釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

たくさんの遺跡があるが

2014-04-22 19:19:34 | 歴史
今朝は気温が8度あったが、空は今ひとつすっきりしない一日となった。日中の気温は11度までしか上がらず、寒くはないが日があまり射して来ないので暖かくも感じなかった。しかし、昼休みに八雲神社のある大天場山へ出かけた時には日が射して来て、桜や片栗の群落を見ているうちに汗が出て来た。ここも釜石ではとてもいいところで、何より人がほとんどいないので、一人で時間の許す限り桜や片栗の群落を堪能出来ることだ。メジロがたくさんやって来て、近くからは鶏の鳴き声も聞こえて来た。ウグイスもよく鳴いてくれた。タンポポがたくさん咲いていた。古来からのスミレも咲いている。 6年ほど前に釜石へ移ったことで、はじめて東北を知ったが、それまでは東北は西日本ほどの歴史のない地域としか考えていなかった。しかし、実際に東北に来てみると、とりあえずはその少ない歴史も調べてみようと思った。主に知られている中世の歴史から入って行ったが、調べている中で、古田武彦氏の著作と氏が関わった江戸時代に著された『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』に出会った。氏の著作を読んで驚くと同時に、歴史は勝者の記録であることを改めて再認識させられた。天照あるいは神武天皇以来日本は唯一天皇家を中心とした歴史を持つとされて来たことが、作られた歴史であった。勝者がそれ以前にあった敗者の歴史を抹殺したのだ。敗者の歴史をも取り込んで勝者の事蹟と偽った。そのことを知るとともに『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書を読み、東北もまたその勝者によって敗者の歴史が抹殺されたことを知った。和田家文書では津軽の地に最初に粛慎の阿蘇部族がやって来て、後に靺鞨の津保化族がやって来た。縄文時代の出来事だ。阿蘇部族は山裾で狩猟生活をし、津保化族は平野部で畑作なども行なっていたようだ。彼らの生活跡が東北にはたくさん残されている。青森県の三内丸山遺跡だけではなく、岩手県でも馬淵川流域の二戸市や閉伊川流域の宮古市、北上川流域にも多くの縄文遺跡が残されている。宮古市では鎌倉時代までのもの含めるが680もの遺跡がある。縄文時代の遺跡は前期から晩期まで各時代のものが発掘されており、4500年前の崎山貝塚などでは中央に隆起のあるドーナツ状の窪地の広場を挟むように東西に集落が形成され、400もの竪穴住居跡が見られている。このドーナツ状の広場は明らかな土木工事として、他の縄文期の集落に類例を見ないと言われる。弥生時代に入り、西から敗走した安日彦、長髄彦兄弟が彼らを阿蘇部族、津保化族、中国からの亡命者を含めて統一し、荒覇吐王国(あらはばきおうこく)を建国し、津軽を王都としたが、後には王都を現在の二戸市や宮古市へも移している。山靼ー中央アジアから西アジアまでの人々との交流もあった。世界では鉄器は紀元前15世紀のヒッタイトに始まると言われる。中国では紀元前17世紀から紀元前11世紀まで続いた殷の時代に鉄器が使われている。チグリス川とユーフラテス川流域に開花したメソポタミア文明の最初の担い手はシュメール人である。メソポタミアも鉄器によってヒッタイトに征服される。それにより、メソポタミアには鉄器が流入した。和田家文書ではシュメール人も東北へやって来ている。従って鉄の文化が東北では早くからあった可能性がある。しかし、通説ではあくまで大和朝廷が中心で、鉄についても、724年陸奥の支配強化の目的で多賀城を建設した時に鉄職人も移住させたのが東北の鉄の始まりとされている。しかし、山田町の村上遺跡の製鉄炉は土器編年と言う手法でさえ7世紀後半のものとされており、多賀城に近い柏木遺跡では4基の製鉄炉、5基の木炭窯、鍛冶工房などが発掘されているが、これも円筒形の縦型炉であり、大和系の製鉄炉とは形式が異なっている。釜石の北に隣接する大槌町の夏本遺跡でも4基の鍛冶炉が見つかっているが、山田町や大槌などでは出雲に始まる砂鉄を利用した大和系の製鉄ではなく、餅のような塊であることから名付けられた餅鉄が使われており、製法が異なる。三陸の北上山地には豊富な鉄鉱石が含まれていて、それらが川に流出して、川にはたくさん鉄鉱石があり、水で表面が滑らかになり餅のような柔らかな曲線になった。現在でも大槌の山間部の小鎚町ではその餅鉄が散在している。宮子市や二戸市、山田町、大槌町などで貴重な遺跡がたくさん出ているが、すべてが大和朝廷の支配を唯一の視点として解釈されるために、今もなお東北の真の歴史が解明されないままになっている。
八雲神社のある大天場山の桜

桜の近くの大天場山の片栗の群落

可憐な片栗の花

通勤路の枝垂れ桜も咲き始めて来た

入口から見た薬師公園の桜