今日は朝から予報通り曇天の一日で、夕方にはわずかに雨も落ちていた。庭の最後の紅葉もかなり葉が落ちて来た。まだ綺麗な葉がたくさん地面には散っている。花はこの時期になるとほとんど菊の種類くらいしか見かけず、冬の花の山茶花があちこちで見られるようになった。庭では唯一大文字草が終わりかけている。紫陽花も萎れた花がそのまま残っており、いずれは枯れて落ちてしまうのだろう。 和田家資料の『奥州風土記』に「採鉱鋳造史抄」がある。冒頭に「金銀銅なる鉱石に脈せるは羽州に多けれど鉄鉱脈少なし。鉄鉱石の多きは陸州に多く、日高見河を東西に区を分って、太古より鉱師その掘術を営めり。」とある。また「亦、鉄にては砂鉄を得て鋳せるも、質よきは閉伊なる仙人峠なる産鉄ぞ秀なり。古来より安部氏をして一族挙げて鉱探し、その成果を得たるは山靼帰化人にて技を伝授得たるものなり。」として、山に「タダラ」を設けた要処が流鬼国、千島国、日高渡島国、日乃本五十三郡の順にそれぞれ要処を詳述している。日乃本では仙人峠と並んで釜石の名が挙げられている。釜石には「鉄の歴史館」が造られているが、釜石市の説明では釜石の鉄の歴史は1727年(享保12)年盛岡藩の阿部友之進が釜石の大橋地区で磁鉄鉱を発見したことから始められている。次いで、水戸藩の要請で反射炉の操業に成功した大島高任が1857(安政4)年、南部藩の許可を得て、釜石に洋式高炉を築造したことが記されている。2011年の大震災で岩手県は沿岸部で多大な被害を受けたが、今、その復興のために沿岸部を南北に走る自動車道の建設が急がれており、その工事の際にたくさんの遺跡が発見された。自動車道は海岸に迫る山の中腹を貫く形で建設されており、そうした比較的高い位置に遺跡が発掘されている。縄文や弥生時代の遺跡が多いが、そうした時代の人々がすでに津波を恐れて、高台に住んでいたと言うことなのだろう。古墳時代の遺跡も出ており、鉄製の刀や兜も見られる。和田家文書にあるように仙人峠を含めた現在の釜石は江戸時代末期よりずっと以前から製鉄の歴史があったのだ。しかし、正史に載らない歴史は歴史として見做されない。敗者である奥州安部氏の歴史はまったく無視されてしまっている。現首相はまさにその奥州安部氏の末裔だ。官僚に振り回されて日本をさらに深刻な事態に追いやっている。よほど祖先の歴史を蘇らせる責務の方があるように思うが。いずれにせよ、釜石に限らず、東北は自分たちの歴史をもう少し掘り起こして欲しいものだ。
残った庭の紅葉