釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

王都のあった宮古市

2014-04-14 19:21:48 | 歴史
今朝も放射冷却で、気温は1度であった。しかし、放射冷却があった分、空は雲一つない青空が広がっていた。この時期になると、やはり気温は沿岸部より内陸の方が高くなるようだ。日中は釜石では最高気温が12度であったが、内陸では16、17度まで上がっている。気温は内陸ほどではないが、青空が広がり、日射しが明るく射すので、桜があちこちで開き始めて来た。職場隣りの醤油工場の裏山では一気に桜がほぼ満開になって来た。ここの桜はいつも釜石では早く咲く。昼休みに「桜まつり」と書かれた門構えが作られた薬師公園に行ってみると、山の中腹の桜が咲いて来ていた。小学生たちも昼食に来ていたようだ。 北上川は日高見川に由来すると、以前書いた。その日高見川は古代の日高見国の中心部を流れる川であった。古代日高見国はすなわち荒覇吐王国である。現在も東北から関東にかけ、末社や門客神も含めて荒覇吐神を祀る神社が600社残ると言われる。『東日流外三郡誌』「日高見国大要」には「荒吐族の国王は常に五王ありて、総主に至る者を安国亦は安東と襲名し、他の四王は北を津刈、西を入澗、東を卒止、南を阿舎と襲名し、是、安倍の姓に至るまで継名せり。 荒吐族が日高見国中央国閉伊にいでたるは安日彦立君以来五十三年なるも、東日流国耳は聖域として、一族の長老在住し、国王立君のときは必ず安東浦かむい丘と称す処にて祭礼し、四王亦は郡司も、石かむいと称す処にて祭礼せり。」とある。「日高見国中央国閉伊」は総主が閉伊に居を構えたことを意味する。この閉伊がどこになるのか疑問であった。現在の二戸市に仁左平(にさったい)があるが、1955年までは爾薩体村(にさったいむら)であった。仁左平では貴重な考古学的遺物がたくさん発掘されている。同じく「日高見国大要」には、「安しき事なきは人心なり。祖来より荒吐一族の碇はいや固く、日高見国は敗るるを知らざるに、元慶の乱には征夷大将軍名代藤原興世が敗れ、続く坂上好蔭、藤原保則、小野春風等是れに代りて征夷に赴くも、いたく討敗れたり。 依て、朝庭は倭、東海、東山道、越に至る募兵となりて謀るも名案企れず、征夷大将軍文室綿麻呂が荒吐族の反忠を好策、出羽の荒吐族五王なる吉禰候部於夜志閇を誘謀りて、爾薩体及び閉伊の荒吐五王を暗殺せしめたるに依て、荒吐族の司治は大いに乱れ、一族同志の戦、各処に起りて、茲に荒吐族五王総主自ら軍を卒いて鎮め巡りて、同志討合はおさまれり。時に征討軍は国東なり。是を征夷大将軍及び国司は次の如く朝庭に奏上せり。(東日流夷俘は其の党一結し、荒吐神とぞ声高く唱叫し、幾千幾万人なるを知らず。天性勇壮にして常に習戦を事とす。若し逆賊に速かば百戦を以て当り難く、是を討は諸謀大軍を以てするとも降すこと能はず。)とぞ曰したりといふ。」とあり、「爾薩体及び閉伊の荒吐五王」と書かれている。かっての閉伊郡は現在の遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡および釜石市の大部分(唐丹町を除く)に当たると言う。『東日流外三郡誌』で何度か登場する「閉伊」が仁左平を含むものであるのか疑問であったが、「日高見国大要」で「爾薩体及び閉伊」と並列して書かれているので、閉伊には爾薩体を含まないことが明らかになった。では、「閉伊」の中心はどこか、となると、これはやはり閉伊川の流れる現在の宮古市と考えられる。そして、まさにこの「宮子(みやこ)」の名は荒吐五王の総主がいた「都(みやこ)」であったことに由来したものと考えられる。荒覇吐王国の都であったのだ。とは言え、東日流(つがる)とは密接な関係があったため、津軽の人々も多く、この閉伊に移住したと思われる。その名残が宮古市の南端にあたる地に津軽石の地名が残る。津軽石川は宮古市の南の山田町豊間根の北上山系に発して、宮古湾に流れている。この川の石が津軽石に似た貴重な石であることから地名が付けられたとの伝承もあるようだが、この地域は明らかに荒覇吐王国の名残をとどめており、山田町の十二神山はやはり「日高見国大要」に書かれた王国の「三者共通の神は、日神、月神、星神、木神、火神、土神、金神、水神、父神、母神、死神、生神等十二神なり」に由来している。
裏山の桜 桜と椿が咲く間に白木蓮も開き始めて来た

鈴子公園の桜

同じ鈴子公園の桜

薬師公園でも桜が咲き始めて来た

職場の近所のシデコブシも満開になった