シスターみみっくのなんだかわからない堂

日常のよしなしごとをつづります。正教会のお祈り、読んだ本、ハマリものなどなど。

死者の記憶

2016-03-26 12:42:04 | 正教会及び宗教全般
大斎準備週間の第三週間目(審判の週間)の土曜日と、大斎の第2・第3・第4週間の土曜日は全永眠者が記憶されます。

大斎の意味によれば、

復活のハリストスを信仰するすべての人々にとって、死者たちはすべてハリストスのうちに生きているゆえに、死は交流を妨げる壁を作らない。
すなわち、死者は今も我々の兄弟であり、我々と同じ家族の一員である。だから、我々は彼等のための熱心な祈祷の必要を感じるのである。

とのこと。
パニヒダで「死より復活し、生ける者と死せし者を全能の手に保ちたもうハリストス我ら真の神は」って神父さん言うものねえ。

ところで土曜日って曜日の中では永眠者を特に記憶する曜日なんだそうです。
これは、土曜日に神が創造の業を休んだことが、神の国における安息を象っていると理解されるからとのこと。
確かにヘブライ人への手紙4章には、

ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。
しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。

とある。
まあ…月例のパニヒダなんかだと、便宜上日本の教会では、日曜日に主日聖体礼儀を終えた後行っているところがほとんどだけど。

祈祷の次第については、ゆうべの早課・一時課も今日の聖体礼儀も、パニヒダと埋葬式の聖歌や誦経箇所とミックスって感じになっています。
ただ記憶する人数が大聖堂だもんでえらいたくさんなので、神品が手分けして必死に誦みあげていました。
たまに「!」て感じで見直したりされてるので、日本語以外で名前を記入される方は出来ればブロック体の方がいいのかなあ、なんてここで書いてもあれですが。

他にも全永眠者を記憶する日はいくつかあって、ウィキペディア(をい)によれば、
復活大祭後の第一週間(フォマの週間)の月曜日もしくは火曜日
五旬祭の土曜日
前駆授洗イオアン斬首祭
ソルンの聖ディミトリイの記念の前の土曜日

だそうだけど、うーむどれもこれも知らんというorz
この大斎のだって、釧路いた時いっぺんやったかぐらいしか記憶ないもん。
こないだも書いて、まあ言い訳がましくてなんなんですが、巡回だの、土曜日に個人のパニヒダが割とあるんだの、土日に分散すると一回の参祷者数減っちゃうだのってのがあってあましやってなくて、全永眠者のための総パニヒダは復活祭後の墓地祈祷の前だとか、遠野なんかだとお盆の時期に人が集まるってのでそういう時に行ってました。
てなわけで久々も久々だから、ちゃんとに忘れないように覚えとかないとね。