時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

シュティフター『晩夏』再読

2005年12月20日 | 書棚の片隅から

  クリスマスが近づき、海外の友人などからのメールが届く。電子メールの時代、カードはめっきり少なくなった。それでも、この時期に友人やその家族が過ごした1年の消息を知るのは率直にうれしい。この時代、決して心の和む話ばかりではないが、それが人生なのだと思う。

ある友人の生き方
  オーストリアの古い友人からの長いメールがあった。10年ほど前から長らく専門としていた社会科学の領域から離れ、まったく別の学問領域であるイタリア中世の研究を始めた。以前の専門領域でも立派な成果を残していたのに、蔵書も処分し、あっさり方向転換してしまった。その過程では多くの悩み・煩悶もあったのだと思う。しかし、その転換には共感することも多かった。かなりの部分を共有している。新しい仕事に必要なイタリア語も10年前から個人教師について学び準備していた。中世キリスト教会の世俗的繁栄の陰に隠れていた膨大な貧困の発見などに新たな資料を掘り起こしている。すでにいくつかの著作も生まれた。

『晩夏』との出会い

  この友人との交友を通して、不思議と念頭に浮かぶ一冊の本がある。オーストリア領、南ボヘミアに生まれたシュティフター Adalbert Stifter (1805-1868)という作家の『晩夏』(Der Nachsommer, 1857年)という大部の著作である。「晩夏」とは、その言葉の与える印象とは異なり、「冬」、言い換えると死を前にしておくればせに出現したつかの間の夏の幸福、という意味が込められているらしい。

  作家はこの作品の時代設定を1830年に設定しながらも、激動する現実とはおよそ隔絶した理想郷、自然と文化、とりわけ芸術との接点を象徴し、人間性実現のための美的教育の場として「薔薇(ばら)の家」を想定・構築した。この「薔薇の家」の主人リーザハ老人が、結ばれるべくして結ばれなかった昔の恋人マティルデとその子供たちと心を通わせつつ、つかの間の幸せに浸っている世界を描いている。

  作品の主人公は語り手であるハインリヒという青年だが、実はリーザハの思い描いた姿である。ハインリッヒはマティルデの娘ナターリエと結ばれ、「ばらの家」で「人間が人間となるべき」道を学び、そこで養われた愛と精神を蓄え、混沌と激動の世の中に生きるのであろう。ストーリーは、現実とは遠い世界で、しかも時が進んでいるのか、止まっているのか分からないほどゆっくりと進んでゆく。この梗概を聞いただけで、実際にどれだけ作品を手にする人がいようか。

偶然の不思議さ
  実は、私がこの大部で難解で、退屈な作品の一部に出会ったのは、なんと教養ドイツ語課程のテキストとしてであった。こんな作品をテキストに選定した教師の「非常識さ」を恨んだ。実際、テキストは原書から一部分を抜き出しただけで、最後につけられた解説なしには、まったく作品の構成すら把握できなかったのだから。話の展開自体があまりにゆったりとしていることに加えて、文体にもかなり難渋した。しかし、不思議なことに、この作品は私の脳細胞のどこかに残っていた。

  10年ほと前に、先述のオーストリア人の友人夫妻と南アルプスの山中深く旅した時にふと思い出し、ひとしきり話題となった。 文学史上、一般的にこの作品の評価は、退屈極まりない(「終わりまで読み通した人にはポーランドの王冠を進呈する」ヘッベル)という意見から、オーストリア文学の宝であり、「繰り返して読むに値する僅かな作品の一つ」といったニーチェまで、両極端に分かれている。 しかし、はるか以前から大勢は「いまさらシュティフターでも」という流れに入っていることだけは間違いない。ドイツ文学を専門とする友人に聞いても、あまり興味を示してくれない。大体、読んだことがある人自体少ないのだから。

  友人も私も、この作品の評価はどちらかというと後者に近いのだが、条件づきであった。この長編を読み通し、その世界に共感するには読者の側の時間の熟成など、いくつかの条件が準備されねばならないことも分かったのだ。 シュティフターという作家とは前述のごとき妙な出会いではあったが、いつかこの作品を通して読んでみたいと思っていた。しかし、日本では完訳がなく、といってドイツ語テキストで散々な思いをしただけに、このためにドイツ語の再学習をする気にもなれない。というわけで、折に触れて「石さまざま」(岩波文庫)などの小品だけを読んでいた。

  作品との再会も偶然であった。1979年の暮れ、ふと立ち寄った書店で『晩夏』(藤村宏訳、世界文学全集 31巻、集英社)の完訳が出版されていることに気づき、直ちに買い求めた。訳者藤村宏氏の素晴らしい解説も付されており、初めてこの作品の全容に接することができた。その時の感動は忘れられない。多くの人は手に取ることすらしないだろう退屈な、およそ「反時代的」作品である。(2004年には筑摩書房から文庫版としても刊行された。この報われないかもしれない長編の訳業に取り組まれた藤村宏氏と両出版社の見識にはただ脱帽するのみである。装幀は当然ながら集英社版の方が良いが、絶版である。多分あまり売れなかったのだろう。これからお読みになる勇気のある方は、ちくま文庫版をお探しになることをお勧めする)。

「時間」が必要な作品
  本書の解説の最後に、訳者藤村宏氏が「時間を持つ」書物という小見出しの下で、本書についてのリルケの深い含蓄に富んだ言葉を引用されている:

  この本はアーダーベルド・シュティフターの詳細な小説『晩夏』です。世界でもっとも急ぐことがなく、もっとも均斉がとれた、もっとも平静な書物の一つです。そして、まさに、それ故に、非常に多くの人生の純粋と穏和が働きかける書物です。あなたがまだ ”時間をお持ち”にならなければならない間は、幾時間か、この小説に耳をお傾けになるのがよろしいと思います。・・・・・・*  

  そして、原著の挿絵銅版画彫刻を担当したアックスマンは次のように記しているという:

  我が国の誇るべき作家シュティフターのこの傑作を、三回は読まなくてはいけない。まず初めは、価値ある享受の時間を生むために。
  二回目は、素晴らしい作品構成を、その論法と文体について賞賛するために。
  そして三度目は、物語にいかなる隠れた意味が潜むかを明らかにするため**


* 文庫版下巻解説:藤村宏、480
**文庫版上巻解説:小名木榮三郎、506

Reference
シュティフターについてもっと知りたいと思う方に、こんな立派なブログもありました。

シュティフターの書庫
http://homepage1.nifty.com/lostchild/stifter/shu_book.htm#banka

Warke シュティフターの紙ばさみ
http://homepage1.nifty.com/lostchild/stifter/shu_f.htm

コメント (1)
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