釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

一年の終わりに

2008-12-31 09:36:30 | 経済
いよいよ今年最後の日を迎えた。昨夜降った雪がうっすらと白く周囲を染めている。今朝は晴れているのですぐ融けるだろう。自然と人の心と文化が豊かな釜石は都会から離れているため影響がほとんど感じられないが、今や勤労者の4分の1が年収200万以下であり、年収が勤労者平均以下が6割を占める。OECD(経済協力開発機構)調査では相対的貧困率が何と米国に次いで2位なのだ。もはや米国や日本は先進国などとは言えない。1991年のバブル崩壊後日本の経済が低迷し2002年から大企業中心に景気回復が始まったが2001年に成立した小泉内閣は米国の年次要望書通りに竹中平蔵が主導する新自由主義、市場原理主義に則って所謂構造改革なるものを推進した。財界も経団連が中心に竹中平蔵の主導に同調して新自由主義、市場原理主義を国内に蔓延させた。行き過ぎた市場主義、自由主義は1929年の世界恐慌の反省をすっかり忘れて我が世の春を謳歌するかに見えたが歴史を忘れたものには必ず歴史が繰り返される。昨年からの米国のサブプライムローンの破綻に始まった世界規模の経済危機は今年に入り当然日本へも波及し、内部留保を溜め込んでいるにもかかわらず経済原則を無視して相変わらず市場原理主義を反省しないまま大企業は勇んで次々に首切りに走った。米国は来年初めの次期大統領が70兆円規模の景気対策を投じ、300万人の雇用創出を図る。しかしそれすら十分な対策とは言えない。来年は米国の債務がさらに巨額である事実が明らかになるだろう。ドルの崩壊も現実化する。すでにアラブの産油国はその方向に動いている。日本は百年に一度の危機と言いながらわずか2兆円の景気対策で、政治は日本の経済状況より政権争いに興じている。報道も首切りや倒産した中小企業の実態よりも政局や消費税増税に熱心で、政界・財界・報道いずれもが経済の深刻さに背を向けている。来年から再来年にかけて百年に一度の危機の意味がはっきりして来るだろう。しかし対策はそれからでは遅過ぎる。残念ながら今の日本の状況からはいい年は期待できないだろう。



早くも1輪だけ咲いた椿

釜石の言葉

2008-12-30 08:22:31 | 文化
2~3日続いた強い風を伴った寒波が昨日はようやく治まり比較的穏やかな晴天になり夜もいつもの星空を見ることが出来た。朝獲れた三陸の牡蠣とホタテをまたいただいた。新鮮そのものの味を味わっているとだんだん贅沢になって来るようで他所へは移れなくなるのではないかと思ったりもする。職場で普段耳にする言葉はあまり不自由することはないが土地のお年寄りの言葉は半分以上は分からない。釜石の言葉には地名と同様恐らく一部にアイヌの言葉も混じっていると思う。その他以前にも記したが江戸期の南部藩やその祖先の山梨の言葉も入っていると思われる。盛岡はじめ遠野辺りにも山梨からの南部藩の移住者がいたようだ。地方は都会ほど変化がないため言葉も昔の形で残っている物が多いはずである。少し調べてみるとトンボのことをアゲツと言うそうだがこれは秋津=蜻蛉=トンボの古語に由来するらしい。それ以上にという意味のイドドも古語のいとどに由来する。つららをタルヒと言うそうだがこれなどは垂れ氷から来た雅のある言葉だと思う。ホデナシは愚か者・馬鹿者を言うのだそうだがこれも程なしから来ていてなんとも奥ゆかしさを感じてしまう。現代の標準語と言われる言葉がいかにも底の浅い言葉に見えて来る。釜石は言葉にも豊かさがあることを知らされる。ところで巨匠が昨年に続き今年も北海道の日高方面へ行かれたが言葉に違和感がなかったそうだ。ハンカクセ=ばからしい、オガル=大きくなる、ナゲル=捨てるなどの言葉は北海道でもよく耳にした。岩手の言葉が確かに開拓の人たちを通して北海道へも入っているのだろう。


三陸の獲れたばかりのホタテ

釜石の庶民の歴史

2008-12-29 09:23:09 | 歴史
柳田国男の遠野物語があまりに有名だから遠野以外には民話はないような錯覚をしてしまうが岩手県内にも多くの民話があり、むろん日本各地にも民話がある。釜石にも同じく民話があり、幾つかは遠野物語にも記されている。幕末期には釜石に異人館があり、キリスト教も密かに信仰されていたようで遠野ではそのためにはりつけになった人もいたようだ。甲子川(町の住人たちは大渡川と言うそうだ)には遠野と同じようにカッパがいて旧家の馬を川へ引きずり込もうとしたところを捉えられて詫びの証文を書いたそうで、その証文が今でも旧家の土蔵にしまってあると言うことだ。カッパが水かきのついた指を切って血文字で書かれた奇妙な文字とも絵とも判別できないものだそうだ。甲子川は以前は本州一の鮭の遡上する川だったそうだからカッパも鮭を食べていたのかも知れない。釜石に製鉄所ができる以前は三陸沿岸の漁業の中心でもあったので釜石湾周辺には漁師が多く住んでいたそうだ。そうした漁師たちの中にも民話が残っていて、貧しい漁師の青年が浜で娘に出会い、その娘の導きで大漁を得ることができ、不思議な高麗鐘(こうらいがね)まで網にかかりそれを氏神様に祀るようになったと言った民話があるそうだ。民話には人の願望や人の性、自然への恐れや敬いなど様々なものが含まれ、一見作り話のように思われてしまうが全てが作り話とは思えない。むしろ民話の中に権力者のものでしかない歴史には登場しない人々の歴史が語り継がれてきていると思う。民話は庶民の歴史とも言えると思う。


クロツラへラサギ ただのシラサギだと思って撮ってみると貴重な鳥だった(甲子川で)

合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)

2008-12-28 07:49:14 | 経済
年の瀬になり大地が凍てつくようになった。今朝は昨夜からの雪でめずらしく外は真っ白で今も細かい雪が降っている。雪が降る時は不思議と世界が静かになる。釜石でのこの一年は思いもよらない釜石の自然を知り、多くの匠の存在を知った一年だった。しかし世の中を見渡すと世界的な規模の危機が迫っているにもかかわらず政治や経済の指導者はかっての指導者に比べあまりに見劣りし、日本全体が米国同様にあたかも崩壊するかに見えてしまう。日本にはこの国難を乗り越える指導者が出て来るのだろうか。経済学では合成の誤謬と言う言葉がある。もともと論理学からきた言葉だが、別に難しいことではなく、個々人の行動としては正しいことも全体として見ると誤った結果を生み出してしまうことを言う。例えば一人一人の漁師が魚を沢山獲ることは収入を増やそうとする正しい行動だが全ての漁師がそうすると全体としては魚がいなくなってしまう。1991年からのバブル崩壊で企業は体力を付けるために利益を溜め込むようになった。2002年からの回復後も溜め続けて賃金を押さえて来た。個々の企業としてのこの行動は企業としてはある意味正しい。しかし国全体の経済としては賃金が押さえられたために消費が減退し、物が売れなくなる。トヨタは販売部門との合併後はじめて赤字になる。まさに合成の誤謬を生じてしまった。ではこれを避けるために、あるいはそこから抜け出すために何が必要かと言うとそれが政治や経済の指導者のリーダーシップになる。今の日本にはこれが期待できないために暗澹とならざるを得ない。政治も経済もいずれもトップは祖父や叔父の威光でトップにたった人たちで政治や経済の役割が理解されていない。来年から再来年にかけて米国の不況の煽りがさらに強まる。ドルの崩壊が現実になる可能性もある。これまでの不況とはスケールが全く異なっている。相変わらず首切りがさらに進められ、消費は一層落ち込み、物はより売れなくなる。先の見えない悪循環がやって来る。これが恐慌なのだ。


カワラヒワ 甲子川の川岸に水を飲みに来た。よく見ないとスズメと間違う

遠野の恵み

2008-12-27 08:45:36 | 文化
昨日朝は周囲がうっすらと雪化粧をしており、風も冷たかった。朝から日中を通して-1度で夕方には-4度になっていた。内陸では交通機関が乱れ、飛行機は欠航になり、車も何ヶ所かでスリップ事故のため渋滞だったようだ。相変わらずスタッドレスのせいで路面がツルツルになっていたようだ。今日から休みに入るが今日も寒波が襲い、朝はやはり-4度。内陸側の遠野では雪のようだ。その遠野から来られている同じ職場の写真の巨匠から遠野の名産のわさびや林檎、蕎麦、漬け物などを送っていただいた。ほんとうに有り難い。釜石は海と山の幸が得られるが、隣の遠野では釜石では得られない広い大地の恵みが得られる。釜石に住んでいることで遠野を含めて周囲から豊かな自然の恩恵が受けられる。周辺には道の駅や産直の店も幾つかあり、いつでも産地の新鮮な味わいを楽しめる。風景としても釜石では山やリアス式の海岸が見られ、遠野では懐かしい農村風景や武家の時代の趣を味わうことができる。空気や水がおいしく、青空の青が透き通るようでいつも本来の生活の豊かさを感じる。住む人たちも穏やかで優しい人が多く、もう少し自己主張してもいいのではないかと思うほどだ。都会の喧騒や人ごみが苦手になってみると改めて釜石に住んでよかったと思う。それも一方でインターネットがある時代だからなのかも知れないが。


甲子川上空を飛ぶミサゴ

教育と医療の破壊が進む

2008-12-26 07:05:32 | 文化
メディアでも盛んに言われるようになったが構造改革はそれまでの医療の縮小に拍車をかけた。医療費は先進国の中ではGDP比つまり国力で比べて最低であり、個人負担が大きいと言われる米国と比べても国の負担は日本は米国の10分の1でしかない。准看護士の学校が次々に閉鎖になり、看護大学を設立することで現場で働く看護士は急減し、医師の研修制度の変更と女医の就労環境の不整備と、地方医師への配慮の欠如のため医師不足は全国に蔓延している。ゆとり教育と称して授業時間を減らし、一方で教師への締め付けを強め、個性ある教師を排除し、生徒に教科への興味を失せさせ、学力低下を招いた。経済協力開発機構(OECD)の学力調査でも台湾をはじめとするアジア諸国の躍進に比べ日本は各分野で順位を落とした。特に理数系の低下は深刻で、今後の日本の産業の在り方に大きく影響する。医療も教育もお金がかかる。限られた財政で何を優先し、何を削るかである。しかし医療も教育も明治以来日本が最も力を入れて来た分野であり、それゆえに現在の日本がある。医療と教育は未来の日本の国力の再生産のための源泉なのだ。確かに財政は赤字であるがその赤字は多くの無駄なものへの支出で増やされて来た。医療や教育への支出は確実に減らされて来たのであり、赤字を大きくしたのは医療や教育ではなく、無駄な政府の支出やよく言われる多くの官僚がつくり出した天下り先の諸機関である。埋蔵金はいくらでも出て来る。日本は諸外国と比べ衣食住と言う生活に絡んだ費用が高すぎる。どこが先進国なのだと思う。


オシドリの青年

荒覇吐(アラハバキ)

2008-12-25 07:00:50 | 歴史
奥州市江刺に平泉藤原氏にちなんだテーマパーク藤原の郷がある。その中に東北の古代神のアラハバキと書かれたストーンサークルが置かれてあった。その後東北の歴史に関心を持つようになり、改めてこのアラハバキ神に興味を抱いた。東北各地は無論、調べてみると関東、中部、中国,四国、九州でもアラハバキ神は祀られていた。不思議と関西では極めて少ない。関東以西ではしかし客人神(まろうどがみ)として祀られている。各神社の客扱いなのだ。それでもこれだけ全国に広がっていながら、しかも古代からあった神が日本書紀や古事記では一言も触れられていない。伊勢神宮にも祀られていると言うのに。明らかに大和王権が敢えて無視したものと思われる。先住民である恐らく縄文人の間で信仰された神であると考えられており、それが全国に広がっていたが大和王権の征服につれ土着神に替わり大和王権の神々を祀るように強制されたのだろうと思われる。東北は大和の威光が最も及び難いところであったために客人神ではなく地主神として長く信仰されたのだろう。大和王権にとって東北は下賤で、悪であり、邪であった。その神を無視するのはある意味当たり前である。ただ大和王権も東北を制するためにはアラハバキ神を利用している。それが多賀城のアラハバキ神社である。もっとも多賀城そのもは元々古代先住民のアラハバキ族の王城であったのでアラハバキ神は既に祀られていた。自然を信仰の対象とした縄文人の神々は全国に残っているが東北がやはり一番多く現在も残されているように思う。


街のイルミネーション4

大企業の内部留保

2008-12-24 07:48:51 | 経済
12月20日の報道2001と言う番組で資本金10億以上の大企業の内部留保つまり企業が溜め込んでいるお金が2006年度で218兆円あると指摘されたそうだ。実際は現在230兆円になる。17日には日刊ゲンダイが、御手洗会長 なぜ内部留保を使わない、と題して九州でのキャノン解雇の1200人を大分市と杵築市が厳しい市財政の中で臨時職員として雇用したことを報じ、キャノンの社長で経団連会長の御手洗氏に何故市がこれだけの努力をしている時偽装請負までやって内部留保を豊富に溜め込んだキャノンがそれを使わないのか怒りの言葉で埋められている。今年8月にはすでに日経ビジネスオンラインで国際通貨研究所のチーフエコノミスト竹中正治氏が、賃金抑制はもう限界 大企業の内部留保で日本経済が肺炎になる、と言う記事を出している。以前このブログでも記したが日本経済はもはや貿易で成り立っているのではなく国内需要で成り立っている。日本の年成長率で輸出の占める率はわずか0.04%でしかない。にもかかわらず世界経済の影響を簡単に受ける体質になったのは2002年以後の経済の回復で大企業は空前の利益を上げたが賃金にそれが分配されず、内部留保に回したため、国内需要を固定してしまい、企業は需要を国外に頼る形に自らしてしまった、と。むしろ全体としての賃金は2002年以降下降の一途をたどっている。国内需要が縮小するのは当たり前である。企業は利益を企業内に溜め込んだためにお金の流れを止め、賃金を通して作られる国内の需要を自ら減少させたのである。氏は最後に政治がこの所得分配問題に挑戦する覚悟と能力があるだろうか、いつだろうか、と結んでいる。それから4ヶ月が経っている。もはや急速な悪化は避けられない。大企業の溜め込みはまるでフランスの最後のルイ王朝の奢侈と民衆の困窮を思わせる。


街のイルミネーション3

生活に根付いたこだわり

2008-12-23 09:16:15 | 文化
昨日はミゾレ混じりの雪が午前中に降り、少し寒かった。それでも昼は職場の裏山にまたシジュウカラが7~8羽とヤマガラが2羽集まり透き通るきれいな声でさえずっていた。ムシクイらしき小鳥も瞬間的に見えたがはっきりしない。後ではコゲラも細い枝にくちばしを立てていた。周囲の山は葉の落ちた木々に雪が積もり、即席の樹氷のような姿を見せていた。夜は晴れて星の宝石が無数に空を埋めていた。職場の人からまた手作りパンとスグリのジャムや庭で育てた紫大根をいただいた。今の釜石は決して豊かな街とは言えないが、見方を変えると豊かな街とも言える。何が豊かか。生活の姿勢に豊かさを感じる。限られた自分の生活の中で得られるものから最大限のものを引き出そうとする生活態度を持っている。長い伝統になっていて、生活に溶け込んでいるため意識されることがない。しかし別の地域からやって来た目には驚きの連続だ。誇張すれば一人一人が生活の中に技と言えるものを持っている。少し話をするとそれぞれがこだわりについて語ってくれる。それは自慢ではなくあくまでも味に対するこだわりなのだ。この時期の新巻鮭にしても各人各様のこだわりのある新巻鮭が出来上がり、いずれも美味しく、それでいて明らかに味が違う。


再び街のイルミネーション

失われた経済学

2008-12-22 06:52:46 | 経済
学生時代の経済原論の教授が福沢(諭吉)先生は上野の山の戦いの砲声の中でウェーランドの経済書の購読を続けたという話を何度かした。その福沢諭吉が経国済民の意味の経済という言葉を初めて訳出した。つまり経済とは国を治めて民を救う、ことを言う。小渕内閣の経済戦略会議の議長代理をやった経済学者の中谷巌は若干31才でハーバート大学の博士号を取得し、構造改革、規制緩和、市場原理主義を唱え、その考えを同じ発想の竹中平蔵が推進した。しかし中谷巌は最近の週刊誌や近著で自分のこれまでの主張が誤っていたと悔恨の念を吐露している。構造改革、規制緩和と市場原理主義が国民に不幸をもたらした、と。以前は彼の著作もいくつか読んでいたが政治に関わるようになった頃から読むのをやめた。竹中平蔵は別の週刊誌で日本沈没の日は近い、と題して政府の無策を非難している。何をか言わんや、である。現在の日本経済悪化の元凶はまさに本人ではないか。構造改革、規制緩和と市場原理主義を強力に押し進める一方で私財を肥やしていた経済学者など経済学の名に値しない。福沢諭吉が開いた学校で経済学教授を勤めるなどは福沢諭吉が生きていればとても考えられないだろう。物事の道理を弁(わきま)えざる者は、これを学者と云うべからず、と福沢諭吉は言っている。学問は特に実学である経済学は民を守って幸せにするものでなければ単なる知識の遊びに過ぎず、論語知らずの論語読みでしかない。企業の論理で700万人もの人員削減が行われると予想される時、経済学は待ったをかけねばおかしいだろう。市場がますます縮小して行くことを知っているのは経済学なのだから。世はまさに1929年の世界恐慌の二の舞をやろうとしている。来年はさらに予想を上回る失業者が増え、不況は色濃くなって行くことだろう。


秋田のはたはた