釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

東北の自然と匠

2011-06-30 20:18:58 | 文化
天気予報がはずれてすっかり夏の強い日射しが刺して来た日だった。家の玄関先に鉢植えの山野草をたくさん並べているが、何かとお世話になっている施設のお二人の方が通りかかり、この山野草を偶然目にされた。しばらくお二人と立ち話をしたが、お二人とも地元の方たちなので岩手の自然もごく当たり前のこととして受け入れられておられる。お二人はそれぞれ休みの時にはその時期になれば決った山へ入られ山菜採りをされておられる。その際山野草もよく見かけるという話を伺った。あらためて岩手の山は豊富な山菜と山野草に溢れていることをお話しするとむしろ驚かれていた。四国の山も山菜や山野草はむろん見られるが東北ほど種類は多くない。最近釣り人が熊に襲われ左の眼球破裂を負ったそうだが、熊や鹿等の動物の種類も多く、それだけそうした動物たちの餌となるものが豊かにあると言うことになる。岩手では花が長く咲いていることにも気付かれておられなかった。地元で子供の頃から同じ景色をずっと見てくれば当然それが普通のものとして受け取られる。釜石では各所で熊が出没しており、そのたびに注意が呼びかけられている。熊も人が怖いのだ。とっさに出くわすと双方が驚いて、特に熊の方は攻撃的になってしまうのだろう。これまで釜石へ来てからは二度ほど熊を目撃した。いずれも奥深い山の中ではなく、職場の駐車場のすぐそばの裏山の傾斜地で10mくらい離れたところの栗の木に登っていた。大きさからすると子熊のようで木の下の草むらでは枯れ木の折れる音がしていたので恐らく親熊がいたのだろう。もう一度は海岸沿いを走る国道45号線を悠然と横断している親熊だった。夏毛のためちょうど家で飼っているシェパードくらいの大きさに見えた。海岸側の歩道に沿った柵を乗り越えている時に見つけたのだが、最初は熊だとは気付かなかった。実際犬だと思ってしまった。道路を横断し始めてはじめて熊であることに気付いた。車を止めてできるだけ刺激しないように山側に消えて行くのを待っていた。その間他の車は一台も通らなかった。玄関先で立ち話をしたお二人の方たちもある種の岩手でよく出会う匠の方たちである。自分たちの本来の職業以外の分野で優れた能力を発揮される。むしろ本職の方が顔負けするほどの腕を持っておられる。昔から「能ある鷹は爪を隠す」と言うが岩手にはこの爪を隠した「鷹」がたくさんおられる。甲子川の上空を飛んで餌を狙うミサゴも鷹の一種だが、あんなに高い所からよく見えるなと思う高さから獲物を狙っている。鋭い目を持っているのだろう。古いレンズには「鷹の目」と称されるレンズがあり、非常にシャープで高い解像力を持つ。多くの岩手の匠は爪だけでなく、この「鷹の目」も持っているように思う。峻別する目だ。東北人のこうした生き方がどこから来ているのか、大いに興味をそそられる。
近所で見かけた桔梗

海外の研究者もかなり厳しく見ている

2011-06-29 20:02:07 | 文化
湿度の高い蒸し暑い一日になった。気温も30度ほどになっていた。久しぶりに雨が上がったのはいいが。ここのところ娘は毎日ボランティアセンターへ行き、そこから手配されてボランティアのために仮設住宅や市の手続きの受付の補助などをしている。そうした中で一緒に仮設住宅の整頓作業をやった東京から来た女子学生と知り合った。その方は生まれは釜石だがすぐに東京に住むようになり、今は祖父母だけが釜石に住んでおられる。教員になるための研修を終えて、何か目的を失っていたところに今回の震災が起きた。早速釜石へやって来てボランティア活動をやるようになった。釜石在住の知人から福島県の南相馬市でのボランティア活動も1日やってみないかと誘いがかかった。その話を聞いた娘は南相馬市も福島第一原発の影響があるかも知れないからよく調べてから行った方がいいのではないか、とアドバイスしたそうだ。政府やマスコミはパニックや「風評被害」を恐れて正確な情報を流していないことを娘にも話していたからだろう。昨日ボランティア活動から帰って来た娘がそのことを話し、ちょっと南相馬市の放射線について調べてほしいと言った。政府や東京電力は断片的な放射線量しか公表せず、測定基準も都道府県毎に違っているためにあまり詳しくは調べられないだろうと思いながらとりあえず文部科学省のデータを当たった。6月23日付けで福島第一原発から「20km圏内空間線量率測定結果」が出されており、そこには南相馬市のいくつかの地点の放射線量がμSv/h(マイクロシーベルト/時)で記されている。これを年間単位で換算してみると観測地点により4.38mSv/年~80.592mSv(ミリシーベルト)/年までの幅がある。4月19日に文部科学省は福島県児童生徒の年間被曝許容量を20ミリシーベルト以下へと変更した。しかし、以前までは国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告である年間 1ミリシーベルト以下で遵守されて来ていたのだ。南相馬市では改訂された基準値の20ミリシーベルトを遥かに超える地点もあることが分かった。大学の研究室や病院などの「放射線管理区域」は年間5.2ミリシーベルト以下である。さらに労働災害による白血病の被爆認定は年間5ミリシーベルト以上の環境であるかどうかどうかが基準となっている。児童生徒の被爆基準値が20ミリシーベルトというのは途方もない数値である。ドイツでは放射線労働従事者の基準値がまさに年間20ミリシーベルトが限度とされている。さらにネットを検索していると米英の専門家たちの意見も見られ、すでに両国でも放射性物質であるプルトニウムが検出されている。米国で39年以上にわたって原子力産業とその監視に携わり、原子力工学界の生きた伝説とも言われるArnie Gundersen博士は「福島はわれわれが考えるよりはるかに危険であり、その危険ははるかに長く続く」と語っており、米国沿岸部での魚介類の放射線測定を米政府に申し出ている。福島第一原発では汚染水が大量に地下へ浸透し、今後何年間かは海にそれが流れ、魚類の食物連鎖により濃縮された放射線が蓄積された魚類が米国太平洋沿岸部で今後獲られることになると警告されている。概ね9週間でとりあえず収束したチェルノブイリを遥かに超える事故だとも発言されている。先日も記したドイツ政府の発表した放射線の拡散シュミレーションを見ると日本列島は絶望的であり、それだけに国際社会の研究者たちにも注意が向けられているのだろう。冷却の工程が東京電力の言う9ヶ月でという目標は不可能な話だと見られている。
日米共同の航空機モニタリング(6月16日発表) ドイツ気象庁のデータよりはるかに安全域が広いように描かれている

東北の「えみし」

2011-06-28 19:47:09 | 歴史
曇天の中で時折日が射す一日だった。職場の裏山ではメジロの群れが飛び交っていた。隣接するキリスト教会には相変わらず多くの支援の人たちが訪れている。金髪の外国人も何人かいた。釜石の仮設住宅には日赤からの電化製品以外にも北欧家具で有名なIKEAからも食器がふんだんに寄付されているようだ。しかし気仙沼出身の職場の伝統の匠の方の話だと気仙沼では自宅に戻った被害にあった人たちの間では食器が逆に不足していると言う。IKEAの寄付は仮設住宅がどうも対象のようだ。避難所から自宅へ戻った人たちには支給されないのだ。被災した全ての人に行き渡るわけではない。このあたりも現場の状況が把握されないで支援が行われる矛盾が感じられる。先日娘の知人が大阪からボランティア活動に釜石へ来られた際、釜石がいかに自然が豊かなところか話をさせていただいた。当分は海の幸が期待出来ないのが残念なのだが。あらためてそうして釜石の自然の豊かさについて考えていると、ふと「えみし」と呼ばれた東北のことを思い出してしまった。かって青森県の津軽に先住した阿曽部族もアソべの森に住んでいて岩木山の大噴火により大部分が犠牲となった。残った阿曽部族や津保毛族を統一したのが「筑紫の日向の賊」に追われて津軽に逃れた安日彦・長髄彦兄弟であった。『東日流外三郡誌』の著者秋田孝季はこの「筑紫の日向の賊」を神武だと考えたようだが、古田武彦氏は神武ではなく天孫降臨のニニギであるとされた。佐賀県唐津市にある縄文時代晩期後半の菜畑遺跡の水田跡や弥生時代前期の福岡市博多区にある板付遺跡の水田跡のある地域に壱岐対馬領域にいた天族である天照の命により孫のニニギが攻め入った。板付遺跡には吉野ケ里遺跡で知られるようになった外的防御のための二重の環濠も造られていた。このとき水耕による稲作を行っていたのが安日彦・長髄彦兄弟たちであり、稲作技術を持って津軽に逃れた。その稲作が青森県の弥生時代前期の砂沢遺跡や弥生中期の垂柳遺跡の水田跡として遺された。実際、青森県の水田遺跡に見られる技術は板付遺跡のものと同じだ。神武が大和に侵入する直前に先住の者たちをだまし討ちにより勝ったことを祝って歌った「愛彌詩(えみし)を一人(ひだり)百(もも)な人人は云へども抵抗(たむかひ)もせず」(えみしは一人で百人分強いと人は言うけれど抵抗もしない)は古田武彦氏は神武のたちが歌った他の歌同様に北部九州での歌であり、さらにこの歌は天孫降臨時にニニギたちが歌った歌だとされる。すなわち菜畑の縄文水田や板付の弥生初期の水田を築き、ニニギに侵略された安日彦・長髄彦兄弟がまさに「愛彌詩(えみし)」なのだとされる。この時代は中国では周から漢にかけての時代であり、北部九州の水耕稲作を中国から伝えられた際に当然文字も一緒に伝えられたはずで、美辞である「愛彌詩(えみし)」はニニギの侵入以前から北部九州の水田地帯に先住していた人々が自らに付けた呼び名であるとされる。その「愛彌詩(えみし)」が中国の史書に載せられたとき「蝦夷」に変えられた。「遥かなる東夷」という意味合いだ。「一人(ひだり)」は「ふたり、みたり、よたり」と同じ数え方で濁音となっていて、この濁音も宮沢賢治の『雨にも負けず』にみる東北の濁音に共通していると考えられておられるようだ。
タンポポの穂種 東北ではタンポポが春から秋にかけて長く見られる

吉浜地区の知恵

2011-06-27 19:46:29 | 文化
朝から今日も小雨が降り続く。外を歩くと半袖だと少し肌寒い。職場で会った鵜住居地区に住んでいた中年の男性は家も母親も津波で失い、三ヶ月間避難所へは入らず車の中で寝泊まりしていたそうだ。ようやく2週間前に鵜住居の山側の奥に建設された釜石では最大の仮設住宅地域の1戸に入ることが出来た。一人住まいのため四畳半一間の仮設住宅だ。細々としたものを置くととても狭いと言う。車の中で寝るよりは楽になったそうだが。釜石にはギネスブックにも載った世界一深い防波堤が30年の歳月と1200億円をかけて造られていた。宮古市の田老地区には「万里の長城」と呼ばれた高さ10mの巨大防潮堤が、大船渡市の湾口には総延長740mになる防波堤もあったが、それらすべてが破壊され津波に乗り越えられてしまった。早稲田大学の海岸工学の研究者である柴山知也教授は費用対効果を考えればハードに限界があると地方紙のインタビューに答えている。釜石市のすぐ南に隣接する大船渡市の吉浜地区は世界一美味だとされるアワビ「キッピンアワビ」の産地である。この地区もこれまで津波の被害を受けて来た歴史がある。今回の津波でも高さ7mの防波堤や幅30mの松林もすべて津波で流されてしまった。津波は標高20mの高さまでの陸上を駆け上った。この地区には440戸が住んでいるが津波に被災したのはわずか3戸だった。全戸が標高20m以上に移り住んでいた。吉浜地区は1896年(明治29年)の三陸沖地震による津波で住民の二割が犠牲になった。復興の際、当時の村長が高所への移転を強く訴えた。それに住民も従って高所への移転が進められた。それでも1933年(昭和8年)の三陸沖地震による津波で1割の住民がまた犠牲になった。そこで国や県も意欲的に高所への移転を促進するための低利融資制度を設け、吉浜地区は全戸標高20m以上の高所へ移転し、それまでの低地は水田に変えて、二度とそこに宅地が建てられないようにした。今回の津波の際に偶然にも吉浜地区でかって津波記念の石と言われていたものが土の中から姿を現しているのが発見された。かっての津波により陸に押し上げられた巨大な石を以来津波を記念する石としていたが、道路工事のために埋められてしまっていたものだ。世界最深の63mの海底に基礎石材を置き、その上に幅30mのブロックを並べた釜石の防波堤は津波による市街地への浸水をわずか6分遅らせただけだと言う。自分にとっては貴重な6分ではあったが。吉浜地区の住民のようにこんどこそ三陸沿岸の全地域が高所への移転を図るべきである。国や県は出来る限りその支援策を講じる必要がある。
クサノオウ どこにでも見られるまさに強い野草だ

元の土地に戻りたい気持ちは根強い

2011-06-26 20:05:28 | 文化
今日も小雨の降る一日になった。周囲で小鳥たちがいつものようにさえずっているが、やはり晴れていないと何かすっきりしない。娘の知人が大阪から花巻空港へ午前9時半に着くので、いつも通り起きて娘とともに花巻に向かった。出るのが少し遅れたので心配していたが間に合うことが出来た。釜石へ戻る途中でいつもの遠野の道の駅風の丘へ立ち寄った。相変わらず人で混み合っていた。釜石で昼食を摂った後両石、鵜住居を通り、大槌町市街地の被災地を周り、山田町では山田駅の駅舎をゆっくり見て回った。ここは次々に人が入れ替わりやって来る。どこも瓦礫は以前に比べてかなり片付けられて来ていた。しかし警察官による遺体捜索は依然と続けられていた。山田町でも道の駅に立ち寄った。帰りにもう一度大槌町市街地を通り、釜石の栗林小学校へ向かった。先日オリンピック金メダリストの米田功選手がここを訪れた時に撮った写真を届ける目的だった。残念ながら休日のため校長は不在だった。避難所になっている体育館にも行き、避難所のリーダーの方に写真をお渡ししておいた。さらに上栗林集会所へも以前娘が撮った写真を届けに行ったが、こちらはもうすでにみんな仮設住宅へ移られており、避難所としては閉鎖されていた。釜石市街地に戻ると旧一中跡の避難所へ立ち寄り、娘と大阪からの娘の知人は少しだけボランティア活動をさせて頂いた。避難所の同じ敷地には仮設住宅があり、そこに同じ職場のご高齢の同職の方が移られていたので少しだけお邪魔させて頂いた。これから住居をどうするか苦慮されておられた。やはり被災直後はここにはもう住めないと思われたが、時が経つにつれ、他所を見るにつけ住み慣れた元の場所へ戻りたいという気持ちが強くなって来られたようだ。もう自分の時代はその場所で終わらせたいと考えられ始めたそうだ。お聞きしていて複雑な気持ちにさせられた。被災者の方々はほとんどが同じ考えなのだろうと思う。今日も大槌町の市街地の中心に昭和八年の津波の記念の石碑が建っているのを見たが、そこには危険地帯には住んではならない、という先人たちの警告が刻まれていた。それでもいつのまにか同じ場所に人が住むようになり、今回同じ被害に出会っている。そこに住んだ人たちの気持ちは理解出来るが、たびたびやって来る津波のことを考えれば今度こそ住民だけでなく自治体や国が総力を上げて根本的な対策を立てる必要があるように思う。どこも苦しい財政事情であることは分かるが。
大槌町の被災地の中心に建つ「警告」の石碑

マッキントッシュの10年の節目

2011-06-25 10:54:26 | 文化
東北では例年より1週間ほど遅れて今月21日に梅雨入りしている。そのため今日も曇天と小雨の一日だ。日が射さない分気温も低く、最高予想気温が19度になっていて今日は凌ぎ易い。毛が抜け替わっていない庭の犬たちも気持ち良さそうに居眠りをしている。明日から1泊で娘の知人が大阪からボランティア活動に来るため娘は部屋の片付けに追われている。震災後どうしてもボランティアに参加せずにはいられない気持ちにかられたのだそうだ。ただ仕事をされているので日程も限られる。それでもその熱意には感心させられる。大阪にいる息子もキリスト教会を通じた団体のボランティア活動に明日から1週間ほど参加するらしい。仙台方面に行くようだ。職場に隣接するキリスト教会にも常時ボランティアが10人近く常駐している。中には外国人も混じっている。今月も後わずかになったが来月になると普段使っているパソコンの基本ソフトであるOSが新しくなる。どうしても必要でなければ普段はウィンドウズではなくマッキントッシュを使っている。マッキントッシュを作っているアップル社は伝説の創業者の一人であるスティーブ・ジョブスが膵臓癌を乗り越えて今も現役でリーダーシップを執っている。1981年から始まって1991年にはカラー表示になり、2001年にはOSXとして基本ソフトの刷新が行われ、10年毎の節目に常に革新的な技術が導入されて来た。今年の2011はちょうど10年毎の節目に当たる。アップル社が作る携帯電話iPhone(アイフォン)や携行に便利なiPad(アイパッド)などが高機能になって来る中でパソコンの存在意義が薄れて来て「パソコンの時代は終わった」とまで言う人が出て来ている中で常に革新を志して来たスティーブ・ジョブスは来月の新しい基本ソフトでパソコンならではの機能を前面に押し出して来るようだ。パソコンは携帯機器に比べて容量が大きい。そこで現在作業中の内容を常に自動的に保存してくれ、保存のパターンも何種類か選択出来るようになっている。少し前の作業内容へ戻るいわゆる履歴機能も付いている。画像ソフトの本家であるフォトショップで既に取り入れられている機能の発展型だ。これは作業する側にとっては非常に有り難い。以前は基本ソフトであるOSが動かなくなってしまうこともあったが最近はそうしたことも見られなくなり、メンテナンスはまず不必要になったが、うっかり作業中のものを消してしまったりするこちら側のミスはたまにある。そうした時にいつでも作業中の内容が取り戻せるのは嬉しい。他にも全て合わせて250もの刷新があると言う。そして何より有り難いのはこの基本ソフトOSの値段がたった2600円になったことだ。しかも同一所有者のパソコンであれば何台でもその値段だけで使用することが出来る。これまでは1台毎に高いお金を払わなければならなかった。さらに今回からのOSはネット経由で購入するようになっていて、これまでのようにOSの入ったDVDを購入しなければならないのとは違って手間が省かれている。今からちょっと楽しみにしている。
金蓮花 葉が蓮に似ているが花自体は変わった形をしている

日本の電力

2011-06-24 20:45:01 | 文化
雨が続いて蒸し暑かったが夕方から肌寒くなって来た。昨夕も強めの揺れがあった。体感地震の数は減って来ていたがここのところ再び増えて来たようだ。雨も大雨と言うほどではないが山野に降り続いた雨水は土砂崩れを起こし、河川も増水するため花巻と釜石を結ぶJRは午前中運転を休止した。単線ののんびりした鉄道は雨や雪、熊や鹿などの動物の出現で簡単に運行が止まってしまう。1995年に電気事業法が改正され従来の電力会社に電力を販売できる発電事業者の参入が許可された。以後さらに規制が少しづつ緩和され2005年には日本卸電力取引所が開設され電力市場が出来上がった。電力部門は電圧により3つの部門に分けられており、大規模工場・デパート・オフィスビルなどの特別高圧部門、中小規模工場・スーパー・中小ビルなどの高圧部門、小規模工場・コンビニ・一般家庭の低圧部門がある。順次発電事業者の参入が許可されて行き、現在低圧部門だけが規制を受けている。発電事業者は今では電力量の60%をまかなうまでになっている(平成22年11月経 済 産 業 省 資源エネルギー庁資料より)。5月15日付け日本経済新聞電子版によると全国の企業が持つ自家発電を合わせると6000万KWの発電能力を持つと言う。これは東京電力の供給量に匹敵するのだと言う。3月14日日本卸電力取引所は取引を中止した。東京電力が福島第一原発事故を理由に送電線の使用を拒否したため、発電事業者は実質的に顧客に送電できなくなった。以後発電事業者は次々に日本卸電力取引所に見切りをつけて脱退が相次いでいる。日本全体を見れば東京電力が主張する計画停電などどこにも根拠がない。日本の電力の自由化の問題点は送電線にある。送電線は各電力会社が独占しており、新規の発電事業者は自由に使うことが出来ない。送電線がまさに「自由化」されれば計画停電が不必要であるだけでなく、原子力による発電そのものも必要性がなくなってくる。電力各社にとって「送電線」は死守すべき最後の砦なのだ。現代生活に最も不可欠となっている電力がその供給体制において最も独占が強いと言う時代錯誤がまかり通っているのが現状なのだ。独占体質は企業体質そのものを官僚的にさせ、臨機応変な対応を迫られる事態でミスが続出する結果をもたらした。
山紫陽花 釜石の周辺の山ではよく見かける

既にチェルノブイリは超えている

2011-06-23 18:40:04 | 文化
昨日は風邪が災いして身体がだるい上に気温が30度を超えてしまって尚調子が悪かった。夜になっても2階の寝室は暑く、とうとう窓を開けて網戸にしてベッドに入った。暗い部屋に近くを流れる甲子川のせせらぎが気持ちよく耳に入り、カジカガエルの競って鳴く澄んだ音色も相まっていつの間にか眠ってしまっていた。朝起きて少し経つと久々に強い揺れがやって来た。間もなく津波警報が出された。娘が心配して警報が解除されるまでは出勤しないで欲しい、と言う。幸いいつもの出勤時間以前に警報が解除された。朝の満潮時間と津波の予想時間が重なっていたようだ。予想された津波の高さは50cmだったが。小雨が降っていて、いつもよりさらに渋滞しているのではないかと心配したが、いつも通りであった。最近は雨が降るとできるだけ濡れないように気を付けるようになった。放射性物質が気になるのだ。わずかでも無用のものには触れない方がいいと思うからだ。さすがに岩手までは高濃度の放射性物質は流れて来ないと思うがどこからも適切な情報が得られない状況では自分で注意をしておいた方がいいだろう。福島県の有り様を見ていると余りの政府や東京電力の無責任さに憤りさえ感じて来る。旧ソ連のチェルノブイリ原発事故は臨界中の原子炉一基の爆発だった。しかし、福島第一原発は臨界停止中の原子炉が6基もあり、1号機から3号機までは確実に炉心溶融(メルトダウン)を起こしているのである。もうそれだけで危険度は想像がつくはずである。しかしマスコミに登場する科学者と称する方々はチェルノブイリといかに異なるものであるかを強調して危険ではないと主張される。まるで旧ソ連は技術的に劣っていて日本の技術はそんなものではないと強調される。高度な技術をもっているはずの日本の代表的な電力会社が途方もない人為ミスを重ねていることは決して語られない。講談社が出すWEB版『現代ビジネス』によると福島第一原発から60Km離れている福島市で基準値の10倍以上の放射線量が測定されており、文部科学省が自らのHPに載せている航空機によるモニタリングデータを5月6日分と6月16日分を比較しただけで確実に汚染が拡大していることが示されており、このデータを見る限り日本は旧ソ連がチェルノブイリ事故で避難基準とした値になっている地域さえ避難させていないことが分かる。さらに恐ろしいのは炉心溶融により発生する熱を下げるために海水による冷却が続けられており、途方もない量の汚染水が作り出されていて、4月中旬には苦慮した東京電力が海へ垂れ流して、国際的な批判を浴びて海への放流を止めたが、依然として汚染水は増え続けている。その汚染水は地下に放射性物質を含んだまま吸収されて行き、地下水となって数年から数百年後まで海や内陸に運ばれて行く。炉心溶融がもたらすプルトニウム239は半減期が約2万年だ。福島第一原発は氷河期に造られた5mの厚さの堆積層の上に建っており、その堆積層の下は水を通しにくい粘土層になっている。産業技術総合研究所地下水研究グループの丸井敦尚氏たちの解析では堆積層の汚染水がすべて海に流れるのに5~10年、粘土層のものは数百年かかると言う。東京大学や九州大学のシミュレーションでは米国へは3日で放射性物質が到達する。ただ濃度は原発周辺の約1億分の1まで低下しているが。現在現場では汚染水浄化装置を使って汚染除去に取り組んでいるが試験段階ですでにつまずいている。フランスのアレパ社と米国キュリオン社のそれぞれの装置の初めての合体という苦肉の策であるから当初のつまづきは仕方ないのかも知れない。
紫蘭(しらん) 大輪朱鷺草とよく似た形をしているが少し花が小さい

古いレンズの収納

2011-06-22 18:44:23 | 文化
今日はほんとうに暑かった。朝6時には21度しかなかったものが日中には32度まで上がった。犬たちも暑さで参っていた。風が結構吹いてくれたからそれでもまだ良かったが、風がなければ大変だったろう。オークションで古いレンズを集めたはいいが、レンズはカビにやられ易い。特に古いレンズはなおさら要注意だ。最初はとりあえずプラケースに入れておいたがだんだん貯まって来ると梅雨の時期が心配になって来た。既存の防湿庫にはデジタル用のレンズが入っていて空きがない。急遽ネットでドライボックスを注文した。2~3日前にそれが届いた。今日は暑い中その入れ替えと整備をやった。1階と2階を何度も行ったり来たりしているうちに汗がびっしょりと出て来た。窓と言う窓を全て開けていい風が吹いて来ているのにだ。湿度も高いようだ。途中で娘が買って来たアイスを食べたりジュースを飲んで休んだ。娘は娘で以前から家人に頼まれていた荷物の搬出をかねて部屋掃除にとりかかり、同じく汗びっしょりになっていた。古いレンズも種類が非常に多く、ドイツやロシア、米国、中にはまれにフランスや英国のものもある。国産にもヤシカやリコー、コニカなどの当時は盛んにレンズを出していたメーカーもあり、手にすると意外に優れたレンズだったりする。最近は超望遠の反射式のレンズに惹かれ、ニコンがかって出していた1000mmのレンズを手に入れた。通常の望遠レンズはレンズの長さが長くなるが反射式の場合は長さはさほど長くはない。しかし、太さがありこれも収納に苦慮している。乾燥剤を入れた密閉ボックスに入れないとやはりカビが発生する。単焦点というズーム式でないレンズは比較的簡単に分解してカビを取り去ることで元通りに戻せるが、反射式となると構造が複雑になるため下手にいじるとピントがずれてしまう。複雑な構造のレンズほど普段から注意しなければならない。同じ焦点距離のレンズでありながらどうしてここまで写りが違うのかほんとうに不思議だ。特に古いレンズには個性の豊かさを感じる。中には扱いの難しいものもあって、ピント合わせが難しいが、一度ピントが合うとすばらしい絵を描き出してくれるものまである。普段は素直に現代のデジタル用のオートフォーカスのレンズで撮るが、自分ひとりで楽しむにはやはりマニュアルの個性的なレンズを相手にする方が楽しい。
大葉の蜻蛉草(とんぼぐさ) 地方によってはムラサキツユクサをトンボ草と呼ぶようだが

物資ではなく現金の必要が

2011-06-21 18:51:31 | 文化
通勤路の甲子川沿いの道に柏葉紫陽花や浜茄子の花が咲いている。震災時にはこのすぐそばまで津波が来ていた。幸い甲子川の堤防そばのこの花壇は助かった。近くには毎年家の前の道路沿いに見事な菊を展示されるお宅もある。毎日通勤で通るこの道でこれらの花のことを思い浮かべるたびによくも助かってくれたものだと思わずにはいられない。自分もこの道を後から津波が追いかけていたことなど気付かずに車で通り過ぎた。明暗がどこで付けられるのか人には知ることが出来ない。職場では80代半ばになるご高齢の方に手助けをして頂いている。この方の人柄と経験が貴重だからだ。ご自身は東京生まれで、関西育ちなのだが、結婚とともにご主人の郷里にある釜石の老舗を手伝うために釜石へ来られた。以来60年の歳月を過ごされて来られた。今回の津波で住居もかねた老舗の建物がすべて流されてしまった。一時期は近所の方たちと釜石の無事だった料亭の一つに避難されておられた。その後近くの親戚の方のところへ身を寄せられた。最近仮設住宅が決りそちらへ引っ越された。現在の仮設住宅はすべて日本赤十字社が寄付した冷蔵庫やテレビ、洗濯機、空調設備などが完備されており、お聞きしたところでは布団や茶碗、箸、その他の台所用品まで付いているそうだ。ずいぶんと感激されておられた。かえって寄付で回って来た衣類の方が余り過ぎて困っていると言う。物資に偏りがあるようで現地で今何が足りないのかという情報が的確に伝わっていないのだろう。この方のおられた地域は昔からのお店が多く、中には借り入れを抱えている店も多く、今はその返済をどうやって行けばいいか不安な方が思った以上におられると言う。しばらくはいいとしてもいずれは返済を迫られる。それを返す手だてがない。仮設住宅に移ればそうした人たちは現金収入がないためかえって困窮すると言う。その人たちに今必要なのは現金なのだ。被災申請により補助金が出ることになっているが未だに支給はされていない。仮設住宅の光熱費や毎日の食費も自前で維持しなければならない。どうしても現金が必要となる。市当局もある程度そう言った状況を把握しているだろうが、市自身も財政が逼迫して来ている。震災後多額の復旧費を費やして来た。市長自ら東京へ何度も陳情に足を運んでいる。しかし国からは今のところ反応がないようだ。福島第一原発というまさに人災が思いも寄らない国の出費を来してしまった。そうであっても被災地では仮設住宅に移った人たちの精神状態が今後一番注意されなければならないだろう。
白花のノビネチドリ 白花は珍しいが遠野近辺の某所では途方もない値が付けられていた