―「昨日(令和元年06月24日)の記事」を書き直します。―
(01)
③ 理事長が、2人以上ゐる。
のであれば、
② 理事長は私です。
とは言へない。
従って、
(01)により、
(02)
② 理事長は私です。
と言ふのであれば、
③ 私以外は理事長ではない。
然るに、
(03)
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
は「対偶(Contraposition)」である。
従って、
(03)により、
(04)
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
②=③ である。
といふことは、「偶然」ではなく、「必然(対偶)」である。
然るに、
(05)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
である。といふことは、「事実」である。
従って、
(07)
① 私が大野です。
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
である。といふことは、「事実」である。
然るに、
(08)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 私が大野です。
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
といふことは、「事実」であるが、
① 私(未知)が大野(既知)です。
② 大野(既知)は 私(未知)です。
③ 私以外(既知)は大野(未知)ではない。
といふことは、「仮説」に過ぎない。
然るに、
(10)
① 私(未知)が大野(既知)です。
② 大野(既知)は 私(未知)です。
③ 私以外(既知)は大野(未知)ではない。
に於いて、
① 私(未知)
③ 私以外(既知)
である。といふことが、「よく、分からない」。
すなはち、
(11)
『「私」は「未知」であるが、「私以外」は「既知である。』
とする際の「理屈」が、「よく、分からない」。
然るに、
(12)
① AはBであり、A以外Bでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」といふ。
従って、
(09)(12)により、
(13)
① 私が大野です(排他的命題)。
② 大野は私です(排他的命題)。
③ 私以外は大野ではない(排他的命題)。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(14)
(4)人称代名詞の主格は、特にそれが強調される場合以外には用いられない。
(a)この理由は、動詞の語尾が、主語が一人称であるか、それとも二人称であるか、または、三人称であるかを充分に示しているからである。つまり λεγω は「私は言う」(Isay)である。故に、特に「私」を強調が置かれるのでなければ、εγω を付け加えない。
(b)強調というのは、通常対照によって生ずる。たとえば、εγω λεγω,συ δε γραφειs,「私は語るが、しかし汝は書く」(I say,but you write)という文で,εγω と συ とは強調されている。
(J.G.メイチェン著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原点入門、1967年、55頁)
従って、
(14)により、
(15)
① εγω λεγω,συ δε γραφειs.
① I say ,but you write.
に於いて、
① εγω συ
は「強調形」である。
加へて、
(16)
「私は語るが、しかし汝は書く」
といふことは、
③ 私は言ひ、私以外(汝)は言はない。
③ 汝は書き、汝以外(私)は書かない。
といふことである。
従って、
(12)~(16)により、
(17)
「εγω,συ」といふ「ギリシャ語の人称代名詞」に関して、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(13)(17)により、
(18)
① Εγω ειμι ο βασιλευς.
① I I am the king.
といふ、「ギリシャ語の、人称代名詞の、強調形」は、
① 私が王である(排他的命題)。
② 王は私である(排他的命題)。
③ 私以外は王ではない(排他的命題)。
といふ、「排他的命題」を「主張」する。
然るに、
(19)
① 私が大野です。⇔ 私以外は大野ではない。
であるのに対して、
④ 私は大野です。⇔ 私以外は大野ではない。
ではない。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① 私が
④ 私は
に於いて、
① は、
② に対する「強調形」である。
といふ風に、「予想」される。
然るに、
(21)
① が(濁音)
② は(清音)
である。
従って、
(21)により、
(22)
「濁音」は、「清音」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
といふ風に、「予想」される。
然るに、
(23)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(20)~(23)により、
(24)
果たして、
① 私が
④ 私は
に於いて、
① は、
② に対する「(濁音による)強調形」である。
従って、
(13)(24)により、
(25)
① 私が大野です(排他的命題)。
② 大野は私です(排他的命題)。
③ 私以外は大野ではない(排他的命題)。
に於いて、
①=②=③ であって、尚且つ、
① 私が(濁音) は、
④ 私は(清音) に対する、「強調形」である。
従って、
(15)(25)により、
(26)
(ⅰ)私は王である。
(ⅱ)私が王である。
といふ「日本語」は、
(ⅰ)Ειμι βασιλευς.
(ⅱ)Εγω ειμι ο βασιλευς.
といふ「ギリシャ語」に「相当」する。
従って、
(26)により、
(27)
(ⅱ)私が王である。
といふ「日本語」は、
(ⅰ)I am a king.
ではなく、
(ⅱ)I am the king.
に於ける、
(ⅱ)I
に、「強調(ストレス)」が置かれた「状態」に、相当する。
(28)
① I am a king=私は王です=∃x(私x&王x)。
② I am the king=私が王です=∃x{私x&王x&∀y(王y→x=y)}。
従って、
(28)により、
(29)
② I am the king.
の、 the は、「一意性(Uniqueness)」を、表してゐる。
cf.
the は一意性を内含しているものと考えていく。したがって、われわれが「xはチャールズ二世の父であった(x was the father of charleⅡ)というとき、xがチャールズ二世と何らかの関係を持っていたというだけではなく、同時に他のいかなるものもこの関係を持っていなかったということを言明しているのである。
(勁草書房、現代哲学基本論文集Ⅰ、1986年、53頁)
然るに、
(30)
the[冠]⦅定冠詞⦆①⦅文脈や状況から聞き手がそれと分かる⦆その、あの、この、例の、問題の(日本語では訳さない場合が多い)。
(東京書籍、フェイバリット英和辞典 第二版、2011年、1621頁)
従って、
(29)(30)により、
(31)
② I am the king=私が王です=∃x{私x&王x&∀y(y≠x→~王y)}。
の、 the は、
②「一意性」と、
②「既知性」とを、「併せ持ってゐる」。
従って、
(08)(31)により、
(32)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。
といふ、ことからすると、大野晋先生は、
①「既知性」だけに、「注目」してゐて、
①「一意性」に対しては、「無視」してゐる。
といふ風に、言はざるを得ない。
従って、
(08)(32)により、
(33)
大野晋先生は、
① 私が大野です。 ⇔
① I am the 大野。 ⇔
① 大野は私です。 ⇔
① ∃x{私x&大野x&∀y(y≠x→~大野y)}⇔
① あるxは私であって大野であって、すべてのyについて、yがx以外であるならば、yは大野ではない。
といふ、「一意性(Uniqueness)」を、「無視」してゐる。
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