「踊り場」から脱しきれない日本からみると、EU拡大を達成したヨーロッパの前途は明るくみえるかもしれない。しかし、内情は問題山積である。1999年にユーロを導入した時のような、前途の発展を夢見た陶酔感はどこかへ消え去ってしまっている。
EUは、3月23日の首脳会議で、経済改革10年計画(リスボン戦略)の中間見直しを含む議長総括を採択した。議長国はルクセンブルグ(ユンケル首相)がつとめた。5年前のリスボン首脳会議で、EUは2010年までに「世界で最も競争力ある経済にする」との目標を掲げたが、厳しい実態の前に取り下げられてしまった。
IMFは、今年のドイツの成長率は1%以下と予測した。最大課題の失業者についても現時点で5百万人を超え、失業率は12.6%という高率である。この失業水準は、大恐慌の1930年代以来の深刻さである。フランスは今年の予想成長率は2%で、ドイツよりは多少良いが、失業率は10%を超えている。
「サービス指令」の目指すもの
ブラッセルのEC委員会は、EUの雇用改善プランとして、かねてからサービス労働者の域内移動の自由化を内容とする「サービス(業務)指令」を準備していた。製造業の貿易自由化は、1990年代の域内自由化プログラムで達成されてきた。しかし、サービス分野の労働者の移動自由化は、それぞれの国の事情もあり、後回しにされてきた。サービス分野の雇用はEU全体の70%にまで達している。このEU委員会の自由化案は金融や通信、運輸を除くすべてのサービス分野に及んでいる。各国間にある移動の障壁を取り除けば、経済成長にも大きく寄与するだろうというのがEC委員会のもくろみであった。EC委員会が委託したある調査によると、この自由化で60万人分の新規雇用が生まれ、年間330億ユーロ(430億ドル)相当の経済活動が作り出されるという予想だった。
なぜ反対なのか
不況にあえぐドイツ、フランスにとっては、大変素晴らしい提案であるかに見える。しかし、両国首脳はEC委員会の「サービス指令」案には、反対の意向を示し、その取り下げすら求めるようになった。本来なら「指令」推進の主導者であるはずの域内市場コミッショナーのマクリーヴィー氏すら、原案では各国の賛成を得られないと言い出した。1年前のEC委員会では満場一致で通過したのに、なぜ、こんなことになってしまったのか。
実は、リスボン会議後に公表された「サービス指令」案には、西欧各国の労働組合や左翼が反対し始めていた。ヨーロッパ議会の社会主義者などは、この指令がこのまま承認されるなら、「ヨーロッパのソーシャル・モデルの崩壊だ」とまで非難した。最初にこのアイディアを提出したのは、前のEC委員会コミッショナーであったオランダのボルケシュタイン氏であった。同氏の名前がフランケンシュタインに似ているので、「フランケンシュタインの再来」など、しばしばからかいの材料になってきた。
サービスの「原産地表示」
「サービス指令」案で、反対者が最も問題にする点は、「原産地表示原則」ともいうべき内容である。これはあるEU加盟国のサービス供給者(労働者)に、他の国でのサービス提供(労働)を認めるものだが、サービスの供給者が母国のルールと法律を充足していることのみを条件にという但し書きがついている。要するに、自国の社会経済制度はそのままでよいという条件である。これには、サービスの単一市場創出が、さらにお役所的なレッドテープを生むリスクを避けようとの考えが背景にある。いいかえると、サービス業のそれぞれについて、ルールや法律を作ったりしないように、この単一の基準で整理しようとの配慮が働いている。
しかし、反対者は新たな「ソーシャル・ダンピング」を作り出すようなものだと非難している。EU加盟国の間には大きな経済格差があり、東欧、南欧などの貧しい国々との競争は、ドイツやフランスなどの労働者の賃金を引き下げ、福祉の水準を劣化させてしまうという。たとえば、ドイツで大きな反対の象徴的存在になったのは、食肉処理場の労働者の仕事である。すでに中欧の派遣業者が送り出す労働者との競争で、ドイツ人労働者の仕事が失われている。ドイツの労働組合は、こうした新参者は低い賃金でも働くので、全体の賃金水準を引き下げており、衛生基準も守っていないと非難している。確かに、新規にEUに加盟した国々と以前からの加盟国との国境周辺では、サービス業の価格低下がじわじわと進行している。
他方、EU委員会提案を支持する側は、こうした懸念はボルケンシュタイン指令案で配慮されていると反論する。すなわち、派遣された労働者は、職場の存在する地域の社会や労働関係の法律に従わねばならないだろう。受け入れている国の最低賃金や労働災害規則、労働時間法を破る行為は法律違反である。さらに、EU委員会は一般の関心が高い運輸、介護労働の多くは、指令の対象外にしてあると反論している。
形骸化した「サービス指令」
結局、今回のEUサミットでは、前回のリスボン・サミットからの課題を何度も話題にしたが、ほとんど実のある行動に結びつかなかった。特に、大きな議題の「サービス指令」案は、EU委員会案から「心臓を切り取ってしまった」といわれるほど、形骸化してしまった。すなわち、EU加盟国の富んだ国を、貧しい国からの競争から保護する「社会保護」条項を追加したのである。これは、EU委員会の原案を完全放棄しようとしたフランス(ドイツが支持)への妥協であった。
フランスではEU指令への反発は強く、5月に予定されるEU憲章の国民投票の結果を左右しかねないものになっていた。フランス政府は「サービス指令」を批准することが、国民投票を「ノン」(否定)とさせてしまうことを恐れたのである。EU憲章にフランスが賛成しないとなれば、EU委員会は大きな痛手を負うことは明らかだった。他方、中・東欧などEUの新加盟国としては、サービス労働の自由化を進めて、労働コストの相対的安さを武器に発展を図りたいところである。しかし、そのためには古くからの加盟国が同意してくれなければ動きがとれない。対外的な競争力強化を目指すはずが、最大の敵は自分たちの中にいるということになってしまった。
日本も直面する課題
サービス労働の自由化は、アジアでも大きな課題である。すでに、看護師、介護士などの受け入れをめぐって、日本のような先進国とフィリピン、タイなどの開発途上国との間でせめぎ合いが展開している。しかし、サービス労働の範囲は広い。少子高齢化が深刻化する日本では、すべての仕事を日本人だけでこなすことはできない。外国の人々の手や頭脳に依存し、相互に助け合って生きる構図をしっかりと確保しなければならない。すでにパートタイムや派遣労働者の増加などで、国内労働者間の労働条件格差は拡大している。さらに外国人労働者をいかに位置づけるのか。外国人の比率が低いからといわれて、単に数の面で受け入れを拡大するだけでは、対応にならない。基本政策の再検討は急務である。EUの議論は、日本やアジアでも真剣に検討されねばならない課題なのだ(2005年3月24日記)。
本稿は、一部を下記のニュースによっている。
Digital Edition, The Economist, March 24, 2005.
EUは、3月23日の首脳会議で、経済改革10年計画(リスボン戦略)の中間見直しを含む議長総括を採択した。議長国はルクセンブルグ(ユンケル首相)がつとめた。5年前のリスボン首脳会議で、EUは2010年までに「世界で最も競争力ある経済にする」との目標を掲げたが、厳しい実態の前に取り下げられてしまった。
IMFは、今年のドイツの成長率は1%以下と予測した。最大課題の失業者についても現時点で5百万人を超え、失業率は12.6%という高率である。この失業水準は、大恐慌の1930年代以来の深刻さである。フランスは今年の予想成長率は2%で、ドイツよりは多少良いが、失業率は10%を超えている。
「サービス指令」の目指すもの
ブラッセルのEC委員会は、EUの雇用改善プランとして、かねてからサービス労働者の域内移動の自由化を内容とする「サービス(業務)指令」を準備していた。製造業の貿易自由化は、1990年代の域内自由化プログラムで達成されてきた。しかし、サービス分野の労働者の移動自由化は、それぞれの国の事情もあり、後回しにされてきた。サービス分野の雇用はEU全体の70%にまで達している。このEU委員会の自由化案は金融や通信、運輸を除くすべてのサービス分野に及んでいる。各国間にある移動の障壁を取り除けば、経済成長にも大きく寄与するだろうというのがEC委員会のもくろみであった。EC委員会が委託したある調査によると、この自由化で60万人分の新規雇用が生まれ、年間330億ユーロ(430億ドル)相当の経済活動が作り出されるという予想だった。
なぜ反対なのか
不況にあえぐドイツ、フランスにとっては、大変素晴らしい提案であるかに見える。しかし、両国首脳はEC委員会の「サービス指令」案には、反対の意向を示し、その取り下げすら求めるようになった。本来なら「指令」推進の主導者であるはずの域内市場コミッショナーのマクリーヴィー氏すら、原案では各国の賛成を得られないと言い出した。1年前のEC委員会では満場一致で通過したのに、なぜ、こんなことになってしまったのか。
実は、リスボン会議後に公表された「サービス指令」案には、西欧各国の労働組合や左翼が反対し始めていた。ヨーロッパ議会の社会主義者などは、この指令がこのまま承認されるなら、「ヨーロッパのソーシャル・モデルの崩壊だ」とまで非難した。最初にこのアイディアを提出したのは、前のEC委員会コミッショナーであったオランダのボルケシュタイン氏であった。同氏の名前がフランケンシュタインに似ているので、「フランケンシュタインの再来」など、しばしばからかいの材料になってきた。
サービスの「原産地表示」
「サービス指令」案で、反対者が最も問題にする点は、「原産地表示原則」ともいうべき内容である。これはあるEU加盟国のサービス供給者(労働者)に、他の国でのサービス提供(労働)を認めるものだが、サービスの供給者が母国のルールと法律を充足していることのみを条件にという但し書きがついている。要するに、自国の社会経済制度はそのままでよいという条件である。これには、サービスの単一市場創出が、さらにお役所的なレッドテープを生むリスクを避けようとの考えが背景にある。いいかえると、サービス業のそれぞれについて、ルールや法律を作ったりしないように、この単一の基準で整理しようとの配慮が働いている。
しかし、反対者は新たな「ソーシャル・ダンピング」を作り出すようなものだと非難している。EU加盟国の間には大きな経済格差があり、東欧、南欧などの貧しい国々との競争は、ドイツやフランスなどの労働者の賃金を引き下げ、福祉の水準を劣化させてしまうという。たとえば、ドイツで大きな反対の象徴的存在になったのは、食肉処理場の労働者の仕事である。すでに中欧の派遣業者が送り出す労働者との競争で、ドイツ人労働者の仕事が失われている。ドイツの労働組合は、こうした新参者は低い賃金でも働くので、全体の賃金水準を引き下げており、衛生基準も守っていないと非難している。確かに、新規にEUに加盟した国々と以前からの加盟国との国境周辺では、サービス業の価格低下がじわじわと進行している。
他方、EU委員会提案を支持する側は、こうした懸念はボルケンシュタイン指令案で配慮されていると反論する。すなわち、派遣された労働者は、職場の存在する地域の社会や労働関係の法律に従わねばならないだろう。受け入れている国の最低賃金や労働災害規則、労働時間法を破る行為は法律違反である。さらに、EU委員会は一般の関心が高い運輸、介護労働の多くは、指令の対象外にしてあると反論している。
形骸化した「サービス指令」
結局、今回のEUサミットでは、前回のリスボン・サミットからの課題を何度も話題にしたが、ほとんど実のある行動に結びつかなかった。特に、大きな議題の「サービス指令」案は、EU委員会案から「心臓を切り取ってしまった」といわれるほど、形骸化してしまった。すなわち、EU加盟国の富んだ国を、貧しい国からの競争から保護する「社会保護」条項を追加したのである。これは、EU委員会の原案を完全放棄しようとしたフランス(ドイツが支持)への妥協であった。
フランスではEU指令への反発は強く、5月に予定されるEU憲章の国民投票の結果を左右しかねないものになっていた。フランス政府は「サービス指令」を批准することが、国民投票を「ノン」(否定)とさせてしまうことを恐れたのである。EU憲章にフランスが賛成しないとなれば、EU委員会は大きな痛手を負うことは明らかだった。他方、中・東欧などEUの新加盟国としては、サービス労働の自由化を進めて、労働コストの相対的安さを武器に発展を図りたいところである。しかし、そのためには古くからの加盟国が同意してくれなければ動きがとれない。対外的な競争力強化を目指すはずが、最大の敵は自分たちの中にいるということになってしまった。
日本も直面する課題
サービス労働の自由化は、アジアでも大きな課題である。すでに、看護師、介護士などの受け入れをめぐって、日本のような先進国とフィリピン、タイなどの開発途上国との間でせめぎ合いが展開している。しかし、サービス労働の範囲は広い。少子高齢化が深刻化する日本では、すべての仕事を日本人だけでこなすことはできない。外国の人々の手や頭脳に依存し、相互に助け合って生きる構図をしっかりと確保しなければならない。すでにパートタイムや派遣労働者の増加などで、国内労働者間の労働条件格差は拡大している。さらに外国人労働者をいかに位置づけるのか。外国人の比率が低いからといわれて、単に数の面で受け入れを拡大するだけでは、対応にならない。基本政策の再検討は急務である。EUの議論は、日本やアジアでも真剣に検討されねばならない課題なのだ(2005年3月24日記)。
本稿は、一部を下記のニュースによっている。
Digital Edition, The Economist, March 24, 2005.