釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

大晦日

2009-12-31 07:03:54 | 歴史
早くも今日で今年も終わり釜石で三度目の大晦日を迎える。歳とともに1年の過ぎるのが早まるように思われる。メディアは年末になると特別番組を報じて1年を振り返るがいずれもただ表層を見ているだけの軽薄さを感じてしまう。我が家では家人も最近は自分の書いているブログに執心しているためTVを見ることはなくなった。そのためかかえって物事を考えることが多くなり、それをめぐって家人と話すことが増えた気がする。今日は大晦日だがかっては日本では1日が夜に始まると考えられており、大晦日の夜は既に新年に入っていたそうだ。従って現在行われている大晦日の夜の行事は新年の行事として考えられていたと言うことになる。夜の年越し蕎麦の風習はあくまで江戸時代に始まる風習でずっと後に行われるようになった風習だ。初詣も元来は一家の家長が大晦日の夜から元旦の朝まで土地の神様の社にこもって家内の平安と繁栄を祈る儀式が次第に除夜詣と元旦詣に分かれて行き元旦詣のみが初詣として残ったと言う。百八の人の煩悩を消滅させると言われる除夜の鐘も仏教が伝来してからかなり後の鎌倉時代に中国から日本の禅寺に伝わったもののようだ。そうした現在に行われる行事以前は本来神道で行われる行事が中心で以前にも記した大晦日の大祓であった。今も大晦日には神社では大祓が行われるがこれは明治4年に明治政府によって意図的に衰退していた旧儀を再興させたものだ。古代は現在の1年を6月と12月で区切って半年を1年と数え、6月と12月に天皇の命で大祓が大晦日に行われた。平安末期まで朝廷内で国家行事として行われていたが以後は武士の台頭により廃れて行き、中世で6月の大晦日の大祓のみが名越祓え、夏越の祓え、水無月祓えなどの名で民間に伝承されて行った。つまり朝廷内でのみ行われていた神道行事が次第に武士の権力が増強するとともに民衆の家中心の行事へと変容し、武士自体は神道よりも仏教を重視するようになっていったのだろう。現在この神社で執り行われる大祓は人の罪穢れを祓うものとされるが、本居宣長によると大祓はあくまで個人のためのものではなく、公のためのもとして捉えられている。天下万民、社会全体の罪穢れ、災厄を取り除く為の祓ということのようだ。現在の大祓詞(おおはらえのことば)は多少の改竄と省略があるが『延喜式』のなかに載せられている大祓詞の原型では侵略者の犯した罪を祓うという意味が伺われる。いずれにしても元来大晦日はその年の人の罪穢れを祓って清らかな状態で新年を迎える日であったのが現在は1年を振り返りつつ新年が良い年であることを願う日に変わって来たということなのだろう。

匠の方の山に祀られる山の神 修験者のもたらした密教の影響で鉄剣が奉納されているが山の神は女神である

縄文の巨石信仰と関連して巨石に祀られる この付近は中世の館の遺跡とも重なる

来年は世界経済にさらに暗雲が広がりそうだ

2009-12-30 07:08:57 | 経済
昨日は白雲が浮かぶ青空の晴れた冬の日になった。放射冷却のせいで最高気温は4度で最低気温は明け方0度だった。風があって晴れていても体感温度は低かった。周囲の丘のような山々の木々は葉が落ちて幹が丸出しになり、何本も立つそうした裸の木々を見ているとそれらが山の木の精で、じっと人間世界を見つめているような幻覚を覚える。夜には風も落ちて晴れ渡った空に十三夜の月が照り輝いていたがそれがかえって寒さを感じさせた。月の南東にはオリオン座が月明かりの中でもはっきりと見え、偶然釜石では初めてオリオン座のペテルギウスの内側を北から南に流星が走るのを認めた。11月25日にアラブ首長国連邦のドバイ政府系企業が事実上の債務不履行に陥り、12月に入りユーロ圏のギリシャの国債の格付けが急落しギリシャの国家破綻の懸念が広がった。ギリシャの財政赤字は今年度GDP比12.2%になる。同じくアイルランドは14.7%、英国13%、スペイン10%、ポルトガル8%、ドイツ6%となっている。ユーロ圏諸国はユーロ加盟時に、毎年の財政赤字をGDPの3%以内におさめることを約束している。財政赤字の累積額で見るとギリシャはGDP比95%、イタリア117%、ポルトガル75%、英国69%、スペイン67%、アイルランド38%である。一方日本では25日に政府が2010年度予算を閣議決定したがそれに基づく財政赤字はGDP比9.3%になり、累積赤字は何と200%にもなる。これは現在の日本のデフレ状況を考えると実質的な債務はもっと多くなることになる。さらに国際的な米金融企業である JPモルガン・チェースの予測では2019年には日本の累積赤字はGDP比で300%になると言う。財政赤字の規模で見る限りはギリシャなどより日本の方がはるかに国家破綻のリスクは高いのだ。日本国内の経済学者達が唯一頼みにしているのは1500兆円を超えると言われる個人資産である。しかしいざと言う時に個人がほんとうに資産を投げ出すことなどできるだろうか。また仮にそれが可能であったとしてもそこまでやらねばならない状態自体が国際的な信用をなくし円や国債は暴落し、超インフレに見舞われてしまう可能性の方が高いだろう。さらにドルの崩壊が起これば連鎖的に日本の国家破綻をもたらす可能性は高まるだろう。2日後に新年を迎えるが例年ならばこの時期は新たな年に期待して良い年であることを願うのだが、残念ながら新しい年はさらなる暗雲が世界を覆うことになりそうだ。

松山で咲いていた山茶花 南国の山茶花は1本の木に鈴なりの花を咲かせている

煙の立ち上る浅間山

2009-12-29 07:08:46 | 歴史
先日四国へ行く際、花巻空港から伊丹空港へ向かう途中で上空から煙の立ち上る浅間山が見えた。縄文時代にはこうした火山は神々の宿る山として信仰の対象とされて来た。ジェットの窓から立ち上る煙と周囲の白い雪を見ながらどうして富士山に浅間神社の本宮があるのかふと不思議に思った。全国には北海道から中国地方まで1300社もの浅間神社があり、その総本宮である。ここの主祭神は天孫降臨の立役者である天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚したとされる木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。しかも彼女の父親は先日しまなみ海道を通って訪れた瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山祇神社の主祭神である大山祇神なのだ。そして彼女の姉とされる磐長姫命(いわながひめのみこと)はかなり冷遇されている。浅間山と富士山は一体だと言う説があるようで、そもそもアサマとはアイヌ語で火を吹く燃える岩と言う意味だと言う。東北から関東、東海辺りまではアイヌ語地名と言われる地名が残されているが、地名が残る割にはアイヌ人自体が生活したと思われる遺跡はそれらの地域で発掘されていない。それを考えると現在アイヌ語と言われている言葉にはむしろ縄文人の言葉が残されており、それらの地域にはアイヌ人とは異なる縄文人が住んでいたと考える方が妥当なのではないかと思われる。アイヌ語地名と言われながらアイヌの信仰とはまるで異なる信仰が根付いている。縄文時代の自然信仰が定着した地域へ弥生の戦意の強い人たちが侵略して来て原住民を支配するためにそうした古い信仰を利用して変形させて行ったのではないだろうか。以前記したようにいずれ縄文とか弥生という区分自体が消えて行くのかも知れないが、生活や文化の違う人たちの支配と被支配の変化があったことは間違いないだろう。長野県は特に貴重な黒曜石が採れた諏訪湖近辺に縄文時代の大きな遺跡が残り、この時代はこのあたりが一つの中心地であったことを示し、浅間山はそこに住む人たちからの多大の信仰を集めていたことは容易に想像出来る。東京都の多摩丘陵も縄文時代の遺跡が多く残り、こちらは富士山を崇めていたのかも知れない。そして当時の中心地であった諏訪湖周辺の人々の信仰に習い富士山を浅間山に重ねて信仰していたのかも知れない。

写真では左の雪を冠った浅間山の煙が薄らとしか見えないー遠くに富士山が見えている

自然と歌

2009-12-28 07:02:01 | 文化
岩手からは詩人の巨匠の石川啄木が輩出されている。また銀河鉄道の夜で知られる宮沢賢治も春と修羅などの詩集を出した詩人であり、やはり岩手が生んだ人だ。岩手出身ではないが7年間を岩手で過ごした詩人高村光太郎もいる。私が学生時代を過ごした群馬県の前橋は詩人萩原朔太郎を生み、市内を流れる広瀬川には朔太郎がこの川を詠った詩碑が建っている。また先日まで行っていた愛媛県の松山は正岡子規や高浜虚子、河東碧梧東などの多くの俳人を生み、現在も日本では一番俳句の熱心な街だと思われる。市内には俳句のグループがいくつもあり、地元紙や同人誌でそれらが発表されており、市内電車には俳句の投書箱まで付いている。道後温泉の和風の喫茶店に入ると互いの俳句を比べて意見交換している光景にも出会った。俳句は江戸時代の松尾芭蕉が洗練された形で完成させたものだが、5、7、5の三句体であり、それ以前の通称短歌と呼ばれる5、7、5、7、7、の五句体から派生したものだ。5、7を3回以上繰り返して最後に7を追加する長歌も万葉集では見られるが古今和歌集では見られなくなっている。伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の子で、天照大神(あまてらすおおみかみ)や月読命(つくよみのみこと)の弟と言われる須佐之男命(すさのおのみこと)がいたずらが高じて姉の天照大神によって出雲にやられてから詠んだとされる 八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を の歌は完全に五句体の短歌の形式を採っており、すでにこの時代にこの高度な短歌の形式が完成していたことになり、それを考えるとまたいくつもの疑問も湧いて来るのだが。いずれにしても古来より日本には定型の詩が連綿と続き、近世に世界でも最も短い形式の俳句という詩が完成した。そして四季が分かれる日本では歌に自然が取り入れられ、その自然を通して人の心が詠われることが多い。自然の豊かなところに従って詩人が多く生まれたとも考えられるのかも知れない。今回松山に行って松山という54万の人口を擁する都市が以外と自然が豊かであることに気付いた。朝兄の家の玄関先に立つと毎朝のようにジョウビタキの雄がやって来るし、メジロもしばしばやって来た。瀬戸内海の海の幸も豊かでおっとりとしたしゃべり方は何となく岩手にも共通するものを感じた。義姉からも半分冗談なのだろうが俳句をやってみたらと言われた。確かに表現手段としては俳句は入りやすいのかも知れないのだが。

膨らんで来た我が家の椿の蕾

うどん三昧で過ごした1週間が終わった

2009-12-27 07:13:13 | 文化
昨夜四国から釜石へ帰って来た。朝松山は晴れ渡り、青空が広がっていたが風が少し出ていた。午前中は宅急便用の荷造りをして取りに来てもらい、昼に少し早めに松山空港へ出た。目的は昼食のうどんだ。今回は前回とは店を変えて入ってみた。鯛茶漬けのメニューが目に入り、これも捨てがたいので欲張ってこれとまたじゃこ天うどんを注文した。家人はすっかり鯛飯に嵌ってしまって今から1年後の愛媛再訪を楽しみにしている。松山空港から伊丹空港まではほぼ満席で伊丹に着くとまた2時間の乗り継ぎ時間があるため喫茶店で過ごした。気温は松山とさほど変わらないが天気は少し悪くなって来ていた。空港のアナウンスで花巻空港は雪のために着陸出来ない可能性もあり、その場合は羽田へ降りると言う。16:40発で飛び立ったジェットが雲の上の高さに来ると西の空の夕焼けが幻想的で時間とともに周囲が闇に包まれるに従い、夕焼けはどぎついまでの朱に染まって行く。心配した花巻空港は気温が2度で雨になっていた。空港駐車場に置いた車を取りに行くと出がけに車体の下にあった雪がまだ残っていた。よく見ると周囲の舗装しているところ以外には雪が積もっている。釜石へ向かう道路の状態が気になったが幸いにも雨が少しだが降り続け、路面は凍らないでいてくれた。1時間半ほどで無事自宅に帰り着いたが釜石は気温が6度になっており思ったほど寒くはなかった。当然の如く釜石には雪は積もっていなかった。ともかく夜の路面状況だけが心配だったので一安心であった。前回四国へ行った時兄の家で姪がうどんを食べさせてくれたのだがそのうどんが美味かったので姪にそのことを言うと、そのうどんは松山の普通のコンビニにも売っている加ト吉の冷凍うどんだと言う。出汁も一緒に付いていて簡単に作ることが出来るようになっている。釜石へ戻ってから各店を探してみたが売っていない。それでインターネットで早速加ト吉のホームページを探し、そこで購入しておいたが今回愛媛に行く寸前に届けられたのでまだそれに手を付けていなかった。昼食を松山空港でたっぷり食べていたので家人とも相談して夕食はその加ト吉のうどんを食べてみることにした。家人が簡単な手数で作り上げた加ト吉のうどんは食べてみるとこれが実に美味しい。麺も出汁もやはり四国で食べた時と同じく満足出来る味なのだ。少なくとも西日本以外のうどん店で食べるうどんよりは、はるかに美味い。買って正解であった。結局今週は毎日美味しいうどん三昧の週であった。

松山空港に咲いていた石蕗(つわぶき)

雲の上の夕焼け

松山城と道後温泉へ

2009-12-26 07:18:11 | 文化
松山での自由行動2日目はまず松山城へ出かけた。薄雲が出ていたが青空も見えるので安心していた。松山城は1602年(慶長7年)加藤嘉明によって起工された。石材などが松前の正木城や道後温泉近くの湯築城などから運ばれた。加藤嘉明によって松山城と命名され、城下を松山と呼ぶようになる。城は標高132mの勝山に築城されたところから勝山城とも、また、築城時の内堀に金色の亀が棲んでいたと言う伝承から金亀城とも呼ばれた。天守閣は3層構造である。1635年(寛永12年)伊勢桑名より徳川家康の異父同母弟、松平定勝の子、松平定行が転封され、以後明治維新まで松平家の城下となった。現在は山の麓にロープーウェイの発着場があり、そこからゴンドラかリフトを使って山上に登る。歩道もあるが体力が必要になる。往きはゴンドラで上って帰りはリフトを利用した。山上に着くとそこからは石垣で築かれた城壁を4~5つの城門を潜って天守閣に至る。現在放映中の坂の上の雲でも子供時代と成人後の秋山好古、秋山真之、正岡子規の3名が松山城を背景に撮影している。松山城は現存する天守閣を持つ全国12の城の一つである。城には桜の木がたくさん植えられていて春は青空と白壁の城と青空のよく映る城である。ちょど季節外れの桜が一部咲いていた。松山城から次に道後温泉に向かい、路面電車の市電の道後温泉駅は明治時代の趣の建物で造られ、駅舎の前には明治期のいわゆる坊ちゃん列車が停車中であった。近くには道後の湯の足湯やからくり時計がある。道後温泉の商店街のアーケードを抜け、道後温泉の本館の前に出る。明治期の絣の袴姿の案内嬢が立ち、付近には観光客達が次々に集まって来る。温泉はいくつかのコースの入り方があるが今回は二階の神の湯コースを選び、先ず二階の畳敷きの大広間に案内される。そこで浴衣を借りて階下の神の湯に下り、脱衣後石造りの湯船に入る。湯の臭いは強くなく、湯船は透明なブルーに見える。久しぶりにのんびりと湯船につかりすっかり身体が温まった。入り慣れた感じの白人客も見かける。浴衣を着て大広間に戻ると早速茶菓子とお茶を持って来てくれた。以前は宿泊も出来ていたらしい。坂の上の雲では秋山久敬、真之親子がそろってこの道後の湯に浸かっている。かって山部赤人が道後の湯を訪れ歌を詠んでいるが伝承では聖徳太子もこの湯に入ったと言われる。一休みして道後温泉の建物を出ると小雨が降り始めた。松山には三色の坊ちゃん団子という名物があるが中でもつぼやと言う店のそれは夏目漱石も好んで食べたと言われており、そのつぼやに寄って坊ちゃん団子といくつかの和菓子を買い入れた。雨が少し激しくなって来たため残念だが帰ることにした。やはり松山は釜石とは異なり大都会で夜遅くまで人や車が行き交い、複合大型店舗の駐車場は深夜まで一杯だった。

松山城の三層の天守閣

松山城の坂の上

古風な道後温泉駅舎と復活した坊ちゃん列車

道後温泉本館の前に立つ絣の袴を着た案内嬢 ポーズをとってくれた

道後温泉本館全景

道後温泉二階の大広間 湯上がりにくつろげる

しまなみ海道

2009-12-25 07:16:39 | 歴史
本四架橋が出来て以来電車で岡山県から香川県へ渡ったことはあったが車では一度もなかった。松山へ行けばいつか愛媛県の今治沖にある大三島の大山祇神社へ行ってみたいと思っていたので家人とともに兄の車を借りて今治ー尾道(広島県)間に架かるしまなみ海道を走ることにした。世界的にも評価されていると言う来島海峡大橋は確かにすばらしい橋だった。平日のせいか走っている車も少なく大橋をゆっくり見ながら走ることが出来た。眼下の瀬戸内海には島が点在し、眺めもすばらしい。我が家の先祖の村上水軍の一つの本拠地であった大三島には村上水軍のジャンヌダルクと言われる鶴姫伝説がある。その大三島には古代より続く大山祇神社があり、ここは各時代の武将達が戦勝を祈願したところでもあり、源義経や武蔵坊弁慶などの奉納した薙刀もある。樹齢3000年の楠は巨大な幹が残っているが枯れてしまっていた。しかし近くに樹齢2600年の楠の巨木が青々と茂っている。本殿も出雲大社と同じ様式で奥殿も備えた格式の高い社である。祭神は大山積大神一座のみで天照大神の兄神と記されている。創建年代は明記されていないが楠の樹齢や大三島に近い愛媛県の高縄半島の風早国の歴史を考えると縄文期よりの信仰の地であったと考えられ、大山積大神も記紀の記述のように天照大神の兄神と言う関係ではなかったのではないかと思われる。ちょうど出雲の大国主が天照に国を禅譲したかのように記されているのと同じではないかと思われる。大山祇神社を参拝した後、神社の前にあった店で瀬戸内膳と銘打った鯛飯セットを食べた。鯛づくしの料理でボリュームと味はとても普通なら2300円という安さでは食べられない内容であった。さすが地元だけあると思わせられた。時間があるので大三島の北東に隣接する生口島(いくちじま)の耕三寺へ向かった。耕三寺は西日光と呼ばれ、大阪の篤志家が自分の母親を弔うために創建したものだが日光同様彩色豊かな建物が並び、十分一見に値する。日光東照宮の陽明門に匹敵する山門や宇治の平等院を模した本堂、法隆寺夢殿と同じ八角の建物など鮮やかに彩られている。地下に繋がる富士山の溶岩で造られた洞窟には何百体もの石仏が配され、仏への帰依の執念すら感じられた。この生口島は故平山郁夫画伯の生誕地でもあり、記念の美術館もあったが残念ながら時間の関係で見ることが出来なかった。島を巡りながら岸辺の砂浜にも降り立ったが風もなくとても師走だとは思えない暖かさですっかり四国の冬を忘れてしまっていることに驚かされた。帰りはやはり少ない車のしまなみ海道を順調に走り、松山市内へ入るとさすがに5時を過ぎていたため暗くなり、走り慣れない道に迷ってしまった。家人に苦情を言われながら何とかやっと兄の家にたどり着くことが出来た。夕食は兄夫婦共々家人の希望でうどん専門店でじゃこ天うどんと特製のえび天にぎりを食べた。この店も味は異なるが汁まで飲める美味いうどんを出してくれた。じゃこ天もほんとうに店ごとに味わいが異なるが海が近いのでいずれもたまらない美味さだ。

多々羅大橋 大三島と生口島を結ぶ 向こうに見えるのが生口島

大山祇神社の樹齢2600年の楠

大山祇神社の本殿 この奥にも奥殿がある

日光陽明門を模した耕三寺の山門

耕三寺本殿横の洞窟の石仏群

再び松山へ

2009-12-24 07:18:27 | 文化
世間で言う法事のためにまた四国を訪れている。釜石から車で花巻空港へ出たが空港では雪が降っていて少し心配させられた。無事花巻空港を飛び立ち、伊丹空港へ向かったが今回も富士山が左手によく見え、長野県の諏訪湖もほぼ真下近くに見えた。以前勤めていた豊橋を初め渥美半島もよく見ることが出来た。伊丹空港では気温がまるっきり違い、やはり暖かかった。2時間の乗り継ぎ時間をターミナルの中で何とか潰して松山に向かう。瀬戸内海上空では無数に散らばる島々を眺め、西の海に沈む夕日の照り返しが海面に伸び、神々しいまでの情景を見せてくれた。松山は今坂上の雲のポスターがあちこちに溢れていた。気温は暖かく日中には入道雲も出るほどで驚かされた。北九州市から来ていた姪の話では北九州市の方が松山より寒いと言う。日本海側の気象になるため夏暑く、冬は寒いと言う。意外であった。海辺を通るとさすがに風があるためやや寒く感じはするが今の岩手のように風は決して冷たくはない。海岸沿いの道には多くの釣り人が竿を垂れていたが寒そうにしている人も見かけない。松山は人口54万人で現在も増え続けている。そのためか新しい道路もたくさんできており便利にはなったが、その道路がさらに人を松山に呼び寄せて、周辺部は人口が減って行く。特に愛媛県の南部は産業もなく若者はどんどん松山に出ていると言う。しかしその松山もそうした若者にちゃんとした仕事を提供出来るご時世ではないようだ。店はたくさんあり非常に便利だが松山規模の都市ではまだまだ自然もそこそこ残されていて、朝兄の家の周囲を歩くと小鳥達がさえずり、近所の家の溢れんばかりに咲き乱れる山茶花を見ているとジョウビタキの雄が尻尾をふりふり近づいてきた。伊予鉄道の線路脇の土手には水仙の白い花とともに菜の花が咲いている。すこし丘になったところへ行くとミカン畑がいくつも見られる。旧家のそばには大きな井戸が残され手動式のポンプに代わり、電動ポンプが据え付けられていた。松山近辺の古い農家は遠野とはまた違って門構えが妙に母屋より立派で外から見るとまるで武家屋敷のように見える家もある。松山に来ると必ず一日一回はうどんを食べることにしているがうどんの店もたくさんありその都度店を変えてみるがちょうど釜石のラーメンと同様にどの店のものも美味しく食べられる。全国どこにでも讃岐うどんと書かれたのれんが下げられた店があるが一度として讃岐うどんと認められる店はなかった。四国では讃岐うどんののれんは一定以上の基準を超えなければ下げることが許されない。松山では従ってむしろ讃岐うどんののれんを下げた店はまず見かけない。見かけないがいずれの店のうどんも食べて飽きることが無い。やはりうどんの味のレベルがまるで違う。数日は毎日うどんが楽しめることがたまらなくうれしい。

伊予鉄道の線路そばに咲く菜の花

岩手と違いリンゴではなくミカンがあちこちで植えられている

職を去って行く人

2009-12-23 07:06:48 | 文化
天気予報を見ていて釜石の気温がニューヨークやパリ、ロンドンとあまり変わらないことに気が付いた。地図で改めて見るとそれらの都市は釜石よりむしろ緯度が高いくらいだ。緯度は高いが都市部のため結果的に釜石と同じぐらいの温度になるのかも知れない。職場で非常に重要な地位に就かれている方が今月一杯で退職されることになった。愛知県に住んでいたころに釜石に移るきっかけを作っていただいた方で釜石へやって来てからも公私ともに非常にお世話になった。つたない趣味の写真でも大先輩であった。釜石や職場との結びつきの上では切っても切れない存在だった。こうした存在の方が職場を離れるのは残念でしかたない。これまでも全国各地で仕事をして来たが職場での人との結びつきでこれほどまでに強く感じたことはこれまではなかった。公私ともにお世話になったこともあるがやはりその人の人柄が一番大きいように思われる。上に立つものは部下からは様々に言われることは当然だろうがそうしたこととは関係なく個人的な人と人の結びつきのようなものを感じさせられた。その意味でもこれまでに経験したことがなかったことだった。私的な世界では人はそうした結びつきを多くもつことはあるだろうが職場では少なくともこれまではなかった。もともと面倒なことには関わりたくないという気持ちがあるため尚更職場ではこれまでそれほどの結びつきにはならなかったのかも知れない。これまでも常にどこへ行っても幸いなことに同僚同士では円滑な人間関係を築くことができていたが、それはあくまでも日常的な仕事の範囲の繋がりとしてしか意識して来なかった。しかし釜石ではそこが違っていた。よく考えるとそれはやはり人物のせいが大きいのだろうと思う。組織というものは重要な役職に就いた人たちがそれぞれの役割を十分に果たしていないとそのしわ寄せが必ずどこかへ歪みとして出て来る。その結果は偏向した解釈を生み出すこともある。歪みの結果に対しては組織や職員の視点から見れば役職者すべての責任であるように思う。ましてこの方はこの職場を立ち上げるときから大いに貢献されて来た方である。組織を立ち上げるには相当の苦労があったはずで並の人間ではとてもやり遂げられるものではない。いずれにしても職場にとっても個人的にも大事な支柱が1本抜けるように思えて残念でならない。

白鳥は古代には鵠(くぐい)と言われていた。そして白鳥には倭建命(やまとたけるのみこと)の魂が宿ると言われる

日本の鮭

2009-12-22 07:03:11 | 文化
日本での鮭の産卵は量の多少を考えなければ日本海側では北海道から九州の福岡辺りまでの川で見られ、太平洋側では北海道から関東地方の川まで見られると言う。都道府県庁所在地の川で鮭の遡上が見られるところは意外に多く、北から札幌市の豊平川、青森市の天田内川、秋田市の旭川、盛岡市の中津川、山形市の高瀬川、仙台市の七北田川、福島市の阿武隈川、水戸市の那珂川、そして東京23区を流れる多摩川などがあり、盛岡市の中津川を遡上する鮭は北上川河口から200Kmも淡水の中を旅して来るのである。東京都の元の秋川市、現在のあきる野市で発掘された前田耕地遺跡(まえだこうちいせき)では縄文時代草創期、今から約13,000年前に既に河川における漁労活動が行われていたことを示す鮭の顎歯が約8000点も出土している。鮭を祭神とする神社も各地にある。福岡県の遠賀川流域の鮭神社、千葉県山田町の山倉神社、京都の大原神社、舞鶴市の大川神社など意外なところにもある。現存する風土記は5つあるがそのうちの出雲風土記と肥前風土記に鮭と鱒の記事があると言う。ところで家人は昨年に続き今年も新巻鮭を作る行程に参加した。昔は荒巻鮭と書かれていたようで本来は遠距離を輸送するための保護と保存の意味で荒縄で鮭の魚体をぐるぐると巻いたことからこの名が付いたと言う。今でもやはり荒縄で鮭を巻いて寒風に干しているところがあるようだ。荒巻鮭は江戸初期に将軍に献上することから生まれたようでこのころは一般にはとても手に入らないものであったと言う。江戸時代後期にやっと庶民の間でも口に出来るようになったそうだがそれは保存用の塩の生産と関係していたようだ。荒巻鮭にはそれなりの塩が必要になるため塩が手に入りにくかったアイヌでは荒巻鮭は作られていない。岩手など三陸沿岸部では鮭を鼻曲がりと言い、江戸期には貴重な産品だった。現在もそうだが本州域では最も多く獲れていた。海にいる間の鮭と川に入ってからの鮭を使う二通りの方法があるが海の鮭の方が脂の乗りがいい。川に入ると産卵のために脂が消費されてしまうらしい。まず鮭を内蔵を採った後よく洗ってから水に付け、さらに、洗いを繰り返した後、塩をすり込む。その後一度洗ってから寒風に干して水分を抜き取る。これらの行程での違いが同じ荒巻鮭でも味の違いを生み出す。中には内蔵のあったところに昆布を入れて昆布の味を染み込ませたりもするようだ。新年の魚として関東は荒巻鮭を使い、関西はブリを使うという風習の違いが以前はあったようだが今はそのあたりはかなり曖昧になった。

匠の方の小屋の軒下に吊るされた何十匹かの荒巻鮭

出来上がった荒巻鮭の切り身 実に美味しい