(01)
(ハ)量記号を一つにまとめたり、二つに分けたりするときの法則
16.{∃x(Fx)→∃x(Gx)}→{∃x(Fx→Gx)}
(沢田允、現代論理学入門、1962年、139頁)
(02)
(ⅰ)
1 (1) ∃x(Fx)→∃x(Gx) A
1 (2)~∃x(Fx)∨∃x(Gx) 1含意の定義
3 (3)~∃x(Fx) A
3 (4)∀x(~Fx) 3量化子の関係
3 (5) ~Fa 4UE
3 (6) ~Fa∨Ga 5∨I
3 (7) Fa→Ga 6含意の定義
3 (8) ∃x(Fx→Gx) 7EI
9 (9) ∃x(Gx) A
ア(ア) Ga A
ア(イ) ~Fa∨Ga ア∨I
ア(ウ) Fa→Ga イ含意の定義
ア(エ) ∃x(Fx→Gx) ウEI
9 (オ) ∃x(Fx→Gx) 9アエEE
1 (カ) ∃x(Fx→Gx) 2389オ∨E
(ⅱ)
1 (1) ∃x(Fx→Gx) A
2 (2) Fa→Ga A
3 (3) ∃x(Fx) A
4(4) Fa A
2 4(5) Ga 24MPP
2 4(6) ∃x(Gx) 5EI
23 (7) ∃x(Gx) 346EE
2 (8) ∃x(Fx)→∃x(Gx) 37CP
1 (9) ∃x(Fx)→∃x(Gx) 128EE
の場合は、
23 (7) ∃x(Gx) 346EE
の行が、「間違ひ」である。
cf.
(論理学初歩、E.J.レモン 著、竹尾治一郎 ・浅野 楢英 訳、1973年、154・155頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ∃x(Fx)→∃x(Gx)
② ∃x(Fx→Gx)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① ではない。
然るに、
(04)
(ⅰ)
1 (1) ∃x(Fx)→∃x(Gx) A
1 (2)~∃x(Fx)∨∃x(Gx) 1含意の定義
3 (3)~∃x(Fx) A
3 (4)∀x(~Fx) 3量化子の関係
3 (5)∀x(~Fx)∨∃x(Gx) 4∨I
6(6) ∃x(Gx) A
6(7)∀x(~Fx)∨∃x(Gx) 6∨I
1 (8)∀x(~Fx)∨∃x(Gx) 13567∨E
(ⅱ)
1 (1)∀x(~Fx)∨∃x(Gx) A
2 (2)∀x(~Fx) A
2 (3)~∃x(Fx) 2量化子の関係
2 (4)~∃x(Fx)∨∃x(Gx) 3∨I
5(5) ∃x(Gx) A
5(6)~∃x(Fx)∨∃x(Gx) 5∨I
1 (7)~∃x(Fx)∨∃x(Gx) 12456∨E
1 (8) ∃x(Fx)→∃x(Gx) 7含意の定義
然るに、
(05)
(ⅰ)
1 (1) ∃x(Fx→Gx) A
2(2) Fa→Ga A
2(3) ~Fa∨Ga 2含意の定義
2(4)∃x(~Fx∨Gx) 3EI
1 (5)∃x(~Fx∨Gx) 124EE
(ⅱ)
1 (1)∃x(~Fx∨Gx) A
2(2) ~Fa∨Ga A
2(3) Fa→Ga 2含意の定義
2(4) ∃x(Fx→Gx) 3EI
1 (5) ∃x(Fx→Gx) 124EE
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ∃x(Fx)→∃x(Gx)
② ∃x(Fx→Gx)
③ ∀x(~Fx)∨∃x(Gx)
④ ∃x(~Fx∨Gx)
に於いて、
①=③ であって、
②=④ である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
「番号」を付け直すと、
① ∀x(~Fx)∨∃x(Gx)
② ∃x(~Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② であって、
② ならば、① である。
然るに、
(08)
{xの変域}が{a,b,c}であるとして、
① ∀x(~Fx)∨∃x(Gx)
② ∃x(~F∨Gx)
といる「述語論理式」は、「順番」に、
①(~Fa&~Fb&~Fc)∨(Ga∨Gb∨Gc)
②(~Fa∨Ga)∨(~Fb∨Gb)∨(~Fc∨Gc)
といふ「論理式」に「等しい」。
然るに、
(09)
「∨」と「&」の「働き(作用)」により、
①(~Fa&~Fb&~Fc)∨(Ga∨Gb∨Gc)
②(~Fa∨Ga)∨(~Fb∨Gb)∨(~Fc∨Gc)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① ではない。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
① ∃x(Fx)→∃x(Gx)
② ∃x(Fx→Gx)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① ではない。
といふことは、
①(~Fa&~Fb&~Fc)∨(Ga∨Gb∨Gc)
②(~Fa∨Ga)∨(~Fb∨Gb)∨(~Fc∨Gc)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① ではない。
といふことによって、「確認」することが、出来る。
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再度引用して申し訳ないのですが、以下に繰り返しますが…
古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。
量子力学によると事は単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。
古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっています。