ではなくなってしまったそうだ。次に少し離れれるが高村光太郎の山荘へ出かけた。昭和20年から疎開の目的で7年間住んだところだと言う。駐車場に車を止めて少し雑木林のそばを歩くと大きな建物が見えて来た。「山荘」なのにこんなに大きいのか、とちょっと疑問に思ったが、建物に着いてから納得した。「山荘」自体はむしろ小さく、小さいだけでなく、あまり厚みのない土壁で囲まれた、まるで農家の物置のような粗末な造りで、強風でもあれば崩れてしまいそうな建物のため、それを保護するための二重の建物が造られているために外から見ると大きく見えたのだった。土間と囲炉裏のある一部屋があるばかりで、雪の多い季節にはかなり寒かったのでは、と思われた。山荘周囲には人家はなく、当時はほんとうに生活も大変だったろうと思う。駐車場にもどると小さな店に甘酒の字が見えたので甘酒を飲んで一休みする事にした。光太郎が好んだと言う「光太郎そば」350円とあるのも気になったが・・・。お店の方も応対が気持ちよかった。娘の希望で市街地の銀河モールへ戻り、そこで娘は1時間ほど店舗を見て回ったようだ。もう暗くなっていたが、花巻の「白金豚」農場直営店である「源喜屋」で白金豚のしゃぶしゃぶを食べようということになり、市役所近くのその店へ出かけた。1人前980円で、おじやが250円、白金豚の串焼きが1本200円で、食べると味がすばらしく、それらの値段がひどく安く感じられ、娘などは、「あれでほんとうに商売がやって行けるのかな?」と不思議がっていた。ここは是非再訪したい店だ。店員の対応も非常にいい。この日一日大満足の娘を乗せて暗い夜道を釜石へ向かうと、満天の星に感動させられた。

宮沢賢治の童話村 右に見えるのが「賢治の学校」、左がログで造られた「賢治の教室」

「賢治の学校」の最初の部屋「ファンタジックホール」 賢治自身をイメージした部屋だそうだ

賢治の教室の一つ「鳥の部屋」

岩石が沈んでしまった北上川の「イギリス海岸」

高村光太郎の「山荘」 日射しで時を確認していたのだろうか

岩手の固有の自然と歴史

2010-11-27 12:50:25 | 文化
岩手の、釜石の自然は非常に豊かで、この自然の豊かさはある種の宝だと思う。しかし、その自然の豊かさに地元の人の多くが気付いてなくて、関心を示さない。この前まで来ていた息子やまだ釜石に残っている娘も若いせいかそうした自然への関心はあまりなさそうだ。むしろ人と人の交わりを重視する。それはそれで大切な事なのだが。岩手や釜石の自然の豊かさも大半が山や海なので、実際、山へ入って山菜を採ったり、海で魚を釣ったりしなければ、分からないのかも知れない。またたとえ分かってもその人の日常生活とはあまり関係がないのかも知れない。先日大阪へ帰った息子が「釜石にはアミューズメントパークのようなものがなく、つまんないよね」と言っていた。若い世代の発想はどうしてもそっちへ行ってしまうのだろう。新鮮な山菜や魚介類が好きでなければ関心も湧いて来ないだろう。この豊かな自然は一歩誤ると危険でもある。毎年のように山菜採りの人が山で行方不明になっている。熊との遭遇もある。海も油断をすれば危険が一杯だ。やはり海や山を熟知した人を通じて実際に豊かな山や海を体験できなければ、この自然の豊かさへの関心は生まれて来ないのかも知れない。まして、この一見自然しかないように見える岩手にこの自然とともに生きた人たちの過去のまさに豊かな歴史があるなどということへ思い至ることは難しいのだろう。多くの人が何もないと感じるこの岩手に自然と歴史の豊かさを感じるのだが、また、それらはほんとうにすばらしい岩手の財産でもあると思うのだが。それらは他の地域では得られないもので、岩手固有のものなのだからそれらをこそ外に向かって胸を張って訴える必要があると思う。そこに岩手の活性化の糸口を見出すべきだと思うのだけど。

秋の日射しの中で咲くバラ

「安比」を考える

2010-11-26 12:59:50 | 歴史
先日、大阪へ行く家人と息子を花巻空港へ釜石に残る娘とともに送りに行った。空港で食事を摂ったが、空港での食事は決まって空港ビル内の唯一のレストランである「レストラン安比高原(あっぴこうげん)」で摂ることになる。値段は場所柄やや高めに設定されているが、味は悪くない。岩手の短角牛の肉を使ったカレーがお気に入りだ。八幡平(はちまんたい)牛の肉を使ったハンバーグも美味しい。このレストランは八幡平のそばの安比高原で全シーズンのリゾートを展開している会社が経営している。岩手に引っ越して来た時、以前最初に北海道で勤めた場所で知り合ったご夫婦が八幡平付近に住まれている事を思い出した。その時、地図を見て釜石からの距離を調べたりもした。地図で八幡平の近くに「安比」と言う変わった地名を見つけて、これも「アイヌ語地名」の一つなのだろうか、と漠然と考えていた。空港からの帰路、しばらく車の中で娘と話した後、ふと、この「安比」のことを思い出した。津軽では古代に安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)兄弟が先住の阿曽部族(あそべぞく)、津保化族(つぼけぞく)を統一して荒覇吐(あらはばき)王国を建て、王都を閉伊(へいい)に移した事もあった。この閉伊は大半が岩手県内に位置する。和田家文書によればこの安日彦王の名前から安比嶽の名前が由来していると記されている。安比嶽は安日嶽であり、安比川は安日川であったようだ。安比川は馬淵(まぶち)川となり、馬淵川流域がまさに閉伊であり、この流域に遺跡がたくさん遺されている。残念ながら、それらの遺跡が発掘されても単に無名の蝦夷(えぞ)のものだろうくらいにしか考えられていない。かっての偽書キャンペーン以来、和田家文書も他の偽書同様に古代史や考古学を仕事とする人たちにとっては考慮に値しないものとして扱われている。しかし、東北の考古学はむしろ正史だけに頼っては理解不能な部分が多過ぎるだろう。和田家文書を遺した秋田孝季(たかすえ)は矛盾する内容も承知で記録し、その真偽については後代の人の探求に任せる旨のことを書いている。1800年前後の日本各地に遺された東北の安日彦・安倍氏に繋がる秋田家関連の伝承を記録したものだ。東北の遺跡を考えるとき、この伝承記録を参考にすることが史実を明らかにすることへの大いなる助けになるように思われるのだが。

大菊(厚走り)

『天皇記』・『國記』のために滅んだ蝦夷

2010-11-25 12:50:12 | 歴史
『日本書紀』推古28年の是歳条に「是歳、皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、巨連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す」とあり、皇太子=聖徳太子と嶋大臣=蘇我馬子が『天皇記』・『國記』を編纂したと記されている。通説では蘇我馬子が亡くなった後の645年中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂らは蘇我氏宗家親子の専横を理由に蘇我馬子の孫の蘇我入鹿(いるか)を暗殺し、続いて、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(えみし)の館に火を放ち、自害に追い込んだ(乙巳の変いっしのへん)。この時、日本書紀では「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」として、『天皇記』は焼失したが『國記』は残ったとしている。ところが和田家文書『丑寅日本紀』によると蘇我蝦夷は自害する前に蘇我倉山田石川麻呂に『天皇記』・『國記』を託し、石川麻呂は「遠けき坂東の武蔵国和銅釜萢邑なる荒脛巾神社に秘蔵」し、このため石川麻呂は流刑となったとされている。この荒脛巾神社は「世々に降りて平将門、此の社を神皇社とて祀りき」とあり、『天皇記』・『國記』は平将門の手で守られた後、天慶の乱で平将門が討たれると仏像内に秘された二書は遺品として「秋田生保内に住むる将門息女楓姫に届けたり」とされ、さらに楓姫により「東日流石塔山に奉寄せるものなり。」となっている。中大兄皇子(天智天皇)らもこの二書が隠されたものだと心得ていたからこそ「蘇我氏の陵墓を掘り荒した」。そして執拗にその後も二書の行方を探索し、東北に秘蔵されていることを知り、東北に追い求める事になる。古事記・日本書紀はアマテラス以来神武天皇を通して日本の統治者として天皇家の血脈が続いて来たことを記しているが、『天皇記』・『國記』はそれとは全く異なる歴史が書かれている。各地に諸王がおり、選出により天皇が置かれたこともあり、いわゆる万世一系などとはほど遠いのである。だからこそ中大兄皇子(天智天皇)にとっては「不都合な真実」が記された『天皇記』・『國記』は何としても見つけ出して、抹殺しなければならない対象であった。それは天皇家にとっての悲願であり、それ故にそれら二書を秘蔵していると睨んだ奥州安倍氏や奥州藤原氏を源氏を利用して徹底的に探索し、見つからなければ、火を放って焼失させようとした。『天皇記』・『國記』は結局津軽石塔山に秘蔵されたまま和田家によって守られて来た。中大兄皇子(天智天皇)らによって滅ぼされた蘇我氏はいずれも卑字である「馬」子、「蝦夷」、入「鹿」を使った名前で記紀に記されている。そして二書の提出を拒んだ蘇我蝦夷に由来して二書をやはり秘蔵する東北を「蝦夷」として蔑んだ。そして現代に至って、こうした内容を記した和田家文書は『東日流外三郡誌』をはじめ偽書として執拗に排斥キャンペーンが張られて来た。いつの時代もこの二書を秘蔵して来た者は排除される運命にあるようだ。

小菊たち

7世紀以前の史実は疑ってみる

2010-11-24 12:58:17 | 歴史
1990年に実施された新潟県の八幡林遺跡の発掘調査で「沼垂城」(ぬたりのき)と墨書された薄板が出土し、注目された。日本書記という史料でしか確認されていなかった史料上最古の「柵」が実在する事が示されたからだ。日本書紀によればいずれも越後国にある647年に置かれたとされる渟足柵(ぬたりのき)=沼垂城、翌年設置されたとする磐舟柵(いわふねのき)、そして658年設置の都岐沙羅柵(つきさらのき)などが古い柵となり、その後は709年の出羽柵まで史料上は設置されていない。7世紀に設置された越後国の3つの柵もどこにあったのか場所は現在も比定されていない。仙台市の郡山遺跡群は東西約800メートル、南北約900メートルにもなる約60ヘクタールの遺跡で官衙とその付属寺院の跡とされている。早期のものは7世紀中葉から7世紀末葉であり、概ね越後国の3つの柵が設けられた時期に当たる。付属寺院まで備わり、構造的に律令制下の国衙や郡衙とも異なっていて、正史にも載らないこの大規模な遺跡を越後国の3つの柵同様にあくまで近畿王権によって設けられたものとしかみなされていない。東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書からするとむしろこれらの柵や遺跡は東北の「蝦夷」により設けられた可能性が高い。仏教を重んじた安倍氏や奥州藤原氏は自分たちの来歴を記した古文書を有していたはずだ。しかし、一瞬にして津波により崩壊した十三湊や頼朝の攻撃にさらされて消滅した平泉は安倍氏や奥州藤原氏に関する古文書をすべて失ってしまった。あるいは奥州藤原氏についての古文書の一部は頼朝の手から都へ渡った可能性もあるかも知れない。どちらにしても都では東北の栄華は認められるものではなかったはずなので、東北の史実は尚のこと伏せられてしまっただろう。古田武彦氏の説くように7世紀以前の史実に属するものは大いに疑ってかかる必要がある。教科書的には7世紀はすでに近畿王権の支配が東北に伸びて来ていたとされるからだ。

淡い秋

自然とインターネット

2010-11-23 12:52:29 | 文化
昨日までここ何日かは11月らしくなく日中は20度近くまで気温が上がり、暖かく気持ちがよかった。今日からまた例年の11月に戻るようだが。例年だと今月半ばにはスタッドレスタイヤに変えているのだが、今年は今のところまだ変えていない。しかし、仙台から来られている方の話ではもう種山高原付近の道路では朝車がすべって路肩に事故で潰れた車を見られたそうだ。遠出にはやはりもうスタッドレスに変えておいた方が無難のようだ。先の日曜の朝には冬期の釜石の行事である鹿の駆除も始まったようで、家のすぐ近くの山から鉄砲の音が何発か響いて来た。風で山の木の葉もかなり散ってしまったので鹿たちも隠れ場所があまりないだろう。釜石のように自然は豊かだが産業が今ひとつ振るわないところではマンネリ化と情報不足を補い、利便性を確保するためにどうしてもパソコンとインターネットが必要になる。地方ほど車が必要なのと良く似ているかも知れない。我が家ではパソコンは一人一台体制になっている。無線LANがあればどの部屋にいてもネットとの接続が可能になる。若い頃に良く聞いたフランスのあるシャンソン歌手のあるお気に入りの歌がCDで出ていないかかなり探したが見つからず、同じ思いの人がやはりいるようでその人も自分のブログでその歌だけはCDで見当たらないと書いておられた。YouTubeには世界中から動画が寄せられており、たくさんの懐かしい歌も聴く事が出来るし、曲を含めた動画をダウンロードして、そのファイルから音楽だけを抽出して、自分用のCDに焼いたり、iPodに入れて聴いたりすることもできる。YouTubeでもその曲をこれまで何度か探して来たが、どうしても見つけられなかった。それが先日の日曜の朝、鹿撃ちの鉄砲の音を聴きながら、だめもとだと思ってGoogleを検索していると偶然ロシアの動画サイトにあるのを発見した。ちょっと前まではMacのブラウザであるSafariで直接YouTubeなどの動画ファイルを取り込む事ができたのだが、最近はそれができなくなった。まして、相手はロシア語のページだ。仕方がないので、Macのパソコン内で出ている音を録音できる無料ソフトを探し、すぐ見つからなかったので、古いソフトを再びインストールした上でロシアの動画をスタートさせ、流れる歌を録音した。録音したファイルは簡単にiTunesが拾ってくれて、久しぶりに聴くそのシャンソンを堪能した。趣味のものも含めいろいろ本や欲しい物はほとんど現在はネットで購入している。価格を含め品数も地元ではどうしても選択幅が限られてしまう。よほどネットのほうが広く選択できるからだ。

例年家の前に並べられた丹念に育てた菊を楽しませていただいている  細管の菊

三陸の地震

2010-11-22 12:52:40 | 自然
先週金曜日と昨日、三陸沿岸では地震があった。金曜日の地震はちょうど先日このブログで地図を載せたとどヶ崎の沖合が震源地で震度は3であった。昨日の地震は宮城県沖を震源地とした震度2の地震だった。三陸沖合の日本海溝では陸側の北米プレートと太平洋の太平洋プレートが交わるため三陸ではよく地震がある。日本は周囲をプレートで分断されており、どこにいても地震があって不思議はないが、三陸はやはり頻度が多い。まあそれだけエネルギーが小出しされているので極端な大エネルギーが貯まらないで済むのかもしれないが。家人は富士山の麓の御殿場出身だが、今富士山も大きく変化しているようで、全体が膨張しているのだそうだ。ちなみに、富士山は昔休火山だと習ったが、新しい分類では活火山なのだと言う。この富士山の膨張はやはりプレートの影響なのだろうか。これまで住んで来た北海道や愛知県でも何度か地震を経験して来た。北海道では比較的大きな揺れにも出会った。従って地震自体はある意味慣れてしまったが、釜石での地震はこれまでと異なり、地震の時は揺れが来る前に地鳴りが必ずある。この地鳴りはこれまで経験した事がない。2~3秒間まず地鳴りがあり、その後に揺れがやって来る。何故、釜石は他と違って地鳴りがあるのか考えてみた。無論正確ではないかも知れないが、この三陸は地下が固い岩盤になっており、そのせいで震動が音として先に伝わって来るのではないかと考えている。山肌を見ていても、時々強い風か雨のために崖が崩れて固い岩肌が露出しているところを見かける。甲子川に沿った市街地は大半がかっての甲子川の川底だった場所なので少し掘ると砂利がやたらと出てくるが、そのさらに下には岩盤があるようだ。ドッドッドッドッドッーと言った感じの地鳴りが来ると、何をしていても独特のその感じですぐに気付く。最初の頃はその地鳴り部分にひどく怖さを感じたが、慣れてみるとかえって予兆として本来の地震に備える心構えができる。ほんとうに人の感覚などと言う物は勝手なものである。

自己作成のため参考程度に見て下さい

江戸初期の日本人神父の受難

2010-11-21 12:41:56 | 歴史
1549年にスペイン人宣教師フランシスコ・デ・ザビエルが鹿児島に上陸をして初めて日本でキリスト教の宣教が行われた。ザビエルから最初に洗礼を受けた日本人はその後日本人としては初めて留学生としてローマ教皇と対面している。ベルナルドという洗礼名のみが記録され、日本名は分かっていない。キリスト教が日本に広がると同時に、徳川幕府も成立し、幕府は次第にキリスト教に対し寛容さを失って行く。キリスト教徒への間違った情報から来る認識や島原の乱で援助を受けたオランダなどの大砲の脅威を知っての結果である。キリスト教徒たちは次第に難を逃れて、東北の伊達領を目指して北上するようになる。伊達政宗がキリスト教に寛大であったためである。遠野のキリシタンのように鉱山にまぎれて働くものもいた。しかし、政宗が亡くなり、息子伊達忠宗の代には幕府のキリシタンへの取り締まりはさらに厳しく、現在の岩手県最南端の旧伊達領であった藤沢町では300名の殉教者を出している。現在の大分県を治めていた豊後国の大友義鎮(よししげ)は種子島に漂着したポルトガル人を顧問として迎えたり、ザビエルに会ったり、非常に外国文化の導入に積極的であった。府内城主大友義統(おおともよしむね)、 岐部城主岐部左近大夫一辰らが洗礼を受けたペトロ・ゴメス神父から同じく洗礼を受けた大友一族の一人であり、生まれて間もないペトロ・カスイ岐部がいた。1601年彼は弟ジョアンと共に長崎のセミナリオ(小神学校)に入り、5年後19歳で卒業している。1614年に幕府はキリシタン宣教師の追放を決めた。この年ペトロ・カスイ岐部は宣教師や日本人神学生とともに長崎からマカオに向かい、マカオからインドのゴアへ、ゴアから陸路ペルシアの砂漠を越え、エルサレムへ巡礼し、1620年ローマへ至っている。そしてこの年イエズス会の審問などを受けた後、33歳で司祭となった。1623年彼はリスボンから日本へ向かう。1630年薩摩に上陸を果たし、長崎へ向かったが、長崎ではキリシタン狩りが厳しく、逃れたキリシタンがいると言う奥州伊達領に翌年向かうことにした。1633年石巻から北上川を遡上して水沢城下の個人宅に隠れた。この地はかって多くのキリシタンが住んでいたところであった。ペトロ・カスイ岐部神父46歳のときである。1637年に島原の乱がおこり、このため幕府の取り締まりがさらに厳しくなり、1639年彼は同宿の者の密告で捕らえられ、江戸まで歩かされる。江戸では他の日本人神父一人とスペイン人神父一人とともに、評定所で老中や奉行など多くの詮議を受け、転びバテレンによる背教の説得、第三代将軍徳川家光じきじきの尋問、その後の様々な拷問の中で最期は吊るされたままで52歳の生涯を閉じた。

探せばまだ見つけられる東北の紅葉