日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(218)「管到(括弧)」は有ります!!

2019-05-11 12:30:28 | 返り点、括弧。

―「昨日の記事」を「補足」します。―
(48)
原文
世有(伯楽)、然後有(千里馬)。
千里馬常有、而伯楽不(常有)。
故雖〔有(名馬)〕、祇辱(於奴隷人之手)、駢死(於槽櫪之間)、不〔以(千里称)〕也。
cf.
原文」に「括弧」は無い。といふ人がゐるかも知れない。然るに、「括弧(管到)が無い、言語」は、存在しない
然るに、
(49)
句読点」が無い「文(言語)」は、無いはずである。
然るに、
(50)
しかし、あれこれ説明しても「ワカラヘン」奴ばかり。そこでええいと思いきって黒板に大書した。「キンタマケルナ」と。右の文に正しく句読点をつけよ、と前へひっぱり出してチョークを持たせた。ところがどいつもこいつもマチガイ。正解は、「金太、負けるな」であるぞ。句読点の大切さを頭にタタキコメ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、80頁)。
従って、
(50)により、
(51)
① キンタマ、ケル、ナ=金玉、蹴る、な。
② キンタ、マケル、ナ=金太、負ける、な。
に於いて、
①=② ではない。
然るに、
(52)
① キンタマケルナ。
とは異なり、
① 無蹴金玉。
であれば、
① 無、蹴、金玉=金玉を、蹴ること、なかれ。
といふ「解釈」しか、有りえない。
従って、
(52)により、
(53)
① 無食我。
であれば、
② 無、食我。
ではないし、
③ 無食、我。
ではなく、
① 無、食、我=我を、食らふこと、無かれ。
といふ「解釈」しか、有りえない。
然るに、
(54)
① 無、食、我=我を、食らふこと、無かれ。
に於いて、
① 無、
といふ「否定」は、
②    食、
だけを「否定」してゐるのでなく、
③   食、我
といふ「二語」を「否定」してゐる。
従って、
(54)により、
(55)
① 無、食、我=我を、食らふこと、無かれ。
に於いて、
① 無、
といふ「否定」は、
①   食、我
といふ「二語」に、「掛かってゐる」。
然るに、
(56)
① 無、食、我=我を、食らふこと、無かれ。
に於いて、
①   食
といふ「動詞」は、
①     我
といふ「一語」に、「掛かってゐる」。
従って、
(55)(56)により、
(57)
① 無、食、我=我を、食らふこと、無かれ。
に於いて、
① 無、は、
①  〔食、我〕に「掛かってゐて」、
①     食、は、
①    (我)に「掛かってゐる」。
然るに、
(58)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
従って、
(57)(58)により、
(59)
① 無〔食(我)〕=我を、食らふこと、無かれ。
に於ける、
①  〔 ( )〕
といふ「括弧」は、
① 無、食、我。
といふ「漢文の、管到」を表してゐる。
然るに、
(60)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
従って、
(58)(60)により、
(61)
「日本人の、白文の訓読」では、といふことに限らず、
「中国人の、漢文の読解」でも、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
といふ、ことになる。
従って、
(53)(59)(61)により、
(62)
① 無食我。
といふ「漢文(白文)」の、
① 無、食、我。
といふ「句読点」と、
① 無〔食(我)〕。
といふ「括弧(管到)」を「無視」するならば、「中国人」であろうと、「日本人」であろうと、
① 無食我。
といふ「漢文(白文)」を、「読解」することは、出来ない
然るに、
(63)
「日本人」も、「中国人」も、
① 無食我。
といふ「漢文(白文)」を「読解」出来る。
従って、
(62)(63)により、
(64)
「MTT(後件否定)」により、
① 無食我。
といふ「漢文(白文)」には、
① 無〔食(我)〕。
といふ「括弧(管到)」が存在する(Q.E.D)。
然るに、
(65)
① 無〔食(我)〕=
① 3〔2(1)〕⇒
① 〔(1)2〕3=
① 〔(我)食〕無=
① 〔(我を)食ふこと〕無かれ。
従って、
(65)により、
(66)
① 無〔食(我)〕=
① 〔(我を)食ふこと〕無かれ。
であるため、この場合の、「漢文」と「訓読」では、「語順」になる。
然るに、
(67)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(64)~(67)により、
(68)
① 無食我=
① 無〔食(我)〕⇒
① 〔(我)食〕無=
① 〔(我を)食ふこと〕無かれ。
といふ「漢文訓読」に於ける、
①  〔 ( )〕
といふ「括弧」は、
(ⅰ)「漢字」の「管到」。
(ⅱ)「訓読」の「語順」。
(ⅲ)「漢文」の「補足構造」。
といふ、「三つ」を、表してゐる。
従って、
(69)
② 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以、大學始敎、必使〈學者皍(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以、大學始敎、必〈學者(凡天下之物)皍{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)皍きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)ついて、{[(その學者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「漢文訓読」に於ける、
②〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」も、
② 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極(大學 伝五章)。
といふ「漢文」に於ける、
(ⅰ)「漢字」の「管到」。
(ⅱ)「訓読」の「語順」。
(ⅲ)「漢文」の「補足構造」。
といふ、「三つ」を、表してゐる。
従って、
(69)により、
(70)
② 是以、大學始敎、必使 學者皍 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極
に於ける、
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ、「読みにくい、返り点」も、
② 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に於ける、
(ⅰ)「漢字」の「管到」。
(ⅱ)「訓読」の「語順」。
(ⅲ)「漢文」の「補足構造」。
といふ、「三つ」を、表してゐる。
cf.
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
③ 己 二 一 戊  丁 二 一 レ 丙  乙 甲
に於いて、「語順」としては、
②=③ であるものの、
『漢文に関する文部省調査報告(明治45年3月29日官報掲載)』により、
③ 己 二 一 戊  丁 二 一 レ 丙  乙 甲
は、「マチガイ」になります。
従って、
(69)(70)により、
(71)
②〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「括弧と返り点」は、
② 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に於ける、
(ⅰ)「漢字」の「管到」。
(ⅱ)「訓読」の「語順」。
(ⅲ)「漢文」の「補足構造」。
といふ、「三つ」を、表してゐる。
従って、
(71)により、
(72)
②〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「括弧と返り点」は、ただ単に
② 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に於ける、
(ⅱ)「訓読」の「語順」。
だけを
、表してゐるわけではない
従って、
(72)により、
(73)
② 是以、大學始敎、必使〈學者皍(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
② 是以、大學始敎、必使 學者皍 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極
といふ「漢文」に於ける、
②〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「括弧と返り点」は、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)皍きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に「訓読」をしようと、
② Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風「音読」しようと、初めから、
② 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に、備はってゐた。
といふ、ことになる。
従って、
(73)により、
(74)
訓読」をするにせよ、「音読」をするにせよ、例へば、
② 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、
②〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」、すなはち、「管到補足構造」を、無視することは、出来ない


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